第35話 勇者アイ #2
ある日。
いつものようにパイプから、とさり、と小さな包みが落ちてきた。今日の水と食料だ。
アイは大して注意を払わずに、剣に見立てた木材を振り続けた。
……と、どこかから、小さな声が聞こえるような気がした。
上階の話し声が漏れてくることは稀にあったので、アイはこれも無視した。
だが、その声は何度も何度も――同じトーンで、繰り返された。
まるで、何か反応が返ってくることを待っているかのように。
「……?」
アイは手を止め、ようやくその声に意識を向けた。
声の出処はパイプだった。
両親の声ではない。聞こえているのは、知らない男の子の囁き声だった。
「……ちゃん」
「なに? ……誰か、そこ、い……る?」
アイは、男の子の声に囁き返した。
意味のある言葉を発したのは久しぶりなのでうまく喋ることは出来なかったが、パイプの向こうから、アイの返答に息を呑む気配が伝わってきた。
「お姉……ちゃん……?」
「……!」
アイをお姉ちゃんと呼ぶ心当たりは、たったひとりだけだった。
――アイの弟である。
両親の最後の愛情をアイから剥ぎ取った、小さな熱の塊。アイが地下室に閉じ込められている間に、あのふにゃふにゃした赤子は、アイをお姉ちゃんと呼ぶほどに成長したのだ。
「……」
驚きなのか、寂しさなのか、怒りなのか――魔族との戦いだけに想いを馳せていたアイの思考に突如吹き荒れた情動は、アイの口から、続く言葉を奪い取った。
代わりに、どこか嬉しそうな弟の声が地下室に流れる。
「ほんとに……お姉ちゃんだ!」
「あ……え……? なん、で?」
ぐるぐると渦巻く思考に遮られて、アイはまともに喋れない。
「水とご飯を毎日落とすのは大地へのお供え物だって……変だと思ったんだ。それに父さんが酔っ払った時に、会えないけど、お前にはお姉ちゃんがいるんだぞって。すごいなぁ……僕のお姉ちゃん!」
「……ねぇ」
「なぁに?」
アイは何故か泣きそうになりながら、震える声で、弟に呼びかけた。
「名前――おしえて?」
◆
弟は、アイにとって地上から差し込む光だった。
正気を失わないための、細い細い糸だった。
弟は賢い子だった。
何も気付いていない風を装って、毎日の食事を地下室に落とす役目を両親に代わって引き受けたあと、怪しまれない範囲で、少しのあいだアイと言葉を交わすようになった。家族のこと。昨日のご飯のこと。今年の気候と、畑の様子。ご近所さんのこと。友達と遊んだこと。
弟の語る言葉は、アイに外の世界を思い出させてくれた。
魔族を滅ぼすというアイの【宿命】――それ以外の、世界のことを。
そしてアイはある日、弟との会話の中で、とある事実を――世界と【勇者】の断絶を――発見することになる。
「――お姉ちゃん、おかしいよ。魔族なんて、ずっと前に負けてるんでしょ?」
「そんなこと……ない。魔族にはまだ、王さまがいる。人間の敵なの」
「なんでわかるの?」
「……それは……」
アイ自身にも説明することができなかった。
魔族が人間の敵であること。
魔族を率いる魔王を倒さねばならないこと。
それはアイにとって常識以前、本能的に知っている世界の仕組みそのものであるのだから。
地下室に閉じ込められる前、大人たちも一様に弟と同じ反応を返した。
――みんながどうしてわからないのか、アイには、わからない。
アイはそれでも何とか言葉を尽くそうと、口を開いた。
「父さんも母さんも、みんな信じてくれないけど……魔族は……悪いやつなんだよ。ずっと前に戦争が終わったなんてウソ。今も――」
と、アイの言葉を遮るようにして。
弟は突然、饒舌に――
「魔族は――人間と共存している」
「……え?」
それは、まるで何かが憑依したような口調であった。
子供の語彙ではあり得ない、それ自体が何かの【呪文】のような、心地よく脳に染み込んでくる音。
「闘争は遠い過去に消え、いまや何の脅威もない。ゆえにお前は関与せず、認識せず、否定しない。ただそこに存在する魔族を――風景のように受け容れる。お前は魔族がもたらす変化を記憶しない。あたかも世界の初めから、何ひとつ変わっていないように」
「なに、を……言って――」
「魔族と人間の共存――お前は【これ】を告げねばならない。然るべき時、然るべき相手に、お前は【これ】を複製する。何度でも【これ】を生み増やす。そうして何も残らない。覚えていない。お前は――何も、覚えていない」
「……」
アイはパイプの向こうの暗闇から聞こえてくる幼い弟の声を、弟とは思えないその声を、戦慄をもって聞いていた。
アイは――遠い昔、それを聞いたことがあるような気がした。
今よりもずっと小さく、弟も生まれていない頃。両親の腕の中でまどろんでいた時。
両親の口から子守唄のように、一言一句同じ言葉が吐き出されていたのではなかったか。
弟の【呪文】が終わると、地下室には暗く重い静寂が満ちた。
何分? 何時間? ……どれほどの時間が経過しただろうか。
いつもどおりの、弟の明るい声が聞こえてきた。
「お姉ちゃん、さっきから黙っちゃって――どうしたの?」
◆
――弟は自分が喋ったことを、まったく覚えていなかった。
弟はその日も、翌日以降も、まるで何事もなかったかのようにパイプを通じてアイと他愛もないおしゃべりに興じた。
(……)
だがアイは確かに、不気味な悪意の片鱗を垣間見たのだった。
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