第17話 箱庭 #1

異世界で【勇者】アイと出会ったあと、ルナは学校生活をうわの空で過ごした。

その日は七月に入ったばかりなのに、すっかり真夏日であった。傾きかけた太陽は未だ大地に熱を伝えることに熱心で、華道部の部室では、今年初めてのクーラーが活躍していた。


「岩崎さん? ぼんやりして、どうしました?」


百合ヶ峰ゆりがみね桜花おうかはそう言って、ルナの顔を心配そうに覗き込んだ。

そんなにぼんやりしていただろうか。ルナはぎこちなく笑ってみせた。


「あ……うん、ごめん。何でもないよ」

「それなら良いのですけれど……」


あまり納得していない表情の桜花。

この友人は、いつもこちらの感情を繊細に読み取り、気にかけてくれる。ありがたいとは思いつつ、この胸のわだかまりをどう言語化すればいいのか、ルナ自身うまく整理できていなかった。


「何か悩んでいるなら、【あれ】に参加されてはいかが?」

「あれ?」

「ほら、ちょうど本日はシスター穂乃果ほのかが担当と仰っていましたし」

「ああ……確かにほとんど行ったことないなぁ。そういえば桜花ちゃんも最近行ってないね。四月ごろは、他のエスカレータ組の子と一緒に参加してた気がするけど」

「ええ、この時間は部活の間に回復したスタミナを消費するのに忙しくて」


と、桜花はスマートフォンを掲げて見せた。

うーん、お嬢様の丁寧な暮らしがソシャゲに侵食されている……。





「――アーメン」


結びの言葉が、礼拝堂の厳かな空気に心地よく広がってゆく。

このキリスト教系の中高一貫女子校では、毎日、放課後に礼拝が行われていた。自由参加であるのをいいことに、入学当初に数回足を運んで以降、ルナはほとんど出席したことはなかったけれど。


(やっぱり、参加したからって何かが解決するわけじゃないよね……)


桜花に勧められて久しぶりに来てみたものの、ルナの思考は巡り巡って、そういう結論に落ち着いていた。

シスターがありがたい逸話を聞かせてくれて、賛美歌を斉唱して――ちなみに歌詞を覚えてないので口パクで凌いだ――神様に感謝を捧げて、おしまい。信仰心のひとつでもあれば、何かそこから学びを得たり、心の中のもやもやが貼れたりしたのだろうか。


「あら、岩崎さん。来てくださったのですね」


振り返ると、先程まで生徒たちの前に立って礼拝を取り仕切っていたシスター穂乃果が、にっこり微笑んでルナの傍らに立っていた。


「はい。……あまり来てなくて、すみません」

「いいのですよ。ここは必要なときに扉を叩けば、いつでも誰でも受け入れる場所ですから」

「必要なときに……」

「岩崎さんも、そう考えていらっしゃったのではありませんか?」

「……」


そうかも知れない。シスターの笑顔を見ていると、いやー何のヒントにもならなかったですね、なんてことは言い辛いが。

でも、そうだ。もしかすると……。


「あの、ちょっとシスターに聞きたいことが」

「ええ、構いませんよ。一緒に部室へ……」


と言いかけて、シスターは言葉を止める。

静寂の中、最後の生徒が礼拝堂から出ていくと、シスター穂乃果とルナの二人だけが残された。


「いえ――ここでお話しましょうか」と、十字架を見上げる。「神も見ておられますから」

「……はい」


何となくルナは、心の奥を見透かされているような居心地の悪さを感じた。

ルナ自身に特定の信仰はないことを、既にシスター穂乃果も知っている。にもかかわらず珍しく礼拝に参加したルナが、何か精神的な拠り所を必要としていることを察したのかも知れなかった。


ステンドグラスから差し込む光を浴びて、礼拝堂を舞う埃がきらきらと輝いて見える。ルナは、ゆっくりと口を開いた。


「シスター、その、【悪】って……なんでしょうか」

「悪……ですか」と、シスターは静かにその単語を繰り返す。

「何か犯罪をしたとか、そういうことじゃなくて……」


ルナの言いたいことが理解できるのか、シスターは頷いた。


「行為ではなく、存在そのものの悪性……とても難しい問題ですね」

「もしかすると昔は悪いことをしたかも知れないけど、反省して、社会に溶け込んで暮らそうと頑張ってるなら、その……」

「岩崎さんは、それはもう【悪】ではない、と、感じているのですね」

「……はい」


シスターの言葉は、心の中の違和感にぴたりとハマったようだった。異世界で出会った魔族は、人間と同じように笑い、泣き、食事をして、新しいことを学んでゆける存在だった。

人間と共存して平和な世界を生きる魔族は、それでもなお、滅ぼされなければならないのか?


勇者アイはその問いを肯定し、だと断定した。

快活な少女の表情から時折覗く、アイの冷たい殺意を思い出す。


だがルナは――自分自身が滅ぼされる側の魔王であるという事実を差し引いても――アイの思想には、どうしても同意できなかったのだ。

魔族に生まれついただけ、魔王であるというだけでは、悪として滅ぼされる理由にはならない。


ルナは静かにそれを確信していた。

そして、自分が何をすべきか、ということも。


柔らかな眼差しでルナの表情を眺めていたシスターは、ルナの背中を押すように、静かに言葉を紡いだ。


「神はすべてをゆるします。ヨハネの手紙第1の1章9節には、こうあります。私たちが自分の罪を告白するならば、神はその罪を赦し、すべての悪から私たちを清めてくださる――と」





――勇者を、止める。


次の週末に召喚される頃には、異世界では一年が経過しているはずだ。

魔王あたしはこちらの世界に居るのだから、アイが旅を続けたとしても、宿敵の魔王に出会うことはない。でも、魔王城に辿り着く可能性はある。そこで魔大樹を破壊されてしまえば、結果的に、魔力の蓄えを失った魔族は滅ぶ。

もしかするとアイの旅の過程で、罪のない魔族が殺されてしまうかも知れない。


だから、勇者アイに伝えるのだ。

もう戦う必要はない、と。

【終焉の魔王】は、決して世界を破壊しない、と。


(説得……に、応じてくれればいいけど……)


アイの様子から、それは望み薄だと感じていた。かたくなに魔族を敵と断じ、その使命に冷酷な執着を見せる【勇者】。

いくら現在の魔族が悪ではないことや、共存の道を言葉で説明したところで、アイは決して認めないような予感がするのだ。でも、時間をかけて魔族のことを知ってもらい、凍てつく思考をかしてあげれば、争いに向かう道を諦めてくれるかも知れない。


だから、ルナは――





「――お泊り会を……捏造?」

「うん。お願いできるかな、桜花ちゃん」


ルナは放課後の部室で、桜花にひそひそと相談事を持ちかけた。

今週の週末は桜花の家に泊まったことにしてくれないか、というものだ。金曜の夜から月曜の朝まで。

現実世界でそれだけあれば、異世界に三、四ヶ月は滞在できる。アイの改心計画が長期戦になると見込んでの裏工作だった。


「ふふ……昨日礼拝に行って元気になったと思ったら、そんな悪巧みを? 外部生の方って、やっぱり噂どおり不良ですのね」


どこか楽しそうに口元を隠し、桜花は笑った。


「別に不良ってわけじゃ……」

「冗談です。岩崎さんが悪いことをする方ではないと知っていますから、協力するのはやぶさかではありません」

「よかった! ありが――」

「――」と、桜花はルナの言葉を遮って「ぴっ」と人差し指を立てた。「週末の二日間、丸々家を空ける理由。共犯になる以上、わたくしにだけは教えて頂きますわ」

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