第18話 箱庭 #2

ハデスは魔大樹の枝に腰掛けて、分厚い書物を読んでいる。

今週分の【魔力補充】を終えたルナは、おそるおそる細い階段を登り、聖職者の衣装を身にまとった【魔族】に声をかけた。


「ハデス、ちょっといい?」

「ああ、魔王様。お疲れさまでした。何でも、今年は長く滞在して頂けるとか。オシリスが狂喜して飛び回っていましたよ」

「狂喜って単語でもう様子が目に浮かぶなぁ……」

「して、何か御用でしょうか?」

「……うん」


曖昧に頷いて、ルナはハデスの隣に腰を下ろす。少し逡巡したのち、口を開いた。


「先週――こっちだと一年前か。【勇者】に会って」

「勇者?」

「うん。……自称だけど」


ルナは先週の出来事をかいつまんでハデスに伝えた。

先週ルナはアイと別れたあと城に戻り、頭の整理ができないまま現実世界に帰還していたのだった。だから、ハデスにこの話をするのは初めてだ。

異世界から離れて一週間の冷却期間を挟んだいま、比較的冷静に状況を説明することができた。


「――なるほど」ひと通りの経緯を聞き終えたハデスは、静かに頷いた。

「この世界って、魔王の時みたいな【勇者】に関する予言はないの?」

「寡聞にして、私は聞いたことがありませんね」

「ハデスがそうなら、誰も知らなさそうだ」

「確かに世界のどこかに【魔王】と対になる存在が生まれる可能性はありますが――その【自称勇者】は、ある意味で、勇者という呪縛に囚われているのかも知れません」

「呪縛?」

「我々魔族が既に争いを望まないにも関わらず、神話に語られる【勇者】としての役割に固執している。何故そのような執着を持つに至ったのかは不明ですが、とにかく自分自身は勇者であり、勇者には魔王を滅ぼす道しかないと考えている。その孤高の信念は、おそらくはであるはずです」

「……」


ルナは、アイが一人で立ち去る後ろ姿を思い出していた。


「我々魔族が一枚岩ではないように、様々な考えを持つ人間がいます。魔族を恨む自称勇者がいても不思議はありませんが、我々にとって脅威では……」


ハデスは言葉を止め、「いや……?」と、不穏な呟きを零して沈黙する。

ルナは、ごくり、と唾を飲み込んで続きを待った。

光の届かない漆黒の瞳でルナを見据えて、ハデスは、感情の読めない声色で静かに言葉を紡ぐ。


「ひとつ危険があるとすれば――勇者が【剣】を手にすることでしょうか」

「……剣?」

「その名を【終焉の剣】。あれが世界にもたらす影響は――未知数です」

「ハデスでも?」

「ええ。五百年どころではない、はるか太古より存在する遺跡の奥深く。【終焉の剣】は、そこで岩に突き刺さったまま眠っています。あなた様の――【終焉の魔王】の召喚に必要かと考えて、手に入れようとしたこともあります。ですが、オシリスの怪力をもってしても岩から剣を抜くことはできませんでした」

「すごい……。ゲームとかでよくあるやつだ」

「そもそも遺跡に漂う濃すぎる魔力濃度ゆえ、容易に踏み入ることができません。しっかり研究したいとは常々思っているのですが、未だ――」

「……あれ」と、ルナは首をかしげる。「魔族は魔力で生きるんじゃないの? 濃すぎると近付けないって、どういうこと?」

「ふむ……そうですね。お借りした書籍からひとつ、魔王様の世界の例をお話し致しましょう」


ルナから借りた書籍を読み進めたハデスは、今や家庭教師の域を超え、ルナの世界に対する深い理解を有していた。【知恵の魔族】であるハデスの知識欲は留まるところを知らないようだ。


「動物は生きるために酸素を必要としますが、かつて――酸素は毒でした。植物が光合成を行ってエネルギーを生成する際、光合成の老廃物として吐き出された劇物。それが酸素だったのです。その劇物をエネルギー源として利用することに成功した生命体が、進化の覇者となった」

「……」

「ですが高濃度の酸素は、現在でも生命を蝕む毒となります。遺跡を満たす異常な濃度の魔力は、濃すぎる酸素と同じなのです」

「……なる、ほど」


ハデスが引き合いに出す例はちょっと高度で、ルナはわかるようなわからないような、微妙な心持ちで頷いた。そして、理解できたことを自分の言葉で言い換えてみる。要するに――謎の【剣】が、簡単に近付けない遺跡の奥に眠っている、と。


「そして……ここからは、少々エモい話になりますが」

「エ、エモ?」


ルナは、真面目な口調で神父の口から飛び出してきた単語に度肝を抜かれた。

ルナの世界の本を大量に読破しているハデスは、妙なところで俗っぽい言葉を使う。


「魔王様の出会った【勇者】が自称であれ本物であれ、概念としての【剣】は【力】そのものです。【終焉の剣】を得た勇者が魔族を脅かし、世界に終わりをもたらす【力】を振るうのであれば、我々は――」


ハデスはそこで言葉を区切り、軽く首を振る。


「我々魔族はもう、世界を滅ぼすつもりはないのです」



ルナは魔大樹を見上げて、ハデスの言葉を反芻していた。何が正しいことなのか自信は持てない。

それでも確実なのは、ルナの手に、選択する力が与えられているという事実だった。


「……わかった。ありがとう」と、ルナは立ち上がる。

「勇者に、会いに行くのですか」


ハデスはお見通しのようだった。おそらくは、今回の異世界滞在が長期に渡る理由も。

その声色はルナを心配しつつ、僅かな驚きを孕んでもいた。


「あたしも、この世界に終わって欲しくないから」

「……【終焉の魔王】の言葉とは思えませんね」


笑みを含むハデスの言葉に、そうかも知れない、と思う。

この感情は……愛着、だろうか。

魔王あたしなしでは生きられない存在、そして、この異世界そのものに対する――愛着。


(それに、桜花ちゃんのこともあるし……)


と、そこに思い至り、ハデスへのお願いがまだ残っていることを思い出した。


「そうだ、ハデス。……これ」と、ルナはポケットから折り畳まれた紙を取り出す。

「これは?」ハデスがそれを受け取り紙包みを開くと、つやつやと真っ黒に輝く一房の毛髪が現れた。「髪の毛……ですか?」

「ええと……説明するとややこしくなるんだけど……」





――ハデスは頭痛をこらえるような表情で、ルナの言葉を繰り返した。


「ご友人を……【召喚】したい?」

「あっちの世界で家を二日間空けるために協力してもらって、事情を話さざるを得なくて……。名前は桜花おうかちゃんって言うんだけど」

「……信じてもらえたのですか?」

「最初に召喚されたとき、もう見られてるから」

「それで、ご友人もこちらの世界に来てみたい、と……?」

「……うん、協力する代わりにって、お願いされちゃって……。その、元々【異世界召喚】とかに興味津々な子でして……」

「……」

「勇者の件が無事に片付いて、来週とかでいいからさ」

「なるほど、そこまでは理解――いや、よく理解できませんが――とにかく、事情は把握しました。ですが、それがこの【髪】にどう繋がるのです?」


と、ハデスは手の中の美しい黒髪に目を落とす。


「桜花ちゃんの髪なの。架け橋に……なるかもって、言っちゃったから」

「架け橋?」

「【架け橋】が繋がれば、召喚に特別な手順は必要ないって……ハデスが」

「……」


ハデスはもはや何も言えずに、天を仰いだ。


「いや大変だったんだよ!? 綺麗な髪を意気揚々と切ったかと思えば、まだ足りないかしら血液もよさそうですわ、とか手首にハサミ当てて! 全力で止めたけど!」

「魔王様、ご友人は選ばれたほうが」

「うう……。基本的には良い子なん……だけど……。ちょっと極端というか……」

「そもそも【架け橋】というのは魔王様だからこそで……。魔力も持たないただの人間を召喚するなど、どう考えても」

「……そんな気はするけどさ……。ごめん、ダメ元で調べるだけ調べて!」


ぱん、と両手を顔の前に打ち合わせ、ルナは拝むようにしてゴリ押しする。


「――わかりました……ですが、本当に期待しないでくださいよ」





ルナはハデスに繰り返し礼を述べながら、オシリスに連れられて飛び立ち魔王城を後にした。

広い世界から勇者を探して改心させる計画。移動手段としてオシリスの翼があるとはいえ、かかる時間は決して短くないだろう。


見送るハデスの視界から、ルナたちの姿が消える。


「……」


【知恵の魔族】は、手の中にある一房の頭髪を、じっと見つめた。

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