第10話 週末異世界 #5

岩と見紛う真っ黒な蛸の体表は、ぬらぬらと輝きながらも確かにその硬い質感を想像させた。

落ち窪んだ巨大な目が、ルナたちを捉える。

そこにあるのは、目前の【餌】に対する欲求のみ。


最優先で捕食するというオシリスの言葉どおり、蛸は絶望的におおきい腕を振り上げ――水面を切るようにして、横殴りにルナたちを襲った。


「いいいいぃぃぃっっ!?」


悲鳴を上げるルナの視界は、突然、上空へと浮かび上がる。

オシリスがルナを抱えて飛び立ったためだ。

空振りに終わった蛸の腕は、ルナたちの立っていた足場をいともたやすく破壊する。乗用車くらいなら、おもちゃのように潰してしまうだろう。


オシリスは離れた岩場にルナを降ろした。


「――クラーケンです。魔王様は少々ここでお待ちください」


オシリスは再び飛び上がり、クラーケンに向かって突撃する。ルナはそれを「……」と見送りながら、何となく、足元の岩をコンコンと蹴った。

……うん。ただの岩だ。

それを確認して視線を上げたルナは、オシリスの【狩り】、その一部始終を目撃する。



オシリスは黒い翼を駆り、滑るように海上を飛んだ。

クラーケンの八本の腕が、オシリスを迎撃すべく風を切って暴れ回る。

だがオシリスは縦横無尽の攻撃をすべて回避して見せ、そのままクラーケンの胴体に肉薄した。


弾丸のごとき速度でオシリスの身体がクラーケンに激突する――その寸前、蛸の眼球が妖しく光る。

瞬間、海面から槍の形状をした水が勢いよく射出されオシリスを襲った。


「水魔法!?」


驚きの声を上げながらも、オシリスは素手で【水の槍】を打ち払う。もっとも頑強な身体を持つという【生命の魔族】の名は伊達ではなかった。

だがその視線を戻したとき、オシリスの眼前には、既に黒光りするクラーケンの腕が迫っており――


「しまっ――!」


直撃を受けた身体はゴムまりのように吹き飛び、水しぶきを上げて水面に叩きつけられた。


「――オシリス!?」


着水地点に向かって叫ぶ。と、一瞬だけ目線を外した隙に、ルナはクラーケンの巨体が音もなく消え去っていることに気が付いた。


(いったい、どこに……!)


ルナは周囲に視線を巡らせる。

だが……その行方を探す必要はなかった。巨体にそぐわぬ速度で海中を移動したクラーケンは、水柱と共にルナの目の前にその姿を表したのだ。

蛸の太い腕はわずかの迷いもなく、ルナに向かって一直線に伸びた。

――魔力濃度の高い餌は、最優先で捕食する。


そうだ。

世界で唯一【魔力】を創造することが許された【魔王】。その餌としての魅力は、きっと途方もなく――


「――ッ!」


ルナが、巨大な腕の襲来に目を閉じた時。


クラーケンの攻撃からルナを守るように、水中からオシリスが飛び出した。

ネコ科の猛獣を思わせる瞳は、いつも以上に赤く燃え、クラーケンを睨みつけている。顔の前で交差させた両手の先からは、真っ赤に染まった爪が長く長く伸びていた。


「――魔王様に――近付くなッ‼」


叫びと共に、オシリスは力一杯、赤い爪の斬撃を打ち付ける。

クラーケンは雷に打たれたようにビクンと跳ね……その動きを静止させる。一瞬のあと、クラーケンの全身はバラバラになって海へと落下した。


「……す、すご……」


じゃぼん、とクラーケンの目玉がルナの目の前の海に落ちる。

それを追うように、オシリスがルナの立つ岩場へと降り立った。


「魔王様……危ない目にあわせてしまって、申し訳ありません。できれば……素材を、そのままの形で持ち帰りたかったもので……」と、オシリスはしょんぼりと頭を下げる。


その叱られた猫のような様子と桁外れの戦闘力のギャップに、奇妙なおかしさを感じた。


「ううん、ありがと。それに……形はこれで大丈夫だよ」

「え?」と、オシリスは顔を上げた。

「どうせ、ぶつ切りにして入れるから」

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