カガミ

私は鏡が嫌いだ。

幼い頃から何度も遭遇する「アレ」と出会うから。



***


 その日は残業の影響で、自宅に帰ってきたのは深夜零時近かった。一応周りの住民の方々に配慮しつつ、鉄筋コンクリートで出来たアパートの階段を静かに上がって自分の部屋に入る。


「シャワーは……いっか」


 翌日が休みで疲れも溜まっていたため、今から浴槽を張るのも憚られる。シャワーも面倒だと心の中で思ったので止めることにした。何はともあれ、一先ず手を洗いに行こう。


「あ」


 そう思った彼女が洗面台の前に立ち、ふと前を見た。


 鏡に備え付けてある小さなライトだけが、自分をぼうっと照らす。後ろは真っ暗闇だった。疲れ切った顔をした彼女の瞳はそんな光景をただただ見つめ、ふいに笑う。


(良かった……気のせいね)


 彼女は鏡が嫌いだった。

 幼い頃から、深夜に鏡を見ると「アレ」に出会うから。


 鏡の中に居る自分の背後から、ひょっこりと顔を出す女の存在が。後ろが真っ暗だったこともあり、今回もそいつを見てしまうかもと危惧していたけれど、鏡に映る自分をよく見ても普段と何ら変わりない。


「早く寝ましょ」


 誰もいない部屋で彼女の独り言がぽつりと呟かれる。鏡の明かりを消し、服を着替え、寝室に向かった。眠る前にリラックスでもしようと、部屋の電気とテレビを点ける。



「え」



 彼女は鏡が嫌いだった。

 幼い頃から、鏡に映る自分の後ろに「アレ」が居るから。


 けど違った。



 鏡じゃない。反射して映る自分の姿に、女はずっと潜んでいたんだ。点ける前の暗いテレビに映っている女は、少しづつ耳元に近づいてくる。実際にその感触は無い。


「返せ」


 何を? 恐怖で言葉を返すことも出来ない。体も動かない。


「返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ」




 その言葉を耳元で囁かれながら、彼女は朝を迎えた。女はもうテレビに映っていない。しかし、あれを悪い夢や幻聴だと思うことはきっとないだろう。


 あの日を境に、視界の端に自分以外の髪の毛が見えるようになったから。

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