0x09 海の向こうへ
「やっほー、みんな揃ってるね」
「遅くなった。おはよう」
「おはよう結凪、氷湖。これで揃ったわね」
十月十日、午前八時。
会津若松の駅前に僕たちは揃っていた。
本来なら、この時間に若松だと急いで学校に向かう列車に乗らないと一限目に間に合わない時間。だが、今日だけはその心配がないのが嬉しい。
みんなの手にはスーツケースが握られている。三泊四日の行程だから、全員機内持ち込みができる程度の大きさだ。
僕のスーツケースには、僕たちが作ったMelon Hillプロセッサが入っている。預けると荷物が無くなったときに大惨事になるから、僕だけでもスーツケースを機内に持ち込まなくてはいけない。
「みんな、パスポートはちゃんと持ったわね? これがないと始まらないんだから」
「持った持った、ばっちりだぜ」
全員が改めて持ち物を確認していく。僕も外を出歩くための肩掛けポーチの中を確認して、ちゃんとパスポートが入っていることを確認した。これを忘れていたら泣くに泣けない。
「よし、じゃあ行くわよ!」
蒼の掛け声で改札をくぐる。ついに、僕たちはこれから台北へと向かうことになるのだ。
もはや御馴染みである快速電車に揺られて郡山に出ると、郡山から新幹線に乗り継ぐ。あの夏合宿がほぼ二か月前というのは、なかなか受け入れがたい現実だ。
「やっぱりこうじゃないとねっ」
「だな。うっし、なんかやろうぜ」
「とりあえず定番どころのトランプか」
皆も今日は元気な状態で集まっている。ボロボロだった前回の夏合宿とは訳が違った。
今日は男三人が横並びで、女性陣は隣の二列シートを向かい合わせにして何かのアナログゲームに勤しんでいる。
僕たちも早速三人で大富豪という貧富の差がはっきり出るゲームに臨み。
「こういう時は、デジタルゲームもいいけどやっぱ電気を使わないゲームだよ。なあシュウ?」
「だな。ほい、上がり」
「ぐっ、不正行為反対!」
「貧民どもが何を言っても知らんなあ」
「ここぞとばかりに……! ぜってえシバき倒してやる」
早速治安が悪くなっていた。うん、やっぱりこいつらと遊ぶのは楽しい。
「ぐおーっ、よりにもよって俺が大貧民かよ」
「残念だったなあ!」
「あ、そういや宏。流石に今回はプレシテ4とか持ってきてないよな?」
「流石に無理だったわ。制服持ってかなきゃいけないからな」
「よかった。密輸で捕まったらどうしようかと」
さすがに今回は据え置きゲーム機をスーツケースに詰め込んでくるという無茶はしなかったらしい。いくら宏が旅行慣れしているとはいえ、今回はあくまでも代表として、しかも海外に向かうのだ。この間の合宿みたいなマインドでは居られないに違いにない。
「まあ、据え置きじゃないけどStitchはドックと一緒に持ってきてるぞ。だからゲームには困らないな」
「プロコンは?」
「もちろん四つ持ってきてる」
どうやら、僕の推測は十秒も経たずに改める必要がありそうだった。
そんな楽しい時間もあっという間だ。郡山の駅を出てからわずか一時間十分で、新幹線は上野駅の地下ホームに滑り込んでいた。
「さーて、ここの乗り換えが遠いんだよな」
関東も旅慣れているのだという宏を先頭に、新幹線の地下ホームを歩いていく。長いエスカレーターを乗り継いで地上に出ると、改札を出る。
僕が昔居たのは関東といっても北関東だし、砂橋さんも然りだ。悠と蒼も会津っ子だから、ここで頼れるのは宏と道香だけ。
「これからまた電車に乗るのよね? 改札出ちゃっていいのかしら」
「ああ、これから乗り継ぐのは私鉄だからな。関東に走ってるのはJRだけじゃないんだ」
「東武みたいな?」
「まあ、そんな感じだ」
「そんなのがあるのか」
普段は東京から地下鉄に乗り継ぐのだが、今回は特急に乗り継ぐのだという。特急ならJRだと思っていたのだけど、どうやら違うらしい。
「それにしても人が多いな。東京に来るたびに言ってる気がするけど」
「スーツケースで轢かないように気を付けてくださいね」
「わかった」
「んじゃ、いくぜ」
普段来るのは土日にある大会だから、平日に関東に来るのは相当久しぶりだ。若松に移り住んでからは、中学の修学旅行以来とかかもしれない。
大勢のサラリーマンが歩いている歩道を少し進むと、別の駅に辿り着く。古いながらもなんとなく整備されていたJRの駅とは違い、古いまま……よく言えばどこか昭和を感じる雰囲気のある駅だ。
「うし、着いたぞ。切符貰っていいか?」
「えーっと、これかしら?」
蒼が切符入れを漁ると、見たことのない桃色の切符が出てきた。JRで見たことのあるのは水色かオレンジの切符だから、確かにJRではないらしい。
配られた切符を見ると、京成上野という文字と空港第2ビルという文字が踊っていた。
「これから乗るのはスカイライナー、ってやつだな。成田空港行きの特急だ」
「へー、そんなのがあるんだ」
「国際線だから、東京に近い羽田じゃなくて成田なんですよねえ」
「向こうが送ってきたのが成田桃園便だったからな。仕方ない」
そう、今宏が言った通り、この間の合宿とは違い今回は自分たちで切符の手配を一切していない。当たり前といえば当たり前なのだが、JCRAがお金を出してくれていた。
「さて、そろそろ行っておくか」
「りょうかーい」
砂橋さんの元気な返事を合図に、僕たちは改札を通りエスカレータで地下のホームへ降りる。そこには、白い車体の特急が停まっていた。
「何これ、新幹線?」
「ま、みたいなもんだ」
早速乗り込むと、みんなの荷物を荷棚に上げる。幸い全員が小さい機内持ち込みサイズだったから、非力な男どもの力でも簡単に持ち上げることができて。
座席を向かい合わせにして二つボックスを占拠したところで、発車ベルの後に特急は走り始めた。トンネルと出るとあっという間に次の駅に停まるが、そこを発車すると車内アナウンスでは空港第二ビルの名前が上げられた。
車窓には東京の高密度な町並みが流れていく。
「そうそう、これこそ東京の景色だ」
「なんかこう、若松とは違うよな。根本的に」
若松も中心市街地にはそれなりに建物がある。ただ、その密度と高さが段違いなのだ。
それから特急は町中をゆっくりと駆け抜け、郊外に出たとたん速度を増して。
いわゆるニュータウンというのだろうか、大きな建物が目線の上に並ぶ街を抜けきった瞬間、さらに速度を増し。
「本当に新幹線みたい……こんな特急が走ってるなんて、世の中って広いわね」
車窓はまさに新幹線の中から臨むような、緑の景色に染められている。そんな光景を見た蒼の発言に、砂橋さんはにやりと笑った。
「蒼ってさ、ときどきおばあちゃんみたいなこと言うよね」
「は、はあっ!? いきなり何よ結凪」
「なんというか、雰囲気?」
「嬉しくないわよっ」
そんな二人のやり取りに笑っているうちに、特急は成田空港の駅に滑り込んでいた。
「ここが、成田空港……」
ドアが開いて外に踏み出すと、早速携帯で駅名の書かれた板を撮っている狼谷さん。表情自体は相変わらずだけど、声に楽しげな感情がたっぷりと乗っていた。
「もしかしてだけど、狼谷さんって飛行機初めて?」
「そう。乗ったことない」
「アタシも何年ぶりかなあ」
「わたしは春以来、でしょうか」
「意外と飛行機って乗る機会ないよな」
飛行機に乗ったことある組は、やっぱり宏と道香だけ。残りは本当に初めてだったり、物心ついて以降は無かったりと散々だ。
実際、会津若松に居ると意外と飛行機に乗る機会というのは少ない。
これが例えば県北の福島だったら仙台空港まで一時間半くらいだったはずだし、郡山なら交通の便がいまいちな上飛行機の便が致命的に少ないとはいえ福島空港もある。
しかし、会津若松からはどこに出るにもプラス一時間ちょっとを見ないといけない。
それに東京に出るなら新幹線だけで用が済んでしまうから、よっぽどじゃないかぎり飛行機になんてお目に掛かれないのだ。
そういう意味では、かなり貴重な経験をさせてもらっているのは事実。
「さて、駅に感動してるのもいいけど早めに行くぞ。チェックインもそうだし、両替とかしないといけないしな」
「じゃ、みなさん付いてきてくださいっ」
こんどは道香の後ろについて歩いていく。一番年下の子の後ろをついていくしか出来ないのはもどかしいが、こればかりはどうしようもない。
親鴨についていく小鴨のように隊列を組んで改札を抜け、長いエスカレーターをいくつか上がると。
「……っ!!」
狼谷さんは絶句し、
「すごい、本当にこんな景色なのね」
「すごいね……ドラマの世界だと思ってたや」
蒼と砂橋さんは語彙を失い、
「世の中って広いな、シュウ……」
「だな……」
僕と悠は言葉を失い、
「ここまでテンプレな反応をされると、それはそれで面白いな」
「あはは……お上りさん、って感じですね」
宏と道香は苦笑いだった。
そこに広がっていたのは、どこまでも続いているんじゃないかと思えるほど広い空間。整然と並んだチェックインカウンターは、まさにドラマの中の世界だった。
初めて勢はその光景に言葉を失って、ただただ眺めることしか出来ない。旅のわくわくと相まって感動はひとしおだった。
「なんかもう、外国に来たみたいだな」
「オレ、こいつらが台湾に降りたときのリアクションがもはや楽しみになってきたわ」
「ちょっとわかります。なんか踊り始めたりしそうで怖いですね、強制送還だけは避けてほしいんですが」
「もしかしてアタシたちのこと蛮族か何かと勘違いしてない?」
「……そんなこと、ないですよ?」
「え、その間は何?」
「さ、チェックインしちゃいましょう。今回は預け荷物がないので券を出すだけですね」
「あのー、道香さん?」
「冗談ですって。ただのさくらんぼジョークじゃないですか」
どうやら、道香もかなりはしゃいでいるようだった。そんな道香の後を追って辿り着いたのは、チャイナエアラインと書かれたカウンター。
「蒼先輩、チケットをお願いします。あとはパスポートを皆さん準備しておいてくださいね」
「わかったわ」
今までの大会の遠征や合宿などでは率先して引率してくれた蒼が、もはやチケットだけを管理するだけの人となっているのも意外だ。部活の中でも常々思っていたけど、やっぱり餅は餅屋だ。
それから、道香がQRコードの書かれたペラペラの紙を一枚受け取って、先陣を切って行ってくれた。カウンターの人と二、三やり取りをして、何かを貰うと笑顔でこちらに手を振っている。
きっと、「こんなふうにすればいいんですっ」とでも言いたいのだろうけど、何を話しているかが判らない以上全くわからない。
「お次のお客様どうぞー」
「は、はいっ」
わたわたしている間に皆もカウンターに呼ばれてしまった。電車と違って、色々な審査があると聞いていたから緊張はひとしおだ。僕も呼ばれてカウンターへと向かう。
「ご予約いただいている番号と、パスポートをお預かりいたします」
「は、はいっ」
QRコードを書いた紙とパスポートを渡す手は、どこか緊張で固くなっている。受付のお姉さんはそれを受け取ると、どちらもスキャンした。ドキドキしすぎて心臓が痛くなりそうだ。
「しゅうりゅう、こうじ様ですね?」
「は、はいっ」
「お預けの荷物はありますか?」
「いいえ、ありません」
「それでは、機内に持ち込まれます荷物に以下の物は入っておりませんでしょうか。液体等にも制限がありますので今一度ご確認ください」
お姉さんが示した紙を確認する。宏から聞いていたとおり、ペースト状のものも液体扱いになるらしい。そのあたりは大丈夫だ、指定通りのジップロックに入れている。当然危険物なんて入っていない。
「はい、大丈夫です」
そう言うと、カウンターのお姉さんは横長の紙を印刷した。
「それではこちらが搭乗券となります。お名前に間違いがないか、あらためてご確認いただけますでしょうか」
パスポートに印字された名前と、航空券の名前を見比べる。大丈夫、間違っていない。
「はい、大丈夫です」
「搭乗開始は十四時五分を予定しておりますので、それまでにこちらの搭乗口までお越しください」
「わかりました、ありがとうございます」
「行ってらっしゃいませ」
あれ、意外と何てことはなかった。もっと怖いイメージだったんだけど。
どうやら皆も既に搭乗券を貰い終えていたようで、出口に集まっていた。
「意外と大した事聞かれないのね」
「あー、それは出国審査や入国審査と一緒になってますね。カウンターではあの程度ですよ」
「そうか、これから審査も受けないといけないんだもんな」
ちらりと出発便一覧のところに書いてある時計を確認すると、大体十二時四十分といったところ。思ったよりも時間が経っていて、やっぱり緊張していたんだと知った。
それから、みんなで銀行に行って手持ちの現金を台湾ドルに両替する。道香にあったほうがいいと言われて買った海外旅行用の財布に両替した台湾ドルのお札を入れると、いよいよ出国することにした。
とはいえ、こちらも拍子抜けするくらい簡単だった。手荷物検査は、事前に宏と道香から引っかかるものを教わっていたからまずそうなものは皆持ってきていない。スムーズに通過することができた。
税関に関しては、僕たちの作ったチップは免税であると公式にアナウンスされているから免税の通路を通るだけ。
最後の出国審査も、パスポートを機械にかざして、鏡に表示された指示に従って画面を見るだけで終わった。
「もっとなんだか、色々質問されたりするものだと思ってたわ」
「あっさりだったね。こんな機械で済んじゃうんだ」
でもこれで、僕は初めて日本から出たことになる。ついに、海外に行くのだ。
――親父が最後にアメリカに戻ったときは、何を思いながらここを通ったのだろう。
そんなことが頭の片隅によぎっても気にならないくらいに、現実感がなかった。
全員が無事に出国審査を済ませて、少し落ち着くためにお茶をして。
「このチャイム聞くと、空港来たって感じするよな」
「わかる。ドラマの演出で聞いた音そのまま」
テテテテテテテーン、というちょっと緊張感を煽るような呼び出し放送の音は、現実でもそのままだった。フィクションではなかったことに感動していると、
「チャイナエアライン、CI一〇一便にて台北桃園国際空港へご出発のお客様。当便はまもなくお客様の搭乗を開始――」
「っと、そろそろ搭乗だな。行こうぜ」
僕たちの便の呼びかけだった。搭乗口で搭乗が始まるのを待って、始まった瞬間形成された搭乗の列の後ろの方に並び。
「すごい、もう周りから日本語じゃない言葉が聞こえるよ」
「そりゃ、国際線だしな。台湾と日本は人の行き来も多いから、向こうの人だって多いだろうよ」
改めて、僕たちは日本ではないところに行くのだと実感した。
「お、機材はA三五〇か。いいね、新鋭機だ」
「新しい飛行機なの?」
「ああ、静かで乗り心地のいい機体だな。当たりだ」
「へえ、なんだか良さそうじゃん。アタシはよく知らないけど」
どうやら飛行機自体もいろいろあって、しかも今日のは当たりらしい。列に従って搭乗券のバーコードを改札機にタッチして進むと、細い通路を通って飛行機へと向かう。
「思ったより、広い」
「だなあ。こんなにとは」
「これが、ビジネスクラス……」
「明らかに高そうだねえ」
「実際、国際線のビジネスクラスは結構するぜ」
中の広さやビジネスクラスの席の豪華さに驚きながら席を探すと、意外と手前のほうにあった。その席を確認した宏と道香からは驚きの声が上がる。
「ってマジ、プレエコかよ」
「だいぶ好待遇ですね私たち」
「いい席なのか?」
「んー、例えに困るんだが……新幹線の普通席くらいの感じだ。普通の椅子はアレだ、在来線の普通席」
「ちょっと良い席なのね。JCRAもやるじゃない」
三人の話によると、どうやら普通のエコノミークラスではないらしい。確かに、後ろの方にちらりと見えた座席と比べると横に並ぶ椅子の数が少ない。席は窓側から二列、三列、二列で、三列席の真ん中が僕のチケットに印字されていた席だった。
「ここか」
「シュウがE席? じゃあ私が隣ね」
「よろしくな。荷物上げるの手伝うよ」
「ありがと。よろしくね」
左隣は蒼のようだ。そして反対側からは道香の声。
「わーい、お兄ちゃんの隣っ」
「こっちは道香か」
「なんだよ、両手に花じゃんかシュウ」
「やめろやめろ、煽るなって。お前らはそこか、仲いいな」
そして、道香の方の窓側には悠と宏が納まっていた。一方、蒼の方の窓側二席は砂橋さんと狼谷さんの物理設計組が座っている。
「何でよりにもよって宏なんだよ。砂橋ちゃん、席交換しようぜ」
「え、やだよ面倒くさい」
「面倒くさい、が理由でよかったと思ってしまう自分が居て悲しい」
宏が悲しみを覚えている間にも、飛行機は離陸の準備を進めていく。携帯の電源を切って、安全に関するビデオを見て、シートベルトをきちんと締め直して。
「チャイナエアラインっていうだけあって、ビデオも中国語だったね」
「日本語と英語の字幕があって助かったわ」
「ですね、字幕を見れば何となく意味がわかるとはいえ」
「椅子の前に液晶もあるのね。USBの充電ポートもあるし、至れり尽くせりね」
「安定飛行に入れば、映画とか見れますよ」
「タブレット端末みたいな感じなんだな」
そんな感想を話していると、再び中国語であろう言葉でアナウンスが入る。耳を右から左に通り抜けていく言葉の直後、日本語でもアナウンスをしてくれた。
「なお、本日は気流の関係で離陸後三十分間ほど揺れが予想されます。シートベルトをしっかりとお締めください」
それは、しばらく揺れるという宣言。飛行機の揺れがどういうものかは知らないけれど、空を飛ぶ以上揺れはするだろう、とは思う。
「うえー、揺れるの嫌だなあ」
「道香なんて、飛行機の揺れくらい慣れてるんじゃないのか?」
「ただの揺れならいいんだけど、飛行機のあの落ちるような揺れは苦手なんだよね……」
あの、と言われても僕にはわからない。ちらりと蒼の表情を伺うと、こちらもこちらで緊張している様子。
「当機はまもなく離陸いたします。シートベルトをご確認ください」
だが、当然飛行機は待ってくれない。
いったん停まったと思うと、左右から聞こえてくる音が一気に大きくなる。急激な加速にシートに押し付けられる感覚ののち、下から聞こえてくるタイヤが地面を駆ける音がすっと消えた。
「お、おお、おおぉ、シュウ、飛んだわよ」
「うわ、おおおっ、飛んだなあ、すげえ」
「お二人とも語彙が壊滅してますね」
道香の苦笑いを眺めながらも、僕たちは初めての感覚に翻弄される。
飛行機は、初めての感覚に震える僕たちなどお構いなしと言うように旋回を繰り返しながら高度を上げていき。
そして、十五分ほどしてようやくエンジンの音と小さな揺れに慣れたころ。
がくん、と落ちる感覚。
「ひゃあっ」
「ひっ」
「うおっ」
すぐに体は座席に押し付けられ、飛行機が再び上昇したことを伝える。これが、さっき言っていた気流の悪いところを飛んだことによる揺れなのだろうか。
そう思った瞬間、再び内臓が浮き上がるような感覚が再び襲った。
「ひんっ」
「……っ」
そして、両側からしがみつかれるような感覚。
いや、事実しがみつかれていた。
腕が温かく柔らかな感触に包まれていることを感じ取った本能が危機を訴えるが、当然僕にはどうしようもない。
「シュ、シュウ、まさか落ちたりしないわよね? この飛行機」
「大丈夫だよ、この飛行機を作ったエンジニアを信じなって」
右側からは蒼の情けない声が聞こえてきた。正直揺れの恐怖どころではない僕は、なんとか蒼を宥めて離れてもらおうとする。
「そ、そう。そうよね。大丈夫よね」
だが、目論みは失敗してさらに強く抱きこまれてしまった。僕はもはや逆に冷静になり始めると同時、左側がやけに静かなことに気が付く。
「道、香?」
「しばらく、しばらくこうさせてお兄ちゃん……」
どうやらこの揺れが本当に苦手らしい道香は、言葉すら失って僕の腕に顔を突っ込んでいた。
僕の両隣の二人が泣きを見る一方で、楽しそうな声が右側から聞こえてくる。
「うおっ、意外と慣れてくると楽しいね」
「ジェットコースターみたい」
「二人は強いね……」
「むしろ蒼と道香ちゃんが弱いのが意外だったよ」
「意外と、楽しい」
窓側の女性陣二人は全然気にしていないようだった。肝が据わっている。
結局、飛行機がさらに高度を上げるまで同じような大きな揺れに数回見舞われ。
シートベルトのサインが消えるまで、二人はきっちりと僕にしがみついていた。
「シートベルト着用のサインが消えましたが、お座席にいる間はシートベルトをお締め下さい」
「はあ、ようやくあまり揺れなくなるのね。ありがとシュウ」
「ふう、助かった……お兄ちゃん?」
「ようやく終わった、のか」
「ぐったりしてるけど大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ」
僕は即身仏になったように脳内でまともに知らない念仏を唱え続けた結果、そのころには精神がだいぶ疲れていた。今でも腕に二人の温かさと感覚が腕に残っていることくらいは許してほしい。
だけど、一度安定した飛行機は揺れも少なく飛び続けてくれた。
「お魚と鶏肉料理がございます、どちらになさいますか?」
「お魚で」
「僕はお肉で」
「じゃあ、私もお肉で」
「かしこまりました」
飛び始めてから一時間半、揺れが収まってから四十分くらいだろうか。カートを押したキャビンアテンダントさんが機内食を届けてくれた。
僕たちの前に置かれたのは、プレートに綺麗に配置された食事。選んだ鶏肉料理は照り焼きチキン風のお肉と温野菜がご飯の上に載せられたものだった。食事はきちんと温かく、果物まで添えられた豪華な食事だ。
「こ、これが機内食なのね……」
「四時間くらいの国際線でもちゃんと出してくれるんだね。わたしも知らなかった」
「ん、美味いなこれ。最高」
「本当だ、美味しい」
「こんなご飯を飛行機ので食べれるって、国際線は面白いね」
「ごちそうさま。……おかわり、できる?」
「出来ないでしょ、ってかさすがの早さだね氷湖」
皆で美味しい機内食に舌鼓を打ち、ドリンクサービスで飲み物を貰って一息ついて。
入国に必要なのだという申告書類にパスポートを見ながら記入を済ませ、座席の前の液晶で見れる映画を見ていたら、あっという間に飛行機は再び高度を落とし始めた。
「当機はまもなく、桃園国際空港への着陸態勢へ入ります。テーブルを戻し――」
「おお、もう着いちゃうんだな」
「って言ってもここから四十五分くらい掛かるんだけどね。四時間くらい掛かるから」
「そうなのね。確かに急にすとん、と降りるわけにはいかないものね」
「それは墜落してますよ蒼先輩」
そんな雑談をしている間にも、画面に映したフライトマップは確かに台湾にどんどん近づいて行って。
「これが、台湾……」
「なんだかちょっと日本っぽいけど、日本っぽくないねえ」
窓際の二人は窓の下に広がる景色に夢中になっている。飛行機はどんどんと高度を落としていき、軽い衝撃と共に飛行機は桃園国際空港へと降り立った。
飛行機が完全に停まり、搭乗橋が接続されてドアが開く。機内から外に出ると、僕たちをむわっとした空気が包み込んだ。
「うおっ、暑っ」
「やっぱり南なだけあって、むわっと暑いわね」
「ひゃー、これは確かに二人が半袖がいいよって言ってたわけだ」
会津若松の十月は、冬へ向けて気温が全力疾走で転がり落ちていく期間。今日は比較的温かかった方とはいえ、最低気温は十四度。集合した頃も十六度くらいと肌寒い。
一方、ここ桃園国際空港は打って変わって晴れていた。
「げ、気温二十六度だって」
「夏かな?」
「凄いわね、さすが南の国」
歩きながら上に羽織っていた長袖を脱ぐ。半袖でちょうど過ごしやすいくらいの気温だ。
僕が気温で異国を感じている一方、砂橋さんたちは上に吊り下げられた看板を見て大興奮している。
「おおっ、看板が全部漢字だよ漢字。日本語がないよ」
「それはまあ、台湾ですからね」
「見たことない漢字も、ある」
「繁体字だな、いよいよ中華圏に来たって感じがするぜ。っと、みんな時計直しておけよ。一時間こっちが遅いからな、みんなで一時間待ちぼうけなんて笑えねえ」
宏の話を受けて、皆で時計を一時間ずらす。時差がある場所というのも初めての体験だ。
「じゃあ今日は二十五時間あるのね、私たちにとっては」
「そうなりますっ。その分、帰る日は二十三時間になっちゃいますけど」
「一時間くらいなら時差ボケもなさそうだな」
「一時間早寝早起きするだけですからね。アメリカとかだと大変なんです……」
「時差十何時間とか言われても困るよなあ」
皆で異国の地にやってきたことを実感しながら到着ロビーへと向かう。案内の通りに進むと、辿り着いたのは入国審査。
「お、おお……これが、入国審査……」
「変なこと言わなけりゃ大丈夫だから、安心しろって」
「そうよ、多分大丈夫よ」
「多分じゃ困るんですけど」
「英語は、通じる?」
「多分大丈夫だろ。まがりなりにもイミグレだしな」
外国人と書かれた列に並び、文字通り審判の時を待つ。この入国審査だけは他人の力を借りるという訳にはいかない。
今度は僕が先陣を切って進むことになった。空いた窓口に進むと、そこにいたのはそこはかとなく不愛想なおばちゃんの入国審査官。
「は、ハロー」
怪しい英語で挨拶をして、搭乗券と入国書類、それにパスポートを渡す。
入国審査官さんはパスポートを何か読み込ませるようにすると、謎の機械を指さした。しばらくすると、その機械の画面に顔を見せろ、とでもいうようなイラストが表示される。
「こうか?」
その機械についたカメラに顔を映すと、画面が切り替わって指の絵が出てきた。どうやら指紋も取るらしい。
指示の通り、画面の下にある指紋センサーに両方の人差し指をぺたりと置いて数秒。機械の画面は最初に戻り、入国審査官さんのほうからはガシャン、という音が聞こえてきた。入国審査官のゲームで死ぬほど聞いた音だ。
DENIEDのハンコを押されていないことを祈っていると、相変らず不愛想な入国審査官さんは僕に搭乗券とパスポートを返して一言告げた。
「オーケー」
「サ、サンキュー」
どうやら終わったらしい、正直あんなに簡単だとは思わなかった。主にゲームのせいでもっと入国審査は厳しいものだと思ってたけど、現実はそうでもないようだ。
通過した先で待っていると、他の皆もぞろぞろとやってきた。海外初めて勢は総じてきょとんとしている。きっとみんなも、思い描いていた入国審査と違っていたに違いない。
「顔をカメラに映して、指紋取っただけだったわ」
「ん、台湾はそうだな。やってること自体は日本の出国の時と同じだと思うぞ」
「そうなのか? 確かにあの時もカメラに顔を映したけど」
「写真なんて撮って何してるの? アタシ、もっと色々聞かれたりするもんだと思ってたよ」
「台湾もIT大国なことを忘れちゃいけませんよっ。多分、パスポートの中のICチップに保存されたデータと撮影した写真をAIで照合して、同一人物か確認してるんだと思います」
「少なくとも日本の出国ゲートはそういう仕組みだな。バカみたいに並ばなくていいから最高なんだ」
「これも、コンピュータが発達したからできること」
確かに、最近は機械学習だの何だのといった人工知能の研究が盛んだと聞いている。その技術の応用先の一つがコレ、ということだろう。
僕たちが勉強している計算機工学の恩恵にあずかることで、僕たちはまともに英語を話すことなく入国審査をパスできたというわけだ。
「さ、ここで話していても邪魔になるわ。行きましょ」
「そうだな、とりあえずここを出よう」
僕たちはみんな機内持ち込みの荷物だけだったから、荷物の受け取り待ちをする必要もない。僕たち日本人にも判りやすい「出」と書かれた方へ歩いて、到着ロビーへと降り立った。
「ここから移動よね? 私たちはどうすればいいのかしら」
「えーっとですね、ここからは電車で台北市内に出ます。三泊、確かホテルはグランドハイヤートだったはずなので」
「台北一〇一の近くだっけか」
「ですです。なので台北駅で地下鉄に乗り換えることになります」
「うっし、じゃあ行くか」
みんなで電車のマークの書かれた方へと歩き、途中のインフォメーションセンターでICカードを購入する。日本でいうところのSuicaのようなカードだ。
「日本と同じように、このカード一枚で台鉄……日本でいうJR線や地下鉄やバス、それにコンビニで買い物なんかもできるんだ。とりあえずはまあ、千元くらい入れておけば損はないだろ」
という宏の説明の通り券売機でお金をチャージして、ICカードで改札を入る。
「なんだか、それこそ東京みたいね」
「すごく、都会」
「使い方も同じだから、判りやすくていいな」
「電車も十五分に一本快速が、同じ数だけ各駅停車が走ってるんだ」
「若松の汽車にも見習ってほしいわね」
やってきた紫色の電車に乗り込むと、ゆっくりと動き出す。列車は速度を上げて走っていき、車窓からは台湾の街並みが見える。アジア圏ということで目を見張るほどではないけど、やっぱり見た目から文化の違いが伝わってきた。
駅を通過するたびに景色はどんどん都市のものに変わっていく。田舎ものな僕たちはただただぽかんと眺めることしかできず。
「ビルが高いねえ……」
「看板も、日本とは違うわね」
「でもところどころセブンイレブンとかファミリーマートっぽいのとか見えるぜ」
「事実、セブンとファミマはめっちゃあるからな」
「日本と同じ?」
「そうそう、だから日本のお菓子なんかも普通に買えるぜ」
宏の台湾トークを聞いている間にも列車は台北に向けて快走を続け。
空港を発車して約四十分、列車は台北駅に辿り着いた。
「綺麗な駅ね。こう、都会の駅だわ」
「だなあ。東京の地下鉄みたい」
「乗り換えるぞー」
改札を抜けると、広がっていたのは地下街。文字も違えば売っているものも雑多だけど、雰囲気は東京の地下街と似ているものがある気がした。
そして、地下街は迷子になりそうなほど入り組んでいるのも同じ。方向感覚が無くなりそうなほど入り組んだ地下街を抜け、ようやく淡水信義線と書かれた駅に辿り着く。
「いや、アタシたち漢字読めて本当によかった。今その有難みを心の底から感じてる」
「概ね日本の漢字か、いわゆる旧字体だものね」
「駅名とか路線名がわかる。助かった」
「まあ読みは全然違うものがほとんどだけどな」
そんな話を初海外組でしながらエスカレーターを降りて、電車に乗る。東京の地下鉄よりちょっと無機質に見えるのは、椅子がベンチのようにプラスチックだからだろうか。
都会を感じながら揺られこと十五分、僕たちが降り立ったのは「台北一〇一/世貿」という駅だった。
台北一〇一という世界二番目の高さを持つビルの下を少し歩いて、僕たちはようやく宿に辿り着く。
「おお……」
「国の金で泊まるのが申し訳なくなってくるな」
「さすがハイヤートですねえ、絢爛な感じで」
グランドハイヤートは、色々な国に宿を持つ国際ホテルチェーンなのだという。その威信が掛かってるからだろうか、玄関からして豪華だった。
「じゃあ、チェックインしてくるわ……」
「大丈夫か蒼?」
「ア、アタシも一緒に行くよ。英語なら、まあ、ちょっとは……」
「この間の期末テストは?」
「ひっ、よ、四十五点でした」
「相変わらず低空飛行じゃねえか」
「まだ、教育が必要」
ちょっと不安な幹部二人を向かわせて、数分後。
帰ってきた二人はあまりにも拍子抜けした表情をしていた。その理由を察したのか、海外慣れしている二人は笑いだしていた。
「ふふっ、お二人とも鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔してますよ」
「に、日本語が通じたわ……」
なんと、このホテルでは日本語が通じたらしい。それは確かに、英語だけで何とかする覚悟を決めていた二人からすると拍子抜けだろう。
「これくらい大きい国際ホテルだと日本語判る人置いてくれてたりするんだよな、特に台湾なんて日本人観光客も多いし。良かったじゃねえか」
「アタシもびっくりしちゃったよ……」
「さすがは高級ホテルだな」
みんなで高級ホテルのサービスに感動しながら、部屋割りを決める。
といってもシンプルで、男は三人部屋、女子がツイン二部屋なのは事前に知っていた。
「はい、これ男子部屋ね」
「んじゃ、今回は道香ちゃんアタシと一緒でどう?」
「はいっ、喜んで」
「じゃあ氷湖は私と一緒ね。いいかしら」
「ん。よろしく、蒼」
あっさり部屋割りが決まると、一緒にエレベーターに乗って部屋へと向かう。階数が増えるスピードがやけに速くて、加速を感じるくらいの速度が出ていた。
「今日はこのホテルのレストランで夕ご飯が食べられるみたいだから、二十時に予約しておいた。ドレスコードあるから、間違っても変な格好で来ないようにね」
「ド、ドレスコード?」
「とはいえ、見た感じ皆さん今の格好なら大丈夫だと思いますよ、最悪制服もありますし」
「女性陣は全然大丈夫だな。悠と弘治は……まあ大丈夫かな。学ランなんか着て行ったら逆に目立ちそうだし、そのままでいいだろ」
「制服なんて、こぼしたら最悪ね」
突然の砂橋さんの言葉にびっくりしている間に、エレベーターは速度を落とした。
ドレスコードがあるレストランなんて当然のように行ったことはない。というか、行ったことがある人など居るのだろうか。
この後荷物を置いた僕たちは、八時にレストランに行き。
「えっ……」
「こんにちは、ハヤセ アオイ様でしょうか?」
「は、はい……」
「では、こちらへどうぞ」
豪華な椅子に案内されて、慣れない中華様式のコースを食べることとなった。
日本語の通じるウエイターさんが出てきていることからも判る通り、空間からして明らかに高そうなレストランなのがわかる。
当然、僕はコース料理の作法なんて知らない。同じ目で呆然としていた悠と目を見合わせて、認識を合わせた。
ヤバい。JCRAの有難迷惑が炸裂している。
案内された席に座った瞬間から、小声で作戦会議が始まった。
「やっべ、テーブルマナー僕も怪しいんだよな」
「杉島先輩でも無学よりマシです、そこで呆けて死んでる人たちに最低限の基礎でもっ」
「あ、テーブルマナーならわかるわ。私も任せて」
「さすがは良家のお嬢様」
「実家が豪邸なだけあるな」
どうやら蒼もこういうところでの作法がわかるらしい、流石は地元の名士と呼ばれるような人の娘なだけはある。
「アタシもわからないから教えて教えて」
「……食べて、許される?」
「氷湖は無限におかわりとか要求しない限り大丈夫よ、最低限のルールだけは覚えてちょうだい」
一方、この間の合宿でこちらもなかなかお金持ちな一家なことが判明している砂橋さんは知らないらしい。狼谷さんは完全にこちら側だ。
こうして、良家出身三人による簡易テーブルマナー講座を受けながら中華料理のコースを頂き。
「あら、これ美味しいわね。素材がいいのかしら」
「だな。流石は高級レストランだ」
「……なあ、悠、味わかるか?」
「それどころじゃねえよ、俺……」
「美味しい。次は?」
「氷湖は食べ方綺麗だね、その作法で何でその速度で食べられるのかな?」
宏や道香、それに蒼によれば美味しいらしいのだが、慣れない空間で慣れない作法を叩き込まれながらの食事は心身ともに疲れるものがあり。
……いや、狼谷さんはもはや別枠だ。
部屋に帰ってシャワーを浴びると、僕は早々に眠りに落ちた。
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