0x08 風邪と決断

「これはまた遅れるかも、だな」

 それは、穏やかな夢だった。

「どうしたの? そんな渋い顔して」

「『Agni』……『Pentagon5』になる予定のチップがまだ性能も消費電力も未達になりそうなんだ。試作もC-Stepまで進んでるんだが全然でな」

 食卓には温かな料理と、父さんと母さんの姿。

 ジャケットを脱いだだけで食卓に座る父さんの表情は、子供ながらにあまり優れないのがわかる。

「何で?」

「理由は色々なんだけどな……。論理の方も物理のほうにも壁が多い。特にあのリーク電流の多さでは、到底製品化なんてできないだろう」

「あらら。論理のほうなんてそろそろコードフリーズの期限だよね?」

「そうなんだよな。妥協はしたくないんだが……」

「とりあえず完成させることは、完璧を追い求めるよりも大事じゃないの?」

「そうなんだよな。だが、技術者としてはなあ……」

 この当時の父さんは、何をやっていたのだろうか。

 記憶は、温かな思い出の色を帯びていて。

「どうすればいいんだろうな。何か打開できる技術があればいいんだが」

「時には諦めも肝心よ? さ、まずはご飯にしましょ」

 なにも判っていない僕は、その言葉で食事を始めた。その温もりで景色がゆらぎ――

「ん、ふああぁ……」

 ゆっくりを目を開くと、朝を迎えていた。最近は蒼に起こされる前に目覚ましで起きられるようになっていて、自分の成長を感じている。

 夢として過去の光景が浮かんでくることは今年の春のあの日まで無かったのだが、CPU甲子園を終えてたころから時々こうして鮮明な過去の記憶を見ることが増えていた。

「……過去、か」

 今までは僕の片隅でひそかに息づいており、思い出されることもなかった記憶。

 前に高崎のホテルで見たあの夢よりも、自分の目線の高さを考えると少し後の話になるだろう。

 コンピューターを受け入れて、自分の境遇を受け入れたからなのだろうか。

 こうして、まるで夢のように見ているのは果たしていいことなのか。

 まだ、今の僕には判断がつかなかった。

 深く考えることを避けるべく、枕もとのカレンダーを確認。今日は九月の十六日、Melon Hillの電源投入日だ。

「う、ちょっと冷えるな」

 昨日は三十度を優に超えていたのだが、今日は肌寒い。

 窓から入ってくる光は刺すほど強くないのも当然で、空は厚めの雲に覆われていた。

 下で待っていた蒼と朝食を食べると、普段より一本早い列車に乗って出かけ。

 普段より四十分ほど早く部室に着くと、既に砂橋さんの姿がラボにあった。

 あまり朝に強くないという砂橋さんが今こうやって来ているのは、きっと彼女も楽しみにしてくれていたのだろう。

「あら、おはよう結凪。もう来てたのね」

「おっはよーお二人さん、今氷湖が最後のチェック中、十分ぐらいで来るって」

「早いね、砂橋さん。確認ありがとう、準備手伝うよ」

 一人で試作後初の電源投入の準備をしてくれていたようで、僕と蒼もそれに加わってボードの準備を始める。

「ボード自体は結構準備できてるんだよね。プローブいくつか付けてもらっていい?」

「了解。パワーシーケンスのラインでいいんだよね?」

「そそ。BIOSのチップは鷲流君持ってるんだっけ?」

「土曜に宏から貰ってる、えーっと、これだ」

 小さい『ROMチップ』を砂橋さんに渡して取り付けてもらう。三人でもはや手慣れた準備をしている間に、軽い足音が響いてきた。

「三人とも、おはよう。出来た」

「おお、おはよう狼谷さん。ばっちり?」

「ん、ばっちり。この間うまくいかなかった一.三ナノは後回しにして、とりあえず一.五ナノから」

「わかったわ、どっちもBIOSは対応させてあるのよね?」

「どちらも杉島君には伝えてある」

「ならいいね。まだみんな来てないけどやっちゃおうか、写真上げちゃおうっと」

 砂橋さんは新しいCPUをソケットに取り付けると、クーラーを取り付ける前に自分のピースと一緒に写真を撮った。

 数秒後、ポケットに入れておいたスマホが震える。多分今撮った写真を部内WINEに共有したのだろう。

「よーし、準備おっけー。ってことで始めようか」

 満足げに頷いた砂橋さんは巨大なCPUクーラーを取り付けると、コンセントから繋がるケーブルに手を伸ばした。

「いい?」

「ん。大丈夫」

 狼谷さんが小さく頷いたのを確認して、コンセントが刺された。すぐに大量のログが流れて起動処理が始まったことを伝えている。

「今日も100MHzからなんだっけ?」

「そうよ、初物のチップだしとりあえずはね」

「今回は、消費電力にリミッターも掛けてる。この間みたいに燃やしたりはしない」

「それなら大丈夫か」

 数分経ってもログは止まらず流れ続けているが、一回全てのログが消えて再び流れ始める。その切れ目を見て、蒼は小さく頷いて。

「ん、止まってないし大丈夫そうね」

 蒼が呟いた直後に起動シーケンスは終わり、画面には見慣れたBIOSの画面が現れた。

「とりあえずBIOSまでは大丈夫そうかしら」

「大丈夫そうだね。じゃ、本番行こうか」

 画面を眺めていた砂橋さんの言葉に小さく頷くと、OSを起動させるコマンドにカーソルを合わせてエンターキーを押す。

 青と白だった画面はすぐに切り替わり、再び白黒でテキストが流れる画面へと変貌を遂げ。

 数分以上掛けて黒地に長いログが流れた後、画面は無事Linusの見慣れた画面に切り替わった。

「よし」

 狼谷さんの小さな声で、まずは一段階壁を突破したことを実感した。

「OS起動もばっちりだね。じゃ、ついにクロック上げて行こうか」

「いままでの動作記録から、まずは1GHzまで上げる。次に3GHzまで500MHz刻み。それからは100MHz刻みで上げる」

「良いと思うわ。万全を期しましょ」

「よし、じゃあ僕たちも準備するか」

 今回は蒼も居るから程よく分担が出来る。僕が実際にマシンが動いている画面を、蒼が電源回路を、砂橋さんが温度を監視する形だ。

 各々が確認する装置の前で準備を整えていく。僕もマシンに負荷を掛けるプログラムを起動させてから蒼にアイコンタクトを交わした。オッケーだ。

「オッケーよ。始めて頂戴」

 蒼が僕たちとアイコンタクトを再度交わしてから、準備完了を狼谷さんに告げる。

 狼谷さんはそれを見て小さく頷くと、キーボードに手をかけた。

「では、1GHzから。三、二、一」

 カウントののち、ぱちりとエンターキーの音。冷却ファンは最強で回る設定になっていて、温度にも問題はなさそうだ。

 二回、三回とエンターキーを押しても問題なく動き続け、CPUの動作する周波数はついに3GHzを超えた。

「3.5GHz。三、二、一」

 ぱちり、というキーボードの音。見た目では周波数が変わったことがわからないくらいに、僕の画面では正常に動いているように見えた。

「消費電力は百九十ワットちょっとね。結構苦しいんじゃないかしら?」

「こっちは全然安定してるよ。砂橋さん、温度はどう?」

「温度は七十度前後ってところかな。もう少し行けると思うよ」

「とりあえずこれで、クロック周波数的にもMelonは超えられたのか」

「そうね、あれは三.四ギガヘルツ動作だったから」

「後はどこまで伸びるか、になってくるね。こっちはオッケーだよ、次よろしくっ」

 今のところシステムは正常に動いている。次のエンターキーにも耐えた。

 だから、次も大丈夫だろうと思っていたけど。

「3.7GHz、三、二、一」

 ぱちり、とエンターキーの音が響いた瞬間、流れていた画面が止まった。慌ててMelon Hillのマシンに繋がるキーボードを押してみるが動きはない。

「っと、フリーズしちまった」

「あっちゃー、やっぱりシリコンの限界は結構近いね」

 砂橋さんは顎に手を当てて唸った。彼女の言う通り、以前のMelonと同じくらいのクロック限界だ。

「これでもシリコンテスタで一番特性がよさそうなものをピックアップしてきた。ということは、このプロセスの限界」

「ってことは、何とか3.5GHzくらいが実用範囲かなあ」

「思ったより……伸びないんだな」

「トランジスタが増えても冷やし切れるくらいの発熱に収まったのはともかく、クロックの伸びはいまいちね」

 正直もう少しクロックが伸びると思っていたけど、限界は思っていたより近い。となると、クロックで性能を大きく盛っていくのは難しいということになる。

「とりあえずフリーズした写真撮っとこ。ぱしゃりとな」

 砂橋さんが写真を一枚撮って、再びWINEへ上げる。

 携帯が震えたのとほぼ同時に時計を見ると、普段の朝部活の時間がだいぶ近くなっていた。そろそろ増援が来ることだろう。

「性能測定用のサンプルも持ってくる。ファブの前室に置いてあるから、ちょっと待ってて」

「ん、みんなもそろそろ来ると思うからよろしくね」

 ぱたぱたと走っていった狼谷さんが、おおよそ十分ほどで追加のサンプルを戻ってくる頃には。

「パワーオンの実況テロ、ずるいです! 気が気じゃなかったんですからっ」

「へへへ、早起きしてこないのが悪いんですよ、っておわーっ髪やめてっ、静電気が、静電気が」

 ラボはあっという間に賑やかになっていた。

 道香は到着して即、狼谷さんの実況テロに文句を言っている。

 確かにいくらリミッターを掛け、今までの別の試作チップで大丈夫だったとはいえ、道香のボードは一週間と少し前にチップを焼いてしまった前科があるのだ。きっと気が気じゃなかったに違いない。

 あとはこれからの時期、砂橋さんのもふもふした髪をばさばさと弄りまわすと静電気が大変そうだ。道香がお返しとばかりに少しいじっただけで一気にふわふわになってしまっている。

「朝イチからよくやるなあ。ま、BIOSが一発で動いてくれてよかったよ」

「今のところ変なバグも無いようだしな。あとは悠か」

 一方の男どもは安心していた。特に宏に関しては、主に自分の責任範囲で問題が出ていないからに違いない。

「おうよ、正直SMT周りのBIOSの実装も怪しいんだが、動きはするはずだ」

「そこに関しては、まず性能測定をしてからだな」

 今のところ、まず判ったのは最大周波数だけ。

 これからはバグ探しも兼ねて、最大性能がどれくらいになるかを確認しないといけない。

「んじゃ、早速取り掛かるとしますか」

「他のシリコンも3.2GHzくらいまでなら一気に上げて大丈夫だと思う」

「一人一台ずつはあるからそれぞれ検証を始めよう。道香と狼谷さん、砂橋さんで性能を見てほしい、蒼と宏はいつもと同じハードウェア系のバグ探し系を頼む。悠は自分のコンパイラのデバッグをしながら、性能検討の手伝いをしてあげて」

「じゃあアタシたちはCPU甲子園基準で性能見ておくね。まっかせて」

「はあ、またバグが出ないといいけど」

「まだ直せるから今見つけちまった方がいいぜ」

「それもそうね。じゃ、そうするわ」

「鷲流くんは、どうする?」

「ん、じゃあ……」

 ちょっと優先順位を考えてから、僕は口を開いた。

「ねえっ――」

「人も少ないし蒼たちを手伝うかな、って、どうした道香?」

 僕が伝えると同時に、僕に声を掛けてくれたのは道香だった。

 でも、僕が聞き返すとどこかはぐらかすような笑顔を見せる。

「いやっ、何でもないよお兄ちゃん。シリコンバグを出しちゃうとまた忙しいだろうし、今度はなによりスケジュールが厳しいからね。わたしたちで性能は頑張って測っておくよ」

「? おう、わかった。頼んだぞ道香」

 結局何が言いたかったのかははっきりせず、僕たちはそのまま検証に向かうことになった。



 翌日十七日、朝は肌寒かったのに日中は三十度一歩手前まで上がった、落差の大きかった一日。

 晴れたおかげで夕暮れが綺麗に見えている夕方十七時すぎ、僕たちはA会議室に集まった。

 昨日の放課後の部活もいつものようにデータ取りに励んでいたのだが、皆から上がってくるデータを見ていて慌てて開発会議を開くことにしたのだ。

「集まってくれてありがとう、臨時のMelon Hillの開発会議をするよ」

 皆を見回すと、あまり愉快そうにしている人はいない。当然だろう、なぜならば愉快な内容のために集めた会議ではないからだ。

 僕もその内容的には頭が痛いのだが、とりあえずは後に回すことにする。

「まずは蒼と宏、バグ周りのチェックの結果を共有してくれ」

「シュウは手伝ってくれたから知ってると思うけど、今のところ動作が完全に不可能になるような致命的なエラッタは見つかっていないわ。もちろんいくつか挙動が怪しいところは出てるけど、大体はすぐに直せると思う」

「BIOSのバグも数か所あったが、こちらもすぐに治る。なんなら明日明後日で片付けて、週末には修正した奴でもう一回確認できると思う」

「というわけで、この間のMelonの時みたいな致命的なエラッタは無さそうだ。皆も、わかってはいると思うけど変な挙動が確認出来次第すぐに蒼か宏に伝えてくれ」

 蒼と宏の方の進捗は今のところ問題なかった。皆にも言った通り、致命的なエラッタやソフトのバグは無さそうだ。それだけでも僥倖なのは間違いない。

「まあ、色々追加こそしたけど基本設計はMelonから大きく変えてないから当然ね。悪くはない状況よ」

「悠のコンパイラも一応動いてたしな」

「SMTを有効にした時のスレッド割り当てとかがまだ適当なんだよ。動くとは思うけど性能は間違いなくイマイチだからシュウはそのへんを差っ引いて考えてほしい」

「もちろん。その辺は追々だな」

 悠の作っているコンパイラも、最適化こそ甘いものの最低限動作する状態だ。さすがは悠、ガチャで爆死しても仕事はきっちりこなしている。

 だが、問題はこの後。

「んー、性能チームなんだけど……実際のチップでの測定結果とシミュレーション結果で大きく差が出てるんだよねえ」

「どういうこと?」

「まあ、これを見てよ」

 蒼と宏が使わなかったプロジェクターの画面に、砂橋さんの資料が映る。

 それは、簡単にまとめられたMelon Hillの性能測定結果だった。

「間違いだと思って、何度も測った。でも、変わらない」

 間違いだと思った。その狼谷さんの言葉が全てを表している。

「CPU甲子園レギュレーションで二時間取った平均が、5.6GFLOPSでした。動作周波数は一ギガヘルツで固定しているので、シミュレーションとそのまま比較できます」

「どう、して……? 私が走らせたシミュレーションでは、前も言った通り7GFLOPSくらいまでは出るはずなのに」

 蒼が思わず言葉に詰まるのも無理はない。なぜならば、その数字は製造開始時に確認したものより二十五パーセントほども低い数字だからだ。

「いくらアムダールの法則があるとはいえ、おかしいな」

「ってか宏、思い出してくれよ。CPU甲子園の測定ソフトはめっちゃ並列化しやすくなってるってのを」

「おお、悠にしてはまともな指摘だ。確かにそう言われるとその通りだ」

 実際に、Melonの時にはコアを二倍にして性能は一.八倍ほどになった。つまりは、プログラム的にはコア数を増やせば比較的素直に伸びるようになっているのだ。

 だから、今回のいまいちな性能の原因はプログラム自体では無いのだろう。

「コンパイラの最適化の甘さがあるんじゃないかしら? SMTを有効にしたときに実行ユニットを喰いあってるとか」

「それも一つの原因でしょうけど、多分本筋じゃないと思うんですよね。SMTを無効にしたデータも取ったんですけど、やっぱり性能はいまいち伸びきりませんでした」

 蒼は道香の意見を聞いて唸る。それくらいに、取得したデータは明らかな原因を示しているのだろう。

「端的に言えば、コア当たりのIPCがMelonよりも下がっている」

「それは、原因が判っているのか? コアの設計は少なくとも性能が落ちるようなことは無いはずなんだが」

 狼谷さんの静かな声に質問を返すと、彼女は小さく頷いた。

「CPU甲子園で使った三つの『ベンチマーク』のうち、一番性能が出たのは普通の小数点の計算だけをするアプリケーション。これは、メモリアクセスがほとんど発生しない」

 狼谷さんの説明を継ぐように、道香が説明を続ける。

「逆に一番性能が出なかったのは、メインメモリから大量の行列を読みだして、行列計算をして、メモリに書き戻すメモリアクセス有利なアプリケーションでした。なので、性能が伸びない原因……ボトルネックは、多分メモリだと思います」

「やっぱり、一番どうしようもないところじゃない……」

「コアが増えて処理できるデータも増えたけど、メインメモリとのやり取りできる量が限られてるからそれの取り合いになってるのか」

「それに、複数のコアで一本しかないバスを取り合うからね。空いてればどの順でアクセスするかとかの『調停』は楽なんだけど、四つのコアからの要求がえらい競合してるせいで調停の時間が長くなって……結果的に、全体の効率も悪くなってる」

 僕は少しだけ気が遠くなりそうになった。

 蒼がどうしようもないと言っている通り、その内容は、コア数が増えることによるメモリアクセス帯域の枯渇という、開発中に蒼が懸念していた内容そのままだった。

 ついに、僕たちはJCRAが準備したチップの限界に辿り着いてしまったのだ。

「シミュレーションでは性能が高くなってるのは何でだ?」

「CPUの先に繋がるMIHと通信する回路はJCRAのIPなの。だから、その動作を百パーセント模擬したモジュールが提供されてないのよ。性能シミュレーションでは、仕方なくそこの代わりにプログラムやデータを流し込むためのユニットを使っているんだけど……。そのユニットが送りこむデータやプログラムの量や応答時間が現実のMIHを大きく超えて、理想的なものになってるのが原因だと思うわ」

「IPのシミュレーションはできないのか」

「出来ないことはないんだけど、IPだから提供されてる情報が少なくてね。RTLで遅延やスキューなんかも入れて全部シミュレーションすることになるから、あまりにも時間が掛かりすぎちゃうんだよ。ちゃんとプログラムを走らせるとなると、多分一回流すのに良くて四日かな」

「確かに、それだけ時間が掛かると厳しいな」

「RTLだと走らせるのにも手間が掛かるし、まあ色々と現実的じゃないよなあ」

 シミュレーションでの結果では見えなかったのは、ある意味起きるべくして起きてしまったということになる。こればかりは仕方ない。

「これ、解決策ってか……解決のしようがあるのか?」

 僕が口にした誰もが考えたであろう質問に、会議室には沈黙が流れる。薄々感じていた通り、今から解決のしようはないのだろう。

 気まずい沈黙を振り払おうと口を開きかけたところで、道香が元気にはいっ、と手を挙げた。

 その表情は相変わらず笑顔。気を遣ってくれたに違いない。

「はいっ、MIHを自分たちで作っちゃえば良いと思いますっ」

「今からかあ? 確かにメモコンのIPもあるっちゃるはずだが」

「あれは『ソフトIP』。自分たちで最適化をしないといけないから、多分間に合わない」

 宏が渋い顔をした通り、より高速な周辺チップを作るのは間に合わない。

 前に砂橋さんが説明してくれた通り、MIHは僕たちとは全然関係のないメーカーが作ったメモリチップと通信をする。今から開発したら、多分まともにメモリと通信できないまま本番を迎えてしまうだろう。

「経験が無いものをイチから作るには、三週間は無茶ね」

「ですよね。さすがに自分でも向こう見ずがすぎるかなって思ってました」

「自分にも毒舌だねえ」

 道香が苦笑いをしたのを見て、砂橋さんも笑う。でも砂橋さんはすぐにまじめな表情に戻って言葉を続けた。

「同じ理由で、特効薬になりうるメモコンをCPUに乗っけるのも間に合わないかな。というか、最初からそれを織り込み済みでも二か月もないのに作るのは無理だよ」

「キャッシュを大きくするとかは? 苦肉の策だけど」

 悠が頭をかきながら提案をする。メモリとやり取りをするところが詰まってしまうのであれば、手元のキャッシュメモリに多くのデータを置いておけばいいというアイデアだ。

 それなりに効果は見込めると思うんだけど、僕ですらわかる懸念がある。砂橋さんの方をちらりと伺うと、小さく首を横に振る。その理由は、狼谷さんが簡単に説明してくれた。

「トランジスタ数が足りない。現行の四メガバイトですら結構ダイ面積を取ってる」

 僕たちが考える必要があったのはトランジスタの数。一ビットのデータを保存するのに六つのトランジスタが必要なキャッシュメモリを大量に載せるのは、面積が大きく広がってしまうのだ。大会のルールで面積に制限がある以上難しい。

「げ、そんなにか。ってことは大きく増やすのは無理だろうな」

「何かを削って載せるか?」

「コアのほうは性能に直結するものしか乗ってないわ。SMT用のレジスタとかデコーダを外せば小さくはなるけど」

「確かに、SMTは無いほうが早かったテストが多かったかな? ちょっと待ってね……うん、一番性能が出た単純な小数点計算はSMTが無いほうが伸びた」

「逆に、浮動小数点行列計算の方はSMTをオンにした方が三十パーセント性能が良かった。多分、メモリの待ち時間が長いからその間に他の処理をできるのが効いた」

「うわ、それは悩ましいな……」

「正直、SMTを削ってもそんなにSRAM乗らないと思うんですよね」

「道香に同意。多分数キロバイト程度で、その程度では性能寄与はかなり小さい」

「ってことは、SMTも削らない方がいいってことだな」

「単純計算の時はBIOSで切っておけばいいだけだからね」

 蒼が自分で言っていた通り、SMTという技術にも少なからずトランジスタを消費する。

 具体的にはレジスタやデコーダといった、実際に処理を実行するユニット以外のものに関して概ね半分程度を追加で実装する必要がある。特に、コアの中でそれなりのサイズを占めるプログラムを解釈する回路、デコーダーを余分に積むのは大きい。

 だが、一ビットあたり六つのトランジスタを消費するキャッシュ用SRAMを追加すると考えると、そのデコーダーの代わりに積んでも性能に大きく影響が出るほどの容量にはならない。

 SMTを実装したときの性能の差と、そのトランジスタをキャッシュに振ったときの性能。比べると、平均すれば微妙に前者の方が上だった。

 ここまでデータが出揃えば、あとは決断するだけ。僕は皆の表情を見回してから、出来るだけきっちりと言い切った。

「よし、SMTはそのまま残そう。性能に影響を出さずに削れるトランジスタがあるならキャッシュに回すのはいいけど、今のコアに大きく手を入れるのは避けるって形で」

「コアに手を入れると、蒼じゃなくてもいつバグが出るか判らないしな。賛成だ」

「悠の言う通りだ、何しろ次の試作が本番だからな。出来るだけ変更点は少なくしよう」

「わかったわ。正直助かる」

「今のところ見えている不具合はそんなところか?」

「だな。とりあえず動作が正常だからいいけど、性能を伸ばしたいところがことごとくイマイチなのが辛いところだ。悠、お前の出番だぞ」

「俺だって出来ることと出来ない事があってだな。頑張りはするけど」

「そうね。どちらも今から大きく改善するのは難しいけど……私の方でも出来るだけ改善させるわ」

「私も頑張る。少しでも周波数を伸ばす」

「アタシもまあ、詰め込みを頑張ってみるよ」

 こうして今日の開発会議はお開きになった。この時、次のチップのテープインまでに少しでも改良点が修正できればいいなと思っていたのだけれど。

 本格的に本番へ向けた修正が始まる九月の十九日。

 相変わらず目覚ましで起きることに成功した僕は、私服に着替えて一階のリビングへと向かった。

 太陽こそ出ているものの、気温は十三度と少し。半袖だと明らかに寒かったから、制服の移行期間なのを良いことに学ランを羽織っている。

 ここまでは、なんてことない日常。

「……すぅ……」

「おはよ、って今日は寝てるのか。じゃ、自分でやるか」

 リビングには、夏服を着てダイニングテーブルに突っ伏して寝息を立てる蒼が居た。

 今日は蒼が朝食を準備する日だったけど、寝てしまっているなら仕方ない。最低限の家事スキルを活かして朝食を準備する。

 慣れもあるだろう、十五分ほどで朝食の準備は整い、蒼に声を掛けた。

「おーい、蒼。ご飯出来たよ」

 だが、呼びかけに返事はない。ここまで寝起きが悪いのはIP大会の翌日以来だろうか?

「おーい、蒼さん? 朝ですよ」

 肩をゆすると、蒼はようやく上体を起こした。だが、一目で何かがおかしいのは判った。その目は焦点が合わないようにぼーっとしており、何より顔が赤い。

「ん、シュウ? おはよ」

 声もどこかぽやぽやとしている気がする。考えられる可能性はいくつかあるけど、とりあえずは一番ありがちなところを確認するか。

「……失礼するぞ」

 ぼんやりとした蒼のおでこに手を伸ばす。普段なら何するのよ、とか色々言ってきそうなところだけど、ぼーっとしている蒼からは何のリアクションもない。

「んっ、つめた……」

「ちょっ、蒼!? お前熱あるだろ」

 一瞬で声が出た。そこは、少し触れるだけで明らかにわかるほどの高熱を持っていたからだ。体感では八度を超えているに違いない。

 慌てて救急箱に走り、体温計を手にして戻る。

「なによシュウ、ちょっと起きた時からぼーっとするなあって思ってたけど、大丈夫だよぉ」

 その間にも、ようやく蒼から出てきた文句の語尾が溶けているのを聞いて明らかに大丈夫じゃないことを確信した。熱があるのが確定し次第、速攻で家に送ろう。

「つべこべ言わず、ほれ、自分で体温測りなさい」

「むぅー、私は大丈夫なのにぃ」

 取ってきた体温計を渡すと、明らかに不満そうにしながらその場で服をはだけさせ始める蒼。明らかに正常ではないその行動に確信を深めながら、僕は速攻で振り返る。

 そうだ、連絡をしないといけない。まずは部活WINEに「蒼が体調を崩したっぽい。悠と宏、僕は蒼の様子見て落ち着いたら登校するから説明頼む」とだけタイプして送信。

 数秒後から大量の通知が来始めたが、ひとまずは無視。

 鬼のように震える携帯をポケットに突っ込むと同時、背後の蒼のほうからピピピ、という音が聞こえてきた。

「え、噓でしょ?」

「嘘なわけあるかい、ほら見せてみな……って、マジか」

 振り返ると、蒼は相変わらず目の毒な格好をしていた。できるだけ見ないようにしながら蒼の手元にあった体温計をかすめ取ると、三十八・六度の表示。普通に高熱だ。

 背筋が冷たくなって、手が震える。

 ふと暗い記憶の海から思い出されたのは、母さんが初めて倒れた時のこと。

 あの時の不気味なほど熱い母さんの体の温度を思い出して、意識が遠のきかけて。

 視界に映る目の前の光景で冷静に戻る。

 あの時は親父がいたから何とかなった。

 だけど、今は僕しかいない。僕が動かなければ母さんの二の舞になるかもしれないのだ。

 大量の通知が来ていた携帯を再び取り出すと、馴染みがありすぎて逆にあまり掛けたことのない連絡先をタップする。

「はい、もしもし。早瀬ですが」

「もしもし、おはようございます。鷲流です」

「あら弘治くん? おはよう、どうしたのこんな時間に」

「それがですね、蒼が熱を出してまして……今からそちらに連れて帰ります」

「あら、あらあら。お願いできるかしら?」

「はい、もちろんです。それでは後ほど」

 連絡した先は隣の蒼の家。さすがにこの状況でいきなり連れて帰ったらびっくりするだろうから、その準備だけは整えた形だ。

「っし、と。ほら蒼、帰るぞ」

「帰るも何も、ここがおうちだけど」

「ここは僕の家だよ」

 ぼーっとして受け答えも怪しい蒼。だるそうに体を突っ伏しているのも無理のない体温だ。歩かせるのも辛いか。

「ほら、行くぞ。乗っかれ」

「えへー、シュウの背中だぁ」

 突っ伏している真横でおんぶの体勢を整えると、蒼はそんなことを言いながらおぶさってきた。その軽い体を背負いあげると玄関へと向かう。

「いいか、行くぞ。如何せんオタクの体力だから、ちょっと揺れたらごめんな」

「快適だから、だいじょうぶよ」

 こうやって蒼を背負うのは二度目。

 この間背負って帰った時と比べると一枚遮るものが多いにも関わらず、背中に伝わってくる熱は明らかに高い。

 背中からも蒼の不調を感じながら、極力揺らさないように家を出て、お隣さんに向かう。

 蒼の家は相変わらず広大な土地を有するとはいえ、川からおぶって帰るよりはよっぽど短い距離だ。最短距離で玄関へと向かうと、呼び鈴を押す。

「弘治君、ありがとね」

「いえいえ。このまま部屋で寝かせちゃいます」

「そうしてもらえる? お願いね」

 出てきた金江さんと言葉を交わして、早速蒼の部屋へ。扉を開けると、前に来た時と変わらない可愛らしい部屋が広がっていた。

「ほら着いたぞ、よいしょっと」

「ん、ありがと……」

 まずは蒼をベッドに下ろす。制服から着替えたほうが良いのは間違いないんだけど、僕がこの部屋を訪れる回数は少ないし、当然着替えの場所など知る余地もない。

「じゃ、ちょっと待ってろ。金江さん連れてくるから」

「嫌、よ。もうちょっと居てくれないの?」

「……わかったよ」

 やはり戻ってくると体調の悪さを実感したらしく、既にぐったりと横になっている蒼。

 その声には普段の元気さは無く、翠ちゃんのように落ち着いていた。母さんの時のように意識が無くなっているわけではないから、少し安心する。

 ほっとしたからだろうか。今の蒼を見ていると、出会った頃の蒼をふと思い出した。

 そういえば、あの時は蒼と翠ちゃんはよく似た姉妹だった。だけどいつからだろうか、蒼は今のように明るく元気な少女になった。それがいつだったのかは、記憶に黒い靄が掛かったかのように思い出せない。

「着替え、とってもらってもいい?」

「いや、僕はどこにあるか判らないから」

「タンス、一番上よ。お願い」

 正直ここで粘られるとは思っていなかった。でも、今の僕に断るという選択肢を選ぶことは出来ない。

「わかったよ、どれでもいいんだな?」

「ん。任せるわ」

 言われた通りに、部屋の一角を占めるタンスの前に立つ。何となく罪悪感で気が狂いそうになりながら一番上の取っ手を引くと、薄手のパジャマはすぐに見つかった。

「お、あったあった。これだな」

 何が入ってるかわからないから、お目当てのものを見つけたら即撤収だ。上と下を揃って取り出して、即タンスを閉める。

 そのままベッドで横になる蒼のところへと持っていくと、蒼は弱々しくそのパジャマを受け取った。

 そのまま数秒の沈黙、何だろうと思って待っていると。

「シュウ、着替えるの手伝ってよ」

「は? えっ?」

 蒼はとんでもないことを言い始めた。あまりにも突然爆弾が炸裂したから、僕は一瞬動くことが出来ず。

 思考を再開した脳は、突然のことだったからか着替えを手伝うというシチュエーションを具体的に想像してしまって。

「いや、いやいやそれは無理だよ。せめて金江さんにさ? ほら、すぐ呼んでくるから」

 気恥ずかしさが爆発して、出てくる言葉がしどろもどろになる。呼んでくる、という部屋を出る建前を使って、そのまま僕は部屋を飛び出した。

 あんなことを言ったのはきっと熱のせいだろう。そう思いながら、蒼の家の長い廊下を歩いて僕まで少し赤くなってしまった頬を冷ます。

「金江さん、とりあえずベッドには置いてきましたけど、やっぱり具合はよくなさそうです」

 リビングに辿り着いて金江さんに声を掛けるころには、僕の心はだいぶ落ち着いていた。

「あら、そんなに。熱はどうだったの?」

「うちで測ったときは三十八度六分でした」

「じゃあ解熱剤も持って行った方が良いかしら……いや、念のためお医者さんに見てもらいましょう。病院が開いたら連れて行くわ」

「……絶対に、病院には連れて行ってください。何があるか、わからないので」

 思ったよりも冷たい声が出てしまっていた。具体的に「そのとき」のことは思い出せないけど、そうするべきだと自分のどこかが告げていた。

「……わかったわ、病院が開いたらすぐに連れて行く。そういえば昨日の夕ご飯を少し残してたのよね。最近暑くなったり寒くなったり酷かったから、それで風邪を引いちゃったのかしら」

 どうやら昨日の夜から兆候はあったらしい。全く気付くことができなかった自分が恥ずかしくなると同時に、蒼の事なら何でもわかると思っていた自分の謎の傲りに気が付いて恥ずかしくなる。

「多分部活で疲れてたのもあると思います、すみません」

 だから、何となく僕の口からこぼれたのは謝罪。前に付けた部活は、プロジェクトマネージャーとしての言い訳だった。

 そんな僕の心情を察してだろうか、金江さんはにっこりと笑う。

「それは大丈夫だと思うわよ? 最近はそんなに疲れ果ててた様子は無かったもの。むしろ、とっても楽しそうに話していたから」

「だといいのですが……」

 そう言われて、ほっとしたのは事実だった。以前のように燃え尽きる一歩手前まで追い込んでしまっていたのではないか、という心配は当然あったから。

「逆に、鷲流くんがちゃんと蒼のことを見ててくれて助かっちゃったわ。最近あの子、朝の挨拶すらすっぽかして行っちゃうんだもの」

「それはなんというか、すみません……」

 さらに金江さんから新情報を伝えられ、申し訳なさがつのる。何しろ、蒼が朝我が家に来てくれるのは完全に僕の生活が原因だからだ。

 蒼には家族との時間を大切にしてほしいと思ってても、実態はこうだ。

 蒼に頼り切った挙句早起きをさせて、風邪まで引かせてしまった。

 自分を自分で嫌いになっていると、渋い顔になっていたのか金江さんは笑顔を見せてくれる。

「いいのよ。あの子が好きでやってることなんだから、弘治くんが気に病むことはないわ。さ、あとは任せてもらって大丈夫よ。弘治くんは学校に行ってちょうだい」

「……わかりました、ではお言葉に甘えさせてもらいます」

 気を遣わせまいとする大人の言葉に、今は甘えさせてもらおう。

 心の中にもやもやとしたものを抱えながら、僕はいったん家に戻る。時計を見るとまだ午前七時半前。部活には間に合わないだろうが、朝のホームルームには間に合うように学校に行けそうだ。

 リビングに残る、冷めた朝食を一人で口に運ぶ。冷たくなってしまった食事は、普段よりよっぽど味気なく感じた。



 普段より一本後、四十分ほど遅い時間の列車に揺られて学校を目指す。

 去年は蒼が先に行って僕はこの列車に乗る事が多かったから、一人でこの列車に揺られることには慣れていたと思っていた。

 だけど久しぶりに一人で学校へ向かうと、どこか寂しい気持ちがあって。

「おはよーっす」

「おっ、間に合ったか。てっきり休むもんだと思ってたよ」

 部室に向かわず、教室に直行するのも久しぶりだ。チャイムが鳴る五分ほど前に教室に辿り着くと、既に悠の姿があった。

「よう悠、悪かったな急に」

「気にすんなって、てっきり午前中は来ないもんだと思ってた。それに最近は馬鹿みたいに気温も乱高下してたし、蒼が風邪を引くのは無理ないさ」

 顔に不安が出ていたのだろうか、どうやら悠にもお見通しだったらしい。気を遣った言葉が悠から出てきたことに思わず面食らう。

「……お前にもお見通しかよ」

「何年幼馴染やってると思ってんだ、ナメんなよ?」

 照れ隠しの憎まれ口にも笑顔で返され、完全に立つ瀬は無くなってしまった。相変わらずかわいらしい顔でにやにやと笑う悠に向けて、僕は肩をすくめて見せる。

「およ、弘治はちゃんと学校に来たんだな。良いことだ」

「そんな不登校みたいな言い方やめてくれよ」

 さらには宏もやってきた。授業開始前だから当然といえば当然なんだけど、今年の春を思えば隔世の感がある。

「朝の部活はどうだった?」

「あー、いつも通りだな。蒼と弘治が居なかっただけだ」

「ん、そうか。それならいいんだ」

 その表情を見ると、それだけではなかった事はすぐにわかる。多分……皆良い人たちだから、蒼のことを心配してくれていたのだろう。

 だけど珍しく感じた宏の善意を無下にしたくはなかったから、僕は素知らぬ顔で頷くことにした。

 授業が始まっても、もちろん集中なんて出来るわけもなく。

「おい鷲流、ぼーっとしてる暇はないぞ。授業中だぞ」

「……」

「鷲流、おい! 聞いてるのか」

「は、はいっ!? 何でしょう」

「ったく、先学期はちゃんと授業を受けてただろう。せめて話を聞くふりくらいは見せなさい」

「すみません」

「じゃ、続けるぞ。ここの不等式は――」

 久しぶりに先生に怒られてしまったり、昼はまともに食事が喉を通らなかったりしながら、何とか授業の時間を乗り切って。

「シュウ、今日はそのまま帰るんだろ?」

「いや、部活には出ていくよ。直帰なんてしたら蒼が変に心配して具合が更に悪くなりそうだ」

「……あいつならありそうだな」

「ま、弘治がそうしたいならオレは止めないよ。実際スケジュールはまずいしな」

 部活に三人で向かうと、部室には既に道香と砂橋さん、それに狼谷さんまで揃っていた。

「おーっす、早いね」

「やっほ、蒼は大丈夫なの?」

「朝熱出してただけだからな。多分、最近の寒暖差で風邪引いただけだと思う」

「それなら良いんですが……」

「疲れが溜まってたりしたのかなあ」

 道香も砂橋さんも、やはり素直に風邪を引いただけとは信じてくれないようだ。実際僕もそうだっただけに、何とも言えない気分になる。

「それに関しては大丈夫だと思うぞ。蒼の母さんが最近はちゃんと寝てたって言ってたから」

「そっか。アタシの考えすぎならいいんだけど」

「健康、一番」

 皆は一応、金江さんの言葉を信じてくれた。

 もちろん、責任の一端が僕にあることは言えない。

 それに、この気のいい仲間たちには、例え僕が抱える罪悪感を言ったとしても、考えすぎだと一蹴されてしまうだろう。

 そんな気持ちを押し込めながら、開発を任されているリーダーらしく説教をすることにした。もちろん、自分への戒めもこめて。

「皆も、手洗いうがいして暖かくして寝るんだぞ。これ以上風邪引かれてプロジェクトがさらに遅れたら洒落にならないからな」

「後ろ向きな理由だな。建前くらいは皆の健康にどうこうとか言ったほうがいいんじゃねえか?」

「プロジェクトマネージャーらしくなってきましたねっ」

「その賛辞は素直に受け取りたくないなあ」

「人権がないのは、基本」

「サイコパスかな?」

「そんなことないからね? 氷湖だけじゃないけど、みんな健康は大事だよ?」

 めずらしく真面目な顔をした砂橋さんの説教は大好評で、皆に笑顔が戻った。正直想定外ではあったけど、みんなが難しい顔をしているよりはよっぽどいい。

 あと、僕はサイコパスではないと思うんだけど。

「さて、蒼が居ない間にやれることをやっておこう。論理設計で手直ししなきゃいけなかったところ以外は進められるよな?」

「ってかさ、致命的なバグが出てないなら『コードフリーズ』掛けちゃったら? そしたらアタシものびのび物理設計できるしさ」

「うーん、昨日蒼はもう少し改良したそうにしてたんだけどな……」

 コードフリーズとは、今あるRTLやプログラムにおいて致命的なバグ等が発生した場合を除いてどんな改良・改造も禁止し、その状態で完成形としてしまうことだ。

 ギリギリまで開発を進めれば、性能は確かに上がるだろう。しかし、リスクを取るとコンピュータ甲子園の時のようにひやひやする事態にもなりかねない。

 実際、昨日の終わり際まで蒼は回路の規模と性能を天秤に掛けながら改良を色々と行っていた。まだ改良の余地はあるのだろう。

 逆に言えばシミュレーションを掛けていたはずだから、既に動く形にはなっているというわけで。

「どうするのお兄ちゃん? それによって今日からの動き方が変わってくるけど」

「……個人的には、コードフリーズに賛成。プロセスが不安な分、早めに物理設計も仕上げてしまいたい」

「確かになあ。最終版のデザインルールはもう出来てるんだっけ?」

 例え論理設計を完成にしてしまっても、次の物理設計に入れないのであれば意味がない。

 前回の試作は酸化膜の厚みなどが定まっていなかったから、デザインルールが完全に固まり切っていなかった。完成版は今週中に出来るという話だったけど。

「出来てる。既に結凪には伝えてある」

「こっちも、ソフトに全部仕込むとこまで終わったから大丈夫だよ」

「酸化膜は1.5ナノメートルで行くから、トランジスタのスイッチ性能が上がらない分をクリティカルパスの短縮で稼ぐ」

「そんなに効くんですか?」

「効く、はず。数十メガヘルツ分くらい」

「そんなに劇的には変わらないんですね……」

 いわゆる最適化を進めて性能を稼ぐためにも、時間は多いに越したことはない。

 何より、もし早く製造に着手できるようなことがあれば検証の時間もゆっくり取れるだろう。

 それに、僕はこの間見た夢のことを思い出していた。

「『とりあえず完成させることは、完璧を追い求めるよりも大事じゃない?』、か」

 昔の……「思い出の中の」母さんの言葉は、今の僕を助けてくれる一つの鍵になり。

 これだけの条件が揃ってしまえば、僕が取れる判断は一つしかなかった。

「多少でも性能向上は性能向上だからな。よし、じゃあ論理設計に関して、RTLはコードフリーズとするよ」

「少なくとも今日は直せる人居ないしね」

「あんまり蒼に無理はさせたくないからな」

 砂橋さんの冗談に、思わず本音が漏れた。

 きっと蒼は、自分が何か出来ると判れば布団の中ででも作業をするだろう。それを防ぐための判断でもあった。

「これ以降、修正はよっぽど動作に関わる設計上のバグに当たったときのみってことで」

「りょーかい。じゃあアタシは早速物理設計始めちゃうね」

「そうしてくれ」

「サブストレートは変更なしで、前回試作分をそのまま使うってことでいいんだよね?」

「ん、その予定。使いまわせるものは使い回してこ」

「わかったっ、じゃあわたしも結凪先輩のお手伝いをするね」

「お、ほんとに? 助かっちゃうなあ」

「悠と宏はBIOSとコンパイラを引き続き頼むよ」

「おう、任せろ」

「しゃーない、やるっきゃないなあ」

 皆に指示を出すと、各々の作業場へと戻っていく。僕も自分のデスクに戻ろうとすると、誰かが背中をつついてきたのを感じた。

「っと……なに、どうしたの砂橋さん? そんないたずらして」

 振り向くと、つついた犯人はにやにやとした笑みを湛えた砂橋さんだった。そのまま、実に楽しそうに質問を僕に投げてくる。

「んにゃ、ちょっとね。鷲流くんは今日絶対やらないといけない仕事ってある?」

「絶対に、ってのはないかな。事務手続き回りも次はみんなのパスポートが来てからだし」

「それは僥倖。じゃ、今日は帰って」

「え?」

「だから、鷲流くんは今日は帰ること。副部長命令」

 それから紡がれた言葉に、思わず思考が止まる。

 その端的な内容に何か僕がやらかしたかと不安になったけど、数瞬で彼女の言わんとしていることに気が付いた。

「……ったく、砂橋さんには敵わないな」

「今から出れば余裕で帰りの列車に間に合うでしょ?」

「間違いない。そこまで考えてくれてたのか」

「もっちろん。アタシはこの部の副部長だからね」

 つまりは、砂橋さんは蒼の様子を見に帰っていいよ、と言ってくれているのだ。

 さらには、普段使わない列車の時間まで考えて声を掛けてくれたらしい。今から準備をして学校を出れば、十分と待たずに帰りの列車に乗れるだろう。次は一時間後だから、正直助かる。

「じゃ、命令……じゃなくて、これはアタシからのお願い。鷲流くん、蒼の様子を見てきてあげて? アタシも心配だからさ」

 それから、前には珪子ちゃんと話をしていた時に見せた、あの穏やかな笑顔になって告げる。

 その優しくてしたたかな姿に、僕は思わず頬をかいた。

「その言い方、ずるいなあ。断りにくくしたな?」

「断る気なんて微塵もないくせに、鷲流くんこそよく言うよ」

「わかった。様子見ながら報告するよ」

「ん、そうして。ほら、行った行った!」

 砂橋さんにばしん、と背中を叩かれた僕は、荷物をまとめて部室を後にする。

 ばしんと叩かれた背中は、音のわりに全く痛くなかった。

 まさに狙ったかのように来た列車に乗って最寄りまで戻り、それから少し速足で家への道を歩く。部活に顔を出したとはいえ、日が沈む前に帰ることが出来るとは思わなかった。

 部活の資料が入って少し重い鞄を玄関に放ると、隣の家へと向かう。

 朝は蒼を背負って歩いた広い庭を一人で通り、大きな母屋のインターホンを鳴らした。

「はい、どちらさまでしょうか?」

「翠ちゃん? 鷲流だけど」

「今行きますね、兄さん」

 インターホンからは翠ちゃんの声。数十秒後、既に私服に着替えていた翠ちゃんがドアを開けてくれた。

「いらっしゃい兄さん、姉さんのお見舞いに来てくれたんですか?」

「そうそう。蒼の調子はどう?」

「今は寝てます。母さんから聞いたんですが、ただの風邪とのことでした」

 まずは変な病気じゃなさそうなことに安心して、大きく息をついた。きっと金江さんが病院に連れて行ってくれたのだろう。

「金江さんは?」

「私が帰ってきてすぐに、ちょっとだけ会社に行くって言って出て行きました。そんなに掛からず返ってくるとは思います」

 金江さんも現役のエンジニアだ。仕事にも迷惑をかけてしまったようで、更に申し訳なさを覚えてしまう。

 でも、翠ちゃんにはそんな気持ちは見せられない。

「……そっか。じゃあ起きるまで蒼の部屋で待たせてもらおうかな」

「はい、もちろん。自分の家だと思ってゆっくりしてください」

「お世話になるのは蒼の部屋だけどね」

「私の部屋で、私の看病をしてくださってもいいんですよ?」

 冗談めかすと、翠ちゃんも乗ってきてくれた。この辺りの察しの良さは姉妹共通だ。

「翠ちゃんも何か病気を患ってるの?」

「テストの点が良くないんです、頭の病ですかね……」

「うそつけ、蒼が若松科技も今のまま頑張れば余裕って褒めてたぞ」

「ううっ、褒められてるけど複雑です。っと、こんな雑談をしている場合じゃないですね。兄さんは姉さんの部屋に行っていてください」

「わかった。お邪魔するよ」

 それから、ほどほどで会話を切り上げて板張りの廊下を歩いていく。今朝ぶりの蒼の部屋の扉を、小さくノックした。

「邪魔するぞ、大丈夫か?」

 返事がないことを確認してから部屋に入ると、蒼はベッドで寝ていた。

 服もちゃんと金江さんに着替えさせてもらったらしく、当然ながら制服姿ではない。

 翠ちゃんが帰ってきてからは面倒を見てくれていたようで、枕もとの床には若干減ったスポーツドリンクが置いてあった。

「……思ったよりもやることないな」

 それもそうか、しっかり者の翠ちゃんも居るし、金江さんも居たのだ。僕がわざわざ何かをする必要を残してくれているとは思えない。

 夕暮れが差し込み少しずつ明るさを失っていく部屋の中、静かな蒼の寝息を聞きながらただぼーっとする。

 その中で何となく思い出されたのは、僕たちがこっちに引っ越してきた頃のことだった。

 昔からお隣さんだったということもあり、金江さんと母さんは仲が良かったのだという。だから、こっちに引っ越してきた僕が蒼と仲良くなるのにもそう時間は掛からなかった。

 だけど金江さんは今でも現役のエンジニアということもあって、日中は当然いない。悠の家も電気屋さんで出張作業のために空けたりすることが多いこともあり、僕たちは母さんが家にいる日は我が家で遊んでいた。

 逆に母さんが家にいない日は、僕は専業主婦な道香のお母さんに迎えに来てもらっていた。そして道香と一緒に、彼女の家で母さんが病院から戻ってくるのを待っていたというわけだ。

「あの頃は、僕と悠が二人を引っ張りまわしてたっけ」

 大きな家に生まれたというだけあり、似たもの姉妹で大人しかった蒼と翠ちゃん。その二人を連れて冒険に出かけたり、ゲームを教えたりするのは僕と悠の役目だった。

 その頃の僕は、我ながらやんちゃなガキだったな。

 ……一年半後に、あんな将来が待っているなんて思っていなかったから。

「なんだか懐かしい、な」

 思わず口からは、懐かしいという言葉が溢れていた。

 思い出すのも久しぶりだから、なんとも言葉にできない――寂しさと懐かしさが入り混じった気持ちが胸を満たして。

「ん……シュウ?」

「お、起こしちまったか?」

 ちょうどそんなタイミングで、蒼は目を覚ました。

 枕元に向かうと蒼は体を起こそうとして、僕は慌てて寝かせ直す。

「いいから、ゆっくり寝とけって」

「わかった……」

 返事は朝と変わらず、かなり弱々しい。顔を覗き込むと相変わらず赤い顔をしており、目は調子が悪そうに潤んでいた。

「シュウ、学校はちゃんと行ったの?」

「ああ、もちろん。サボったって聞いたら蒼だって嫌だろ?」

「ん……もしサボってたら、悲しかった」

「だよな。僕が思った通りだ」

「部活は? 部活帰りにしては早い気がするわ」

「それがな、ちゃんと僕は行ったんだよ。そしたらお前を心配した砂橋さんに帰れって言われちまった」

「ふふ……結凪らしいわね」

 短い答えしか帰ってこないことで、日常会話をしているだけでも辛そうなのがわかる。

 その一方、いつの間にか表情は幸せそうな笑顔になっていて。

「お見舞いに来てくれてありがとね、シュウ」

 その感謝に、思わず言葉に詰まる。僕が原因の一端を担っている以上、罪悪感が素直に感謝を受け取ることを拒んだ。

「朝見つけたのは僕だから。具合が悪くなってないか気にするのは、幼馴染として当然だろ?」

「ん……それでも、ありがとう」

 そんな僕にも、感謝の言葉を向けてくれる蒼のことをなんだか直視できなくて。

 なんとなく目をそらすと、窓の外に視線が向いた。もう日はほぼ沈み、最後の残光が薄暗い部屋を唯一の光源として照らしている。

「ね、シュウ」

「どうした」

「また……眠るまで、手を握っててもらえないかしら」

「ん、それくらいならお安い御用だ」

 ベッドからだらりと垂れてきた蒼の手。その小さく柔らかい手を握ると、熱さに改めて驚いた。

「小さいころから、僕の手を握るのが好きだったよな」

「うん……なんだか、安心できる、から……」

 思い出されたのは、やっぱり幼かった僕たちの姿。

 遊びに行くとき、ちょっとでも不安なことがあると蒼は僕の手を掴んでいた。そんな蒼を引っ張って走っていくのが僕の役目、だったんだけど。

 四年半以上前のあの日を境に、完全に逆転して今までずるずる来てしまっているのが現実だ。

「良くない、よな」

 呟きは、虚空へと溶けていく。

 いつの間にか、握られた手からは力が抜けていた。部屋は暗闇に塗りつぶされており、聞こえてくるのは小さな寝息だけ。

 その手をゆっくりとベッドに戻すと、できるだけ音を立てないように蒼の部屋を後にした。

「あれ、兄さん。姉さんは?」

「さっきちょっと起きたんだけど、また寝ちゃったんだ」

「そうですか、そろそろ夕飯をどうするか考えようと思ってたんですが……しばらく後で良さそうですね」

「だな。僕はそろそろ帰るよ、蒼が明日の朝うちに来ようとしたら縛ってでもいいから止めてくれ」

「ふふっ、判りました。兄さんはそういう趣味だって姉さんに伝えておきますね」

「おっと違うぞ?」

 それから二人で小さく笑いあうと、帰ってきていた金江さんに挨拶だけして家に戻ることにした。

「あら、もう帰っちゃうの? 折角だし夕ご飯食べて行けば良いのに」

「いえ、蒼のこともありますし今日は遠慮させてもらいます」

「あらあら、そんな気を遣っちゃって。わかったわ、あの様子じゃ明日もお休みすることになると思うから」

「僕もその方がいいと思います。じゃあ金江さん、翠ちゃん、おやすみなさい」

「はい、おやすみなさい兄さん」

 早瀬家を後にすると、すっかり暗くなってしまった中を歩いて帰る。なんとなく昔のことを思い出しただろうか、心が落ち着かない。

「あっ、ようやく帰ってきた! おーい、お兄ちゃーんっ」

 だからだろうか、ここで聞こえないはずの声が聞こえるのも仕方ない。そう、きっと昔のことを思い出したことによる幻聴だ。

「ちょっと、聞こえてるでしょっ!? このままだと、近所の人からの印象が『後輩にお兄ちゃんって呼ばせてるヤバい人』になっちゃうよっ」

「いや、え? 何で道香がここに?」

 いや、幻聴ではなかった。

 僕の家の玄関の前には、見間違いようもない道香の姿。確か道香が僕の家まで遊びに来たことは無かったはずだ。

「ふっふーん、最寄り駅さえ判ればあとは片っ端から表札を見ていくだけだもん」

「えっ怖い……」

「あっちょっと本気で引かないでよ、悠先輩に教えてもらっただけっ」

「なるほど、あいつが犯人か。で、ウチまでわざわざ何をしに来たんだ?」

「蒼先輩、大丈夫そうでした?」

「あんまり元気ではなかったな。ただの風邪らしいけど、熱が高めだった」

「そうですか……心配ですね」

 道香は本気で心配そうな顔を見せた。どうやら蒼のことを心配しているのも本当らしい。

 数秒ほどして、今度は真面目な表情を見せる。

「そうすると、先輩のお世話をする人が居ないわけです」

「いや、一人でだって一応生きていけるくらいのスキルはあるが」

「だーかーらっ! わたしがお兄ちゃんの面倒を見にきたの!」

 道香は、僕のやんわりとお断りする言葉を無視して胸を張ってみせた。これは本気だ。

「うーん、気持ちは有難いんだけど……」

 僕のことを気にしてくれていること自体は嬉しいのだけど、なんだか申し訳なさが先に立つ。どう穏便に断ろうか言葉を考えていると、道香が耳打ちしてきた。

「後輩にお兄ちゃんって呼ばせてるヤバい人」

「よし道香、とりあえずうちに入れ。話はそれからだ」

 近所にこれ以上悪い風評が広まる前に、僕は慌てて玄関の鍵を開けた。

「おじゃましまーす。おお、思ったより綺麗」

「そりゃ、掃除はできるだけこまめにしてるからな」

 玄関で靴を脱いだ道香は、まるでしっぽを振る大型犬のようにテンションが上がっているのがわかる。そのままリビングに向かって電気を点けると、道香はぽすりとソファーに腰を落とした。

「で、本当に僕の面倒を見に来てくれたの?」

「もちろんっ。たまにはわたしにもお兄ちゃんのお世話をさせてほしいなって」

 楽しげな表情をしてこそいるものの、目だけは僕のことを心配してくれていると雄弁に語っていた。

 どうして、こんな僕のことを気にかけてくれているのかははっきり言ってわからない。何しろ、そもそもの蒼がいくら幼馴染とはいえやりすぎなのだ。

 それでも道香の気持ちを無下にしてしまうのはそれこそ申し訳ないし、なによりこうなった道香は満足するまで帰らないだろう。

 説得を諦めた僕は、頬をかくくらいしか出来ることがなかった。

「はあ、わかったよ……。だけど今日だけだぞ?」

「うんっ! じゃあ早速ご飯にしよっ」

 そう言うと、普段より一回りほど大きな鞄を開いてなにかの布を取り出す。身に着けて判ったが、それはかわいらしいエプロンだった。

「準備万端じゃん……」

「朝、お兄ちゃんからのWINEを見て準備して来たんだよ。もしかしたら、って」

「そっか」

 楽しそうな道香の顔を見て、具体的なツッコミは放棄した。

「材料が無かったら言ってくれよ、すぐ買い出しに行くから」

「大丈夫、ありもので作っちゃうから。冷蔵庫見せてね、お兄ちゃん」

「好きにしていいよ」

「はーいっ」

 キッチンにとててて、と走っていく道香。僕はそのままソファーに座ると、あまりにもいろいろありすぎた一日のせいか疲れ果てた頭を少し休ませることにした。



 蒼先輩が風邪を引いたと聞いて、最初はびっくりしました。

 でもすぐに、最近は寒暖差が激しかったので仕方ないと思い当たります。実際、わたしのクラスでも体調を崩してる人が何人か居ましたから。

 それと同時に思い浮かんだのは、お兄ちゃんの顔でした。

 もしかしたら蒼先輩が病気をしたことで、お兄ちゃんは気に病んでいるかもしれません。何しろお母様を病気で失っているわけですから、精神的なショックはあるはずです。

 そう考えたわたしは、鞄を一回り大きなものに変えてから一通りのお泊りセットと家事用品を持っていくことにしました。出番がないのであればそれに越したことはありませんが、逆に準備をし過ぎて損をすることもありません。

 ですが案の定、部活で会えたお兄ちゃんは落ち着かない様子でした。きっとあの様子では、心配で満足にご飯も食べてないのではないでしょうか。

 だから、お兄ちゃんが結凪先輩の配慮で帰った後に柳洞先輩に相談してみることにしました。

「あの、柳洞先輩」

「ん、どうした桜桃ちゃん?」

「お兄ちゃんの家の住所を教えてもらえませんか?」

「……ん、わかった。ほい」

「えっ、本当に良いんですか?」

 正直ダメもとだったのですが、あまりにもあっさり教えて貰えて拍子抜けです。ですけど、柳洞先輩はかわいらしく微笑んでこう言いました。

 この人も、普段は素直ではないのですが……きっと、お兄ちゃんのことをとても大切なお友達だと思っているのでしょう。

「今のあいつを一人にはできないだろ。んで、俺よりは道香のほうがきっと頼りやすいさ、あいつも」

 そうした結果、今わたしはこうやってお兄ちゃんの家のキッチンに立っています。

「えーっと、結構色々ありますね」

 冷蔵庫の中にはお肉とお野菜、それにいくつかの中華調味料があったので、中華風肉野菜炒めにすることにしました。

 普段から何かしらの料理をするのでしょう、でなければ調味料やお野菜もこんなに色々と揃っていません。

 どうして、こんなにお兄ちゃんのことが判るのか。

 どうして、これだけのことをしてあげたいと思うのか。

 それは、あの日の償いというだけではありません。

 胸の中に、ずっと温め続けてきた気持ちがあるから。

「これで準備はよしっ、と」

 野菜とお肉を食べやすく刻んだ後、熱したフライパンに油を落とします。本当は牛脂があれば風味が付いてより美味しいのですが、無いものは仕方ありません。

「ふんふーんふふーん」

 お兄ちゃんが美味しく食べてくれることほど幸せなことはありませんから、ご機嫌にフライパンを振るいます。

「ちゃんと綺麗に使ってるんだ」

 料理をしながら気付くのは、整理整頓がきちんと行き届いていることでした。キッチンもリビングも、目立つほこりや汚れはありません。

 はっきり言って、この家で一人暮らしするのは不可能と言ってもいいほど大きなおうちです。わたしのワンルームマンションと比べると、何倍もの広さがあります。

 そんな暴力的な広さのおうちをきちんと保てているのは、お兄ちゃんだけではなく蒼先輩の力があるからでしょう。

「……っ」

 そこまで思い至って、小さく胸が痛みました。

 うすうす気付いてはいましたが、この間の夏合宿で改めて感じてしまいましたから。

 きっと、お兄ちゃんはわたしのことをそういう目で見てくれてはいません。

 お兄ちゃんに再会してから、色々と頑張ってきました。積極的にお話もしたし、スキンシップだって取っちゃいました。

 少しどきっとしてくれたことこそありましたが、それでもやっぱり歳の近い妹を見るような目なのは変わらなくって。

「……あの時、言わなければよかったのかな」

 思い出したのは、この呼び方に戻した時のこと。

 お兄ちゃんよりは、センパイ、のほうが……そういう関係になりたいのであれば、よかったのかもしれません。

 それでも、あのとき勇気を出していなければいまだにお兄ちゃんとは敬語のままで、微妙な距離感は残っていたでしょう。

 そう考えると、今の距離感は……胸に甘い痛みこそ残しますが、心地よい距離なのも事実。

「っとと、焦げちゃう」

 考え事をしている間にも、無意識に手は動いてくれています。

 悩みのループから抜け出す前に、温かい湯気を立ち上らせる夕ご飯が出来ました。



「お兄ちゃん、ご飯だよっ」

「ん……蒼?」

「ちがいますー、道香ですーっ」

 肩を揺すられて意識が徐々に覚醒していく。どうやらソファーで意識を手放してしまっていたらしい。

 普段は誰かがやってくれるとしたら蒼だけど、今日来てくれているのは道香だ。

 寝起きで見た膨れる道香の笑顔は、どこか寂しげだった。

「っと、悪い。そうだったな、ご飯作ってくれてありがとう」

「いいんですー、そんなお兄ちゃんにはご飯あげません」

「悪かったって」

「判ればいいんです。さ、ご飯にしよっ」

 食卓からは食欲をそそられる良い香りが漂ってくる。この間の合宿のバーベキューの時にも思ったが、道香もちゃんと料理ができるみたいだ。

 二人で食卓につくと手を合わせる。

「いただきまーすっ」

「いただきます」

 何となく蒼のこと、そして過去の出来事を思うと食べる気が起きていなかった。

 そんな減退した食欲を無理矢理にでも刺激するその香りに負けて、一口食べる。次の瞬間、自分は空腹だったことを思い出した。

「お、美味い。ありものだけとは思えないぞ、凄いな」

「えへへっ、よかった。いっぱいあるから、気にせず食べてね」

 向かいの道香も、どこか幸せそうな顔でご飯を食べている。

「そんな幸せそうにして、どうしたんだ?」

「ん、ええっ? そんな顔してたかな」

 ちょっと恥ずかしがるように笑うと、すぐにさっきの幸せそうな、優しい笑顔に戻った。

「んーとね、理由はいくつかあるんだけど……やっぱり誰かと夕ごはんを食べているから、かな」

「確かに、それはありそうだ。今は一人暮らしなんだもんな」

「そうそう。一人で食べるご飯は、気楽だけどどこか寂しいんだよ」

 道香がたはは、と笑って見せる。

 一人で食事をする寂しさを、僕は嫌というほど知っていた。具体的な光景を思い出したくても思い出せないくらいの、心の奥底へしまい込むほどに。

 こんな僕でも食事の相手くらいにはなれるのが、なんとなく嬉しかった。

 結局、あっという間に料理を食べ尽くしてしまった後。

「ふう、ありがとな。おかげでお腹いっぱいになったよ」

「ならよかった」

「そろそろ帰るだろ? どうやって帰るんだ?」

 時計を見ると八時半。バスも鉄道もぼちぼち本数が少なくなってくるころだ。元々多くはないが。

「んー……今日、泊まってもいい?」

「そんなの親御さんが……許しそうだなあ、あの人たちなら」

 突然の道香の発言で思い浮かぶのは、何度もお世話になった道香のお母さんとお父さん。がはは、と笑う豪胆なお母さんに、線が細くて優しそうなお父さんだ。二人揃って道香のことを止めているビジョンが全く見えない。

「んー、そうすると部屋がなあ」

「お兄ちゃんの部屋に布団とか敷けないの?」

「残念ながらそこまでの場所はないんだよ。あんまりホコリが溜まっていない部屋は……」

 誰かが泊まれるような、ある程度きれいに保たれている部屋。一つ思いつくには思いつくが、あまり他人を泊めるのには向かない。

「天おばさんの部屋って、まだ残ってるの?」

 だから、道香がその部屋の名前を上げたときには思わず声を失った。

 その「向かない部屋」というのは、まさに母さんの部屋のことだったからだ。

「……残ってるよ。さすがに布団とかはもう綺麗にして別の所にしまってるけど」

「お兄ちゃんがもしよかったらだけど、見てもいい?」

「道香のことは母さんも可愛がってたしな。わかった」

 別に隠すつもりはない。

 それに、母さんを帰ってきた道香に会わせないのもなんだか違うと思った。

 僕は道香を連れてリビングを出ると、一番近い扉をノックする。いまだに僕は、この癖からは抜け出せていない。

「ここが、母さんが我が家で最後に過ごしてた部屋だよ」

 ゆっくりと扉を開くと、若干湿気てひんやりとした空気が漏れ出てきた。週に一回掃除をしているとはいえすこし埃っぽいその部屋は、今でも生を感じさせない。

「ここが……」

 電気を点けると、そこに現れたのは四年半前から変わらない部屋。いつ母さんがふと帰ってきても布団を敷けばすぐに暮らせる、そんな状態が保たれていた。

「……手を、合わさせてほしいな」

「うん、もちろん。母さんも喜ぶんじゃないかな」

 この部屋の状態と圧倒的に矛盾しているのが、母さんが生前使っていたテーブルの上に置かれた小さな仏壇だった。これだけが、母さんが使っていた時との大きな違い。

 この家は、母さんがまだ小さいころに建った家なのだという。その時に据えつけられたえらく立派な仏壇がリビングの片隅に鎮座している。

 僕の物心つく頃には亡くなっていた祖父母、つまり母さんの両親の居るその仏壇とは別に、当時の僕は小さな仏壇を置くことにした。そこに母さんの位牌を置いたら――本当に母さんが死んだことを認めることになる。そう考えた覚えがある。

 それは母さんの死をゆっくりと受け入れつつある今も、変える勇気が持てずにいる場所の一つだった。

 道香は近くに置いてあったライターで線香に火を灯すと、線香立てにゆっくり刺してから手を合わせた。

 たっぷり二、三分ほど待っただろうか。元々宅内用で短い線香は、既にその命の半分近くを燃やし尽くしている。

「そろそろ六年、なんだね」

 道香が小さく呟いた。母さんの死から六年。今年は七回忌とやらになることも意味する。

 その頬に小さく涙が走るのを見て、目をそらした。

 この線香が香る部屋の中で彼女が涙する姿を見てしまったら、きっと僕は涙をこらえることはできないだろうから。

「本当に、あれからすぐに亡くなっちゃったんだね」

「ああ。道香が発ってから一ヶ月くらいで最後の悪化があって、それからは病院だった」

「じゃあ……ここは、あの時間のタイムカプセルなんだね。今でも」

「タイムカプセルにしては物が少ないけどな」

 思えば、道香がここを離れる時くらいから母さんは部屋の整理をよくするようになっていた。古い洋服などは本当に必要なものを除いて捨てたり売ったりしてしまい、この部屋はただでさえ物が少なかったのにさらに減っていた。

 それに、最後に病院に向かった時の何かを察したような表情。今考えればきっと、何を遺していくのか考えていたんだろう。

 母さんが死んだ後も、確かに遺品整理などの手間はあまり掛からなかった。遺品整理が必要なほどの物が残っていなかったから。

 でも、その手間を掛けさせてほしかったというのが今の感想だ。

 だって過去の記憶のままの部屋が、僕一人でも維持できてしまうから。

 僕が心の傷に触れている間、道香も過去を見るように虚空を見ていた。

「……ん。お兄ちゃん、わたし今日はここに泊まるよ。天さんとの思い出、わたしも思い出したいから」

 だから、どこか作ったような笑顔で道香がそう言ったことに驚きは無い。

「いいよ。じゃあ窓開けておいて、さすがに線香臭いからね。布団持ってくるよ」

「わかった。ありがと、お兄ちゃん」

 道香が窓を開けて換気をしている間に、二階の物置になっている部屋から布団を持ってくる。布団を持って降りてきた頃には、埃と湿気による死の雰囲気はほぼ消滅していた。



 お兄ちゃんと手分けして寝床を準備してもらって、一通り家の中の設備を教えてもらってから天さんの部屋に戻ってきました。

 そのころには線香の香りもほぼ消えていて。この部屋は、いつ天おばさんが帰ってきてもおかしくない部屋に戻っていました。

「今晩はもうおやすみかな。お風呂、湧いたら最初に入っちゃっていいよ」

「わかった。お兄ちゃんの部屋は?」

「階段上った二階だ。階段に近い、正面の部屋だよ」

「じゃあ、お風呂上がったらノックするね」

「わかった、頼むよ。リビングの冷蔵庫の中の物は好きにしていいから、喉が渇いたらお茶とか勝手に飲んじゃって」

「ありがと」

 なんてことない、もはや業務連絡に近いお話もそろそろ終わりそうです。

「あ、あと一つ聞きたいんだけど」

 だから、今日お兄ちゃんの家に来てからどうしても聞きたかったことだけ。ひとつだけ、勇気を出して訊いてみることにしました。

「どうしたんだ?」

「……今日わたしが来て、迷惑だった?」

 これだけは、どうしても気にしていたことでした。お兄ちゃんにとってありがた迷惑になっていたのなら、今からでも謝らなくてはいけません。

 わたしの視線に気付いてか、お兄ちゃんは真剣に考えてくれたようで、しばらく考えてから答えてくれました。

「いいや、迷惑ではなかったよ。正直参ってたし、有難かった。でも……申し訳なかった、かな」

 その言葉には、想像していなかった言葉が入っていました。

「申し訳ない? どうして?」

 疑問を直接ぶつけてみます。だって、普段からお兄ちゃんは蒼先輩にお世話をされているはずですから。

 するとお兄ちゃんは恥ずかしそうに頬をかきながら言いました。

「だって、道香がこんな僕のために来てくれるなんて。過ぎた願いだよ」

「じゃあ、蒼先輩は?」

「蒼だって、正直こんな僕のために申し訳ないと思ってるんだ。早起きさせちゃってるし」

「そう、なんですか」

 どうやら、そこのチャンスは並列なようです。それなら、わたしにも。

「でも」

 一瞬希望を持ったわたしに叩きつけられたのは、あまりにも残酷な逆接の二文字でした。

 お兄ちゃんは、すごく悩みながら、言葉を紡いでいきます。

「多分、蒼は四年半前の約束を守ってくれているだけなんだ」

 それは、わたしが知りえなかったお兄ちゃんと蒼先輩の秘密。

 きっとお二人は、何かの約束をしているのでしょう。

 それに、その言い回しは……言外に、お兄ちゃんの気持ちが透けて見えるものでした。

「だけってことは……じゃあ、お兄ちゃんは蒼先輩のこと好きだったりしちゃうの?」

 だから。いけないとは判っていましたが、とっさに声に出てしまいました。

 聞きたくなんてありません。でも、訊いたことでお兄ちゃんの頬を少し赤く染めさせたうえで、窒息するような苦しい表情をさせてしまった以上。

 私には聞く義務がありました。とっさに口に出した罰を今から受けるのです。

「蒼を憎からず思ってるのは確かだけど……自分でも、はっきりとは判らないんだ。それに、少なくとも今は何かをするつもりもないよ。これ以上、蒼に迷惑を掛けるわけにはいかないから」

 はっきりとは判らないと言っても、その少し恥ずかしそうな表情が全てを物語っていました。

 わたしの読みは、残念ながら当たってしまっていたようです。

 膝が笑いそうになるのをなんとか押しとどめます。逃げ出したくなる足をなんとか押さえつけて、お兄ちゃんの前に立つのがやっとです。

 わたしは今、いつもの笑顔を浮かべていられているのでしょうか。自信がありません。

「そうなんだ。ま、蒼先輩面倒見良いし、なによりかわいいもんね」

「道香が訊いてきたんだろ?」

「いや、なんでもないんだよお兄ちゃん。そう、なんでも」

 開け放たれた部屋のドアから、小さくお風呂が湧いたことを伝えるメロディーが聞こえてきました。いつまでこうやって立っていられるか判らなかったわたしは、逃げるように大きなカバンごとひっつかんで、

「お風呂沸いたみたいだし、行ってくるねっ」

 逃げ出すように、お風呂へと向かいました。

 やっぱり綺麗に掃除されていたお風呂に浸かると、寂しさよりも困惑が先に立ちました。我ながら不思議です。

「お兄ちゃん、これ以上迷惑を掛けるわけない、って言ってたよね」

 間違いなく、蒼先輩のほうは迷惑だなんて思っていないでしょう。

 確かにぱっと見で判るほど好意をばら撒いてこそいませんが、間違いなくその気はあるのはよく見ればわかります。本人がちゃんと自覚してるかどうかは怪しいところですが。

「……っ」

 胸がずきん、と痛みます。鋭い痛みは、あの時の――四年半前の罰なのでしょうか。

 ……でも、わたしは蒼先輩も大好きでした。可愛くて、驚くほど優秀で、ちょっと素直になれないところもあって。なにより、優しくて尊敬出来る先輩です。

「先輩になら、いい、かな」

 いいえ、全く良くはありません。

 でも、こう思うしか……ありませんでした。

「どうしたらいいのかな。お兄ちゃんは思いっきり自己評価低いし、まだわたしにも見せてない何か抱えてそうだし……」

 このままだと、お二人は良くてそのままでしょう。二人を結びつけるには、何かが必要な気がします。きっかけとなるような、何かが。

 お兄ちゃんを少しでもその気にさせて、かつ、蒼先輩の気を引けるような何か。

 お風呂に使って考え始めると、一分も経たずにわたしの頭は答えに辿り着いてしまいました。

「……ある、じゃん」

 そう、一つ。とっておきの秘策を思いついてしまったのです。

 泣きたくなりそうな状況でした。

「わたしにしかできない、こと、が」

 つうっ、と一筋の涙が頬を伝いました。

 これをしてしまえば、多分一縷の望みすら失います。でも、少なくともお兄ちゃんには。運が良ければ蒼先輩にも……劇薬ではありますが、効果はありそうに思えました。

 幸せになって欲しいお二人には、これしか無いでしょう。

「やるとしたら……台湾、だね」

 そうして、三週間後の旅程を思い出しながら……寂しさを押さえつけながら。

 わたしは、計画を練り始めました。



 その日は、帰ってきたお母さんがどこか快活さに欠けて静かだった。

 何となく体調が悪そうだな、とは思っていたけど、当時の僕に確信なんて望めない。せいぜい、普段よりもいい子にすることくらいしか出来なかった。

「はあ、はぁ……よし、できたよ。はい」

 ご飯を作ってくれたけど、明らかに何かがおかしい。こんな料理を作るだけで息が上がっているお母さんなんて見たことがない。

「ねえ、おかーさん……大丈夫?」

「っ、大丈、夫」

 明らかに大丈夫そうではない返事だ。心配しながら食事をしていると、待望の鍵の開く音がした。

「ただいまっ、天、やったぞっ、新しく――」

 帰ってきた父さんは、とっても嬉しそうな声を上げていた。

 でも僕は、それどころじゃない。玄関まで走っていくと、お父さんの手を取った。

「おとーさんっ、おとーさんっ、おかーさんがなんか変なのっ」

「どうしたんだ?」

 慌ててお父さんの手を引いて、お父さんをリビングまで連れて行く。だが、ダイニングテーブルに座っているのが見えるはずの姿が見えない。

 いつの間にか、お母さんは床に崩れ落ちるように倒れていた。

「おかーさんっ!? ねえっ」

「おい、どうしたんだ天っ、大丈夫かっ!?」

 二人で呼びかけるが、返事はない。

「クソっ……!」

 お父さんが慌てて電話を手に取って、どこかへ電話を掛けている。明らかに何か良くないことが起きているのは、小学二年生だった僕にもわかった。

「はい、救急です! 住所は茨城県つくば市――」

 その間に、おかあさんの体を揺する。やはり返事はない。

 そうだ、こういう時は体温を測るのだ。いつもお母さんがやってくれていたように、おでこに手を当てる。

「っ!」

 明らかに熱い。人に触っているとは思えないくらいの熱さ。

 尋常ではないことは、すぐに判った。

「……ちゃんっ、……っ!」

 それと同時に、誰かの声がする。頼む、今すぐ母さんを病院まで連れて行くのを手伝ってくれ。

 ドアの外から、救急車のサイレンの音と光が近づいてくるのがわかる。

 その光が、どんどん眩しくなって――

「わっ、お兄ちゃんすごい脂汗だよ」

「……夢? いや、あれは」

「すっごいうなされてたけど、大丈夫、お兄ちゃん?」

 夢なんかじゃ決してない。あれは、記憶だ。

 今までは印象的な温度しか思い出せなかった解像度の低い思い出が、突然現代の映像になって頭に流れ込んできた感覚。

「……ついに、か」

 時々こうやって見る記憶はどんどん現代に近づいて、いつか見ることになるのだろうと覚悟はしていた。

 それでも実際に苦しい思い出を叩きつけられると……傍観者としての僕は何もできないのが、とても歯がゆく、苦しい。

 何しろ、この日が一つの大きな転換点になってしまったのを僕は知ってしまっている。

 そして、それが意味することはもう一つ。

 今までは温かい家族の思い出を見ていた。でも、ここからは。

「嫌な夢、見たんだね」

「……母さんが初めて倒れた時のことを、思い出したんだ」

「それは……蒼先輩が、倒れたから?」

「なのかもしれないし、じゃないのかもしれない」

「そっか」

 深く聞かず、心配そうな笑みを浮かべてくれた道香には感謝しかない。

 多分引き金になったのは、蒼の風邪だろう。でも、まったく寝た気のしない頭はそれ以上の思考を拒んだ。

「とりあえず起きるわ。道香も今日はウチから通うんだろ?」

「うん、そうするつもり。朝ごはん作って待ってるね」

 ばたん、と扉を閉じられると、僕は大きく息を吐く。

 あまりにも普段と違う朝に戸惑いながら、とにかく布団から這い出すことにした。

 だが、神様はどうやら僕のことが嫌いらしい。悪いことは重なるものだ。

 まず、蒼のお母さんから電話があった。熱は少し落ち着いてきたものの、相変わらず快復はしていないから今日も休むこと。

 そして、道香と一緒に向かった部活。オフィスエリアに入った瞬間、既に早朝から作業していたらしい悠が飛んできた。

「シュウ、まずいことになった」

「どうしたんだ開口一番?」

「昨晩判ったんだが……SMT機能に、また何かあるっぽいぞ」

「エラッタか?」

「ああ。特定の条件でデータが化ける。だけど条件はかなり限定されてるし、修正自体は難しくなさそうだ、どこを直すべきかは大体判ってる」

「でも、本番で起きうるんだろ?」

「……ああ。何らかの対応を取った方が良いのは事実だ」

「SMTを切ると?」

「起きない、エラッタはリタイア系のとこだ。特定条件でスレッド間のデータを取り違える症状だから、SMTを切っちまえば問題ない」

「RTL修正の『リグレッションテスト』は?」

 リグレッションテストとは、何かを修正した時にその修正が別の箇所に悪影響を及ぼさないか確認するテストのこと。今回で言えば、そのエラッタを修正して「エラッタがあったから動いていた」箇所がないか確認しないといけない。

 あまり考えられないかもしれないが、ハードもソフトも往々にして「バグのおかげでバグが発動せずに動いていた」ということがある。それを僕は、この部に入ってから嫌というほど学んできた。

 だが、悠の表情は優れない。

「砂橋にもWINEで聞いて見たんだが、コアの本体ならともかく新規実装部位のRTL実装を見れるのは蒼しか居ないって。蒼が復活しないことには、リグレッションテストどころか修正も……」

「そうか……マイクロコードじゃどうにもならない?」

「ああ、回路の問題に見えてる。宏もこれはどうしようもないって」

 マイクロコード、つまりCPUの中で動いているファームウェアで何ともならない。

 となると、修正するには既にフリーズを掛けてしまったRTLを変更するしかないということ。

 今僕に求められているのは、判断だ。SMTをオフにすれば動作に問題はないということは、手を入れないという選択もある。

 蒼の回復を待って修正を入れてから慌てて製造に回すか、もしくはSMT機能を諦めるか。

「妥協、か」

 全てが完璧なものが作れれば、それに越したことはない。

 それが叶わない時の判断は、とても重かった。

 逃げではないのか? という自分の声に蓋をして、僕はふわふわした決意を声に押し固める。

「よし、機能を殺そう。宏にSMTを無効化したBIOSを作るよう依頼しておく」

「わかった。……タイミングが悪かったな」

 悠の気を遣ってくれたコメントに苦笑いで返す。

 楽な方に流れたわけではない。これで動かないチップしか出来ないのが一番の問題だ。

 プロジェクトマネージャーとしては必要な判断だった。

 そう自分に言い聞かせるしか僕が落ち着く方法はなく。

 こうして、二つの悪いことが重なった九月二十日を終えた。

 気が気ではない中土日を過ごし、翌週月曜日の二十三日には蒼が復活して。

 市役所でパスポートを受け取るイベントに向かう途中、蒼にはSMTを無効化せざるを得なかったことを伝えた。

「……そう。仕方、ないわね」

 蒼のどこか悔しそうな、それでいて悲しそうな表情を見ると、僕の罪悪感が鋭く悲鳴をあげる。

 体調不良も絡んで、一番良くないタイミングでバグが見つかってしまったのだ。エラッタに関して傷を抱える蒼には、辛い話だったのは間違いない。

「いや、こんなに楽だったのは初めてだよ。時間があるって素晴らしいね」

 その翌日、九月二十四日には砂橋さんの物理設計が巻きで終了し、初めて僕たちはスケジュールを前倒しすることに成功した。使うボードの国際発送も製造期間中に済ませてしまい、なんなら一日部活を休みにしてまたみんなで勉強会を開催できるほどの余裕があった。

 そして十月五日、前期末試験を終えた翌日。

 初めて、プロセスにも設計にも妥協を重ねたCPUである「Melon Hill」プロセッサは完成した。

 パワーオンを済ませた後の確認作業でも、今までのように三日で全てを終わらせないと間に合わない、といったことはない。

 だから最終下校ギリギリまで作業をして慌てて帰るということもなかった。雑談が楽しくて下校時間ギリギリにこそなってしまうが、作業自体は最終下校の一時間前には切り上げている。

 それでも一日使える土曜日にパワーオンが出来て、余裕を持った設計が幸いして歩留まりも良く、バグチェックと長時間試験を並行して掛けることもできた。

 だから、全ての検証項目の確認すら八日火曜日には終わってしまい。

 時間を取って製造前のチェックもできたから、当然予想通り動作した。クロックも、当初予定していた程ではなかったが伸びた。コアの性能も、当初の予定は大きく割り込んだものの前世代と比べると向上している。

「ん、まあ、こんなもんか。いいんじゃない?」

 出揃ったデータを見ての砂橋さんのつぶやきが、僕たちの全ての感想を雄弁に語っている気がした。

 週の後半には、空いた時間を使って道香と狼谷さん作っていた台湾遠征のしおりが完成していよいよ本番への機運が高まる。

 それに、

「こないだの合宿の時もシュウが良い感じに発表出来てたし、今回もシュウ、よろしくね」

「おい待ってくれ、今回って、台湾で喋るのか?」

「もちろん英語だかんね。頑張ってね鷲流くん」

「自分はやらなくていいからって煽りやがって……」

 こんな適当な決め方で僕が話すことになってしまった、台湾での技術発表プレゼンに関しても嫌というほど準備と練習に時間を取ることが出来た。

「というわけで頼むわよ。もちろん質疑応答は私たちが手伝うから、そこは安心して」

「おお、よかった。それなら一安心だ」

 英語ですら不安なのに、さらに不安な細かな技術の詳細まで覚えて話すのは苦しいと思っていたから助かった。いや、決して助かってはいないのだが。死の淵だ。

「だから結凪も煽ってる場合じゃないわよ。物理設計まわりで質問が来たらあんたが話さないとなんだから」

「大丈夫。私が面倒を見る」

「げえっ氷湖!? ちょっ、お慈悲を」

「慈悲はない」

 だが、皆の表情は明るいが、どこか引っかかりを感じているように見えるのも事実。

 今回の開発は、結果的にとはいえかなり余裕を持ったスケジュールになった。

 仕方ないとはわかっている。きちんと動くものを、きちんと期限に間に合わせるのが一番重要なのだから。

 でも。

 どこか不完全燃焼に感じてしまう僕が居るのは、なぜだろう?

 きっと皆も、同じように感じているのではないだろうか?

 そんなもやもやした思いを抱えたまま、僕たちは十月十日の朝を迎えた。

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