【二巻後編】Over the ClockSpeed! Ⅱ B-1 Stepping

0x07 「メロンの丘」

「くあぁ……」

 目覚ましによって叩き起こされた僕は体を起こすと、熱線を浴びせ来る太陽を睨みつけた。今ならばケンカを買ってもいい気分。

「……はあ、起きるか」

 というわけでもなく、少しずつ覚醒しつつある脳は理性的だった。そんな無益な攻撃性に朝の時間を使うのは勿体ない。

 ベッドを這い出て久しぶりでもない制服に袖を通す。合宿の時に着ていたから、久しぶりにやる気を出すぞ! という雰囲気にもならず。

 今日は八月の二十六日。

 あの楽しかった合宿から帰ってきて二日、今日からは再び学校が始まろうとしていた。

 部屋を出て階段を降りると、リビングには人の気配。

「おはよ、蒼」

「おはようシュウ、ちゃんと起きれて偉いわね」

「そんな小学生みたいな褒められ方してもなあ」

「四月に始業式の日付を忘れてたのは誰だったかしら?」

「……お褒めの言葉ありがとう」

 そこには、ソファーに腰かけて緑茶をすする蒼が居た。くつろいだ感じで居てくれるのは、こうして朝から来てくれていることへの罪悪感を軽くしてくれる。

 今日の朝食は僕が準備する日。何を出そうか考えながらキッチンに向かうと。

「おーっと、私のことも忘れないでください兄さんっ!」

「うおっと、おはよう翠ちゃん」

「はいっ、おはようございます!」

 キッチンの影から翠ちゃんが飛び出してきて、そのまま飛びついてきた。翠ちゃんとこうやってちゃんと話すのはちょっと久しぶりだ。

 それにしても、何でこんなに元気なんだ? 普段はもう少し落ち着いているんだけど。

「ずっと姉さんは合宿で兄さんと一緒だったわけですし、今日くらいは朝をご一緒しようと思いまして」

「お、おう。うちはいつでも大歓迎だよ。じゃあ三人分だね」

 珍しくぐいぐい来る翠ちゃんと一緒に簡単な朝食の準備をする。

 目玉焼きと付け合わせのレタス、スープにトースト。なんてことない洋風朝ごはんだ。

「いただきます。……それにしても、兄さんはちゃんと朝ごはんを作るの偉いですね。男の人って、なんというかもっと雑なイメージありました、食べなかったり」

「いただきます、それは蒼のお陰だなあ。朝ごはんはちゃんと食べたほうがいいわよってさんざん言われたし、最初のほうはずっと作ってくれたから」

「シュウの生活リズムの改善の足しになってるなら本望よ。そらさんだって言ってたでしょ? 朝はちゃんと食べなさいって」

「……確かに、言ってたなあ」

 病床に臥せてからも、母さんは朝ごはんはちゃんと食べていきなさいと言っていた。だから、少なくとも母さんが入院してしまうまでは自然と自分で朝ごはんを準備して、母さんと食べていたのを思い出す。

 その記憶が、少し思い出としての色を持ち始めていたことと同時に、今までは思い出そうとしても出てこなかったイメージが出てきたことに自分でも驚いた。

「今じゃこんなんだから、私が時々面倒を見てあげてるのよ」

「……姉さん、まんざらでもなさそうにしちゃって」

「そっ、そんなことないわよっ」

「はーあ、まあいいんですけど。私も折角の兄さんの朝食を堪能しようと思います」

「そんな堪能するほどのものでもないけどね。美味しく食べてもらえて何よりだよ」

 姉妹漫才に笑顔を見せながら、少しだけ自分で自分のことが判らなくなっていることに気が付いた。

 ここ数か月で、僕を取り巻く環境も、僕の気持ちも変わりつつあるのは事実だ。だけど……

「……兄さん、そんな難しそうな顔してどうしたんですか?」

 翠ちゃんの声で現実に引き戻される。見れば、蒼も少し不安げにこちらを見ていた。

 そうだ、今はこの二人も居る。これを考えるのは、とりあえず後に回そう。

「ん、お、ああ。ちょっとな。気にしないでくれ」

「わかったけど、思いつめる前に相談しなさいよ」

「そうさせてもらうよ」

 蒼にそう返しはしたけど、こんな家庭――今は僕しか居ないが――の事情を相談するわけにもいかない。

 僕はそこで思考を隅に追いやって、食事を胃袋に落とし込むことに勤しむ。

 のどかな朝食の時間を終えて、片づけを済ませると出発に良い時間だった。

「姉さん、兄さん、行ってきまーす」

「行ってらっしゃい、翠」

「行ってらっしゃーい。さて、僕たちも行こうか」

 小さく手を振って中学校へと向かう翠ちゃんを見送ると、僕たちの足は駅へと向かう。

「そうね。悠は起きてるかしら?」

「一応寄るだけ寄ってみるか」

 向かいの悠の家のインターホンのボタンを押そうとした瞬間。

「んじゃ、いってきやーす……おっと、シュウ、蒼、おはよ」

 玄関のドアが開き、悠が出てきた。今日も相変わらず顔だけは可愛い奴だ。

 それに、ちゃんと始業式の日は覚えていたらしい。たとえ覚えていたとしても寝坊すると思っていたから意外だ。

「おお!? お前が始業式の日を覚えてるなんて」

「起き抜けに失礼な奴だな」

 不満げな悠に肘で突かれながら、三人で駅へ向かって歩き出す。

「日頃の行いがすべてだろ?」

「悠、今日はちゃんと起きてたのね」

「ん、まあな。部活もあるし」

「お前の口からそんな言葉が聞けるなんて……」

 本当になんてことない会話を交わしながら、のんびりと駅へ向かって通りを歩く。そこに夏休み前の緊張感は無い。

 だけど、僕は思ったより開発スケジュールが詰まっていることを知っている。

 何しろ大会はあと一ヶ月半後、いくら既存の設計を使いまわすとしても二回試作をするなら二週間後には製造をしないといけないのだ。

 何となくスケジュールとプロジェクトの進行状況を思い浮かべながら雑談をしているあいだに、僕たちは駅にたどり着いていて。

 一時間くらい朝の部活が出来る時間の列車に乗ると、見知った顔が乗っていた。

「あれ、先輩方にお兄ちゃん。おはようございますっ」

「おはよ、偶然だね」

「これの次だとほとんど部活出来なくなっちゃうからねっ」

「それもそうだったな。四十分後だし」

「みんな部活のモチベーションが高くて良いことね」

 こうして、ばったり出会った道香と一緒に登校する。三両の列車だから降りたあとで合うことはしばしばあるけど、偶然同じ車両に乗っていたのはなかなかの確率じゃないか?

 そのまま四人で部室棟に入って、事務エリアに顔を出す。

「おいーっす」

「おはようございますっ」

「おはよー、ちゃんと部活に来て偉いぞー」

「そりゃ来ますよっ」

 そこには既に砂橋さんが来ていた。こっちを向くまで、相変わらず雑然とした本と紙に黒い毛玉が埋もれているようにしか見えなかったのは言わぬが華だろう。何かの妖怪みたいだ。

「おはよう」

「お、狼谷さんもか」

 それから、ラボのほうからにゅっと顔を出してきた狼谷さん。合宿前にテストチップの製造を流していたし、それのデータ取りかな。

「私は、通学時間二分だから」

「正直羨ましいな。ゆっくり寝てられそうだ」

 前に製造装置が止まってもすぐに駆けつけられると言っていた狼谷さん。

 なるほど、寮暮らしだから起きてすぐに学校に来られる訳だ。正直羨ましいという気持ちはある。

「シュウはそう言って二分すら間に合わず遅刻するんでしょ」

「それは……強く否定できないのが悲しいところだ」

 そんな雑談をしながら作業を進め、朝の部活の時間は過ぎていく。

 夏休みの終わりを告げる、地獄のような暑さの体育館で始業式を終え。

 無意味に長いホームルームを経て、ようやく学校が再開したのだという実感が湧いてきた。

 もちろん、放課後にはまた部室に集う。

「シュウ、ボタンを押してくれ……俺には、もう、耐えられないんだ……!」

「ったく、ほらよ」

 泣きそうな悠が僕にスマホを差し出す。

 そこに表示されているのは、結構有名なアイドル育成ゲームのガチャ画面。悠の表情は、断腸の思いと言うのがふさわしいような苦しそうなものだった。

 そこに表示されている「十回引く」のボタンを押してやると、一瞬で画面が切り替わった。ああ、これはドブったな、可愛そうに。

 ソシャゲのガチャを回して爆死する、それもまた日常の一つだ。

「かーっ白封筒かよ、やっぱ出ねえ! 排出率三パーセントは嘘だろこれ!」

「いくら溶かしたんだ?」

「んー、今のところ三万くらい?」

「結構やってんなあ」

「甘いぞ悠、天井まで回せば出る」

「突然の真理はだな……」

 三人で顔を見合わせて笑う。このクソみたいな時間が、かけがえのない尊い日常――

「って違う、そうじゃない! ナチュラルにソシャゲやってる場合じゃないんだっての!」

「そうだぞー、ソシャゲやってる時間的余裕はないぞー。アタシはともかくあんたたちはやることいっぱいあるでしょうに」

 完全に遊びの思考に切り替わる寸前に何とか踏みとどまることができた。

 朝思い返していた通り、あまりスケジュールに余裕はない。

「ちっ、弘治も正気に戻っちまったか。しゃーないな、進めるとするかあ」

「俺もそうしよ。これ以上リアルマネーを溶かすのはな」

「最初からちゃんとやってくれ」

 最初の試作を始めるのが来週の木曜日の予定だから、今週中にはある程度めどを立てておく必要があるのだ。

 だからこいつらの爆死ガチャに付き合っている時間はない。

 馬鹿二人の隣を立つと、まずは蒼の状況を聞いてみることにした。大丈夫だとは思うけど、CPU甲子園の時にはかなり追いつめられていたから、気を遣っても遣いすぎるということはないだろう。

「蒼はコアの改良だったよな? 状況はどう?」

「この間のSunnyfieldコアが基本ね。面積がそんなに増やせないから悩んでたんだけど、結局実行ユニットとデコーダまわりに手を入れて『SMT』を実装することにしたわ。コアの名前は……そうね、Melonfieldとでもしましょうか」

「SMT、って何だっけ?」

「同時マルチスレッディング、の略ね。IntechだとUltra Threadingとかって名前で呼んでる技術よ」

「そういや読んだな。実際のCPUコアは一つだけど、プログラムからは複数コアがあるように見せかけるんだったっけ」

「そうそう。一つのコアに今は複数の命令実行ユニットやメモリアクセスのユニットが入ってるから、余ったものを有効活用しようってアレね。正直性能が上がるかどうかは本番のベンチマークが判ってない以上博打なんだけど」

 最近のCPUは、ハイパースカラと言って一つのコアに複数の『実行ユニット』、実際に計算を行う回路を持っている。

 一つのプログラムだけだとそのすべてを使い切れないから、一つのコアで複数の処理を並行して行うことによってその実行ユニットを効率よく使い切るのがこのSMT、同時マルチスレッディングという技術だ。

 それだけ聞くと、性能が下がる理由は無いように聞こえるんだけど。

「どういうことだ? 性能が下がることもあるのか」

「ええ、そうよ。複数の命令実行ユニットがあるって言ったけど、同じ種類のユニットの数は限られてるわ。例えば今回のMelonで使ったSunnyfieldコアでは命令を実行するユニットが四つあるけど、整数の簡単な処理なら全部のユニットで出来るの。でも、複雑な掛け算、割り算や小数点の計算、あとはトランジスタをたくさん使うSSE命令の実行ユニットなんかは二つずつしか積んでないのよ」

「ってことは、複数のプログラムを同時に走らせたとしても、整数の単純な計算以外が多いとその一つしかないユニットを食いあうから遅くなるってことか」

「その通りね。性能測定のコードを事前にもらえるならそれに応じた設計ができたりするんだけど、それは望み薄だし」

「だろうな。テープインは来週木曜だけど、実装自体は間に合いそうなのか?」

「ええ、Melonのデバッグも終盤戦になってからは開発の時間も取れたし、今週金曜には諸々の改良を終えて結凪に渡す準備ができる予定よ。物理設計で来週を使う感じね」

「わかった。改良点はそんなところ?」

「いや、あとはもう一か所あるわ。今まではキャッシュメモリがコアごとに別れていたじゃない」

「ああ、そうだったな」

 この間のMelonでは有りもののコア二つを一つにまとめただけ。

 構造としては、CPUコアがばらばらに外付けの『拡張チップ』を結んでいたバス、通信路に二つのコアをぶら下がる形だった。

 片方のコアが拡張チップを使ってる間にもう片方のコアはデータを持ってくることができないから、あまり美しくない方法だ。

「それを統合して、今回は四コアで一つのモジュールにしてしまうつもりよ。さすがに四つのチップを一つのバスにぶら下げるのは良くなさそうだったから」

「ってことは、また性能は上がりそうだな」

「んー、懸念点は全くないわけじゃないわ。でもまあ、今はどうしようもないんだけど」

「一応聞いてもいいか?」

「メインメモリにデータを取りに行くバスは大きく増えないのにコアを増やしても、今度はメモリが律速しちゃうんじゃないかって。ちゃんと計算してないけど、『MIH』の限界が近い気がするのよ」

「あー、データを持ってくるところか、確かに。メモリコントローラは今拡張チップの方だし」

 この拡張チップは、Memory and I/O Hubという名前を持つ。蒼が呼んだように普段は頭文字を取ってMIHと呼ばれる、JCRAのIPの一つとして提供されているチップだ。

 MIHはその名前の通り、コンピュータをコンピュータとして動作させるのに必要な『メインメモリ』の制御をするメモリコントローラーや、グラフィック処理を担う『GPU』を接続するためのバス、それにUSBなんかの制御回路も搭載された半導体だ。

 メモリコントローラーが入っているということは、当然プログラムやデータの本体を置いておくメインメモリもこの拡張チップに繋がっている。

 メモリの制御とかを細かく考えなくていいからCPU本体の設計は楽になるんだけど、一つのコアからならともかく四つのコアからデータを要求するとなると、その拡張チップと僕たちのCPUの間でデータを転送する速度が足りるか不安になるというわけだ。

 この拡張チップと僕たちの作ったCPUは専用の通信路で結ばれているんだけど、その速度を極端に上げることはできない。同時に送れるデータの量である『ビット幅』は決まってるし、一秒間に何回送れるかという周波数も、IPで提供されている既製品な以上ある程度上限があるからだ。

 無理して動かすとデータが壊れたりチップの動作がおかしくなるから、あまり無茶をさせるわけにはいかない。

「そう、そこなのよね。本当はメモリコントローラを内蔵しちゃいたいんだけど、今からだと無理だから……次のチップを作るときに検討かしら」

「チップに内蔵しちゃえば、ある程度こっちの好きにできるもんな」

「そのぶん設計も難しくなるんだけどね。特に物理」

「それはご愛嬌ってことで。でも良かった、何とかなりそうで」

「ん、大丈夫。まずそうだったら早めに言うわ」

 そう言って笑顔を見せてくれた蒼からは、この間設計していた時の焦りを感じない。多分あの感じであれば大丈夫だろう。

 次は誰に声を掛けようかな、と思って席を立つと、小さく袖が引かれる感覚。

 誰だろう? と思ってそちらを見ると、狼谷さんだった。

「ん、どうしたの狼谷さん?」

「ちょっと相談したい。いい?」

「いいよ。どうしたの?」

「とりあえず来て」

 狼谷さんの後をついていく。向かった先はラボで、そこには既に砂橋さんと道香もいた。

「やっほー鷲流くん。呼び出しちゃって悪いね」

「お兄ちゃん、いらっしゃーい」

「いや、どっちにしろ話を聞きたいって思ってたからな。それにソシャゲで散っていく哀れな奴を眺めるよりはよっぽど効率的な時間の使い方だし」

「あー、また散ったんだ。柳洞くんのほう?」

「今日はそうだな、悠が散ったよ」

「あーあ……柳洞先輩の諭吉は何人討ち死にしたの?」

 道香の認識が既に諭吉を消し飛ばしていることになっていて思わず笑ってしまう。あながち間違っていないのがまた恐ろしいところでもあるのだが。

「三人くらいらしいぞ。って違う、その話をするために集まったんじゃないんだ」

「っと、そうだったそうだった。今ね、新しいチップの物理回りをどうしようかってアタシたちで話し合ってたんだよ」

「物理回りって言うと?」

「アタシの物理設計と氷湖の製造、それに道香のサブストレートまでだね」

「今回は実際のシリコンのサイズが大きいから、サブストレート内の配線の引き回しに気を使いそうなんだよ」

「あー、なるほど。サブストレートのサイズは変わらないからシリコンの割合は高くなるもんな」

 今回のチップは、CPU甲子園に参加した道香のボードに手を入れずに動かす予定だ。だから物理的な大きさや形状なんかはこの間のMelonと同じにしないといけない。

 一方で、半導体チップ、いわゆるシリコンのサイズは二倍くらいの面積になる見込み。

 だからシリコンとボードを結ぶサブストレートの設計をし直さないといけないけど、どうやらこれも一筋縄ではいかないらしい。

「ついでに氷湖はデザインルールなんかも変えたいみたいだったから、その辺も含めて今三人で話し合ってたんだよ。で、ひと段落したから一応情報共有しておこうと思って」

「そういうことか。よし、頼む」

「まずはデザインルール。基本的には今までとプロセスは一緒だけど、安全を見て緩く設定してた各種パラメータを少し追い込んだ値にした。これで密度も少し上がるし、周波数も上がりやすくなるはず」

「良品率は十分以上だったもんな」

「ん。その分、消費電力の削減と高速化に振りたい」

 狼谷さんの表情は自信に満ちている。この改良に関しては、間違いなくできると思っているのだろう。もちろん、性能が上がる改良に僕が反対する理由はない。

「いいと思う。賛成だ」

「あとは、もう一つ。『ゲート酸化膜』の厚みを薄くして、トランジスタの高速化をさらに進める」

「ゲート酸化膜?」

 聞きなれない単語が出てきて疑問符を浮かべると、すぐに砂橋さんが解説を入れてくれた。

「そ、トランジスタを蛇口にたとえたとき、実際に水を出したり止めたりする栓の役割をするところだね。蛇口の取っ手にあたる『ゲート電極』に掛かる電圧によって、水を出したり止めたりする実際の制御を行うとこ」

「このゲート酸化膜が厚いと、トランジスタのスイッチング速度が遅くなる。ONからOFFに、OFFからONにする時間が」

「逆に言えば、そこを薄くすると高速化ができる、か」

 これは、トランジスタの動作を根本的に早くする改良のようだ。そんな魔法のようなことができるのであれば、もちろん取り入れるに越したことはないだろう。

「そう。スイッチング速度が上がるということは、クロックを上げやすくなる」

「そんな魔法のようなことができるんだな。ちなみに今はどれくらいの厚さなんだ?」

「90nmの時の寸法と同じだから、厚みは1.8ナノメートル。これを、1.3ナノメートルにする」

「い、1.3ナノ!? そんなに薄いのか」

 出てきた数字は想像も出来ない小ささだった。ゲート幅が確か35ナノメートルだったはずだけど、そのさらに二十分の一だ。

「多分、今の半導体の中で一番サイズの小さい加工はこのゲート酸化膜ですよね」

「そう。とはいえ、露光して削って作るわけじゃなくて、表面にコーテイングみたいに一様に付けるだけだから、難易度は違う」

「確かに露光してそれを元に加工する制御とコーティングの厚みを制御するんだったら後者のほうがやりやすいか。それでもまさに『ナノテクノロジー』、って感じだけど」

 本当にナノメートル世界の加工が行われているのを改めて感じさせる。

 体感するどころか、特別な顕微鏡を使わないと見えないサイズではあるけど。

 微細な世界に思いを馳せていると、道香が不安そうに手を上げて質問をした。

「そういえば氷湖先輩、そこまで薄くして『ゲート・リーク電流』は大丈夫なんですか? 商業のチップだと確かIntechがそれでかなり痛い目を見てましたけど」

「ゲート・リーク電流?」

「ゲート酸化膜は、制御するためのゲート電極を実際の電流が流れるソース、ドレイン間から絶縁する役目もあるんだよ。だけど、それを薄くしすぎると十分に電気を遮断することができなくなって、ゲートからもドレインの方に電流が流れちゃうの。このことをゲート・リーク電流っていうんだよっ」

「つまりは、薄くしすぎると余計な電流が流れるようになるってことか」

 どういう現象が起きるのかは道香が教えてくれた。

 本来ならばオン・オフを制御するための電圧だけかけられれば、電流は流れる必要のないゲート。しかし絶縁膜を薄くしすぎると、そこを通り抜けてゲートから電流が流れてしまうのだという。

 そんな僕たちを見ていた砂橋さんが、いつもの楽しそうな笑顔で道香から話を継いだ。

「にひひ、そうそう。『トンネル効果』、って聞いたことある?」

「ああ、なんだっけ? 原子の壁に別の原子がぶつかり合ったとき、ごくまれに通り抜けちゃうみたいな話だっけ」

「そそ。天文学的な数字だけど、そこのドアにアタシが体当たりしてオフィスエリア側に無傷で突破できる可能性はゼロじゃない、みたいな」

 確かトンネル効果って量子力学とかの話で、現実に起きるのは天文学的どころか限りなくゼロに近いみたいな話だったはずだ。

「それはなんとなく知ってるけど、それがどうしたんだ?」

「これがね、それなんだよ」

「お、久々に出たな砂橋さんの謎例え」

「ちょっと、謎って言わないでよ」

「だって量子力学だろ? 実際のモノで起きるなんてそんな」

 久しぶりの砂橋さんの謎な例えに笑うと、砂橋さんは不服そうにむーっ、と膨れた。かわいらしさに道香の頬も緩んでいる。

 それから数秒。砂橋さんは少し考えるようなしぐさの後、指を立てて、またいつものように楽しげな表情に戻った。

「鷲流くん、問題です。このゲート酸化膜の厚みは?」

「さっき言ってたよな? 1.3とか1.5ナノとか」

「そ。それって、原子幾つ分だと思う?」

「……そうか、もうそういうサイズなのか」

 確かに、よく考えてみたら一ナノメートルなんて原子何個分、といったサイズ感覚だ。であれば、元素単体内部の振る舞いを考える学問である量子力学の領域に突入しているのも無理はない。

「そ。原子で大体六個弱とかかな? そんな厚みなんだよ。だから、このトンネル効果で電子が通り抜けちゃう確率がそれなりにある」

「量子力学の話が現実的な確率になるのか……」

「そうそう。で、厚みが薄くなればなるほど原子の層は薄くなるから」

「電子が通り抜ける、つまり電気が流れてしまう可能性が高くなる、ってわけだな」

「ん、せーかい。そして、それが消費電力に直結しちゃうんだなあ」

「一つ一つは小さくても、如何せんトランジスタの数があるもんな」

「1.5ナノメートルのSRAMチップを試作してみたけど、そこまで極端に悪くはない。だから、1.3ナノメートルと1.5ナノメートルに変更したMelonを作ってみている」

「実際のものに近い設計のチップでどうなるか、か」

「ん。今日から流すから、来週木曜日には電源を入れられる予定」

「でも来週木曜って、ちょうどテープインの日ですよね?」

「そう。だから最初の試作ではトランジスタのプロファイルが違う二種類を作る予定」

「保険、ってことか」

「そう。少なくとも1.5ナノメートルの方は動くと思う」

「わかった。砂橋さんと道香ちゃんも、来週木曜テープインで電源投入は九月十六日予定のままで大丈夫そう?」

「一応聞いておきたいけど、蒼は何だって?」

「大丈夫そうだって。金曜にはRTL上がるってさ」

「お、スケジュールえらい余裕……じゃないけど、よっぽど下手なのが出て来ない限りは大丈夫だと思うよ」

「わかった。道香は?」

「シリコン側の出力ピン一覧は砂橋さんから貰ってるので大丈夫かな。何とかテープインの日までには発注かけられるように頑張るよっ」

「よし、じゃあ大丈夫か。三人ともよろしくな」

「ん。こちらこそよろしく」

 ひらひらと手を振ってオフィスエリアに戻りながら、今まで報告を受けた内容を頭の中でまとめる。

「後やらないといけないことは、っと」

 蒼の論理設計もOKだ。物理組からもGOサインが出てるし、悠と宏は大丈夫だろう。ということは、今やらないといけないことはなさそうだ。

「おお、意外と順調だったのか」

 合宿のおかげで一週間前の進捗はあまり確認できていなかったけど、意外とみんな順調だったらしい。幾つか懸念事項はあるけど、逆に言えばそれだけだ。

「どう? 物理組は」

「順調そうだったよ。氷湖がまた新しいことに挑戦するからそれ次第ではあるけど」

「なら言うことないわね。そういえばシュウ、パスポートは作った? パスポートがないと台湾には行けないわよ」

「っと、それを忘れてた。蒼は?」

 一番大事な準備を忘れていた。皆パスポートを持ってるとは限らないし、パスポートの準備をしないといけないのだ。このままだと、少なくとも僕は台湾に行けない。

「私も行けてないのよね。せっかくだし、どこかで時間を取って行ったらどうかしら? 平日しかやってないし、みんなで行ってもよさそうね」

「そうするか。んー、来週の金曜とかか? テープインが無事に出来たらだけど」

「タイミング的にはばっちりね。確か役所の窓口が十六時で閉まったはずだから、金曜はちょうどいいかも」

 うちの学校は月曜と金曜だけ六時限、それ以外は七時限。

 六時限が終わってから最短のバスに飛び乗れば、パスポートセンターのある役所のあたりには四十五分ごろには着けるはず。ちょっとギリギリではあるけど、なんとかなりそうだ。

「んじゃ、そうしよう。写真とか準備してる時間は無さそうだから、前に準備しておかないとな」

「そうね。皆にも声掛けておいて」

「おう、WINEでも流しておくわ」

 皆に声を掛けると、帰ってきたのは好意的な返事。これで、十月頭の大会に向けた準備は整いつつある。

 迎えた九月八日、テープイン予定日の開発会議も、初めてのペースで進んだ。

「まずは論理設計ね。この間のMelonをベースにしたMelonfieldコアを四つ載せたデザインよ。Melonは後付けで二コアにしたからキャッシュとかもバラバラだったけど、今回は綺麗に統合したわ」

 画面を見ながら話しているのは、先頭バッターの蒼。改良内容の説明を聞いた宏はにやりと笑った。

「足回りの地道な改善もしたのか、派手さはないけどいいことだな」

「あとは、実行ユニットを五ポートに増やしたわ。特に浮動小数点とSSE対応の演算器をそれぞれ三つに増強してるから、IPCはさらに上がるはずよ。さらにSMT技術も実装したから四コア八スレッドで動いて、一ギガヘルツで動かした時CPU甲子園と同条件で7.7GFLOPSってシミュレーション結果が出てるわ」

「改めて聞くと、遠いところまで来た感じあるねえ」

 蒼のスライドを見た砂橋さんが、しみじみと遠い目をしながら呟く。

 確かに、IP大会のSand Rapidsと比べると性能差は十二倍弱。ルールやチップの面積も違うとはいえ、かなり高速なチップになっている。

「ってわけで、ルールも生かしてだいぶ大規模なチップに仕上げたわ。シミュレーションももちろんオッケーだったから、論理設計チームとしてはGOよ」

「それじゃあ砂橋さん、物理設計のほうはどう?」

「まっかせて、一辺がルート3ギリギリの正方形の中に約四億二千万トランジスタを詰め込んでやったよ」

「やっぱり四コアにもなってくると回路規模は大きくなりますねっ」

「足回りが足を引っ張るんじゃないか、って蒼の懸念を受けて限界までキャッシュ用のSRAMを詰め込んだからね。トランジスタのプロファイルは、いままでのをそのまま使っても三.四ギガヘルツまでは動くと思う。前回と同じだね」

「おお、ってことは実測で夢の20GFLOPSを余裕で超えられるってことか」

 台湾の代表は20GFLOPS弱で、僕たちはこのまま上手くいけば26GFLOPSほどまで達する計算だ。いい成績も期待できるだろう。

「今のところはね。実際のチップの素性次第なのは今までと一緒。後の諸々は蒼と同じく全部オッケー、氷湖に渡すだけ。ってわけで、物理設計もGO」

「狼谷さんはどうだ?」

「新しい65nmプロセス、65nmプラスって呼ぶけど、今のところはまだ模索中。論文を読みながらゲート酸化膜を調整している。プロファイルはこれ」

 話を引き継ぐように狼谷さんが画面を出す。表示された数字を見る限りでは、前回のプロセスより若干の改良、といったところだ。

「ゲート酸化膜一.五ナノメートルで四GHzらへんまでは回るのか。とはいえ消費電力がちょっと高めか?」

 悠が顎に手を当てて唸る。資料の数字を見ると、CPU甲子園の時に使ったプロセスよりも一割ほど消費電力が高いようだ。

 一週間前と同じく狼谷さんにも若干の懸念はあるらしく、表情は変えずに小さく頷いた。

「懸念はやっぱりそこ。だから、Melonのマスクでゲート酸化膜の厚みだけを変えたチップを作った。今日これからパワーオンして、確認する」

「それの結果次第で今後のプロセスを決めるってことね。わかったわ」

「下手すると物理設計に手を入れないとだから、できるだけ早めに決めてほしいところはあるかな。少なくとも二十日には終わってないと苦しい」

「それまでには準備する。プロセスチームは、条件付きでGO」

「条件って何だ?」

 条件、に引っかかったらしい宏が確認を入れた。狼谷さんは表情を変えずに返す。

「いくつかパラメータを変えたシリコンを同時に作る。本番用のチップまでほとんど時間がないから、その中で選ぶ形にする」

「なるほど、合理的だな。シュウ、本番用のB-0っていつだっけ?」

「テープインが二十七日で完成が七日だ。これでも出立まで後ろが三日しかない、前期末試験採点期間をアテにした超地獄スケジュールだぞ」

「うへー、またテストもあんのか」

 頭を抱える悠。前回のテストこそ何とかなったけど、今回も何とかなるとは限らない。

 何しろ夏休みを挟んでいるからそれまでの内容が頭から飛んでいる。

「あれ、待てよ? 答案返却のタイミングの方が台湾大会より後だよな? ってことは補習食らっても今回は問題ないじゃん」

「確かに、天才かな? ならいいか、アタシも今回はそこそこでいこーっと」

「台湾大会はそうだけど、修学旅行帰ってきてすぐ補習漬けよ?」

「結凪。やる」

「ううっ、わかった……」

 狼谷さんの短い言葉に詰め込まれた圧に負ける砂橋さん。僕はもう一つのイベントのことを思い出していた。

「そうか、台湾大会から帰ってきて僕たちはすぐ修学旅行か」

「十四日に帰ってきて、十五日からは修学旅行」

「げ、そんな日程になってるんだっけ。忙しいなあ」

 大学受験があるからだろう、うちの高校は二年生で修学旅行に行く。

 日程のことは忘れていたけど、砂橋さんの言う通り十月はかなり忙しくなりそうだ。

「そっか、先輩たちは修学旅行ですもんね」

「道香だけ残して行っちゃうのは心苦しいけど、連れて行ってあげることも出来ないのよね」

 どこか寂しそうに言う道香に、優しく声を掛ける蒼。

 大会から帰ってきてすぐに僕たちが居ないのは申し訳ないけど、こればかりは仕方がない。

「っと、そうだったスケジュールの話だった。道香のサブストレートは大丈夫?」

「大丈夫、昨日発注済みだよ。ボードも準備出来てるし、GOっ」

「よし。後は何かあったかな」

「そういや、こいつの開発名をずっと後回しにしてたな。決めなくていいのか?」

「っと、忘れてた。そうだな、じゃあ……」

 ふと思い出したのはCPU甲子園の翌日、打ち上げの時に山のように積まれたメロンキャラメルだった。

 Melonをベースに作ったプロセッサだし、マウンテンだとさすがにちょっとオーバーだから……丘、くらいにしておくか。

「Melon Hillとかどうだ? メロンの丘」

「なんか美味しそうな名前ね」

「元々がメロンキャラメルだしな。いいんじゃね?」

「じゃ、賛成の人挙手」

 なんだか反対意見はあまりなさそうだから、民主主義に則ってみる。

 みんなはあっさり手を上げてくれたから開発名はこれで決まりだ。

「よし、じゃあMelon Hillの最初のチップの製造を開始するぞ。狼谷さん、よろしくね」

 僕の声を聴いて小さく頷く狼谷さん。スケジュールに関しても、性能的にも思ったよりも良い状況で製造に入ることができそうだ。あと伝えないといけないことは――

「っと、そうだ。個別には言ってたけど、多分忘れてそうだからもう一回言っとくな? 明日の放課後はパスポートを作りに行くから、部室じゃなくて校門集合だ。六時限直後のバスに乗らないと間に合わないから急いでな」

 記憶の片隅に追いやられていた事務事項を思い出して、皆に伝える。

 パスポートを作るのは初めてだからちょっと楽しみだったりするのは内緒だ。

「戸籍謄本と写真、それに学生証と保険証を忘れないでね」

 蒼がみんなに持ち物を改めて伝え直すと、皆は楽しげに頷いてくれた。

「ん、ばっちり準備してあるぜ」

「柳洞先輩が準備済みなら、みなさん大丈夫ですねっ」

「お、もしかしてディスられてる?」

「日頃の行い」

「うっ、否定できねえ」

「じゃあ、今日の開発会議はここまで! 解散!」

 あっさり終わった開発会議の後は、蒼の代わりに諸々の部の運営の雑務をこなす。

 部長の蒼はさらに高速化の種をまいておくために論理設計に掛かりきりになっているから、これも重要な僕の仕事だった。

「んー、とりあえずこんなもんか」

 明日できるものは明日に伸ばして休憩していると、狼谷さんがトレーを手に入ってきた。気付けばもう日は沈んでいる。

「お、お帰り。製造は走らせた?」

「ん。ついでに試験製造が終わった試製Melonを持ってきた」

「じゃあ電源投入か。手伝うよ」

「あ、アタシも気になる」

 そんな砂橋さんと狼谷さんと一緒にラボに入る。

「まずは新チップ、一.三ナノメートルの酸化膜の方から」

「わかった、こっちだな」

 道香謹製の強力な電源回路を持つボードに狼谷さんの試作チップを載せて、巨大な冷却装置を載せてシステムの準備はできた。

 それから、温度や電流、電圧といった各種データの測定機器を接続して、電源投入の準備が整う。

「BIOSはそのままでいいんだっけ?」

「専用のを準備してもらった。もう書き込みは済んでるから、電源を入れて」

「よし、じゃあ電源入れるぞ」

 コンセントを刺すと今までと同じようにシステムが立ち上がった。いつものようにBIOSのログが画面に流れ始めたから、最初の動作は問題なさそうだ。

「とりあえず起動は大丈夫そうだね。専用BIOSってクロック固定?」

「そう。起動時のクロックを100MHz、一倍に固定してある」

「わざと落としてるのか」

「どこまでクロック周波数が上がるか判らないチップだからね。とりあえずは間違いなく起動してほしい低クロックで動かして、負荷を掛けながらどこまでクロックが上げられるか見る感じかな」

 納得の方法だ。これなら確実に、どこまで動くかというラインを見極めることができる。

 話を聞いている間にマシンは起動を完了して、狼谷さんは早速CPU甲子園でも使った重い負荷のプログラムを走らせ始めた。

 クロック周波数が低いからかそこまで発熱もないみたいで、CPU甲子園の時のようにファンが轟音を立てて回ることはない。

「んー、さすが百メガヘルツ動作。遅いね」

「性能は普段の三十分の一。仕方ない」

「負荷はばっちり掛かってるみたいだな。それでもこんなに静かなのか」

「消費電力も全然だね」

 負荷を見ると、CPU使用率は当然百パーセント。とりあえず、低いクロックでは問題なく動いてくれるようだ。

「これから、クロックを上げてく」

「ん。温度と電力は見ておくよ」

 それから、そろりそろりとキーボードを叩いて周波数を上げていく狼谷さん。百メガヘルツずつクロックは無事に上昇していって。

「3GHz」

 ぱちり、とエンターキーの音が響く。動作は続いているが、僕たちの方は冷や汗だ。

「……温度も消費電力も、ちょっとギリギリかも。ボードの定格は大丈夫なんだっけ?」

 CPU単体の消費電力計に目をやると、百六十ワットを記録していた。

 本来のMelonよりもクロックは低いのだが、消費電力がMelonの最大値と比べても二割ほど高い。

「ボード定格は全然余裕だから、まだ行けそう。どっちかっていうと熱がダメかも、このCPUって温度センサちゃんと入れてるんだっけ? なんかソフト読みの温度がおかしい気がするんだけど」

 僕と一緒に温度計と消費電力計を睨んでいた砂橋さんが、目線を機器に向けたまま大きなCPUクーラーを指さす。狼谷さんは相変わらず平坦に答えた。

「設計は変えてないから入ってはいる。ただ、その値を元に『サーマルスロットリング』や『サーマルトリップ』はしない」

「スロットリングって何だ?」

「温度や消費電力がチップの上限に近いときに、壊れないように自分で周波数を下げて消費電力を落とす機能がスロットリング。特に熱に関して行われるスロットリングが、サーマルスロットリングって言う。サーマルトリップは、限界温度ぎりぎりまで過熱した時に焼損を防ぐため自動でシステムの電源を落とす機能」

「なるほど、ってことはもしかして壊れるまで温度が上がるのか?」

「そう。正確な温度を測れるサーマルセンサをシリコンに入れるのは難しいから、ファンの制御に使うくらいならともかく、システムが落ちてしまうサーマルトリップは大体どこも諦めてる」

「温度センサは精度が必要だからねえ……」

「ってことは、この外付けの温度センサだけが頼りか」

「そうだね。それにしてもこの消費電力か、うーん……」

 CPUクーラーには、CPUと接触する面に温度センサを取り付けてある。その温度は今のところ八十度弱、もう少し行けそうに見える。

 ただ、砂橋さんの表情は少し不安そうだ。

「次、3.1GHz」

 狼谷さんの数字を読み上げる声と同時に、ぱちり、ぱちり、とキーが押されていく。

 周波数がどんどん上がるにつれて消費電力は増えてゆき、緩やかに温度も上がっていくが――

 それは、一瞬だった。

「3.9GHz」

 狼谷さんの穏やかな声が聞こえ、キーボードを押し込むぱちり、という音が響いた瞬間。

 僕の鼻には、いつか嗅いだことのある臭いが――

「エマストっ!」

 測定機器を見ていた砂橋さんの声に弾かれるように、ボードを載せているフレームに取り付けられた赤いボタンに手が伸びる。

 システムの電源を強制的に落とすその緊急停止スイッチを押す直前、薄い煙の向こうに見えたマシンの画面は動かなくなってしまっていて。

 ばちん、という無機質な音と共に、システムの電源は落ちた。

 嫌な臭い――あの、半導体の焼ける匂いと共に。

「……『死んだ』、かな?」

 言葉にし辛い嫌な臭いの中、数秒流れた沈黙。

 それを破ったのは砂橋さんだった。

 少し呆然としていた狼谷さんは、その言葉で意識を取り戻したように動き始めてくれた。

「わからない。電源再投入してみる、復帰を」

「わかった」

 狼谷さんがコンセントを抜いたのを確認してから、僕はエマストボタンをもう一度押して緊急停止状態を解除する。

 狼谷さんが電源を刺し直した瞬間、LEDはちかちかと瞬き、そしてファンが回る前に消えた。

「あー、こりゃやっちゃったねえ」

「これが……いわゆる焼損、なのか?」

「そう。自らの発熱に耐えられなくて、半導体が自分で自分の回路を破壊しちゃったの」

 IP大会やCPU甲子園で見たけど、どこか他人事だと思っていたこの故障。

 しかし、実際に試験チップとはいえチップが動かなくなってしまった。あの発煙は、あの匂いは他人事ではないことを知ってしまったのだ。

 僕がその事実に呆然としている間、砂橋さんと狼谷さんは早速原因の討論を始めていた。

「あの瞬間、急に消費電力が三十ワット増えたよ。氷湖、やっぱり1.3ナノメートルだとリーク電流馬鹿にならないって」

「……とりあえず、今のデータの限界近くで、『VPPレール』に電力制限を掛ける。どう?」

「まあ……それが回避策としてはベストかな」

「一応、道香を呼んでくる。ちょっと待ってて」

 そう言うと、狼谷さんはラボを後にする。65nmプロセスを開発していた時ほどの悲壮感はないけど、平坦な表情の中に少しの落胆が見て取れた気がした。

「焼損って、本当ですか!? ……って、本当みたいですね」

「穏やかじゃない臭いね」

 出て行ってすぐに、蒼と道香を連れて狼谷さんは帰ってきた。連れてこられた二人も早速、部屋の中に立ち込める臭いに顔をしかめている。

「二百五十ワット程度までは無敵だと思ってたんですが……」

「ダメだったねえ、熱抵抗諸々を考えた時に多分限界だったんだと思う」

「あー、『ヒートスプレッダ』に『TIM』もありますもんね」

「結局、放熱が追いつかないくらいの発熱をしちゃったから壊れた、ってことか」

「端的に言えばそうなるわ。それにしても……凄い消費電力ね」

 電力系のログを見ていた蒼が呆れるように言った。

 実際、消費電力はピークで三百ワット以上に伸びていた。この間のMelonでも、Sand Rapidsでも見たことのない消費電力なのは間違いない。

「ん……思ったよりも、リークが酷い」

「その割にはクロックも上がってないからね。ちゃんと動いた限界が3.8GHzでしょ?」

「それはちょっと、微妙ですね……」

「わかってる。この問題にキーになりそうな技術も何となく思い当たってはいるけど、多分間に合わない」

「お、今回は何とかなりそうなのか?」

 この間とは違い、すぐに解決策として使えそうなものは思いついているらしい。

 狼谷さんは相変わらず、表情を変えずに平坦な声で言った。

「『HKMG』と言って、非常に特殊な素材をゲート絶縁膜に使ったうえで金属素材でゲートを作ると、そもそもゲートを薄くしなくても性能が上がって、リーク電流が大幅に削減できる」

 でも、と言葉を置いてから狼谷さんは話を続ける。前提条件が何かあるようだった。

「絶縁膜用の特殊な素材に、商業チップはハフニウムを使うということくらいは知っている。けど、具体的な組成はどこも公開していない」

「そりゃ、こんなのガチガチの社外秘だろうからね……」

 そもそも、ハフニウムなんて物質をまともに聞いたことがない。今から一か月半後の大会までに狼谷さんだけで何とかするというのは不可能だろう。

「そのハフニウムとやらは、JCRAに扱いは無いのか? 今そうやって商業でも使ってるなら、あってもおかしくはないんじゃないか」

「無い。そもそも、HKMGが開発されたのは四十五ナノメートルのプロセスだったから、その世代の装置すら扱いがない」

「う、そんな最近なのか」

「最近って言っても、Intechの45ナノなんて二〇〇七年とかでしょ? だいぶ前の技術ではあるんだけど……まあいいや」

 JCRAでも無いとなると、正直お手上げだ。狼谷さんのプロセス改良計画の一つ、ゲート酸化膜の改良は、少なくともアジア大会までに目標値を達成するのは難しそうだ。

「それはまた、今後の目標。とりあえずは、1.5ナノの方で試す。道香、電圧レギュレータのファームを更新して最大電力を二百五十ワットに制限できる?」

「いいですよ、『パワースロットリング』は出来るんでしたっけ?」

「賢くないけど可能。現在の消費電力が電源回路が供給できる最大電力の九十五パーセントになったら、動作周波数を下げる」

「わかりました、ではCPUにも最大電力の通知をちゃんと入れますね」

 それから専用のツールをボードに接続しては、わちゃわちゃと何かを操作する狼谷さんと道香。

 その間に僕は、焼けてしまったCPUを取り外して新しいものに付け替える。

 表面には放熱用の放熱板が付いているから、焼けてしまったことは外見だけではわからない。でも取り上げて顔との距離が近づくと、さっきの焦げた臭いが強く鼻をついた。

「頑張った結果、壊れちゃ仕方ないよな」

 零れ落ちた言葉は、どこか欠けている僕の心に軽い痛みを与えてから溶けた。紙で指を切ったような痛みとともに、懐かしさを覚えたのはなぜだろう。

「お兄ちゃん、こっちは準備出来たよ」

「っと、ごめん。ぼーっとしてたや」

 電源回路の準備は終わったらしい道香の声で、僕は現実に引き戻された。慌てて別のパラメータで作ったCPUを載せる。

 それから別チップの方の電源投入をして、簡単な動作チェックまでして。

「ん、やっぱり圧倒的にリークは少なさそうだね。まだ1GHzとはいえ」

「0.2ナノメートルの違いなんですけど、こんなに差が出るんですね」

「っと、そろそろ時間ね。今日はここまでにしましょう」

 この日の活動はお開きになった。



 翌日、九月の八日。

 昨日まではさんざん降り続いていた雨が、今日は突然止んでいた。

 つまりは、さんさん照りの太陽が熱線の絨毯爆撃に勤しんでいるわけで。

「死ぬ、溶けるよ鷲流くん。早く冷房のある部室にだね」

「そうしたいのは山々なんだけどなあ」

 そして僕たちはその苛烈な残暑の中、校門に立ち尽くしていた。

「校門の柵、めっちゃ熱くて笑ったわ」

「何でお前は触ろうと思った?」

「金属だし冷たいかなって……」

「脳まで溶けちゃってますね、先輩たち……」

 校門に集まってへばっているのは、僕と宏と悠の普通科組に砂橋さんと道香。

 二年生の計算機工学科は最後の授業が選択授業だったらしく、蒼と狼谷さんはまだ来ていない。

 それにしても今日は暑い。雨は傘が必要になるから面倒だとしても、太陽さんサイドは少し出力を抑えてくれてもバチは当たらないだろう。

 汗で張り付きそうになるシャツにばたばたと風を送り込んで少しでも涼を取ろうと試みる。

 入ってきたのも熱風だった。

「……マジで暑いな。シュウ、帰っていい?」

「帰ったらお前を川に流してやるからな」

「美少女(男)の川流れか……」

「元のことわざを凄惨なまでに無為にしてますね。河童に祟られますよ?」

「んじゃ、こいつを川に流して新潟の人びっくりさせるか」

「よりにもよって阿賀野の川なんだ、涼しそうだしアタシも流されよっかな……」

「警察が事件性を見出しそうだな」

「迷宮入り待ったなしだね、冷房に頼り切った先輩方の末路」

 そんな外の暑さに匹敵するほど脳の溶けた意味のない会話を交わしていると、何とか正気を保っている僕も仲間にされそうだ。

「そういえば宏、お前パスポートなんて持ってるだろ?」

 だから、灼熱地獄の中ソシャゲのデイリー消化に勤しんでいた宏に声をかけてみた。

 宏は地味に色々なところに行っている旅行好きでもあるから、パスポートなんて持っていると思ったんだが。

「あるけど、それがどうかしたのか?」

「いや、お前は外出るの嫌がらないんだなって。見ろよあそこで溶けてるやつを」

 そう言って脳がゆで卵になりつつある悠と砂橋さんを指さす。宏もあっち側かと思ってたけど、そういえば意外とこいつはタフなんだった。

「あー、まあ旅に出てると暑いも寒いも言ってられないからなあ」

「何だかんだお前、外出るのは嫌いじゃないのな」

「旅好きが出不精なわけないだろ、普通の人よりちょっと家の中が好きなだけだ」

「つくづく変な奴だ」

 妙な属性は持っているし、引きこもりのくせに旅好き。こいつの中の矛盾を取り出したら物理法則なんてたやすく瓦解しそうだ。

「誉め言葉だな。ってか、パスポート持ちが行かないなら桜桃ちゃんもじゃんか」

「ん、でも道香も行くって言ってたはずだけど」

「お兄ちゃん、呼んだ?」

「うおっ、近いよ道香」

 にゅっ、と肩越しに僕の目の前に顔をのぞかせてくる道香。

 溶けている液体二人のお守りをしながらこっちの話はきちんと聞いていたらしい。

「なんか間近でやられるとやっぱり殺意沸くな。爆発しろ」

「何でだよ……」

 それを見ていた悠に謎の殺意を抱かれながら、ちょっとだけ距離を取った道香に話を振る。

「今、パスポートの話してたんだよ。僕は持ってないけど、道香は持ってるよな?」

「うん、もちろんっ」

 道香はそう言って胸ポケットから紺色のパスポートを取り出す。

 なんだかパスポートって、その言葉の響きももちろん、パスポート自体の見た目も格好いいと思う。

「って、道香がパスポート持ってるのは当たり前か。ついこの間までアメリカにいたわけだし」

「うん。ほら、これがパスポート」

「あれ、もう切れたんじゃないのか?」

「海外でも、領事館で申請すればパスポートの更新ってできるんだよ」

 ついでに、そのページには見たことのない道香の写真。アメリカにいる時に撮ったんだろう。

「おお、初めて見る道香だ」

「あっ、ちょっと! そっちの写真はお兄ちゃんは見ちゃダメっ」

 懐かしく思って見ていると、気付いた道香に隠されてしまった。

「懐かしいな、って思っただけなんだけどな……」

「だって、あんまり可愛く映ってないし」

「顔もそうだけど、雰囲気とかもちゃんと今に通じるものがあるよな。なんとなく、昔の面影が今より強い気がする」

 それを聞いた道香の表情は、とっても複雑で。困ったように、そしてどこか悲しいような笑顔を見せた。

「そりゃあ、同じ人だもん。通じてるとこがなかったら怖いよ」

 でも、すぐにいつもの笑顔へと戻る。

「……? それは確かに、そうだな」

 ちょっと気になったけど、やはり道香は普段通りに戻っているように見えたから深追いはしなかった。

 そんな姿を見ていた宏は、これみよがしにため息をついて言う。

「ったく、これだから弘治はな。ま、オレもついて行くよ。面白そうだし」

 突然呆れられて、はっきり言って僕は困惑する。

 とりあえず何か言葉を返そうとしたところで、ぱたぱたという足音と共に狼谷さんと蒼が走ってくる姿が見えた。

「お待たせみんなっ、準備はいいわね」

「ごめん。最後の授業が伸びた」

「これで全員だな。バスの時間もあるし行こうぜ」

 二人が走ってきたタイミングに救われてしまった。

 でも、宏のため息はどういうことだったのだろう。その意図はつかめないまま。

 とりあえず渦巻く思考を暑さに溶かしながら、みんなでバス停へと向かう。僕はほとんど使わないけど、確か砂橋さんは雨が降る日にこのバスを使っていたはずだ。

 部活がない人が帰る最速のバスとあって、それなりの列がある。到着したバスはその列を全て吸い込み、車内はまるで東南アジア体験ツアーのように蒸し暑くなった。

「人間暑すぎんか? 周りの人間の体温二度とか三度とかにならないかな」

「冬場は間違いなく凍結しますね」

「逆にその微妙な温度を維持できるのも凄いわ。断熱材の中で寝たら冷蔵庫の完成ね」

「人間用水冷クーラーが、欲しい」

「それはもう冷房でいいんじゃないでしょうか? なんなら冷たいシャワー浴びましょうよ、源泉かけ流し水冷クーラーですよ」

 どうやら狼谷さんもあまり暑いのには強くないらしい。暑さで狼谷さんらしくない粗雑なボケを、キラキラした目で道香が一刀両断している。

「おーい砂橋さん、全てを放棄してぼーっと立ち尽くすのは死んだかと不安になるからやめてもらってもいいか」

「アタシはもう熱暴走しそうだよ」

「脳みそをサーマルトリップさせないでくれ」

 そして砂橋さんは壊れかけていた。

 そんな風にバスの中でも脳みそが湯だった会話にツッコミを入れながら、大体二十分ほど。

「ようやくだ……外もクソ暑いけどバスよかマシだ……」

「いやーそんなことないぜ悠、外も地獄だ」

「早く市庁舎に入っちゃいましょ。えーっと、こっちね」

 ようやくバスを降りた僕たちは、道路を渡るとお城の方へと向かう。

 幸いなことに市役所は大通りから離れていない。数分もせずに、レトロな見た目の市役所に辿り着くことができた。

 玄関のガラス張りのドアを入ると、そこは天国。

「はああぁーっ、文明最高」

「役所に来て第一声がそれな女子高生、わりとどうかと思うわよ」

「でも、そう言いたくなっちゃう気持ちもわかりますね」

「ああ、涼しくて快適だ」

「っと、そんなゆっくりしてる暇はないんだったな。えーっと、パスポートコーナーは……あっちか」

 冷房に感動して動きを止める皆を引き連れて、市役所の一角のパスポートコーナーへとやってきた。早速みんなで書類を埋めていく。

「パスポートの申請自体は個人個人だから、各自書き終わったら申請に行っちゃってちょうだい」

「はーいっ」

 書く内容自体はなんてことはない。五年旅券にチェックを入れて、名前や年齢といった個人情報を埋めて。

「そもそも外国行ったことないから刑罰もないし、と。出発予定日は今年の十月十一日」

「できた、お先にっ」

 順調に埋めていると、さっそく書き上げた砂橋さんが一番手で窓口へと向かっていった。

「宏ー、このサインの欄ってやっぱ漢字の方が良いのか?」

「盗られたときに悪用されづらいのは漢字とは聞くけど、今回行くのは台湾だから正直あんまり関係ないな。まあ、個人の趣味で良いと思うぞ」

「わかった。とりあえず漢字で書いとこ」

「道香。本籍は、どこになる?」

「えーっと、住民票の本籍地ですね。この只見の住所を書いてください」

 一方、皆からは既にパスポートを持っている宏や道香に時々質問が入っている。やはりこういう時に経験者が居ると心強さが違うな。

「へえ、杉島君もパスポート持ってるのね。今みたいなアドバイス助かるわ」

「いいってことよ。ささ、早くいかないと窓口が閉まっちまうぜ」

 そんな豆知識を聞きながら、最後にサインをして、と。

「うし、行ってくる」

 砂橋さんに次いで二番手で窓口に向かう。申請自体に難しいことはまったく無くて、必要な書類を全部渡して内容を確認してもらったのち、いくつかの質問に答えるだけであっさりと終わった。

 申請の終わった僕と入れ違いになるように、残りの皆も申請窓口に向かっていく。

「こんなにあっさりとしてんだな」

「海外に渡航するための証明だからねっ。そんなに面倒にしても意味ないし」

「道香の言うとおりだな。それにしても、海外かあ」

「どう? お兄ちゃん。楽しみ?」

「そりゃ、もちろん」

「そっか。ならよかった」

 道香のその言葉は、多分に過去の自分への後悔を含んでいる気がした。

 道香も、僕がこうやって部活でいろいろな活動を楽しんでいるのを喜んでくれているのだろうか。

 そう思ってくれるのは嬉しくて、同時に――どこか、申し訳ないと思ってしまった。

「何だよ、道香は楽しみじゃないのか?」

「ううん、そういう訳じゃないけど……何でもないっ」

 そんな機微を察されるわけにもいかないから冗談めかして返すと、こちらもまたなんだか奥歯にモノが引っかかったような言葉で濁す道香。

 普段ならもうちょっと元気に返してくれると思うんだけど。

「どうしたんだよ、何からしくないな。体調でも悪いのか?」

 らしくないな、と思って顔を覗き込むと、道香はばっ、と振り返ってしまった。よく見ると、ちょっと顔が赤かったような気もする。

「だ、大丈夫だよお兄ちゃんっ、私は元気だからっ」

 そのまま顔を明後日の方向に向けてしまう道香。確かにその声は元気だけど……

「ふいー、終わった終わった。ってお二人さん、どうしたんだ?」

 なんとなく感じた違和感が拭えないうちに、悠が帰ってきてしまった。

 僕たちの微妙な様子を見て投げかけられたなんてことない質問に、

「わひゃあっ!? いっ、いえ柳洞先輩! べべ、別に何でもありませんよ?」

 道香はめちゃめちゃにどもっていた。

「そうなのか?」

「おう。まああえて言うなら、道香の様子が少し――」

「わーわーっ、だから何でもないのお兄ちゃん!」

「……そうか。ま、ほどほどにな」

「ち、ちょっと待ってください! 何を考えたのかは判りませんが多分柳洞先輩が考えたようなことじゃないですっ!」

 悠に文句を言う姿は、確かに普段通りの道香だった。僕が気にしすぎだったのかな。

 もちろん、答えを教えてくれる誰かがいるわけではない。

 間を空けずに皆も続々と戻ってきて、全員分の申請が終わったところで学校に戻ることにした。バスの時刻表はスマホで確認して、涼しい市役所から出るのはギリギリにして、だ。

「申請から八業務日以降ってあるから、実質二週間ってとこだな」

「受け取りは九月の十八日以降だったから、再来週だね」

 学校に向かう方のバスはそんなに人が乗っておらず、行きのような地獄を味わうことがない。そんな静かなバスで、僕はさっきの道香の姿を思い返していた。道香は一体どうしたのだろうか?

「んー、製造が終わってちょうど初期評価中ね。最短で取りに行く必要は無いし、二十三日とかがいいかしら。どう、シュウ? ……ちょっとシュウ? 聞いてるの?」

「うお、っと。どうしたんだ蒼?」

 また思考の迷路に飛び込みかけていた僕は、蒼に軽く肩を叩かれて現世に戻ってきた。

 見ると、蒼が不思議そうに顔を覗き込んでいる。

「どうしたんだ? じゃないわ、こっちが聞きたいくらいよ。どうしたのよぼーっとしちゃって」

「いや、なんでもないんだ。ちょっと考え事」

「そう? ならいいんだけど」

 安心した表情を浮かべる蒼をなんとなく直視できなくて、僕は目をそらす。

 その行動がさっきの道香とよく似ていることには、自分で気づくことができなかった。

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