0x05 もう一度、手を繋いで
次の日、三日目。
「……っ、こんなもんか」
必死に脳内で回路図を展開して、圧縮して、シンプルになった回路図をHDLに直して、出力する。
残処理に等しい箇所とはいえ、脳内の計算資源をフルに使っての作業をしながらの指示出しはあまりにも骨が折れる作業だ。
ちらりと時計を見ると、もう予定締め切り時間の午後三時が近い。今日の五時間耐久地獄がついに終わりを迎えようとしている。
一方で、僕たちが使っている会議室の中は阿鼻叫喚の様相を呈していた。
「終わった、今HDLをプッシュ済」
「よーし、じゃあ狼谷さん次百三十二番お願い! 蒼、状況どう?」
「ちょーっと手間が掛かるわねこれ。思ったより複雑だったわ」
「わかった。宏! そのタスクは一回手を止めていいから蒼を手伝ってあげてくれ。多分最後の仕事だ」
「あいあいさー。早瀬、いまやってるのはどこだ?」
宣言通り、昨日と同じスタイルで片っ端から気になるところを潰していく。今日は一日、技術者の人と討論すらせずひたすらに改良作業だ。
今日は午後三時までこの修正と改良の作業を行ったあと、残りの時間は改良によって致命的なバグがないかの確認と性能と電力のシミュレーションの準備に回す予定になっている。
今のところ、進捗は悪くないはず。作ってもらったチェックリストを見ている限りでは、最低でも数パーセントの性能向上と消費電力の軽減ができているはずだ。……本当の結果は、今晩動かすシミュレーションの結果が出る明日の朝まで分からないのが怖いけど。これが半導体の怖いところで、自分たちが改良したことでどれだけ改善したのかがリアルタイムに分からない。未来でも見えれば楽なんだろうけど、さすがに無いものねだりがすぎるか。
「お兄ちゃん、終わりっ」
「道香は百五十一番をよろしく、最後の仕事だよ」
「ん、わかったっ」
「俺もだっ、次は?」
「悠は……百二十二番、これが終わったら終わりだ」
「っし、ようやく終わりだなっ」
みんなに仕事を割り振るのもそろそろ終わりにしないと、この後の時間が伸びちゃうな。
巻き取った仕事の量も減っていって、ようやくこの地獄のような時間が終わりに近づいていることを体感できるようになってきた。
そして予定時間を二十分ほど過ぎた十五時二十分頃、ついに待ち望んだ声が上がる。
「っし、ようやく終わったあーっ! もう二度とやんないっ」
「はあ、疲れた……」
砂橋さんと雪稜さんのペアが一抜けで仕事を終えたらしい。その周りには、昨日からの累積で何百枚ものコピー用紙が積まれている。
結構意外なことに、砂橋さんは論文を読むとき以外でも、結構紙とペンを使って思考をするみたいだ。この期間中、何度も紙とペンの補充をお願いされたし、何かを紙に書きつけている姿を昨日今日とよく見たしな。
確かに部室でも紙の塔に囲まれていたけど、てっきりあれは全て論文とかだと思っていた。
「お疲れ様、じゃあそれをコミットしてプッシュしたら終わりだね」
「万全だよ。その辺は抜かりなく、ね」
「よしっ、いいね。その紙どうする? もう要らないならまとめてシュレッダーしておこうと思うけど」
指さしたのは、そんなコピー用紙で出来た塔。
なにしろ、一部とはいえNEMCエレが開発している最新チップの回路が含まれている紙だ。機密情報まみれなものをそのままにしておくのはさすがにまずいよな。
そんな雑用も請け負おうと思ったんだけど、砂橋さんは思案顔。
「んー……雪稜さん。ちょっといいですか?」
「おっと、僕かな? なんだい結凪ちゃん」
「えっと……」
ちょうど見に来てくれていた雪稜所長に話しかけると、部屋の隅でなにかこそこそと話し始める砂橋さん。
話を聞いている雪稜所長の表情は、なんだかとても嬉しそうに見える。
「ん、そういうことなら。いいよ、とりあえずはここに置いておこう」
「ってことだから鷲流くん、所長命令でここのコピー用紙は一枚たりとも捨てちゃダメだから。シュレッダーなんてもってのほかだかんね」
「お、おう。わかったよ」
珍しく、ちょっと圧を感じる視線を砂橋さんから感じながら頷く。別に捨てないといけないわけじゃないし、仕事が減るだけだからいいんだけど。雪稜所長もにこにこと笑っているし、問題ないんだろうな。
「だぁーっ、ようやく終わりだ。もう俺の仕事はないよな?」
「終わったよー、お兄ちゃん……」
「鷲流くん、これで私も終わり」
そんな一幕に続いて、残りの皆も続々と終了報告をしてきた。お願いしていた仕事に完了のチェックを入れて、と。
「よし、みんなお疲れさま。休憩してていいよ、お茶とお菓子は――」
「はっはっは、もう準備してありますよ。さあ、ご自由にどうぞ」
雪稜所長と和重技師は昨日と同じようにおやつを準備してくれていた。お湯の入ったポットやインスタントコーヒー、紅茶なども揃っている。
自分の割り当てを終えたみんなが休憩に入る中、あと一つのタスクだけを焦れるように待って、さらにその五分後。
「お待たせシュウっ、これで終わりよっ」
「もう、ゴールしてもいいよね……?」
「蒼、宏、お疲れ様。確認はこっちでやっておくから、休憩してていいよ」
気合を入れたようにエンターキーを叩く蒼と、よくわからないセリフを口にしながらばったりと机に倒れこむ宏。
これで、辛くあまりに密度の高い開発の時間はついに終わった。
蒼と宏が疲れたように立ち上がるとお茶の方へ向かうのを見て、僕も最後の仕上げに入ることにする。
バージョン管理システム、いわゆるHDLのようなコードを管理するシステムから最新版のHDLをダウンロードして、ブロックごとにおかしな動作をしないか確認するための回路、『テストベンチ』と合わせてシミュレーションに掛けていく。エラッタを減らすために絶対に必要な作業だ、その重要性はエラッタに悩まされたMelonで身に染みている。
パタパタとキーボードを叩きながら作業を進めていると、キーボードの前にことり、とコップが置かれた。紅茶の良い香りが嗅覚を刺激して、画面から意識をそらす。
「ん、ありがとう……蒼」
そのカップを差し出してきた手の先を辿ると、蒼の優しい笑顔があった。
なんだかこちらが気恥ずかしくなるようなほど幸せそうな笑顔に、思わず目をそらしてカップに口をつける。
「お疲れ様、シュウ。そろそろ終わるでしょ?」
「ようやくだよ、あと十五分もすればかな。蒼もとりあえずテストを流し終わるまでは休憩だ」
「ほんと、ようやくね。月曜はどうなるかと思ったけど、意外と悪くない感じになりそうじゃない」
「どうなんだろうな。僕的にもそんなに悪くないとは思うんだけど、正直わからない」
ちょっと弱気な本心をこぼすと、蒼に背中を軽くぺしん、と叩かれた。
「大丈夫よ。シュウがもし自分のことを信じられないなら、私が保証するわ。明日の朝このチップのシミュレーションを見て、シュウは絶対安心するから」
「……蒼がそう言ってくれるなら、大丈夫なのかな」
結局のところプロジェクトマネージャーだから虚勢を張ってただけで、まだ自信がないんだ。この部活に入ってようやく四か月、ある程度わかるようになってきたからこそみんなとの知識や経験の差は埋めようがないことを毎日実感している。
確かに面白さを感じているのも事実。それでも、母さんがやっていたこと――そして、親父の背中はあまりにも遠く感じているのも、また事実。
だから、いまだに僕が主導したチップに自信が持てないところがある。蒼には、それがお見通しだったんだな。
「そんなに考えなくても大丈夫よ。大丈夫、私も居るから」
思考が暗い無限ループに陥りそうになったところで、ふとマウスを握る手に暖かな感触が触れる。
それは蒼の右手だった。この間手を引かれたときに感じたものと同じように、小さくて柔らかくて、温かい。
小さいころに、僕が引いた手の温もりともまた違うその感触。
「ほら、早く終わらせちゃいましょ?」
手の温もりを伝えながら笑顔を見せてくれる蒼の顔を見ると、どこかこそばゆい嬉しさと共に冷たい感情がまた胸を刺しそうな気配を感じた。
「ん、そうだな。早く休憩にしたいし」
だから少しだけぶっきらぼうに言ってから、作業へと戻る。
今は、あの痛みに耐えている時間すら惜しいからな。
それから三十分、すぐに終わらせるという言葉とは裏腹に、いかんせん数が多いから回路のチェックを走らせるのに時間が掛かってしまった。
そのころには、NEMCエレの高性能なコンピュータを使えば最初のほうに走らせたシミュレーションの結果は戻ってきている。地獄の第三幕の始まりだ。
「えーっとこのブロックはオッケーで……あ、砂橋さん十七番で修正入ってるブロックが検証落ちてる、例のフォルダにシミュレーション結果入ってるから確認よろしく!」
「はいはいよーっ、珪、そいつのHDL開いて回路図出しておいてっ」
「わかりましたっ、今すぐに」
一日中ぶっ続けで作業をしているからだろうか、砂橋さんと雪稜さんの連携は目に見えて良くなっていた。
さっきまでは気にしている余裕も無かったけど、砂橋さんは雪稜さんのことを珪、と呼んでいる。昔呼んでいた呼び方だったりするのかな。
「こうなってくると、論理設計組は暇だな」
「んなことないぞ? じゃあ悠には百十五番、こいつのブロックをあげよう」
「げー、休めないのかよ……」
もちろん遊ばせておく人的余裕はない。動く動かないは物理設計だけが原因なこともあるけれど、こうも急造だと些細なミスなどが原因で論理設計側が間違っていることも多いし。
「んー、これはわからんなあ、砂橋ちゃん百十七番頼むよ」
「あーもう、減らない! じゃあこの六十一番よろしく、論理合成で変な回路になってるから論理設計がどっか抜けあるよ」
「狼谷ちゃん、いいかな?」
「何?」
「八十八番、論理側で変なところは見つからなかったんだ。そっちで確認頼む」
「ん、わかった」
物理設計側と論理設計側で、改善点の番号を投げつけ合いながらちょっとずつその数を減らしていく。
「珪子、七十番行けるかしら? 多分物理設計、どこか一か所符号が入れ替わってる気がするわ。一応終わったら結凪に確認貰ってちょうだい」
「七十番ですね、わかりましたっ」
ついには雪稜さんさえも単独で実戦投入して、最後の修正祭りは進む。
テストの結果、正常に動かなかったのは半分ほど。修正部隊が頑張っている間に、すべての検証を流し終えることができた。
その後は、修正の終わったブロックが揃ったところから、幾つかのブロックを組み合わせた機能、そしてそれらの機能を組み合わせたもの、と確認の範囲を広げながらシミュレーションを進めていく。
血のにじむような修正のすべてが終わったのは、午後六時四十五分。
「今度こそ最後っ……通って、お願いっ!」
手を合わせて何かへ祈っている砂橋さんがエンターキーを押し込む。
ほどなくして画面に表示された機能チェックのシミュレーションの結果を見ると、手を叩いて立ち上がった。
「パス……よーっし、終わったあーっ!」
「んじゃ、これで今回のOJT課題の開発は終了ってことにするね。ありもののコードで今から消費電力と性能のシミュレーション掛けちゃうから」
「よろー、もう疲れた……寝たい……」
「さすがに、しんどかったな」
「はっはっは、ここまでぎゅうぎゅうに時間が詰まった開発をすることなんてなかなかないだろう?」
和重技師が楽しそうに笑う。確かに、ここまで辛い思いをしながら開発をしたのはMelonの時の蒼くらいかな。皆で同時に辛い思いをするのは初めての経験だった。
「えーっと、トップモジュールの名前よし、アプリケーション名よし、実行オプションよし……っと」
最後に、砂橋さんから教えてもらった通りに性能と消費電力をシミュレーションするソフトを仕掛ける。ミスがないことを二回確認して、と。これで間違ってたりしたら、一晩無駄にしちゃうからな。明日のレポートに間に合わなくなる大惨事だ。
「よし、頼んだぞ」
ぱちん、とエンターキーを押して、今日できる仕事はすべて終わり。これで、明日の朝には結果が出ているはず。
その実感がようやく湧くと同時、疲労感が体を支配した。思ったよりも疲れてるなこれ?
「すみません和重技師、時間が伸びてしまって」
「いやいや、構わないんだ。君たちの結果を明日聞くのが楽しみだよ」
「さ、明日もあるし今日はお開きにしよ。アタシはもう疲れたよ」
「俺もだ、早く戻ろうぜ」
さすがに今日はみんなも疲労困憊。全員がそそくさと荷物をまとめて、会議室を後にした。
同じようにホテルに戻って、一回布団にぶっ倒れて根を生やす誘惑と戦いながら十分ほどで部屋を出る。
「あら、みんな着替えてこなかったのね」
「それどころじゃなかったからね……」
「てか、蒼もそうじゃん」
集まったときにはみんな制服のまま。きっとみんなも、僕たちみたいに荷物を置いてすぐ放心状態になってたんだろう。
三日間食べても食べなれない、あまりにも美味しい夕飯に舌鼓を打つことで体力と気力を少し回復した後。
「はーい、みんな聞いてちょうだい」
レストランを出たところで、蒼がみんなに声を掛けた。
「ん、何だ? 弘治なら好きに連れて行っていいぞ」
「ち、違うわよ。そうじゃなくて、明日の夜のために皆を集めて会議をしないといけないの」
「いいぜ。どこでやるんだ?」
「そだなー、一番広いのは男どもの部屋だよね」
「ん、来る? 良いと思うよ」
「じゃ、そうしましょ。このまま直行でいいかしら?」
「はーいっ」
「は、はいっ」
「ん」
最後の狼谷さんの頷きを確認してから蒼はエレベーターに向けて歩き始める。雪稜さんは少し緊張しているみたいだ。決戦の時が近いから多少は仕方ないか。
「やっぱり和室は広いわね。ここなら十分でしょ」
「だな、まあちょっと散らかっちまってるけど……主に宏のせいで」
適当な雑談をしながら僕たちの部屋に入る。女性陣は、早速部屋の惨状に苦笑いしていた。
「うわっ、プレタミ4じゃん。誰持ってきたの?」
「Stitchもあるじゃないですか! 家庭用機勢ぞろいですね」
「ふふふ、オレだよ」
「……杉島先輩の荷物、半分くらいこれが入ってたんじゃないですか?」
「おお、正解だ」
やいのやいの話をしている間にいったん布団を片付けると、みんなで畳に座った。
自然と蒼と砂橋さんの幹部二人が前に出て、こっちに向かい合うような感じになる。
「明日のことだけど、ご存じの通り今晩でこのホテルはチェックアウトして、明日は別のところでキャンプになるわ」
「キャンプ、って言っても、ペンションみたいなものだと思ってもらえばいいよ。バーベキューとか、キャンプファイヤーが出来る小さい家みたいな感じに思えば間違いないかな? 車で三十分くらいの観音山ってところだって」
「そうなんですねっ、シュラフとかどうするのかなって思ってました」
「ん、明日もベッドで寝れるから大丈夫だよ。安心して」
「木の板の上にバスタオルを敷いて寝る、とかじゃなくてよかった」
「氷湖はいちいちスパルタな想像に行くねえ」
二人の話を聞きながらふんふん、と頷く僕たち。キャンプ道具とか持ってきてないけど大丈夫かと気にしていたところだったし、そういうことなら安心だ。道香や狼谷さんが安心しているのもわかる。
だけど、同じように宏も胸を撫でおろしていた。こいつは屋外に転がしておいてもなんとか生きていけそうな気がするけど、何か不安でもあったのか?
「いわゆるグランピングだな。よかった、マジのキャンプだったら装備を持ってきてないから死んでたわ」
「もしそんな装備が必要ならとっくの昔にアタシが連絡してるって」
「むしろ宏はキャンプの装備を持ってるのか?」
「何言ってんだ、キャンプはオタクの必修科目だろ?」
相変わらず謎の守備範囲の広さを見せる宏に尊敬と畏怖の視線をぶつけていると、蒼は話を再開させた。賢明だ。
「六人泊まれるペンションを二棟並びで借りてるわ。今回は付き添いで和重技師が男子三人の方に泊まるから、私たち女子五人と男四人で別棟ね」
「焚火のコンロや網とかは全部向こうでレンタルするから、アタシたちは基本食材を持っていくだけでオッケーってわけ。ちょっとホームセンターに寄り道をして、着火剤とか炭とかそういう消耗品だけ補充していくけど」
「じゃあ、明日は午前中に発表準備をして、午後の最初に発表を済ませてからは買い出しになるってことですね」
「ん、珪子の言う通りよ。ってわけで、明日の午後までに何食べたいか皆考えておいてね」
「りょーかい、考えとくわ。楽しみだな」
明日は午後一番に最終発表があるから時間を取れるのは午前中だけ。といっても、開発自体は今日で終わらせているからだいぶ余裕があるはずだ。できればギリギリまで開発したかったけれど、最終レポートにはどれだけ改善したかのシミュレーション結果を書かないといけないから仕方ない。
それにしてもキャンプか、どんなのがいいかな。悠あたりに適当に振ったら面白そうだ。
「悠は何食べたいんだ? 言ってみろよ」
「そうだなあ……焼きマシュマロとか?」
「乙女かよ、絶対美味いだろそれ」
「最高のチョイスですねっ」
かわいらしい見た目に違わない悠のチョイスに思わず笑いだしながら、何を食べるといいか考えを巡らせてみる。やっぱり、鉄板なのは肉系だよな。
「ってわけだから、繰り返すけどこのホテルは今晩が最後。アタシも言えた口じゃないけど、朝食までに荷物はまとめといた方が良いと思うよん。明日の朝食は今日までと同じ時間だし、出発の時間も同じだからね」
「とまあ、話しておかなきゃいけないのはこんなものかしら?」
「ん、こんなものかな。んじゃ、各自解散ってことで」
事務連絡が無事に終わって、部屋の中はお開きムードになった。みんなも立ち上がろうとしている。
でも、僕たちからするとこれからが本番。
雪稜さんは――
「あのっ……ゆいちゃんっ!」
タイミングを伺おうとした瞬間にはもう、雪稜さんは勇気を振り絞っていた。
声には出さないけれど、心の中で強く祈る。頑張れ、大丈夫だ。
砂橋さんは、心の底から驚いたような表情を浮かべて……それから小さく、優しい笑顔を綻ばせた。
「ったく、珪ってば……。そう呼ぶのは、部員のみんなに示しがつかないからダメって、前に言ったでしょ」
皆が優しく見守る中、砂橋さんは雪稜さんの前に向かう。立ち上がって少し俯いている雪稜さんだけど、砂橋さんの身長だと、それは少し見上げれば目が合う高さでもある。
「どうしたの、珪?」
「……っ、ずっと、言いたいことが、あってっ……」
優しい砂橋さんの声色に、雪稜さんはどんどん涙声になっていく。
「ごめんなさい、あの時、あんな、酷いことを言っちゃって、ごめんなさいっ……!」
ぎゅっ、と握りしめられた手。そしてぽたぽたとこぼれ落ちる涙と共に、雪稜さんは一年半溜め続けていた言いたいことを伝えることができた。
「……アタシさ、普段は身長なんて気にしてないんだけどさ。こういう時だけは珪の身長が恨めしい、かな」
その声色は、やっぱり普段からは想像もつかないくらいに優しい。
「ほら、しゃがんで。結凪ねーさんが受け止めてあげるから」
雪稜さんは、半ばくずおれるように膝を着いた雪稜さんの頭を胸に抱き入れる。それから、どこか後悔するように目を閉じてから言葉を紡いだ。
「アタシこそ、ごめんね。……あの時ちゃんと、理由まで言えば良かった。あの時、強い言葉で言いすぎちゃった。ほんとに、ごめん」
勇気を出して声を掛けてしまえば、本当にあっという間。
お互いに謝罪の言葉を交わした後の二人の姿は、いつの間にか、それが自然なように馴染んでいた。
……声を掛ける勇気。
それにどれだけの決心を必要とするかは、心当たりがある。
同時に、勇気が足りず声をかけることが出来なかった時の苦しさもよく知っている。
抱き合って静かに涙を流す二人を見て安心したし、少しだけ。そう、本当に少しだけ……羨ましくも思った。
もし今親父に会ったとして、会話をして、気持ちを通じ合わせることができるんだろうか。
それには、まだまだ覚悟と勇気が足りていないと思い知らされた気がした。
「また、ゆい先輩って……呼んでもいいですか?」
ぽつり、と雪稜さんが声を漏らす。それを聞いた雪稜さんが、もう一度強く雪稜さんを抱きしめた。
「ん、いいよ。私も珪、って呼ぶから」
「はいっ……!」
それから二人が再び目を合わせて、満面の笑みを浮かべる。これでもう、二人に心配は無いな。本当に、本当に……よかった。
「……はいっ、これで終わり! ほらほら、みんな散った散った!」
そこでようやく、皆が温かく見守っていたことに気付いたらしい。砂橋さんは雪稜さんを離すと、手を大きくぶんぶんと振って声を上げた。
耳まで真っ赤な砂橋さんに、蒼がそっと近づいて声を掛ける。
「ね? 珪子も同じこと思ってたって、わかってたんでしょう?」
「……そりゃ、ね。でも、相手の気持ちなんて完全にわかる訳ないからさ……不安、で」
「ふふっ、珪子も同じこと言ってたわ。似た者同士ね」
その言葉に応えるように笑う砂橋さんは、やっぱりどこか憑き物が落ちたように晴れやかだった。
「珪子、頑張ったね」
「ん……ありがと道香」
「そだ! せっかく二人いるんだし、聞けなかったこと聞いてみればいいじゃん」
道香がいたずらっぽくけしかける。一方の雪稜さんは、あわあわと手を振った。
「え、うえぇっ!? こんなみんなの前で!?」
「なんだか危険球の香りね」
「砂橋ちゃんがどう打ち返すかだな」
それから数秒迷っていた雪稜さんだったけど、やがて意を決するように手を強く握った。ほんと、いったい何を聞くつもりなんだ?
「……ゆい先輩、あの時ギリギリまでボクに進学先を教えてくれなかったのは、何か理由があって、ですよね?」
「おおう、思ったよりも信頼が重い」
雪稜さんの信頼の目線と言葉が砂橋さんに容赦なく刺さる。砂橋さんはくすぐったそうに目をそらしてから、もぞもぞと誤魔化すように言った。
「ほら、あの時は珪は全然コンピュータのことなんて気にしてなかったけどさ。アタシが行く先は露骨にコンピュータが専門のところじゃん? だから、ただアタシを追いかけるために興味のないことをさせるのは珪にとって絶対良くないと思ったし……そうさせたくなかったんだよ」
「まあ、結局こうやってついてきちゃってるんですけどね」
道香がさらに茶々を入れると、砂橋さんは笑顔でため息をつく。
「そこは完全に想定外だったんだ、だから一昨日会ったときは本当にびっくりしたんだよ。それでも、最終的にアタシが好きなものを珪が同じように好きになってくれたのは嬉しい……かな」
「おお、砂橋ちゃんがデレた!」
「何だよもうっ、今日はずっとアタシは珪にデレてるよっ……ってああもう、また珪泣いちゃってるしっ」
「だっでぇっ、ずびっ」
「ああもうほら、泣かないのっ。ごめん氷湖、ティッシュ取って」
「はい」
狼谷さんから受け取ったティッシュをずびずびと鼻をすする雪稜さんに押し付けながら、なんだかんだで世話を焼く顔の赤い砂橋さん。
その表情は、やっぱり優しいお姉さんのように見える。
そんな二人を温かく見守っていると、つんつん、とわき腹をつつかれた。
「これで一件落着、だね」
感触がした方を見ると、そこに居たのは道香。二人の仲直りの影の立役者だったな、今回の道香は。
「だな。道香もありがとう、あんまり雰囲気が重くなりすぎないように気を使ってくれてただろ?」
「さすがお兄ちゃん、バレちゃってたね。あんまり茶化しすぎるのも良くないけど、暗くなりすぎても良くないかなって」
「気遣い屋だな。お疲れさん」
「……ねえ、お兄ちゃん。本当にお疲れさまって思ってくれてるなら、ご褒美くれてもいいんじゃない?」
何かをねだるような道香の上目遣いを浴びる。ご褒美、ご褒美かあ。
「ご褒美? 何が欲しいんだ? そんなたいそうな物はあげられないぞ」
「また、昔みたいに……頭を撫でてほしいな」
でも、道香の口から出てきたのはどこか子供らしい、そしてどこか懐かしさを感じるお願いだった。そういや、何となく撫でちゃったときもしばらく物欲しそうにしてたっけ。
「そんなことなら」
断る理由もないしな。目線のちょっと下にある頭に手を伸ばし、ゆっくりと撫でつける。
昔、母さんが通院しているときには、両親ともに仕事に出ている早瀬の家じゃなくて、車があってお母さんが専業主婦な道香の家で迎えを待っていた。
その時に遊んでいた情景がうすぼんやりと思い出されるような、懐かしい気分になってくる。
しばらく撫でていると、道香は満足そうに手をかわして向き直った。
「お、もういいのか?」
「ん、ありがと。お兄ちゃん分を補給しちゃった」
「そっか。ならよかったよ」
道香は小さく頷くと、そのままとてて、と雪稜さんの方へ向かっていく。
その表情は、満足げなだけじゃなくて、どこか寂しげな――
「うーし、懸案事項ももうないだろ? じゃあ今日こそガッツリ遊ぼうぜ」
「ぐはっ、お前に手を取られても何も嬉しくねえっ」
道香の表情にふわりと感じた違和感の糸を辿っていると、突然悠に手を引かれた。
「いいけど、またスマシスか?」
きっと顔を見て気を使ってくれたんだろう。ため息をつきながら、そのまま宏の待つ方へと引きずられていく。
「皆で遊べるゲームだとそんなとこか? おーい、せっかくだし皆で遊ぼうぜ」
さらに宏が声をかけると、女子たちもテレビの前にわらわらと集まってきた。
「遊びたい。何があるの?」
「有名どころだとスマシスがあるよ」
「あ、金鉄もダウンロード版買ってたわ。これでもいいな」
「おっ、金鉄で友情破壊しちゃう?」
「明日のミーティングに影響しない程度のギスギスにしてちょうだいね」
「とりあえずはスマシスやるか。八人だし、二人ペアで四チームな」
「よっしゃ! ほら珪もやろっ」
「わ、わわっ、ゆい先輩引っぱらないでっ」
こうして皆で遊ぶ時間は、間違いなく記憶の中で消えない一ページになるんだろう。こうしてわだかまりが完全に解けた僕たちは、結局日付が変わっても皆でゲームに興じ。
「おはよー……」
「うわ、眠そうね結凪」
「氷湖がいなかったら間違いなく寝坊してたよー……」
「おはようございます、先輩方」
「おはよう珪子ちゃん……って、背中のそれは?」
「あはは、道香が起きてくれなくって」
翌朝にはみんなで眠い思いをして、笑いあった。
朝食を食べてNEMCエレに向かったら、今回の合宿の仕上げの時間だ。皆でシミュレーション結果を検討して、資料を作っていく。
最後の社員食堂での昼食は、ほんの少しだけ感慨深いものもあったりした。
そして迎えた合宿四日目の十三時三十分、僕たち八人は会議室のスクリーンの前に置かれた椅子に座っている。
この会議室は、今まで部室のように使わせて貰っていた会議室じゃない。三十人ほど入る大きめの部屋には、雪稜所長や和重技師はもちろん、それ以外の大人で席がすべて埋まっている状態だ。中にはちらほらと、蒼たちが改良箇所の検討の時に話を聞いていた人たちの姿も見える。
「……マジかあ、こんなに人が集まるのか」
思わず独り言がこぼれる。今日の成果発表会で話すのは、なんと僕の仕事になっていた。
「部のチップではプロジェクトマネージャーなんだし、経験を積んでおきなさい。いい機会よ」
「頑張れ頑張れー」
「砂橋さん、それは煽ってるよな?」
午前中の会議で、いつものように適当に決まった発表者。部の代表者として喋るなんて初めての経験だから、緊張で背筋も体も固くなる。
「さすがに緊張するなあ」
「大丈夫よ、私たちみんなで作った資料なんだから。何かあったら一蓮托生よ」
緊張から漏れた言葉に、蒼が笑顔を向ける。それだけで、勇気のおすそ分けを貰った気がするのは気のせい、かな。
「さて、そろそろ時間かな」
「うちのメンバーは……みんな揃っていそうですね。それでは、月曜日から今まで頑張ってくれていた電子計算機技術部の皆さんの発表を聞くことにしましょう。私と砂橋相談役だけではなくて、実際にこのチップの開発をやってる人たちも呼びました」
「せっかくだし、席順で良いので適当に自己紹介をしてもらってもいいかな?」
そう言うと、簡単な自己紹介が始まる。参加してくれている人たちは、全員僕たちが開発協力をしたこのチップの開発に携わっている技術者さんたちだった。仕事として大手企業達に技術力で立ち向かっている、一線級の方々だ。
「部長クラスから主任技師までそろい踏みじゃねえか。頑張れよ弘治」
「下手なこと言えないね。だいじょぶだいじょぶ、何かあったらアタシも手伝うから」
宏からは小声で緊張を煽られ、砂橋さんからは応援の言葉を貰う。
ここまで来たら、やるしかないよな。直前になって、ようやく腹を括った。
「さて、では自己紹介も終わったところで本筋に入ろう。いいかな?」
「はい、承知しました」
和重技師からの合図を受けて立ち上がる。パソコンをプロジェクタに接続して画面が出たことを確認すると、無線のプレゼンターを手に取った。
「本日はお時間を頂きありがとうございます。これからNEMCエレクトロニクス社様、V9900プロセッサの改良に関して発表をさせていただきます。会津若松科学技術高等学校電子計算機技術部、プロジェクトマネージャーの鷲流です」
話し始めると、思ったよりも言葉はスムーズに出てくれた。
「それでは、事前にお送りしました資料の二ページ目をご覧ください。ご存じかとは思いますが、V9900プロセッサの概要をまとめさせて頂きました」
事前に皆としっかり準備していたからか、言葉は思ったよりもスムーズに出てくる。
「始めに、結果からお伝えさせていただきます。本チップのCPUコア、特に御社開発のGyro X1におきまして、最大で二百六十一.三六メガヘルツの周波数向上、〇.二七ほどの平均IPCの向上、そして約〇.六ワットのピーク消費電力の削減に成功しました」
僕たちの成果を示すスライドが表示されると、席に座る技師さんたちの目の色が変わった気がした。今までの頑張る子供を見るような目から、同じ技術者を見る目に。
「さて、それでは改良内容に関してお話させていただきます」
このプレゼンをやり切ることが、皆のための、今の僕に出来る大事な仕事だ。皆で作ったプレゼン資料と時計を見ながら、皆で三日間戦った内容を思い出しながら話していく。
「頂いた設計には、大きく二つの課題がありました。一つ目は、高性能プロセッサASICとしては低すぎるトランジスタ密度と不十分なバックエンド設計の最適化。二つ目は、洗練されていない論理回路、また論理合成結果が混在していたことです」
座っている技師の皆さんの視線を浴びながら話すのは、当然だけど緊張した。
それでも。
今の僕には、頼れる仲間がこんなにも居る。少なくともここでは、一人だけで頑張る必要はないんだ。
そう思うと、締め付けるような緊張はほぐれ、程よい緊張感に落ち着いてくれた。
「……大きなものは以上です。その他小さいものも含めますと六十八か所の修正を行いました。詳細は修正一覧の資料、または実際にHDLをご確認いただければと思います。私たちからの発表は以上となります」
最後のスライドを終えて、最後の言葉まで言い切った。時間は予定とほぼ同じ。
一礼をして頭を上げると、技師さんたちは拍手をくれた。
「ふぅ……」
「シュウ、お疲れ様。とっても良い感じだったわよ」
「ありがとう、そう言ってもらえてよかった」
隣の蒼からねぎらいの言葉を貰う。他のみんなも、笑顔でこちらにアイコンタクトをしてくれた。悠に至っては小さくガッツポーズまでしている。
「お疲れさん、良かったよーっ。あ、画面のケーブル貰っていい?」
「ん、いいよ。はい」
砂橋さんは、褒めてくれると同時に何やらにやりとした笑顔をしている。間違いない、あれは何かを企んでいる時の目だ。
「発表ありがとう、鷲流くん。さて、もう少し時間もあるし、若松科技の皆への質疑応答に――」
「ちょーっと待ったあっ!」
質疑応答に入ろうとした雪稜所長の声を思いっきり遮るように、砂橋さんの声が炸裂した。いきなりだな、何を始めるんだ?
「アタシたちへの質疑応答の前に、雪稜所長、そして和重技師に質問がありますっ」
そう大見得を切ると、自信満々に……そして、どこまでも楽しげな笑顔を浮かべながら、砂橋さんは自分のパソコンにケーブルを接続した。
「端的に聞かせてください。まず一つ目、このプロジェクト、スマートフォン用とお伺いしていましたが……スマホのチップではありませんよね?」
「ほう、どうしてそう考えた?」
「一つ目はチップのサイズです。スマホ用にしてはチップサイズも規模も大きすぎるし、何よりパッケージがスマホだとほぼ必須な『メモリの積層』に対応してない。それに、熱設計電力十ワットも熱すぎるし『モデム』とのインターフェースもない」
和重技師の問いに、楽しそうに証拠を並べていく砂橋さん。正直全部の内容を理解できてるわけじゃないけど、どうもスマホ用には不適切なチップらしい。
「それに、NVISIONのグラフィックIPは絶対性能こそ高いですが、電力あたりの性能はそこまでではありません。そんなIPを使ってまでグラフィック性能を高めるのは、スマートフォン向けのチップの設計というよりは――」
「ゲーム機、だな」
宏が言葉を漏らす。ちらりとその様子を伺うと、顎に手を当てて考えを巡らせているようだった。開発中と同じくらい真剣な表情だ。
ほんと、こういう時だけはやけに頭が回るんだよなこいつ。
「そう、例えばゲーム機、またはエンターテイメント機器向けに見えます」
宏の言葉を肯定して、砂橋さんは続ける。
「ふむ。続けたまえ」
「次に、二点目。今回は開発中のものを改良して欲しいとの依頼で始めましたが、このチップ、特にGyro X1の設計データは本番用ではありませんね?」
「ほうほう」
「あまりにも恣意的に、『ピンポイントで足を引っ張る場所のみ』酷いロジックになっていたように感じます」
それから、砂橋さんは何ページかの資料を使って具体的に違和感があったという場所を取り上げていく。
確かに昨日と一昨日の資料を思い出すと、一か所直すだけで一気に消費電力や性能が改善する場所が多くあった。もしかして、仕込まれてたってことか?
「というわけで、以上二点。ご回答頂けませんでしょうか? 雪稜所長、砂橋相談役」
最後まで話し切った砂橋さんは、清々しくなるほどのドヤ顔を見せる。そんな表情を見て、指名された二人はというと。
「はっ、ははっ、ははははっ、さすが砂橋チーフのお孫さんだ」
「ふふ、はははっ。いやー、どうやらすべてお見通しだったようだな」
堪えられない、というように笑いだしていた。
「ははは、どうだいバレてしまったぞ諸君」
「いやー、さすがにやり過ぎましたかなあ」
「バレないと思ったんだけどなあーっ」
その笑顔の輪は、雪稜所長と和重技師だけでなく、開発チームの方々にも広がっていく。
「やっぱり、お爺ちゃんっ」
「……ま、やっぱりそうよね」
「ど、どういうことだ?」
「今回の修正箇所は、間違い探しだった」
「仕組まれた間違いだった、ってことですかっ?」
「え、ええっ!?」
一方で、僕たちの方にも動揺が広がる。こんな、血反吐を吐くほど苦しい間違い探しがあるか?
もっとも、砂橋さんと蒼は落ち着いている。今回の作業みたいなことをずっと本業でやってきていたこの二人は、多分途中で気付いていたんだろうなあ。
「さて、バレてしまったようだし……折角NDAもあるのだ、こちらで準備した資料を出そうじゃないか。結凪、ケーブルを貰えるかな?」
「もうっ、はい」
膨れている砂橋さんが和重技師にケーブルを渡すと、和重技師は自分のパソコンに繋いで画面をプロジェクターで映し出した。
「さて。今回の研修だが、V9900シリーズのチップのデータを使った。これは嘘ではない」
「もっとも、結凪ちゃんの言う通り。通常のスマートフォンに使うV9900シリーズのチップじゃないのも大正解だ」
「え、ってことは……」
「もし、かして?」
「杉島君、大正解だよ。これが、今回君たちに携わってもらったチップのプロジェクトの概要だ」
そういって、キーボードをパチリと押し込む和重技師。変わった画面に表示されたのは、見慣れたゲーム機の姿だった。
「商品名V9900GT-NX2。聖天堂Stitch用のカスタムSoCだ」
「聖天堂、次世代、Stitch!?」
「うお、マジか。十ワットくらいだから携帯系だろうとは思ったけど、マジでStitchか」
「現行機のチップもNEMCエレの設計だったんだもんな。言われてみれば納得だわ」
そこに表示されたゲーム機の名前も当然、見たことのある……それどころか、昨晩皆で遊んでいたあのゲーム機の名前。
「そう、聖天堂さんの次世代機用のチップだ。今回君たちの手を借りて作ったものは、開発中のデータを継ぎ合わせて一部の完成度を落としたものだな」
そう言って笑顔を見せる和重技師。僕たちがぽかん、と唖然としていると、雪稜所長は感心したように話してくれた。
「もっとも、私たちも驚いているんです。まず一つ目は、ほぼすべての継ぎ合わせた箇所を見抜かれてしまったことですね」
「本当は半分も見抜けたら凄いね、なんて話をしながら準備していたんですが、まさか九十パーセント以上も見抜かれるなんて。私たちもまだまだですね」
そう言って笑うのは、さっきこのチップのプロジェクトマネージャーをしていると言っていた男性だ。
それに続いて、チーフアーキテクト……主任技師の人も僕たちを褒めるコメントをしてくれる。
「所長からの特命は、絶対にバレないように完成度を下げろだったんです。ですから、まさか二日半で綺麗に見抜かれて、修正までされてしまうなんて……どうでしょう、科技高を卒業したら是非うちで働きませんか?」
最初は肩透かし感があったけど、ここまで褒めてもらえるとあまり気にならなくなってきたな。お世辞だとしても有難く頂いておこう。
「さすがに何かが不自然なのはすぐわかりましたよ。何しろ、ある一定箇所だけがプログラムに任せたように乱雑で、それ以外は美しいと言ってもいいほど整っていましたから」
「ははは、それだけわかってしまうだけでも流石だよ」
悠が肩をすくめながら感想を偉そうに言い始めた。調子に乗り始めたな、ハッタリをかますとまずいし砂橋さんに確認しておこう。
「砂橋さん、そうだったの?」
「最初に配置まで終わったマスクデータを見て、ん? って思って、その後HDLを見て確信したよ」
「ってことは、結構早い段階で気付いてたんだな」
「そりゃ、伊達に物理設計を専門にしてませんから」
にやりと笑う砂橋さん。ならば、あの悠が何となく違和感を覚えたのも嘘では無いんだろう。
「まあともかく、先端プロセスを使った、実際の商用チップの勉強にはなっただろう?」
「いや、確かにそれはなったけどさ……」
「いい経験になりました、本当にありがとうございました」
間違い探しみたいに仕組まれていたものだったとしても、商用チップに使われる先端技術に触れられただけでもいい体験だったのは間違いない。こういう機会を作ってくれた和重技師と砂橋さんには感謝しきれないな。
「はあーあ、結局全部お父さんたちの掌の上だった、ってことかあ」
そんな中、雪稜さんがため息とともに言葉を漏らした。それを聞いた和重技師はにやりと笑う。相変わらず、祖父と孫娘でよく似た笑顔だ。
「違うぞ珪子くん。君たちはね、俺たちの予想も超えてくれたんだよ」
「どういうことですかっ?」
道香の声を聞いてか、和重技師はもう一回にやりと笑うとエンターキーを押した。そこには僕たちの作った修正箇所の一覧が表示されている。昨日の修正をすべて終えたタイミングで、和重技師に渡していたものだ。
「あれ、この赤い印は……」
だけど、僕が入れた記憶のない赤い印の入った行がぱらぱらとある。蒼にアイコンタクトで聞いてみても、首を横に振っている。つまりは、蒼がやったわけでもないってことだ。
「今回修正を入れてくれたところのうち、この赤い印の入った二十か所強は仕込みではない……つまり、本当に効率が悪かったところなんだ」
「本番用チップの設計よりも完成度が高いところがあった、ということ?」
「そう、その通り。君たちは本当によくやってくれた」
狼谷さんの信じられないといったような声の質問に、なんと肯定が帰ってくる。
一部とはいえ、今目の前にいる技術者さんたちよりも良い設計が出来たということ。
雪稜所長は突然のことに言葉さえ出ない僕たちを見ると、さらに嬉しいニュースを続けた。
「ですので、今回皆さんに作っていただいた論理設計、物理設計の結果は、本番用データのほうにも一部採用させていただければと」
「えっ、ということは、俺たちが書いたHDLが実際のチップになって、しかもそれが発売されるってことですか!?」
立ち上がって質問をする悠。その目は、驚きと嬉しさに輝いている。声を上げたのは悠だったけど、きっと、僕たち皆がそんな表情をしているだろう。
そんな姿を認めたプロジェクトマネージャーの人は、にっこりと笑顔で頷いて言った。
「そう、その通りです。詳細は聖天堂さんとの守秘義務も絡むのでお伝え出来ませんが、次世代のStitchが発売されたときに自慢できますよ。このゲーム機の中のチップは、自分たちが設計に携わったんだ、と」
「わ……びっくり」
狼谷さんの珍しく感情が籠った声を聞いて、改めて実感が湧いてくる。
僕たちがやったことはこの合宿で終わりじゃなくて、少しでも世の中に出るものに携わったんだ。
そう考えると、今まで感じたことのない達成感を覚えた。
不思議と、背筋を冷や汗を伝うこともない。
「それならよかった。全部お爺ちゃんの想定通りなんて、面白くないからね」
砂橋さんも、少しぶっきらぼうだけど褒められて満足そうだ。
そんな僕たちを見て、和重技師は眩しいものを見るようにもう一度笑った。
「はっはっは、本当にみんなよくやってくれた。会社として、君たちを受け入れて大正解だったよ」
「さて、では会議室を取ってる時間ももう終わりだし、発表会はここまでですね。あとは皆さんの成果物について質問があれば、部活のメールアドレス宛にメールを送ってお聞きすることにします」
「俺に直接聞いてくれてもいいぞ。そのまま結凪に転送するだけだからな」
「はあー、まあ良いけどさ……」
少し照れくさそうにしながら、笑顔でため息をつく砂橋さん。
それから、エンジニアの皆さんたちにもう一度拍手を浴びながら、雪稜所長に先導されるようにして僕たちは広い会議室を後にした。
部室代わりの部屋に戻ると、例外なくみんなで椅子に座り込む。たった一時間の成果報告会だったはずなのに、色々なことがあったなあ。こんなことになるとは本当に思ってなかったし。
なんとなく隣の席の悠を見ると、ばっちりと目が合った。その目はまだ興奮に輝いている。
「……」
「……やったな」
そんな悠と、小さくグータッチを交わした。今まで僕たちが感じていた、大会で優勝した時とも違う達成感が部屋の中に満ちている。
「皆お疲れ様、本当にいい働きをしてくれたよ。疲れただろうし、ちょっと休憩にしよう」
「おやつもちゃんと持ってきたからな」
そう言いながら、雪稜所長と和重技師も部屋に戻ってきた。休憩の宣言をすると、雪稜所長は雪稜さんのところへ向かう。
「お疲れ様、珪子。どうだった? 僕に教わるよりもよっぽどいい勉強になったんじゃないか?」
「うん、本当にいい勉強になったし……何より、楽しかった。本当にありがとう、お父さん」
交わされる父娘の優しい会話。家族の会話とはもう縁遠い僕は、その様子を笑顔で眺めることしか出来ない。
しばらくそんな会話を見守っていると、ふと話の矛先が砂橋さんへと飛んだ。
「そうだ、結凪ちゃん。その教科書の束、キャンプに持っていくのも大変だろうから僕が持って帰っておくよ」
「ちょっ、雪稜さんっそれは珪子には内緒って」
「おーっと、そうだったそうだった」
「教科書の束、ですか?」
「ああああ道香、気にしなくていいからっ」
「結凪ちゃんが今回の仕事でどうやって設計を直していったのか、それに必要なルールや知識なんかを紙に書きつけておいてくれたんだよ。珪子のために、ね」
みんなの視線が、砂橋さんの机の上に積まれた三百枚くらいのコピー用紙に集まる。なるほど、捨てなかった理由は雪稜さんの教科書にするためだったのか。
やっぱり、普段以上に紙を使ってると思った感覚は間違ってなかったんだな。教科書代わりに使えるほど、思考過程をきっちりまとめて書きつけておいたんだろう。
「あら、そんな器用なことをしてたのね。偉いじゃない結凪」
「全部言っちゃったし……恥ずかしいから内緒にしててってお願いしてたのに……」
「昨日は、まだちゃんと仲直りしてない。なのにその前から準備してたのは、偉い」
「氷湖、それ一番突っ込まれたくなかったところっ!」
優しい計画が雪稜所長にすべて暴露されてしまい、砂橋さんはまた顔を真っ赤にしている。こうやってイジられるのが判っていたから内緒にしていたんだろうなあ。
そんな砂橋さんへの最高のご褒美は、雪稜さんの笑顔と感謝の言葉だった。
「ゆい先輩……ありがとうございますっ」
背の高い雪稜さんが、膝を折って砂橋さんの胸元に飛びついた。ちょっと面白い絵面だ。
「ん……これ使って、ちゃんと勉強してさ。もしそれでも面白いって思ったなら、大学は一緒のとこ行こうか」
そして、そんな雪稜さんを優しく抱擁して撫でる砂橋さん。二人の距離は、今回の合宿を経て別れる前よりも逆に縮んだのかも。
「これはもう実質告白なのでは? 如何でしょう解説の宏さん」
「そうですねえ、すれ違いはしたけど実はお互いを思いあっていて最後に将来の約束を交わす、鉄板ですね。満点を上げてもいいのではないでしょうか」
「あんたら何言ってんのっ、ち、違うからっ」
無粋なバカ二人のツッコミに、皆で笑いあった。二人だけじゃなくて、僕たちもまた、もっと一つのチームにまとまれたのかもな。
でも、合宿はこれで終わりじゃない。
「さて、そろそろ荷物をまとめてくれ。買い出しにも行かないといけないからな」
優しい視線で孫娘のことを眺めていた和重技師が声を掛けてくれた。最後の一大イベントに向けて、いよいよ準備の始まりだ。
「はいはい、すぐ出るわよっ。忘れ物ないようにねっ」
蒼の声掛けを聞きながら私物をまとめて、パソコンを返して、要らないものを捨てて。
十五分ほどで、僕たちが四日間お世話になった会議室は元に戻っていた。
「ちょっと寂しいな」
「だな。楽しかったからな」
隣の悠と、ちょっとした寂寥感を共有しながら笑う。
そんな経験も初めてだったから、寂しささえも楽しく感じた。
「さて、じゃあ行きましょうか。砂橋相談役もそろそろ玄関に着いたでしょう」
「みんな行くよー」
楽しい時間はあっという間に終わりを迎える。雪稜所長と砂橋さんの後を歩いて、僕たちは会議室を部屋を後にした。
玄関に到着していた車に荷物を積み込むと、ばたん、と後ろのドアを閉める。
それから、お見送りに来てくれていた雪稜所長に改めて全員で向き直って頭を下げた。
「雪稜さん、今回は本当にありがとうございました」
「「ありがとうございました!」」
合図なんかしなくても、全員の声が揃った。本当に……雪稜所長とこの会社には足を向けて眠れない。
「いえいえ、こちらこそ改良のお手伝いをしていただきありがとうございました。最後の夜、楽しんできてくださいね」
そう言って笑顔で手を振ってくれている雪稜所長に、僕たちも笑顔で会釈を返す。
それから車へ乗り込むと、お世話になったNEMCエレクトロニクスを後にした。
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