0x04 ささやかな悲劇

 暖かな、家族の光景を見ていた。

「あら、おかえり。だいぶ掛かったね」

「ただいま。ああ……最悪だよ、リスピンだ」

「新しい『Pentagon4』の? 難産だって聞いてはいたけど大変ね」

 そう、これは…………あの日の前の、僕の家だ。

 笑顔の父さんと母さんが楽しそうに話をしているのを影から伺っている。

「ああ、『CedarHill』だ。クロックと消費電力が目標未達だから、バックエンド設計がやり直し。わりと惜しいところまではいってるんだが」

「でもそう言うってことは、何とかしちゃう手はずは見えてるんでしょ?」

「お見通しだな。そう、今回は割と『スタンダードセル』を多く使って急造でここまで来てるからな。面積の使用率も全然上がってないし、今回の回路に特化して配置と配線をやれば少しは良くなるだろう」

「ふふっ、楽しそうにしちゃって。私的にはただでさえ半年以上遅れてるスケジュールが気になるんだけどな? 『Agni-8C』はどうなっちゃったのかなって」

「あー、『技術営業』にはそっちのほうが重要だよな。既にえらいことになってるとはいえ、安心できる段階でもないってのが正直な見立てかなあ。RTLが全然最適化できてないのもあるけど、どっちかといえばプロセスが――」

 開発コード名、Agni。熱と電力の問題を解決できなくて、開発が遅れに遅れた挙句お蔵入りしたチップ。

 そうか、親父も関わってたんだな。

 当時の僕は、もちろん何も理解出来ていない。だけど、今なら何を言っていたのか少しはわかるようになったよ。

 記憶の中のぼくは、話が切れたとみるや親父の足へと駆けていった。

「ぱぱー、お帰りなさい!」

「おう、ただいま弘治。いい子にしてたか?」

「うんっ、もちろんっ! あのねあのね――」

 そんな温かな記憶の再生は長く続かない。

 縋りついた、頼りがいのある親父の足の感覚はもう遥か遠くのもの。

 まるで見ていた景色が白い光に埋まっていくように、穏やかに眠りの終わりは訪れた。

「……今、何時だ?」

 自分史上最高の目覚め、と言ってもいいかもしれない。

 布団に後ろ髪を引かれる感覚がほぼ無いと同時に、疲れもあまり取れていないのを体の重さで感じた。

 目を開けて飛び込んできたのは、知らない天井。もちろん数瞬も掛からずに、ホテルの部屋なことを思い出す。そうだ、昨晩は結局十時半くらいまで蒼や砂橋さん、狼谷さんとボードゲームに興じた後、部屋に戻ってきて寝たんだった。

 時計をちらりと見ると、時刻は六時三十分を過ぎたところ。朝食は七時集合だったから、もう少し時間に余裕はあるな。

 だから、ゆっくりと体を起こすとメモ帳を開いた。

「えーっと、つまりはPentagon4の設計中、目標クロックも超えられないしトランジスタ数も多すぎたからリスピン……つまり再設計になった、ってことか」

 それは、あの暖かな夢の中で両親が話していた内容。もしかしたら、役に立つかもしれない。もしかしたら今回のチップに活かせるかも、そこまで具体的な話をしてたわけじゃないから問題にもならないだろうし。

 ここ数日、時々こういう形ではっきりとした過去の記憶を見るようになっていた。今まではもやが掛かったように思い出せなかった記憶がはっきりと、まるで追体験するように。

 それが何故かは、なんとなく考えないようにしていた。

「原因はスタンダードセルの使用率と配置配線、Agniの方はRTLの最適化……」

 話していた内容を解釈して、メモにまとめておく。夢日記のようだけど、自分の記憶の再生だから現実と区別がつかなくなる、なんてこともないはず。

 それに、すこし癪だけど親父の言っていたことだし大きく外れてもいないよな。

 そんなメモを作っていると、けたたましい音で誰かの携帯が音を立てた。

「……うるっさ、い……」

「マジかお前」

 布団に転がっている二人を見ると、どうやらあの爆音は宏の携帯のようだ。

 鳴らした当の本人はといえば、ゾンビのように上半身だけ這い出して携帯を全く見ることなくアラームを止めていた。最大音量すらこいつの眠気に対しては敵ではないらしい。

 ちらりと時計を見ると時刻は午前六時四十五分。そろそろ起きて準備をさせた方がよさそうだ。

「おら、起きろお前ら。あと十五分で飯だぞ」

 ったく、迷惑をかけるのは本位じゃないからな。面倒くさいけど悠と宏の面倒を見てやるか。

「……」

「んあ……おはよシュウ、もうそんな時間?」

「お、悠は起きたな。顔洗って準備してこい」

「あーい……くぁあ」

 ちなみに宏はどれだけ非暴力的手段を駆使しても起きることはなく、結局顔に強めの張り手を一発叩き込む事で起床させた。

「お、ギリギリ間に合ったね。おはよ男子諸君」

「おはよう女子諸君、今日もいい朝だね」

「なんでそんな偉そうなのよ、宏」

「あー……ねっむ……鬼か?」

「お前のせいだぞこんな遅刻ギリギリになったのはよ」

「柳洞先輩、杉島先輩、お兄ちゃん、おはようございますっ」

「完全に目え覚めたわ。桜桃ちゃんもう一回お兄ちゃんって」

「ええっ、杉島先輩に言ったんじゃないですよっ」

「……ここの皆さんは、賑やかですね」

「でしょ? 馬鹿ばっかなのよねぇ……。さ、朝食にするわよ」

 呆れて首を振る蒼についてレストランに入る。こんなバタバタを経つつも朝食を食べ、時間通りに迎えに来てくれた和重技師の車に乗って再びNEMCエレの高崎事業所へと向かった。

 昨日と同じ会議室に入ると、当然昨日僕たちが後にした時と同じまま。本当に、この部屋は好きに使わせてくれるみたいだ。

「当然だけど、昨日と同じままね」

「変わってたら逆に怖い、です、よ」

 蒼のつぶやきを聞いて、恐る恐るツッコミを返す雪稜さん。昨日のずっとおどおどしていた感じからすると大きな進歩だ。

「お、ツッコミできるようになってきたね。良い傾向だよ雪稜ちゃん」

 うんうんと頷く悠。お前は文字通り何もしていないだろ。

「は、はいっ、こんな感じでよかったでしょうか」

「こういう時は話半分でいいよっ、昨日も言った通りこういう時の先輩たち適当だから」

「う、うんっ」

 一方、道香と雪稜さんはよっぽど打ち解けたように仲良く話していた。昨日の夜の間で一年生二人組も仲良くなってくれたみたいだ。何より何より。

「じゃあ、あとは君たちで好きにやってくれて構わない。何か質問があったら聞いてくれ、今日はこのチップの開発陣の時間も取れるからな。十七時半くらいには今日の分の報告を頼むぞ」

 和重技師はそう言うと、笑顔でパソコンを開く。今日も僕たちについて見守ってくれるようだ。

「さて、今日の開発始めますかぁ」

「だな。昨日と引き続き論理設計チームと物理設計チームで別れて、でいいのか?」

「シミュレーションの結果が出てるはずだから最初の一時間半くらいでそれぞれ確認して、それから話し合う感じがいいかな」

「わかった。異論はない」

「よし、じゃあそんな感じで行こう」

「はーいっ」

 道香の元気な声を合図に、昨日と同じように物理設計チームと論理設計チームで別れて作業が始まる。

 でも、僕にはやらないといけないことがあった。

「あ、蒼と砂橋さん。ちょっといいかな?」

「ん、どったの鷲流くん?」

「シュウから声を掛けてくれるなんて珍しいじゃない」

 二人に声を掛けると、近くにやってきた。砂橋さんの方は、見えないしっぽをぶんぶんと振ってる気がするくらいにやる気満々だ。

 そんな二人を前にして、少しだけ緊張しながら言葉を口にする。

「ん、このチップなんだけどさ。スタンダードセルで物理設計してると思う?」

「いやー、ある程度は使ってると思うけど……この規模のチップだし、ある程度はスタセル使わずに頑張らないと密度上がらないと思うよ。確認はまだ、ちゃんと物理レイヤーまで昨日は見れてなかったんだよね」

「そうか……あと蒼、念のため確認だけどRTLの記述とか確認した?」

「いいえ、シュウの理解の通りそこまで手は回ってないわ。何でまたそんなこと?」

 二人ともそこまで確認できていないならば、もしかしたら今回の突破口になるかもしれない。メモも見つつ、今日の夢で親父が言っていたことを思い出しながら言葉を紡ぐ。

「例えばスタンダードセルだけで設計されてたり、RTLレベルでの最適化がされていないところがあるんじゃないかなって昨晩思ったんだんだ。それなら、密度が低いのも消費電力が大きくなってるのも割と説明がつくかなって」

 それを聞いた蒼と砂橋さんはふむ、と考え込み始めた。即却下される程の意見では無かったみたいで、心の中で胸を撫でおろす。これで見当違いなことを言っていたら、貴重なエース二人の時間を無駄にしちゃうところだった。

「それがこの微妙な性能の原因、と。ありえなくは無いわね」

「あまりにも面倒くさいから考えないようにしてたんだけどなぁ」

「あり得ない、ってわけじゃないんだね」

「何よ、自分で言った意見じゃない。もっと自信持ちなさいよ」

「僕が考えつくような事は二人ならもう考えてるのかなって」

「最初のほうに検討することなのは事実だよ。だけど、今は完全に手探りだし、何より本当にこれが主因だった時にはあまりにも時間が掛かるからね。このタイミングで提案してくれることには意味があるかな」

 二人の励ましを貰うと、少しだけ気が楽になる。少しでも皆の力になりたいと思ってきただけに、ちょっとでも役に立てると嬉しいし。

「そう言ってくれると有難いな。じゃあ、シミュレーションの結果検討と合わせてそのあたりも確認してもらっていいか?」

「わかった、見てみる」

「こちらも了解よ」

「よっし、じゃあこっちも解散」

 解散して論理設計チームに戻ってきてくると、僕は当然一番の下っ端だ。シミュレーションの結果を確認しては遅いブロックの名前をリストアップして片っ端から蒼と宏、それに悠へと報告していく。

「ほい宏、レポート第二弾」

「ありがとよ、えーっと、この辺か……」

「悠、半分頂戴。こっちは終わったわ、はっきり言って最悪かも」

「おい蒼、こっちヤバいぞ」

「ヤバいって、どういうことよ?」

 レポートを渡すたびに、三人の表情はめまぐるしく変わる。最初は驚き、次に怒り、そして呆れといった感じだ。

 明らかに何かを見つけている感じだけれど、如何せん忙しそうだから聞いてみることもできない。とりあえず上から数十個の報告を終えたところで仕事はひと段落だ。

「んあ゛ーーっ! もぉ゛あ゛ーーっ!」

「ああーっ、結凪先輩どうどうっ」

 ほぼ同時、物理設計チームのほうからは牛の断末魔のような声が聞こえてきた。多分砂橋さんだろう、向こうもだいぶ凄惨なことになっているらしい。

 そうして迎えた午前十時半の会議、蒼も砂橋さんも、生気を失った表情をしていた。

「シュウが言ってたことが、ここまでズバリだと思わなかったわ。論理設計サイドの検討をしたけど、いくら論理合成ソフトのことを信じるにしてもいまいちな記述が相当あった」

「多分これが遅い原因の一つだと思うぞ、論理合成の結果意味がない、ってか削れるトランジスタが結構ありそう」

「わぁー、論理設計の方も爆弾持ちだったんですね」

「も、ってことは?」

 ぽろりとこぼれた道香の呟きをきっかけにして、物理設計の方にも話を訊いてみる。砂橋さんは大きくため息をついてから話し始めた。

「物理設計もそう、最悪だよ。きちんと配置された早いブロックと全体の速度の足を引っ張ってる遅いブロックの二つがあって、後者は全部スタンダードセルだった。そのくせ面積当たりの使用率は激低で配置はガラガラ、何をどうやったらこうなるの? って感じ。あと、タイミングは全然余裕なところに消費電力が大きくて速いセルを、タイミングがシビアなところに遅いセルを使ってた、意味わかんないよ」

「そのものズバリだった、か」

「というか、あれは……ん、まあいいや」

 何か不思議そう、というか納得がいかないような感じで首をひねる砂橋さん。

「何かあるのか?」

「いーや、とりあえずはいいや。多分今議論しても変わらないし」

「わかった。さて、どうするか……」

 何か気になることがあるみたいだけど、今回の改良には直接関わらないとこなのかな。まあいいや、砂橋さんを信頼して先に進めることにしよう。

「そっちのおかしかったブロックのリストを貰ってもいい?」

「ん、いいわよ? 今共有したわ」

 その裏では蒼に狼谷さんにリストを共有していた。素早く目を通した狼谷さんは、驚いたように目を見張る。

「……これ、いくつかのブロックがこっち側と被ってる」

「どういうことですか?」

「物理設計班と論理設計班の両方で修正が必要なブロックがある」

「どれどれっ」

 砂橋さんが飛びつくように狼谷さんのパソコンを覗き込む。数十秒スクロールさせていた狼谷さんは、大きくため息をつくと和重技師の方をちらりと――睨むような、呆れたような表情で見た。

 一方の和重技師はにやりとした笑顔をを浮かべたまま。砂橋さんははっきりと何かに気付いたみたいだけど、他の人たちはそれに気付いた様子はない。それに、その視線が意味するところははっきりとはわからない。

「はぁ……わかった。修正箇所の洗い出しをしないとだから、お昼ご飯まで一回チーム合わせて検討しましょ」

「ん、それがよさそうだな。物理設計直してから論理設計の修正するとか、そんな馬鹿馬鹿しい話はないし」

「それなら、技師さんたちも入れて話を聞いたほうがいいんじゃないか?」

「それもそうね。和重技師、お願いできますでしょうか?」

「もちろんだ、ちょっと待っててくれ」

「よし、あとは……んー、鷲流くん?」

 概ね話がまとまって安心していたところで、砂橋さんからふと話を振られた。

「どうした砂橋さん?」

「デジタル回路の基礎とかスタンダードセルとかそのへんの基礎的な話を、珪子に教えてもらってもいい? 前に教えてあげた話を概ねなぞる感じで良いと思うから」

「ん、わかった。任せて」

「ついでに『リズムのイーノバス』の使い方もさわりだけでいいから教えておいてよ」

 それは、雪稜さんの先生のお願いだった。

 確かに彼女は半導体やコンピュータの基礎は理解しているようだったけど、実際にどんなことをしながら設計・開発をするかに関しての知識は薄いみたいだった。勉強するいい機会かもな。

 実際の半導体設計ツールの使い方もってことだし、ちゃんと使えるように教えてあげよう。自分の復習にもちょうどいいし。

「あ、あのっ、いいんでしょうか」

「いい。多分午後からは人海戦術になるから、手伝える人が大いに越したことはない」

「は、はいっ……!」

 狼谷さんがわかりづらい笑顔で背中を押すと、雪稜さんはこちらへやってきた。

「あの、よろしくお願いします。鷲流先輩」

「僕も素人だから、お手柔らかにね」

「うっし、じゃあこれで決まりだな。やるかあ」

「じゃあシュウ、頼むわね。残りのみんなは集まって頂戴」

 蒼たちは部屋の奥の方へ改めて集まった。バカ二人以外の表情は本当に渋い。逆にあの二人は楽しくて仕方ないんだろうなあ。現実が見えてないのかもしれない。

「……まあ、あっちもあっちで大変そうだしこっちもやろうか」

「はいっ」

 向こうの心配をしていても始まらないから、僕たちは部屋の前側に集まる。

 せっかく前のほうに来たわけだし、会議室のホワイトボードを拝借してきて簡単な半導体講座を始めることにした。

「さて、まずはデジタル回路の基礎から行こうか。今のコンピュータはMOSFET、ってトランジスタを組み合わせて作ってるのは知ってる?」

「はい、なんとなくは」

「じゃあ、普通のいわゆるトランジスタと、FET……電界効果トランジスタの違いは?」

「えーっと……作り方と特性ですよね? FETの方がスイッチ向きという」

「大丈夫そうだね。一応復習しておくと、普通のトランジスタは電流を増幅するんだけど、FETは電圧によって電流を制御する。この特性が電圧のONとOFFで処理をするデジタル回路に向いているのと、比較的小型化しやすいこと、あとはゲートから流れるリーク電流が小さいから通常時の消費電力を押さえられること、なにより比較的作りやすいって特徴から、基本僕たちが触るのはFETになる」

「FETのうち、ゲートの電極に金属の酸化膜を使うものがMOSFET、ってことですよね」

「うん、正解」

「じゃあ、スタンダードセルに関して簡単に話をしていくけど……ある程度知ってるみたいだったけど、物理設計絡みはどれくらい勉強してる?」

「じ、実はボ……わたしも今年から勉強を始めたばかりで……JCRA認定の中の物理設計部門、配置&配線あたりが少し」

「おお、すごい。PE資格取ろうとしてるんだ」

「あったほうがいい、と父から言われまして」

「間違いないね、それなら基礎知識は大丈夫かな。僕もちゃんと勉強始めたのは今年からだし、間違ってることがあったら言って」

 PE資格の勉強をしてるのか。やっぱりまじめな勉強家なのは間違いなさそうだ。部活に入ってる訳でもないのに、きちんと勉強を進めている時点で疑う余地は無いな。

 なんなら、僕より詳しいところがあっても驚かないぞ。

「あ、あと」

 そこで、一つ気にしているように言い直したことがあったな、と思い返した。細かいことかもしれないけど、できれば変なところで気を遣ってほしくないし言っておこう。

「わざわざ何か言い換えなくてもいいよ。僕たちに気を使ってるならなおさら。そんなことでどうこう言う人は、この部活にはいないから」

「……はい」

 できるだけ重くならないように、軽い感じで伝えておく。返事をくれた雪稜さんは、少し緊張が和らいだような表情を見せてくれた。

「んじゃ、始めますか。まずは半導体のチップ、デジタル回路は主に何を組み合わせて作るかは知ってるよね?」

「さっき出てきた電界効果トランジスタ、FETですよね」

「そうそう。そのFETをたっぷり敷き詰めてそれらを配線したのがいわゆる集積回路、IC。論理設計チームが作った論理設計から、それぞれのプロセスに合わせてトランジスタを配置・配線するのが物理設計の仕事っていうのも知ってる?」

 論理設計が作るのは、あくまでも回路図を作るところまで。その回路図を実際の半導体の仕様に合わせてトランジスタの配置を決めたり配線をして実際のICの設計図、製造に使うフォトマスクのデータを作る必要がある。

 製造プロセスが変われば作れるトランジスタの大きさや配線の細さなどが変わってくるから、論理設計はそのままでも問題ないけど実際の製造に直結する回路の配置やマスクの設計は新しいプロセスのルールに合わせてやり直さないといけない。

 そんな縁の下の力持ちが、物理設計、バックエンドとも呼ばれるお仕事。砂橋さんの受け売りで言えば、「どれだけちゃんとした特性のCPUになるかはアタシたち次第」とのこと。

「はい。論理設計の中の配置配線、プレース・アンド・ルート作業ですね」

「だけど、全部の配線をイチからするにはあまりにも選択肢が多くなりすぎるし、何より面倒くさい」

「配線は最低でもトランジスタ数以上になりますもんね」

 雪稜さんが言った通り、FETには三つの端子がある。ゲート、ソース、ドレインと呼ばれる三つの端子すべてを何かしらに繋がないと動かないから、配線はトランジスタの数よりも確実に多くなってしまうわけだ。

「そこで、半導体のプロセスを開発する人たちは、プロセスの仕様を固めると同時に論理回路……配線されたロジック回路のブロックを作っておくんだ。代表的なロジック回路の種類は判る?」

「NOT、AND、OR、NAND、NOR、XORの六種類ですよね?」

「正解。どんなチップも大体はこの六種類のロジックの組み合わせで出来ているのはご存じの通りだね」

「加算器とかの計算する回路も、ですもんね。この論理ゲートがFETの組み合わせで作れるから、コンピューターは電気の力で計算が出来ると書いてありました」

「合ってる合ってる。あとは一時的に覚えておくSRAMとかもFETで作れるから、コンピューターの計算に関わる動作は基本的にさっきのFETだけでできるんだ」

 そう言いながら、ホワイトボードに六種類の名前と回路図、ついでに応用例として足し算をする加算器を簡単に書いていく。蒼と砂橋さんに叩き込まれた内容だから手は自然に動いたし、我ながらそのことに気付いて驚いた。

「この中で一番簡単なNOTゲートでも六本の配線が必要になるのは回路図の通り。もっと複雑な論理ゲートだと増えるし、それを数百万個、数千万個なんて単位で設計して、さらには一番性能が出るように最適化するのは骨が折れるよね?」

「ですね、毎回作り直していたら時間が足りません」

「だから、ブロックのように既製品としてよく使うロジックをある一定のサイズに収めたブロックを作っておくんだよ」

「それがスタンダード・セルってことですか?」

「大正解。そのブロック内の配線は最短になるように作っておけば、それぞれの配線を考えるときもロジック単位で考えればいいから楽ってわけ」

「なるほど。それこそレゴみたいに既製品のブロックを組み合わせて作っていくわけですね」

「実際に、さっき例に挙げたSRAMとかも含めた色々な種類のスタンダードセルがあって、大規模なものは『マクロ』って呼ぶよ。それに、速度と消費電力のバランスによって同じ論理回路でも色んな種類のセルやマクロがある」

「このセル、というのは物理設計、なんならプロセスの話になるんですよね?」

「そうそう、プロセスがどういう形状なら作れるのか、ってのを踏まえたうえで作られるからね。プロセスごとにスタンダードセルの設計は全然変わってくるよ」

 ふむふむ、と頷きながら手元のノートにメモをする雪稜さん。そんな姿を見ていると、いい先生であろうと教えるのにも力が入る。

「ただし、この方法には欠点もあるんだ」

「良いことばかりに聞こえるんですが」

「問題は、このブロックが最小じゃないことなんだ。ブロックとしては小さく作ってあっても、シリコン上のトランジスタの配置の都合や配線の都合とかでブロックとブロックを組み合わせた隙間に空きスペースがどうしても出来てしまうんだよ」

「確かに向きや信号が出てくる場所が決まってるんですもんね。納得です」

 一を言えば十が出てくる雪稜さんを教えていると、こんなに素直に理解が出来なかった僕とは頭の回り方から違いを感じるなあ。

 っと、そんな劣等感を覚えてる場合じゃない。今は先生なんだから、ちゃんとしないと。

「だから、結局のところチップ全体としては面積の無駄が出てしまうんですね」

「そう。実際にダイの面積の中でスタンダードセルがどれだけ埋められてる、っていうのを示すのがスタンダードセルの利用率。普通に作れば七割くらいになるかなあ」

「残りの三割は、スタンダードセルを置きたいけど置けない場所ってことですね」

「あたり。さらに、使うロジックが多くなればなるほど、その無駄は……」

「その分伝える先のトランジスタが遠くなって、伝わる信号の遅延、クリティカルパスの延長、ひいてはクロック周波数に影響する。ですか」

「よくわかったね。その通りで、スタンダードセルを使うときはこの利用率を気にしないといけないんだ。今回のチップはかなり効率が悪いみたいだね、砂橋さんの言い方だと」

「ボクには全部は理解できなかったんですけど、そうみたいです」

 さっきも言いかけていたけど、雪稜さんの一人称はボク、みたいだ。気にしないで使ってくれるようになって、もっと皆との距離を縮めてほしいな、と改めて思う。

 ――特に、砂橋さんとは。

「そういう時に真価を発揮するのが、スタンダードセルを使わないブロックだね。ゲート単位だと最適化できてても、もっと大きい視点で見たら詰め込めるってことがあるんだよ」

「他の回路と組み合わせると、ってことですね」

「だから、特にモバイル向けみたいな半導体の面積に限りがある時とか、複数積むコアの中の大きなロジックとか、そういう少しでも面積を削りだしたい時には、スタンダードセルを使わずにロジックを使わずに半導体を起こすこともあるんだよ」

「多くなると大変ですよね、その仕事も」

「みたいだねえ。できればやりたくないって砂橋さんは言ってた」

「なるほど……」

 先生をしながらも、あの微妙な雰囲気を何とかできないか地雷を踏まないように気を配りつつ確認してみる。

 砂橋さんの名前を出しても動揺したり、嫌悪したりする素振りもないな。やっぱり、直接話すのが気まずいだけみたいだ。

「っていうのがスタンダードセルと、面積の最適化の話だね。じゃあ次に、僕たちJCRAから支援を受けてる人たちが使ってる半導体設計ツール、リズムってとこのイーノバスってソフトの使い方を教えるね」

「お願いします。なかなかツールを実際に触れるところが無くって……助かります」

「僕も専門じゃないから基礎しかわからないけど、お手柔らかにね」

 とりあえず、この感じで進めても大丈夫だな。何となく手ごたえを感じつつ、雪稜さんのパソコンを起動させてツールの使い方を教え始めた。

 初心者が初心者に教えるという構図だけど、少なくとも僕が蒼と砂橋さんに教わったときよりも覚えが早い。

 勉強していた下地があるのはもちろんあるだろうけど、やっぱりシンプルに頭がいいんだろうなあとぼんやりと思う。凄いな、雪稜さん。

「で、これで実際のシリコンの遅延データを読ませてからもう一回最適化を掛けてあげるわけ」

「ふむふむ、このシリコンのデータって言うのは、ボクたちが作るんじゃなくてプロセス担当の人が作るんですよね?」

「そうそう、この部活だと狼谷さんだね」

「わかりました」

「この次のステップはどうするんでしょう?」

「えーっとね……」

 それに、何となく穏やかな雰囲気で教えあっているのにはもう一つ理由があった。

「これも駄目ですね、論理設計チームと被ってるので先にそっちにお願いしましょうっ」

「え、また? とりあえず貰っておくわ」

「すみません、ここのブロックの役割なんですが……」

「ああ、そこはHDLのこいつの実装です。中は――」

「あーもうっ、こんなのアタシに何ができるっていうのさっ、いや、やらなきゃいけない事は星の数ほどあるんだけどさっ」

「結凪、落ち着いて。深呼吸」

「何だこのロジック? すみません、お聞きしてもいいでしょうか?」

「ええ、もちろんです。コアの中ですかね?」

「はい、そうです。この実装なんですけど――」

「うっわ、なんだこれ? どう考えてもこのラッチ要らないだろ、HDLがおかしいな」

 ……会議室の反対側から聞こえてくるこの地獄のような会議模様が、きっちり教えることで向こう側に合流するまでの時間を稼ぎたいと思わせていたからだ。途中から和重技師が呼んできてくれたこのチップの設計をしている技師の方も交えて激論が交わされている。ってか、そんなに直さないといけないところが多いってどうなんだ?

「もうやだぁ……おうち帰りたい……」

「泣き言言ってる暇あったらこれ見て頂戴、論理は問題なさそうだったから多分結凪のとこよ」

「うわぁーんっ、蒼の鬼ーっ」

「あー、じゃあこれは削れないんですねえ」

「ですね、不定が出るのはまずいので」

「うーん……ここが一番のネックだと思ったんだけどなぁ」

「私もそう思ったんですけどね、これ以上にいい実装は思いついていなくて」

「……向こうは戦場みたいだな」

「……ですね」

 多分雪稜さんも同意見に違いない。小さく耳打ちして、顔を見合わせる。

 その間にも向こうでは話が進んでいくのを耳半分で聞いていると、なんだか可笑しくなってくる。

「ははっ」

「なんだか、おかしいですねっ」

 二人で笑顔を交わしながら、なんとなく雪稜さんがこの部活に馴染み初めてくれたのを感じて一安心した。

 座学で教えられるところはまだまだあるけど、時間は有限だ。全部を平たく教えてたら時間がどれだけあっても足りない。予定通り今回の雪稜さんの仕事に必要不可欠な知識だけを教えていっても、あっという間にお昼になってしまう。

 一方、議論組はお昼休憩ぎりぎりまで現役技師の人たちと相談、いや討論を重ねていた。

 お昼ご飯を食べてから、再び会議室に集まったのは僕たちだけ。いよいよ本番の改良作業に入るってことだろう。

 デスクに座った僕たちに、蒼は言い放つ。

「さて、午前中で方針とやらないといけないことは決まったわ」

「悪い、主任みたいな仕事させちゃって」

「いや、いいのよ。これからシュウには一番面倒なところをやってもらうんだから」

 ちょっと気にしていたことを謝ると、蒼は目をそらしながら首を横に振った。珍しいな、ここまで気まずそうにするなんて。

 ちらりと砂橋さんのほうを見るとこっちも気の毒そうな目でこちらを見ている。ってことは、物理設計の何かか?

「何だ? 物理側の助太刀とかか?」

「いや、進行管理よ」

「進行管理? それって普通の開発主任の仕事だろ?」

 蒼の口から出てきた言葉は、なんとも普通な仕事だった。

 進行管理、つまりはそれぞれに仕事を割り振っていき、状況の確認を行いながらフォローをすることで時間までにプロジェクトを完了させる仕事。この間僕がやった、プロジェクトマネージャーの仕事に近い。

 疑問をこめて蒼に聞くと同時に、ふと、何かが足りない感覚を覚える。違和感を辿ると、悠と宏の二人が静かなことに思い至った。こいつらが静かなこと、今までにあったかな。でも、進行管理の仕事でそんな大変なことなんて――

「甘いわ。今リストを送ったわ」

「ん、来たな。どれどれ」

 貰ったファイルを開く。それは、数百行近くが記入された要改善リスト、つまりはタスクリストだった。

「……は?」

 思わず呆れの声が漏れた。これを、一日半で?

 皆の反応の理由が一目でわかった。これは大仕事だぞ。

「シュウ、あんたの仕事はとにかくこのタスクリストを片っ端からディスパッチ……私たちに振っていくことよ。一番効率よく要改善ポイントを潰せるように」

「左のほうに数字が三つ書いてある。一つ目は性能への影響、シミュレーションはしてないけど、経験レベルで数字が入ってる」

「もう一つは消費電力への影響だな。増えるか減るか、ざっくり見積もりが書いてある」

「んで、最後の一つは難易度、ってか必要な作業時間の見積もりだ。もちろん俺らでちらっと修正箇所を見て適当に入れた数字だから前後すると思ってくれ」

「以上、この三つのバランスを取りながら、明日の夜までに出来る限りタスクを消化すること。これが鷲流くんのお仕事だよ」

 つまりは、完成した設計上のチップがどんな特徴を持って、それを実現するにはどういう種類の改良が必要かを把握したうえで、時間と相談をしながら投げれるものを適切な人に投げるのが仕事だ。チップの完成度を左右すると言っても過言じゃない大仕事、それを僕が?

「なるほどな? 何もわからんわ」

「シュウお前、現実から逃げんなよ」

「いや、脳が理解を拒否していてな……」

「最初はそれぞれ一時間半くらいで終わる仕事をするよう私があらかじめ割り振っておいたわ。だからシュウ、あんたは一時間半で内容を把握して、計画を立ててちょうだい」

「……わかった。やるしかないんだもんな」

 蒼のまっすぐな目で見つめられて、改めて腹をくくった。

 少なくとも今ここに、僕に出来る仕事がある。それなら、出来ることを精一杯やることだ。今だけは弱気になることをやめよう。

「あ、あと珪子は結凪と一緒に作業してちょうだい。さすがにいきなり実戦投入は可愛そうだから」

「ん、判った。アタシと一緒にやるよ、珪」

「はいっ」

「よっし、じゃあ早速始めようぜ。全員最初のタスクは判ってるんだよな?」

「任せてお兄ちゃん」

「大丈夫」

「おうよ」

 みんなから口々に肯定の言葉が飛んでくる。よし、まず皆のやる気は十分だな。

「NEMCエレの人たちに、若松科技高コン部の凄さ、見せてやろうぜ」

 だから、そのやる気をさらに煽るのも僕の仕事だ。全員と目を合わせてから、出来るだけ楽しそうに声を出す。

「っし、作業開始っ」

 こうして、時間とタスクのせめぎ合いが始まった。

 部屋の中には一気に沈黙が降り、マウスとキーボードの忙しない音だけが響き始める。

 手始めに、問題の概要と修正箇所などがまとまったリストに目を通していく。これが少なくとも大体把握できていないと仕事にならないからな。リストに書かれている問題を見ていくと、物理設計と論理設計、そしてその中間――両方が絡んだものと、種類は様々だ。

 シミュレーション結果と同時に作られる莫大なブロック図と蒼たちが書いてくれた概要、時には実質的な設計図であるHDLまで確認しながら、最初のタスクに取り組んでもらっている間に割り振るリストを作っていく。

 まさか蒼と砂橋さんの指導が役に立つ日がこんなにすぐ来るなんて、しかもそれがこんな実戦の場だなんて思ってなかった。

「ちょっと早いけど終わった、テストも通ったぜ」

「お疲れ悠、次は十五番のタスクだ」

「十五番、げ、大物だな。了解」

 一時間ほど経つとぽつぽつと最初のタスクが終わり始める。すぐさま次の指示を出すと、進捗具合に応じて割り振りも修正していかないといけない。

 本業でエース級の砂橋さんと蒼には、難しくて影響度の大きいタスクを。そのほかの皆にはできるだけ短時間で、かつ電力と性能両方への影響が大きいものを。考えている間にも、刻一刻と状況は変わっていく。

「珪、そっちは?」

「あと五分、いや三分待ってください……っ」

「りょ、頼んだよ」

 少し不安だった砂橋さんと雪稜さんペアにちらりと目をやると、二人ともとんでもなく集中しているように見える。作業が始まってしまえば心配は杞憂だったみたいだな。

 とはいえ、とりあえずのリストは作ったし、方針も見えたからこれをアップデートしながら割り振りを考えていくだけ。少しは楽になりそうだな。

 そんな風に、この時は思っていた。

「蒼、まだそれ終わんない?」

「最後の仕上げがまだっ、単純作業なのが憎いわっ」

「単純作業? じゃあそれこっちで引き取るから、次百五十三番に着手しちゃって」

「わかった、頼んだわよシュウ。残処理はコメントに入れておくわ」

「お兄ちゃんっ、終わったっ!」

「道香は次七十二番!」

「おーい弘治、ここの仕様判るか?」

「僕に聞いても判んないよ、和重技師お願いしますっ」

「ん、判った。どこがわからんって?」

「……メモ紙とペン、貰える?」

「はいはいっ狼谷さん、これね」

  大体二時間後の午後三時、僕たちは息のつく間もない地獄を迎えていた。

 僕でもできる簡単な残務を引き取って、他の皆にしか出来ないことを依頼して効率を上げることに手を出したのが一番の理由だ。そうでもしないと、この量は捌けないことに進捗具合を見ていて気付いたからだ。

 書かれていた予測時間は悠が言っていた通り前後する。しかも結構な割合で伸びる方向に。それ自体は仕方ないから、なんとか効率よく回す方法を考えた結果がこれだ。

 キャパオーバーにならないよう気を付けながら、時間とプロジェクトの状況も管理する。ついでに事務系の雑務もやる必要があって、目が回りそうだ。

 さらに三十分目を回し続けた午後三時半。

「ん、いったん休憩休憩! 根詰めてやりすぎると死んじゃうから!」

 皆の目にもさすがに軽い疲れが見えてきたところで、大きく声を掛けた。

 疲れが溜まってる状態でずっと仕事に向かい続けるのは逆に効率も悪くなる……というのは言い訳で、あまりの忙しさに僕の手が回らなくなりつつあったからだ。これだけの仕事量を無休憩はさすがに無理がある。

「はぁー、おやつ休憩ってとこかしら」

「しんどいぜ、これ」

「弘治の奴容赦ねえもんなあ」

「仕方ないだろ、気を使ってたら終わらないんだ」

 部員のみんなは伸びをしたりと思い思いの休憩を取り始めた。その間にも、ある程度溜まったタスクを淡々と処理していく。

「死」

「ちょっ、狼谷先輩、バグらないでくださいっ」

 狼谷さんも疲れ果てた、といった感じで物騒なことをつぶやきながら机に突っ伏している。普段は製造側だし、あまり慣れていない仕事をたくさんお願いしちゃったな。若干の罪悪感は覚えるけど、明日はこれを一日中やらないといけない。もう既に気が滅入るぞ。

 そんな、ちょっと弛緩した空気の中。

 パソコンを操作する音は止まない。

「……」

 砂橋さんはまるで何かに取りつかれたかのように、鬼神のような速度でパソコンを操作し続けていた。

 その隣では、雪稜さんがその様子をじっと見つめている。その表情に見え隠れしている感情は、複雑に入り組んでいるように見えた。

 そんな様子を見た蒼は、客人用の冷えたお茶のパックを小さな冷蔵庫から取り出す。そのままゆっくりと砂橋さんの後ろへ回ると、そのよく冷えたお茶を、指に残像が見えそうなほどの速度で作業を進める砂橋さんの首筋へと張り付けた。

「こーら、結凪っ」

「ぴゃぁいっ!?」

「ちょっと休憩しなさい、死んじゃうわよ」

 本当に気付いていなかったんだろう、砂橋さんは椅子から何センチか浮いたんじゃないかと思うほどに体をびくっとさせた。いつか心臓が止まるんじゃないか?

「ちゃんと休めって、結凪が言ったんだからね」

「……ん、もちろん。あーあ、アタシも休憩にしよ」

 蒼の強引な休憩の取らせ方に、砂橋さんも苦笑いだ。その当の本人の蒼も苦笑いなんだからお互い様か。ほんと、この部の皆は外から言ってあげないと永遠に作業しちゃうタイプばかりだからな。

 っと、よし。自分のタスクも幾分か減らせたぞ。皆からの完了報告を基にスケジュールを練り直す時間が無いからだいぶ効率よく進んだな。

「ちょうどいいタイミングだな。おやつを持ってきたぞ」

「甘いもの!? ありがとうお爺ちゃん」

「ありがとうございます、砂橋技師。頂きます」

 ちょうどそんなタイミングで和重技師が袋菓子を持ってきてくれた。みんなでお菓子をつまんだら、十五分ほどで作業を再開。

 うん、少しの時間休憩して気分転換するだけでも、だいぶ集中力が戻ってきたな。若干落ちつつあった皆のペースも戻った気がするし。

「よーし、今日はここまでだな。時間だ」

 次に作業の手が止まったのは、和重技師の声が聞こえたから。時計を見るともう十八時、終業時間を過ぎてしまっていた。

「そうですね、もう時間も過ぎちゃってますし。みんな終わり、今日は撤収!」

「ふいー、なかなかどうして大変だな。血を吐きそうだ」

「宏がそう言うときはまだ大丈夫な奴だな」

「ほら、馬鹿やってないで撤収するわよ。砂橋技師に迷惑かけちゃうから」

 皆で素早く片づけを済ませ、ホテルに持っていく物だけ回収。昨日と同じようにホテルまで送ってもらい、すぐにみんなで夕食を取る。

「あー、さすがに今日は疲れた……」

 夕食後、部屋に戻ってすぐ。行儀が良くないのは承知で布団へと倒れこんだ。久々に頭を本気で使ったからか、なんとなく気だるい。

「明日は一日中あのペースだろ? 俺死ぬかもな」

「悠なら大丈夫だろ、死んだって見てくれだけはかわいいんだから生き返れるさ」

 宏と悠もお疲れなようで、同じように布団に倒れこむと脊髄反射で会話を始めた。いつもの奴だ。

「見てくれが可愛い要素、復活に関係するか?」

「閻魔大王が男の娘好きかもしれん」

「それに裁かれる僕たち、考えたくなさすぎだろ」

「オレらはまあ地獄行きだな」

「お前は普通の閻魔大王でも地獄送りだよ」

「俺しか得しないじゃん、勝ったな」

 ……本当に頭をひとつも使っていない会話だけど、それはそれで楽しい。これも合宿らしいひと時なんだろうな。

 本当に無価値な会話を交わしながら飛び込んだ布団の感覚を堪能していると、ぴんぽーん、と部屋のチャイムが鳴った。

「誰だ?」

「出たくねえな……シュウ、頼むわ」

「何でだよ」

「お前が一番出入り口に近いからだよ」

「仕方ねえなあ」

 あまりの気だるさから出るのをためらう僕たちに、二発目、三発目とチャイムの音が追い打ちを掛ける。

 重い腰を上げ玄関へ向かい、ドアスコープを覗いてみた。そこに居たのは、昨日と同じく部屋着の蒼。

「ん、どうしたよ蒼」

「今日もやるわよ、幹部会議」

 ドアを開けると、なんだか嬉しそうな蒼に即捕まった。物理的に。

「あー、わかったわかった鍵だけ持たせてくれって!」

 慌ててドアの近くに刺してある鍵だけ引っこ抜くと、手首を引きずられるようにして蒼に連れていかれた。

 昨日とまったく同じように蒼の部屋に放り込まれたから、同じように椅子に座る。蒼も昨日と同じようにベッドに腰を落とした。

 んー、と伸びをする蒼を見ながら机に頬杖をつく。どこかおかしかった蒼に気を取られてて昨日は気付かなかったけれど、男どものむさい部屋とは違って、蒼の部屋はどこか落ち着くいい香りがする気がする。

「いやいや、変質者かよ……」

 そこでちょっとドキッとしてしまった自分に、小声でツッコミを入れた。

 そう、今さらだ。

 蒼が女の子なのは知っている。いや、知っていた……はずだ。

 これ以上考えるのはよくない。そう思った瞬間、蒼に声を掛けられた。

「ん、どうしたのよシュウ」

 本当にことも無さげな姿を見ると、逆に心が落ち着いてきたぞ。うん、今日はいつも通りの蒼だ。安心した。

「いや、本題に入ろうぜって思ってな。今日は昨日の続きか?」

 そのまま本題に入ると、蒼は顎に手を当てて悩み始めた。

「ん、そうね。昨日は結凪の話を聞いたし、今日はもう一人の話を聞こうかなって」

「雪稜さん、か」

「そ。あの子も今日はだいぶ馴染んできてくれてたみたいだし、いいかなって思うんだけど……どうかしら」

 ちょっと考えてみる。教えている感じでも、だいぶこの部の雰囲気に慣れてきてはいるみたいだったな。

 それと同時に、今日の休憩時間のことを思い出す。真剣に画面を見つめる砂橋さんを見ている雪稜さんの、なんとも言えない……羨望や困惑、そして 楽しさと喜びの入り混じった表情。

 その真意は何なのか、知りたいと思った。

「どこまで話してくれるかはわからないけど……聞いてみるのは悪くないんじゃないかな」

「シュウがそう言ってくれるなら安心ね。じゃ、早速行きましょうか」

「今日も突撃するのか? 雪稜さんは道香と一緒だったよな」

 蒼が立ち上がる。一般的高校二年生男子としてはあんまり女の園にぶち込まれるのは気まずいんだけど……まあ、道香がいるなら大丈夫かな。

「そうね。さ、行くわよ」

「行くから引っ張らないでくれって」

 またもや手首を引っ張られるようにして部屋を出ると、蒼は昨日訪れた砂橋さんたちの隣の部屋へと歩いていく。

 辿り着いた部屋のドアベルを躊躇なく押すと、ぴんぽーん、とチャイムの音。ばたばたという小さな足音が聞こえて数秒後、ドアが開いた。

「蒼先輩にお兄ちゃん、こんばんは。どうしたんですか?」

「ちょっ、お前、格好」

 部屋から飛び出してきたのは道香。多分少しサイズが小さいんだろう、体のラインが出ているTシャツに短パンを履いただけのラフな格好は、いくら妹みたいな道香とはいえ非常に目のやり場に困った。

 昨日の狼谷さんと似たような格好とはいえ、なんというか、凹凸が大きな分余計に。

「……いっつもそんな格好で居るの?」

「涼しいので夏はこんな感じですっ」

 蒼も同じ感想を抱いたみたいで、少しの呆れが伺える視線で道香を見ていた。気持ちはわかるぞ。

「まあ、いいってことにするわ。合宿で一人っていうのも寂しいし、道香ちゃんや珪子ちゃんとも話したいな、って思ったのよ。どうかしら?」

「そういうことなら是非是非、お兄ちゃんもおいでっ」

「ちょっ、道香!?」

「おわ、道香お前、くっつくなって」

 蒼の手を引きながら腕に器用に飛びついてくる道香。薄いシャツを貫通して、何とは言わないが柔らかいものが腕に当たって触覚が幸せを訴えている。

 できるだけ意識しないようにしないと、こういう時には素数を数えるのがいい。そうだ、一、三、五、七、九……

「ささ、二名様ごあんなーいっ」

「よくそんな元気が有り余ってるわね……」

「明日もうちょっと仕事振っても大丈夫そうだね」

 素数だと思われるものを数えながら悟りを開いている間に、僕たちはばたばたと道香の部屋に連れ込まれた。やっぱり記憶にある道香とパワーが違うのは、ここ何年かの成長なんだろうなあ。そのパワーをこのタイミングで目一杯発揮しないで欲しい。

「珪子ー、お客さんを一杯捕獲してきたよーっ」

「捕獲!? 一体何を……って、部長と鷲流先輩でしたか。こんばんは、どうされたんですか?」

 そのまま部屋の真ん中のほうへ引きずりこまれると、そこにはとっても常識的なパジャマを着た雪稜さんが居た。

 二人の会話に引っかかりは感じない。本当に仲良く過ごしてくれているみたいだな。

 雪稜さんの座る椅子の前のデスクにはタブレットとノートが置いてある。タブレットに表示されているのは何かの技術書のようだ。今日一日の疲れもあるはずなのに、この時間にも勉強をしていたらしい。

 確かに、道香っていい先生が居る間に勉強を進めておこう、って気持ちはわからなくもないか。

「ほら、一人で居るのは寂しいじゃない。だから遊びに来てみたの」

「僕はそのおまけで引きずられてきただけだから、お気遣いなく」

 とりあえず来た目的を話すと、雪稜さんは少しだけ申し訳なさそうな表情を見せる。

「確かにそうですよね、ボクが言い出した――」

「違うでしょ珪子、言ったのはわたしなんだから。だよね、お兄ちゃん」

「お、おう。そうだな、道香が言ったことだ」

「もう……」

 雪稜さんが変に気を使いそうなところで、気を使わないよう先回りしてフォローする道香。さすがにここまで見え見えだと、雪稜さんも苦笑いしかできない。

 人見知りなところがある雪稜さんとぐいぐい行く道香の相性はやっぱりよさそうだ。今日あれだけ馴染むことが出来ていたのは道香のおかげだな。

「ねえねえお兄ちゃん、ちょっと来てよ」

「ん、なんだ道香」

 ふと、いつの間にか少し玄関のほうに離れていた道香に小声で呼ばれた。

 歩いていくと、びっくりするくらい近くまで顔を寄せて話し始める道香。その距離の近さに、ちょっとだけ緊張してしまう。

「もしかして……来たのって、珪子に関する話を聞くため?」

 だけど、話は至極真面目だった。ちょっと浮つきかけた気持ちを落ち着かせると、小声で耳打ちを返す。

「よく気付いたな。そうそう、昨日砂橋さんから話を聞いてね」

「わたしも協力するよ、実は昨日はなかなか踏み込む勇気が出なくて聞けてないんだ。それに、気にならないって言ったら嘘になるし」

 どうやら、この聡明な後輩は僕たちが来た理由を一発で解してしまったらしい。その観察眼と頭の回転の速さには本当に舌を巻くな。

 改めて道香と目を合わせると、いつものヒマワリみたいに元気で明るいものではなく、まるで月光のように優しい微笑みを見せた。

「……理解が早くて、本当に助かるよ」

「わわっ、もう、お兄ちゃんっ」

 その普段とのギャップに、ちょっとだけ。そう、ちょっとだけドキッとさせられたから。

 誤魔化すように、道香の髪をくしゃっと撫でた。

 それから広い部屋のほうへ戻ると、蒼のじとっとした視線と雪稜さんの不思議そうな目線が突き刺さる。そんなに変に見えたかな?

「ん、戻ってきた。何をこそこそしてたのよ」

「いや、ちょっとね。蒼の噂話を」

「は? え、ちょっと、私も同じ部屋に居るっていうのに何やってるのよ」

「んー、まあ色々とな」

「シュウあんた何話したのよっ、ねえっ」

「いやいやいやっ、それはお兄ちゃんの冗談ですって蒼先輩!」

「ふふっ、本当に何してるんですか」

「ねーっ」

「ちょっと道香も!」

 蒼の言葉をカウンターで返すことで、ちょっと冗談めいた明るい雰囲気にする。これで準備はオッケーだろう、雪稜さんの表情にも笑顔が見えたし。

「さて、せっかくだし……そだなあ、わたし、珪子のこと、もうちょっと聞きたいかな」

 道香もその雰囲気を感じてくれていたみたいだ。ほんの一瞬僕と蒼に目配せをして、雪稜さんへ話を振った。

「え、ボクの話……?」

「ん。なんか砂橋先輩とも何かありそうな感じだし、話せるなら聞いてみたいなって。お友達なの?」

 話を振られた雪稜さんはきょとん、とした後、真面目な表情に戻る。自分の今までの態度を思い出したのかもしれない。

「……そっか、わかった。先輩方や道香には聞いてほしい、かな」

 それから、彼女は少し苦笑いを浮かべながら――どこか過去を懐かしむような目をしながら、ゆっくりと話し始めた。

「お友達、というか……中学校が同じだったんだよ、ゆい先輩とは」

「ゆい、先輩?」

「はい、ずっとそう呼んでたんです。ボクにとっては小さいけど頼れる先輩で」

「へぇ……」

 ちょっと意外なような気もするけど、確かにいざというときの砂橋さんは頼りになるしな。普段は面倒くさがりだけど。

「ずっと、仲良くしてたんです。何でも話してくれて、何でも相談になってくれる……先輩と後輩なんですけど、親友、でもあると思ってたんです」

「ん、いい関係じゃない」

 その話を聞いて、この少し背の高い雪稜さんがにこにこと笑いながら……まるで大型犬のように、砂橋さんの周りを楽しげにうろついている姿を何となく想像した。どっちが姉かわからない姉妹のような感じだったんだろうなあ。

「はい、とっても楽しくって。親同士も同じ会社で仲も良かったので、家族ぐるみの付き合いもあったりして、本当に仲良く楽しく過ごしてました」

「ああ、なるほど。だから結凪先輩は雪稜所長のことも知ってたんだね」

「そうそう。お互いの家を何度も行き来して遊ぶ仲だったんだ」

 楽しそうに話していた雪稜さんだけど、一気に表情が暗くなる。その豹変に僕も蒼も、そして道香も小さく息を呑んだ。

「でも、卒業する少し前です。ボクはてっきり、ゆい先輩は同じ地元の高校に行くんだと思ってました」

「……実際は、若松科技高に来たんだよね」

「はい、親元を離れて、祖父母の家にお世話になる形だって聞きました」

 まさに昨日砂橋さんから聞いた話だ。話を続ける雪稜さんの表情は、どこまでも深い後悔をしているように見える。

「でも、ボクはそれを直前まで知らなくって……それを教えてくれなかったこと、相談してくれなかったことが少し寂しくって、裏切られたみたいに感じちゃって。ゆい先輩に、八つ当たり、しちゃったんです」

 それは、些細なすれ違いから生まれた……小さな悲劇。

「そんなことがあったのね……」

「もちろん、今は判ってるんです。別にゆい先輩がボクに話を絶対するとは限らないですし、話の内容も進路のことなんて、あんまり言いふらすようなことでもないですから」

 寂し気に、心の痛みを押さえつけるような表情で言葉を漏らす雪稜さん。こうやって話を出来るようになるまで、どれだけの後悔をしてきたんだろう。

「でも、そのときは売り言葉に買い言葉みたいになっちゃって、酷いことも一杯言っちゃって……そのまま、ぎくしゃくしたままゆい先輩は卒業しちゃったんです」

 今までの姿を見ていると、ちょっと想像出来る気がする。そして、この時にきっと砂橋さんも色々と言葉選びを間違ってしまったんだろう。砂橋さんは砂橋さんで、雪稜さんは雪稜さんで傷を負ってしまったんだ。お互いになかなか消えない、深い傷を。

「謝るタイミングもなく、会う機会も無くなっちゃったってことか」

 そのささやかで大きな悲しみには、嘆息することしかできなかった。そういうことなら、あんな距離感を掴みかねるような雰囲気になるのもわかる。

「でもさでもさ、その時ってコンピュータのことってやってなかったんでしょ? どうして今回、こうやって参加してこようと思ったの?」

「……ゆい先輩と別れた一年後、ボクの卒業のタイミングでお父さんが高崎に転勤になったんだ。その時に思ったの、あのゆい先輩をとりこにしたコンピュータって、半導体って何なんだろうって」

「へえ、そういう動機で勉強し始めたのね」

「そうなんです。……でも、高崎にも科技高は無いの。確かにNEMCエレの大きい事業所はあるけど、見てもらった通り半導体の製造はやってないから」

「あー、アナログの前工程って言ってたものね」

「アナログ半導体とやらのプロセスだと、僕たちが作るようなチップは作れないのか」

「そうね、集積度よりもアナログ回路としての特性が重視されちゃうから製造工程や機械が結構違うのよ。製造プロセスもそこまで細かくないことがほとんどだし」

「そういうものなんだな」

 前に蒼に聞いた話では、科技高の設置には近くに半導体の製造を行う工場があること、そして計算機工学・半導体工学系の学科がある大学があることという二つの条件があるのだという。

 前者では材料や製造に使う薬品・ガスの融通といざという時の製造を行うため、後者は適切な教育を行うため……というお題目だったはずだ。

 例えば若松科技なら線路を挟んだ反対側に製造委託までできる武蔵通の半導体工場があるし、大学も会津大学に詳しい教授が居るらしい。ここ高崎にはNEMCエレがあるけど、僕たちが使えるようなデジタル半導体の製造はやっていないから、前者を満たすことが出来なかったというわけだ。

「だから、部活に入る代わりに本を読んだり、休みの日にはお父さんに教えてもらったりしながら勉強を始めたんだ」

「なるほど、勉強を始めたのは今年だったんだな」

 僕と同じくらいの理解度だった理由を知ることが出来て、日中の光景に納得がいった。

 先生は忙しそうにしている雪稜所長と考えると、大体は独学だったんだろう。僕は部員皆が先生で、ずっと教えてもらってようやくこの理解度だ。やっぱり努力家であることに疑いはない。

「なんか、親の仇を討つために相手のことを勉強するみたいな話だね」

「ん、最初は本当にそんな気持ちだった。ゆい先輩が居ない一年間がつまらなくて、心苦しくて。挙句の果てには進学して時間があるからって理由で勉強まで始めちゃって」

 心臓が止まるかと思うほどの衝撃を受けた。

 雪稜さんが半導体の勉強を始めた理由は、半導体が、コンピュータが母さんの仇だと思っていた……春までの僕に近いものがあったから。

 勉強を始めたタイミングどころか理由までも似た雪稜さんに、どこか自分の姿が重なって見える。

 久しぶりの心の軋みを思い出しながら、雪稜さんの話に引き続き耳を傾けた。

「でも、始めてみると面白かったの。だって、数十ナノメートルなんて世界の出来事を人間が制御しちゃうんだよ? あんなちっちゃい石の欠片に、数十億とかの機械が入ってるって考えられないじゃん」

「そうね。本当に面白くて、奥が深い技術よ」

 蒼は相槌を打ちながら、僕の方をちらりと伺う。蒼もこの子と僕の近さに気付いたんだろう。

 実際に勉強を始めてみると底なし沼のように奥が深くて面白いことに気付くところまで、僕と彼女はよく似ていた。

「そして先週の日曜日、情報工学系のニュースサイトで見たの。コンピュータ甲子園で優勝して、賞状を貰うゆい先輩たちの写真を」

「あー、上がってたね。へへっ、嬉しかったけど恥ずかしかったなあ」

「そこでね、もう一回ゆい先輩に会いたいな、って思ったんだ。あの時言えなかったごめんなさいも言いたかったし、こんなに面白い世界を教えてくれてありがとう、って言いたくて」

「そこに、今回の合宿の話が舞い込んできたんだな」

「はい。聞いた時は本当にびっくりしました、こんな幸運があるのかって。だからお父さんにお願いして、土下座までして参加を許してもらったんです」

「ど、土下座までしたんだ……」

「じゃあ、砂橋先輩とは話せたの?」

 道香らしい、柔らかな笑顔から繰り出されるまっすぐで鋭い質問。

 ちゃんと話せていないのは自分でもわかっているんだろう、雪稜さんは気まずそうに目をそらした。

「……自信がなくて、怖くなっちゃったんだ。まだゆい先輩が怒ってたらどうしようとか、ボクみたいな勉強始めたばっかの子なんて相手にしてもらえないんじゃないかって」

 その口からは、弱気な言葉が漏れる。

 これがあの、微妙な距離感の正体だったんだろうな。

 お互いに気まずいことがあって、別離して、久しぶりの再会でどうしたらいいのかわからなくなってしまう。

 言葉にしてしまえば、小さなすれ違いだ。でも、本人たちにはきっと超えられない高い高い壁としてそびえ立っていたんだろう。

「ん、そういうこと。じゃあ、珪子は結凪と仲直りしたいのね?」

「はい、もちろんですっ……ボクは、そのためにここに居ますから」

「それなら大丈夫だよっ。だって、それだけ珪子が好きだった人なんだから――」

 ちらりと僕と蒼にアイコンタクトをしてくる道香。

 何を聞きたいかはもうわかっていた。言葉を交わすことなく、僕たちは笑顔で小さく頷いた。

「きっと、結凪先輩も同じこと思ってるよ。あの先輩はちょっと不器用で……それに、とっても優しい人だっていうのは珪子が一番知ってるんじゃない?」

「だから、あとは雪稜さんがちょっと勇気を出すだけじゃないかな。きっと砂橋さんはそれに応えてくれるよ。それに、ごめんなさいをして、仲直りするのは出来るときにしちゃうのが一番だからさ。……気付いたら、時間が経てば経つほど、そういうのって難しくなるから」

 そう、時間が経てば経つほど、わだかまりを解くのは難しくなる。時間は人と人との距離を無理やり離してしまうから。

 例えば――そう、僕と親父のように。

 ふと頭に浮かんだのは、今朝取り戻したばかりの光景。もう声を届けることができない母さんの優しい笑顔と……同じような笑顔を見せる親父の姿だ。

 「そう、だね……そうです、よね」

 雪稜さんの悩むような声で、現実に引き戻された。若干及び腰なのは、やはり恐れがあるんだろうなあ。気持ちはよくわかる。

 それを見た蒼はむーん、と小さく唸ってから、楽しげに手を叩いた。

「よし、じゃあこうしましょう。明日の夕飯の後に部内会議を開く予定なのよ、ちょうど明後日のキャンプに関しても幾つか話をする必要があったし。その後で結凪と一緒に話をしましょ?」

「わたしも居るつもりだし、大丈夫! 勇気が出なかったら蹴っ飛ばしてあげちゃうから」

「結凪は私が引っ張ってくるわ。結凪のほうの背中を蹴っ飛ばすのは私に任せてちょうだい」

「そんなっ、部長のお力までお借りして……いいん、でしょうか?」

「んー、その呼び方はあんまり良くないわね。せめて蒼部長、とかにしてくれないかしら?」

 わかってとぼけたお願いをする蒼は、雪稜さんのことを優しい笑顔で見つめていた。

「は……はいっ、蒼部長」

「それにね、部長は部員のために働くのがお仕事なのよ。今は珪子もうちの部員なんだから、遠慮する必要なんてないの」

 雪稜さんは僕たちの言葉を聞くと一瞬はっとした表情を浮かべて、それから目じりに涙を浮かべながら感謝を告げる。

「ありがとうございますっ」

 これで、決戦は明日だな。

 とはいえ、この二人ならば心配はあんまり必要ないような気がした。お互いに気にしあっていたわけだし。

 明日の夜には二人の笑顔が見れていると嬉しいんだけど。

「あんまり気負いすぎず頑張りましょ……さて、この話はここまで。せっかくの合宿の夜なんだし、何か他のお話か何かしましょうよ」

「はいはーいっ、じゃあじゃあ、今度は蒼先輩のお話を聞きたいです!」

「え、ええっ、私の話!? そんな面白い話はないわよ」

「ちょっと私も聞いてみたい、かもしれません」

「珪子までっ、もう……」

 こうして、しばらくの間笑顔でおしゃべりに興じる。

 十時半少し前に部屋に戻ると、悠と宏は相変わらずゲームに熱中していた。

「ん、お帰りシュウ。蒼とは何を話してたんだ? 愛の告白か?」

「は?」

 突然悠から投げられた危険球に思わず一文字で返すと、奴は宏と一緒ににやにやと笑い始める。

 あまりにも普段通りの二人に、大きな大きなため息をくれてやった。

「っと、その反応ははずれみたいだな。ま、雪稜ちゃんと砂橋ちゃんあたりの話だろ?」

「お、おお。当てられるとそれはそれで怖ええな」

 一方、宏からはど真ん中直球が飛んできてそれはそれで驚いた。

 ……ちゃんと判ってるんなら、最初からからかってこなければいいのに。どうせそう言っても、『そんなの面白くない!』と歯牙にもかけないんだろうけど。

「どうだ? 二人とも、上手くやれそうな感じか?」

「おう、それは心配無さそうだ。明後日にはもう大丈夫だと思う」

「そっか、それなら何よりだ。それより弘治もどうだ? 一戦やんねえか?」

「プレタミ4でオフラインマルチは……って、お前、Stitchも持ってきてたのか」

 テレビに繋がれていたのはまた別のゲーム機、聖天堂のStitchだった。こいつ、手持ちのゲーム機を全部持ってきやがったな?

「あったり前だろ?」

「ったく、一戦したら寝るからな……っと、WINEだ」

 その時、携帯が震えてメッセージの着信を伝えた。画面を見てみると、WINEの送り主は道香だ。

 そこに表示されていたのは、「ちょっとロビーでお話できない? お兄ちゃん」という文字。道香が話って何だろう? とりあえず、行かない理由はないか。

「およ? また蒼か?」

「ちょっと出てくるわ」

 短くわかった、とだけ返して、部屋を出る準備をする。

「持ってくなら予備の鍵にしてくれよ。あの後電源落ちて大変だったんだからな」

「あー、悪かったな」

「ほらよ、これ」

「さんきゅ」

 少しの疑問を胸に、悠が投げたカードキーを受け取ると再び部屋を後にした。



 お兄ちゃんと蒼先輩が出て行って、少し。わたしは、お兄ちゃんにWINEを送ってしまいました。

「わ、送っちゃった……」

 画面に表示されてしまった、メッセージを送ってしまったという事実。

 迷惑になるかな、と思って送るのをやめようと思っていたんですけど、気付けば手は送信ボタンに触れていました。

「どうしたの道香?」

「ううん、なんでもない」

 何となく気恥ずかしくて誤魔化した直後、WINEのメッセージが帰ってきました。それを見て、すぐにベッドから立ち上がります。

「ちょっと出てくるね、そんなに掛からないで戻ってくると思うから」

「わかったけど……あんまり遅くなったら危ないからね」

「だいじょーぶだいじょーぶ、ロビーまでだから」

 不思議そうにわたしを見つめる珪子にひらひらと手を振ると、予備のカードキーを持って部屋を飛び出しました。

 わたしがロビーに辿り着いたのとお兄ちゃんがエレベーターから降りてきたのはほぼ同時。わたしから呼んでおいて待たせるなんて事態にならなくて一安心です。

「で、どうしたんだ? 話したいことって」

「んー、っとね」

 どうしましょう。特に理由がなく、ふとお兄ちゃんと話したいって思っただけなんて言うのは、さすがにまずいですよね。

「お兄ちゃん、合宿楽しんでる?」

 結果、選んだのはとっても無難なカードでした。それこそ天気の話題くらいに無難すぎます。

 でも、お兄ちゃんは安心したように笑ってくれました。

「そりゃ、もちろん。こうやって皆で泊まってわいわいするなんて、記憶にある限り初めてかもな」

「そうなんだ? こっちに来る前とかは無かったの?」

「あったのかもしれないけど、もう詳しくは思い出せないからさ」

 ははは、と笑って見せるお兄ちゃん。でも、思い出せないってことにちょっと引っかかります。わたしは幼稚園ぐらいまでの楽しかった思い出ならギリギリ思い出せるんですが……まあ、人によるってことでしょうか。

「そっか。はーあ、お兄ちゃんとこうやって合宿でお話できるなんて夢みたい」

「確かになあ。道香が帰ってくるなんて思ってなかったから、本当にびっくりしたよ」

「ふふっ、でしょ? 日本の学校も久々だったし、勝手が違いすぎて最初戸惑っちゃった」

「道香でもそうなるんだな。どんなところが違うんだ?」

「えーっとね――」

 それから、わたしたちは何てことない話をしました。学校の違い、先生のこと、そして部活のこと。本当にとりとめのない、なんてことない話です。でも、それがとても楽しくて、その時間がとても幸せでした。

「っと、もうこんな時間か。そろそろ寝ないと明日に響くぞ」

 気付けば、時計の針は十一時を指そうとしていました。確かに、二人揃って寝坊は洒落にならないですね。

 今朝の感じだと珪子は朝に結構強そうだったのでわたしは大丈夫かもしれませんが、お兄ちゃんの部屋のメンバーを考えると揃って破滅の未来が見えてしまいます。

「もうそんな時間なんだ。じゃ、おしまいだね」

「結局、話したいことって何だったんだ? 合宿の話?」

 最後にお兄ちゃんに聞かれて、改めて今までの自分の心を振り返ります。そしてようやく、答えに辿り着きました。

「ううん、実はね、特に話さなきゃいけないことがあったわけじゃなかったの」

「そうなのか?」

 お兄ちゃんは驚いたような表情を見せました。確かに、今までわたしからこうやって二人でお話に誘うことってほとんど無かったですもんね。あの雨の日、過去の清算をしたあの日くらいでしょうか。

 だから、わたしは笑顔で伝えます。

「うん、お兄ちゃんと二人きりで、なんてことない話をしたかったんだよ」

 その本心に、お兄ちゃんも、優しい笑顔で応えてくれました。

「……そっか。道香が退屈じゃなかったんならよかったよ」

「そんなことないよ。楽しかったよお兄ちゃん」

「じゃ、戻るか」

「だね」

 それから、二人でエレベーターに乗って、お兄ちゃんが先に降りて。

 一人でエレベーターホールに投げ出された私は、そのまま隅にしゃがみこみました。

「わ、わたし、あんな本当のことをそのままっ」

 さすがに、ここまで直接自分の考えていたことを伝えてしまったことは初めてです。なんだか意識をしているように聞こえてしまったかもしれません。

 いえ、意識をしていないわけじゃないんです。むしろ――と考えたところで、冷静な自分が告げます。あの時のお兄ちゃんの表情、見てた? と。

 そのおかげで、少しだけ落ち着きを取り戻しました。

 そう、あの日。雨の中で、わたしたちが戻ったのはあくまでお兄ちゃんと妹でしかないんですから。

 だから、お兄ちゃんの優しい笑顔がまるで本当の妹に向けられるような、優しいものだったとしても……それで、もう十分なんです。こうしてお兄ちゃんと話せるだけで、十二分なんです。

 でも、やっぱりそれだけじゃ満足できないと叫ぶわたしも居て。

「とりあえず、明日の朝お兄ちゃんの顔も見れないことにならなくてよかった、のかな。うん、そうだよね」

 心の寒暖差に風邪を引きそうになりながら、できるだけ平静を装いつつ珪子の待つ部屋へと戻ることにしました。

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