0x03 思わぬ参加者
砂橋さんの魂の叫びから数十秒。
「この子が今回一緒に合宿をしてもらおうと思っている、雪稜
「高崎第一女子高校一年の、ゆ、雪稜、珪子です。み、みなさん、宜しくお願いします」
砂橋さんのお爺さん、和重技師の紹介でぺこりと頭を下げる。
そこにはさっきの砂橋さんに見せた表情はなく、ただただ緊張してガチガチに固くなっている少女がいた。
雪稜さんはモデルのようにすらっとした姿で、うちの部活の女子で最も背が高い蒼よりも幾分背が高そうだ。なんなら悠よりも背が高い。
「ということだし、私たちも君のことを知りたい。自己紹介をお願いしてもいいかな?」
それから僕たちの自己紹介を一通り済ませると、大人二人は満足そうに頷いた。
「みなさん、さすがは科技高のエース開発チームなだけありますね」
「自慢の孫たち、って言うのもわかるだろう? 雪稜くん」
「ええ、先日から最低でも一日三回以上は仰る理由もよくわかりました」
「ちょっとお爺ちゃん何してんのっ、恥ずかしいなあ」
和重技師は完全に孫馬鹿をこじらせていた。砂橋さんが恥ずかしそうに怒るのも頷ける。
「そんな君も、必死に珪子くんを参加できるようにしようと奔走していたではないか」
「おっと、そんなこともありましたね」
……雪稜所長もかなりの親バカらしい。
「さて、そろそろ食堂も空いてきたころですし、いったんお昼にしましょうか。準備しないといけないこともありますし」
そう言って雪稜所長たちは席を立った。僕たちもそれについて部屋を出る。
社員証を下げてスーツの社員さんたちが行き交う通路を歩いていると、その雰囲気だけで会社に来たんだ、という実感が沸いた。
「社食とかって普段行けないから楽しみなんだよな。楽しみだ」
「ちょっと判るかもしれないわ」
「うちの学食はいまいち美味しくないからなあ」
みんなで、静かに期待を高めながら歩いていく。
「……食べる」
狼谷さんも謎の義憤に駆られているし。
僕たち一行が食欲に流されている一方で、雪稜所長や和重技師はすれ違う人たちに結構な頻度で挨拶されている。人望の厚さを感じる一瞬だ。
「ぱっと見た感じ、いい雰囲気の会社ね」
「うん、一時期は地獄だったみたいなんだけど、働きやすいように頑張って改善したんだってさ」
「えーっと、雪稜さん? もここに何回か来たことあるの?」
せっかくだから、早く仲良くなってほしいと思って雪稜さんに話を振ってみた。
「え、ええっ、と、ボ……わたしも初めて、です」
雪稜さんは返事を返してくれはしたけど、どうにも緊張してしまっているらしい。なんなら手と足が一緒に出そうなくらいだ。
「そっかあ、まあ親の職場なんて行かないよな。オレも行ったことないわ」
「……相変わらず、だなぁ」
そんな姿を見て、砂橋さんが小さくつぶやいた。さっきの反応を見る限りだと、知り合いではあるようだけど、あまり凄く仲がいいというわけではなさそうかな。
「……」
「……っ」
ちらりと前を伺う雪稜さんと、それを見てふいと目をそらす砂橋さん。
いや、仲が悪いという訳でもなさそうだ。お互いに気にしあってるようではあるけど、少し気まずい雰囲気。この二人の間には何があったんだろう。
「……この空気は何とかしたいね、お兄ちゃん」
道香の小さい耳打ちに頷く。
そんな微妙な雰囲気の移動を終えて社食に辿り着くと、各々好きなメニューを頼んで食べることになった。
「さあ、今日は会社の奢りだ。好きなメニューを食べるといい、支払いは社員証でできるぞ」
「よっしゃ!」
「他人の金で食う飯は美味いんだよなあ!」
「……あんたたち、意地汚いわよ」
小さくはしゃぐ悠と宏、たしなめる蒼。そんな僕たちのことを、大人二人は暖かく見守ってくれている。
みんなで各々の食べたいものを持って帰ってくると、手を合わせて昼食が始まった。ちなみに僕は定番のビーフカレー、蒼は和定食、砂橋さんはお蕎麦を頼んだらしい。
「……相変わらずの食べる量ね」
「ええぇ……」
「……?」
狼谷さんは和洋で合計二人前の定食を持って来たけど、訓練されている僕たちはびっくりしない。いつもの、という感じだ。
一方で雪稜さんは若干引いている。そりゃ、細身で体も大きいわけじゃない女の子が突然定食を二人前持って戻ってきたらびっくりするよな。
「桂子、ちゃん?」
「はっ、ひゃい!?」
「……食べる?」
「え、ええっ!?」
そっと洋定食のチキンステーキのお皿を差し出す狼谷さんと、目を白黒させる雪稜さん。驚愕の視線を物欲しげな視線と勘違いしたとか、そんなところかな。
「あっ、その、いえっ、お気持ちだけで!」
「そう?」
雪稜さんが慌てて断ると、狼谷さんは胃に食事を叩き込む作業を再開した。再び雪稜さんが引いている。
「……ふぅん」
そして、その姿を砂橋さんは複雑そうな表情で見つめていた。
ちなみに社食の味は、可もなく不可もなくといったところ。
「さて、食事は堪能してもらえたかな?」
微妙な空気のまま食事を終えて会議室に戻ってくると、会議室のプロジェクターの電源が入れられ照明も暗くされていた。
いよいよ本格的に説明が始まるみたいだ。
「はい、ご馳走頂きありがとうございます」
「ふむ、結構。では午後イチのセッションを始めよう」
和重技師の言葉と共に、スクリーンにスライドが投影され始めた。それを見て、雪稜所長はにっこりと話しだす。
「それではNEMCエレクトロニクスの紹介をしましょうか。皆さんご存じかとは思いますが、NEMCエレクトロニクスは日本最大の半導体事業者です。パソコン向けにも、CPUでこそありませんが幾つものチップを供給しています。ゲーム機や最新テレビ、それにスマートフォンといった最新端末向けCPUも設計しています」
「事業の整理の一環で売却された
「ここはもともと国分製作所の事業所だったんです。今は一つの会社ですから、元々の所属に関係なく交じり合って仕事をしていますよ」
会社概要のスライドを何枚か紹介してから、次は事業所の説明のスライドが投影された。
「さて、簡単にここ、高崎事業所の紹介をしましょう。NEMCエレクトロニクスの関東にある主要拠点は大きく四つです。東京、府中、那珂、そしてここ高崎です。他にも、米沢や大分、熊本の錦に工場があるんですよ」
「関東平野の中に四つの主要拠点があるんですね。それぞれが別の製品を製造しているのですか?」
手を挙げて宏が質問をした。そのまっとうな姿に、普段の日常生活とのギャップでひっくり返りそうになる。
その質問には、和重技師が楽しそうに答えた。
「いや、どちらかといえば役割で分担している。基本的に東京は営業拠点、那珂は製造拠点、高崎と府中は開発拠点だ。ここ高崎の開発拠点では国分製作所時代から引き続いて、アナログ半導体と一部デジタル半導体のフロントエンドとバックエンド設計、それとアナログ半導体の製造前工程を行っている」
「皆さんのよく聞く用語だと、論理設計と物理設計をメインに行っている拠点ですね」
「そして、那珂ではロジック向け先端プロセスの開発と製品の製造を行っている。製造前工程と一部の後工程だな」
つまりは、僕たちのように設計から製造まで一つの場所でやるわけではなく、それぞれの拠点が別れているということ。
部活じゃなくて、大量生産が必要な商業チップを作っているわけだし当然なんだろう。一つにまとめたらいくら土地があっても足りないだろうし。
「なるほど、判りやすくご説明頂きありがとうございます」
和重技師がにこりと頷くと、再び雪稜所長が話を続ける。
「もちろん、皆さんもご存じのとおり半導体だけを作っているわけではありません。半導体を動かすために必要な評価ボードなど、基板類の設計・サポートも行っています」
評価ボードとは、そのチップを使うために必要な配線をし、部品を取り付けたボードのこと……だったはずだ。うちでいうところの、道香がやっている基板の設計もここでやっているということになる。
「ボードの設計までやってるんだな、そりゃそうか」
「ま、アタシたちがボード作ってるのと同じ理由だよね。電気的な仕様から物理的なサイズまで、自分たちで決めるからには自分たちで動かせるものを準備しないとだし」
悠と砂橋さんが頷いているのを見て、雪稜所長は話を切った。
「さて、ここまでが大まかな概要です。なんとなくお判りいただけたでしょうか?」
「よくわかりました、ご紹介ありがとうございます」
蒼がお礼の言葉を述べる。
「それならよかった。では次の準備をしたいと思いますので、少々お待ちいただけますか?」
雪稜所長はプロジェクタとの接続を切って和重技師と二言ほど言葉を交わすと、二人で部屋を出ていった。
残されたのは、学生の僕たちと雪稜さんだけ。
「ちょ、ちょっと緊張するねっ、雪稜ちゃんっ」
「ひゃいっ!」
少し弛緩した空気の中、雪稜さんの隣に座っていた道香が突撃を敢行した。
「さっきも自己紹介したけど、わたしは桜桃道香! 学年も同じみたいだし、道香、って呼んで!」
「あ、ボ、じゃない、わたしは雪稜珪子で、その……珪子、でいい」
「ん、じゃあ珪子、だね」
「うん……えっと、道、香……?」
「正解っ、よろしくね」
どうやら、道香の強い押しがいいほうに作用してくれたみたいだ。さっきよりも幾分か雪稜さんの緊張は解けたように見える。
押しの強さはちょっと心配していたところだったけど、今回は正解だったみたいだ。
「こっちも改めて、オレは杉島宏。このちっこくてかわいい男が柳洞悠、んであそこの間抜け面が鷲流弘治」
「あぇ、えっと、すぎしま先輩、りゅうどう先輩、しゅうりゅう先輩」
さらに、宏が追い打ちを掛けるように押していく。目を白黒させてこそいるけど、距離感はさらにもう少し縮まったような気がする。
「ん、それでオッケーだ。あいつが部長の早瀬蒼で、さっきの大食い少女が狼谷氷湖、ちっちゃくてもさもさな奴が砂橋結凪」
「ちょ、アンタその紹介は無いでしょっ」
「早瀬蒼よ、このバカの言うことはあんまり気にしないでいいわ」
「……今の紹介にはとっても納得がいかないけど。狼谷氷湖、よろしく」
「はやせ、先輩と……かみたに先輩。よろしく、お、お願いします」
さっきより幾分縮まった距離を感じてか、蒼は笑顔で語り掛けるように言った。
「これから一週間、よろしくね。私たちも珪子ちゃん……いえ、珪子のことをウチの部員だと思って接するから、珪子も気軽に話しかけてくれて構わないわ。ね、シュウ?」
「何で僕!? ……ま、蒼の言う通りだから。緊張しないでってのも難しいだろうけど、気は使わなくていいからね」
「は、はいっ! 早瀬先輩、鷲流先輩」
まだ少し緊張は残っているようだけど、雪稜さんの笑顔はさっきよりもよっぽど自然になったかな。
その一方で、ツッコミこそしたけど、一人だけ自分から挨拶をしていない砂橋さんに自然と僕たちの視線が集まってしまう。
一方の雪稜さんは、砂橋さんから目を逸らすように伏せていた。
さらに間の悪いことに、砂橋さんが振り切るように口を開こうとした瞬間。
「あのさ、け――」
「ふう、みなさんお待たせしました。皆さん取りに来ていただいてもいいでしょうか?」
タイミング悪く雪稜所長と和重技師が数台のノートパソコンを抱えて戻ってきてしまった。
自己紹介タイムを中断して慌てて受け取ると、各々の席に戻って自己紹介、という雰囲気ではもう無い。
砂橋さんは、一体何を言おうとしていたんだろう。あの少し苦しそうな表情が、少しだけ気になった。
「さて、皆さんにお渡ししたパソコンは今回の研修中に使ってもらうものです。壊すのは構いませんが、無くすのだけは避けてくださいね」
「そ、そう! で、結局私たちはこれから四日間何をするんですか? 詳しい内容は当日のお楽しみって、お爺ちゃんからは何も教えてもらってないんだけど」
砂橋さんが慌てるように質問をする。それを聞いた和重技師は、再び楽しげな笑みを浮かべた。
「さて、君たちにやってもらう課題だがね……」
そういうと同時、プロジェクタがスライドを明るく映し出す。
「えっ」
「ま、マジか」
そのスライドを見て、みんなが小さく息を呑む声が聞こえてきた。
それも無理はないだろう。なぜなら、僕ですら驚いた内容だったから。
「これから君たちには、私たちの最新鋭のモバイル向けプロセッサ、V9900シリーズの改良を行ってもらう」
V9900シリーズ。
僕でも知っている、NEMCエレクトロニクスの主力スマートフォン向けCPUだ。
それの、改良?
「……へ?」
砂橋さんがひねり出した疑問の言葉。それが僕たち全員の共通見解だった。
「なに、もちろん全部をやってもらおうという訳じゃない。来年リリース予定のこのチップは今のところ八割ほどの設計工程を終えてシミュレーションで動く状態にはあるんだが、現状三つのまずいポイントがある」
そう言い切った和重技師は、指を三本立てて見せた。
「一つは消費電力、です。純粋な消費電力が高くなりがちで、採用が怪しくなっています」
「二つ目は単純な性能、だ。命令セットはLEGなのだが、どうしてもライバルに対して性能面での優位が取れていない。だから、少しでも性能が向上するよう改良してほしい」
LEGは、スマホとかでよく使われている命令セットだ。前に蒼が説明してくれたときに名前が出ていたはず。
パソコンでよく使われているx64とはその命令セット、CPUが理解できる言葉の設計思想からして違うと聞いたことがある。
「そして最後に、トランジスタ数です。消費電力にも繋がって来ますが、トランジスタ数が多すぎて面積が厳しくなっています。ですので、できるだけ不要なトランジスタを減らしてチップの面積を小さくしてください、というのが、我々からの課題になります」
「課題の成果は二十二日の午前中、十一時に発表することになるから、ただ改良だけじゃなくてプレゼンの準備も忘れずにな」
「……つまりは、実質丸二日半で商用チップを改良しろと、そういうことですか」
「もちろん、手を入れてもらうのはCPUだけで構わない。グラフィックスやIOなんかも統合されてはいるが、そこは触らなくてOKだ。具体的な目標や仕様は以下の通りになる」
和重技師はさらにスライドを一枚送る。そこには詳細な要件が書き綴られていた。そこに書かれている文字を見て、皆からは驚愕の声が上がる。
「製造プロセスは7ナノ!? 触ったこともないぞ」
「7ぁ!?」
「チップ面積は一.五平方センチ、サイズは小さいけど……普段の私たちのチップより、格段に規模が大きい」
「ってかグラフィックスにNVISIONの設計したグラフィックIP使うのか……」
「それって凄いことなのか?」
NVISIONという会社の名前は聞いたことあるけど、具体的に何をしている会社かは知らないな。なんか謎の会社という扱いをされている印象しかない。
「パソコン用のグラフィックチップの最大手よ、NVISIONって。具体的には、ゲームとかの3Dグラフィックスを超高速に処理するためのチップをずっと作ってる会社なの。そこのGPUってことは、相当な描画性能を叩き出させるつもりよ。スマホゲームも流行ってるし、時代の潮流を捉えた判断ね」
「さらにはそのグラフィック処理用のチップがAIの処理にも効くってことで、目下絶賛拡大中の会社だぞ」
「画面表示周りにはそのIPを使う、ってことか。かなり速そうだな」
つまりは、画面描画のチップを専門に作っているところが作ったIPを使って、超高性能なグラフィックを実現しようという訳だ。確かに、スマホゲーでも最近は3Dモデルを使ったものも多いし。
それにしても、専門の他社が作った設計を持ってくることで高い性能を叩き出す、なんてIPの使い方もあるんだな。JCRAが提供してくれるIPでも、そういう視点で見ると面白いものがあるのかも。
「なるほど、確かに今流行ってるもんな。意外と3Dのゲームもスマホで動くし」
「でもよ、スマホ用なのに消費電力は十ワットも取れるんだな。……それでも普段の十分の一くらいか」
普段の僕たちが作っているのは古いプロセスで作った巨大なCPUで、消費電力とかもどうしても大きくなりがちだ。その中で最高性能を求めているから、消費電力やトランジスタの数には物理的な限界以外では糸目をつけないようにしていた。
だけど、ここにきて与えられた課題はスマホ向けのCPU。スマホは当然手で持てるサイズに収めないといけないし、ホッカイロみたいに熱くなられても困る。だから、限られたサイズ、限られた消費電力の中で何とか改善をする必要があるわけだ。
さらに、製造プロセスは最新の七ナノメートルプロセス。僕たちがようやく開発した六十五ナノの七世代先、いわば雲の上の技術だ。
早速わいわいと検討を始めた僕たちを見て、まぶしいものを見るように和重技師はにっこりと笑った。
「ノートパソコンに、開発用のツールや必要なファイル、それにHDLも準備してある。JCRAで使っているものと同じツールだから、君たちにも馴染みがあるものだろう」
「物理設計のエンジニアもいらっしゃるんですよね?」
「はい、今はおもにアタシが」
「おお、バックエンドのエンジニアをやってたんだ。じゃあPDKまで見れるね、これも入ってるから」
「は、はい……うわ、7ナノのPDKはさすがに初めて見るなあ……」
「よし、じゃあ早速設計を見ましょう、とにかく今は時間が惜しいわ」
「だな。まずはこのチップの設計を理解するところからだ」
あまりにも雲の上すぎて、仕様だけ見ても判らないことは多い。だから、実際の設計を見たほうが早いというのは僕たちの中での共通見解だ。
「はいはーい、今回はチームを分けたほうがいいと思いまーす」
砂橋さんの提言に頷く。どこが悪いかわからない以上、まずは大まかな設計の理解から始めないといけない……と、昔のプロジェクトをまとめた書類には書いてあった。
それなら、専門分野ごとに論理設計チームと物理設計チームに分かれて動くのがベターだよな。
「そうね。じゃあ……道香、バックエンド系の資格って持ってたかしら」
「いえ、まだ勉強中です。そのうち部門認定で取ろうと思ってたんですが」
「あら、それならいい機会じゃない。物理設計組は道香と、氷湖と結凪。珪子も物理設計に入ってちょうだい」
「わわ、わかりましたっ」
「論理設計で私とシュウ、杉島くんと悠でどうかしら」
「異存はない」
「りょーかい、んじゃあ始めますか」
「頑張りますっ」
「そっちのリーダーは結凪でいいわね?」
「ん、りょーかい」
さくっと班分けを済ませると、皆でさっそく受け取ったノートパソコンを起こして実際の確認に入る。だけど、最後に蒼は砂橋さんを招くと耳打ちした。
「結凪、あんた珪子と何かあるのか知らないけど、ちゃんと面倒見るのよ」
「……わかってるよ。気を付けて見てみるつもり」
「ん、ならいいわ」
その短いやり取りの間、砂橋さんはすこし渋いような、辛いような表情をしていた。そんな様子を見てしまった以上、小さくため息をついた蒼の背中に小さく声を掛けざるを得ない。
「向こう、あれで良かったのか? 道香の胃に穴が開きそうな気がするが」
「大丈夫だと思うわ、なんだかんだでうまく回してくれるわよ」
「そこについては同意だけどな」
「さ、シュウも一緒にやりましょ。資料とかもパソコンに入ってるみたいだし」
実際、とにかく時間がないからすぐ取り掛からないと。物理設計チームの様子を少し気にしながら、自分に与えられたパソコンに向き合って確認していく。
それからしばらく計図と言えるHDLと仕様書を読み込んでいた僕たちは、どうやら恐ろしいプロジェクトに放り込まれたらしい、ということに気が付いてしまった。
「げ、もう五時か」
ふと目を上げると、時計の針は三つほど指し示す数字を進めている。さすがは超大規模なプロジェクト、概要を把握するだけでもかなりの時間が必要だ。
「終業時刻は六時だから、六時には強制終了になるぞ。そのつもりでな」
「はい、わかりました」
和重技師からの業務連絡は、今日の確認はあと一時間で終わりだという意味。もう時間がないぞ。
「なあ蒼、そろそろ物理組と情報共有しないか?」
だから情報共有を蒼に進言する。幸いなことに蒼も同じ意見だったらしく、小さく頷くと皆に声を掛けた。
「物理設計組ー、情報共有しない? 私、なんか怖くなってきたわ」
「ん、おっけー。アタシもちょうど震えが止まらなくなってたとこ」
返ってきたのは、砂橋さんの楽しそうな声。あれだけの規模の回路を見ても怖気づかないのはさすが砂橋さんだ、目の前の壁が高いほど楽しいと思うタチなだけはある。
ちなみに和重技師はとっても楽しそうな笑顔のまま、静かに僕たちを見守っていた。どうやらお手伝いしてくれる訳ではないらしい。
それもそうか、これは僕たちが解決しなくてはいけない課題なわけだし。
「さて、論理設計でわかったことね。まず、このチップは『ヘテロジニアス構成』を取ってるのは最初の資料の通りだったわ。大きなコアは『Gyro-X1』、NEMCエレ独自のコアで、かなり大きな構造だったわ」
「『デコーダー』は五命令同時デコード、256エントリの『アウトオブオーダー』、データと命令それぞれ64キロバイトのキャッシュってとこだ。L2を1MB,L3は8MB」
「すっご、その構成一昔前のパソコン用CPUと同じレベルじゃん」
砂橋さんが驚くのも無理はない。このNEMCが開発したコアは、なんなら僕たちが作っているCPUよりも圧倒的に高性能な作りをしている。
「こんな贅沢なコア、ぜひウチで作りたいものね」
「65nmだと、ウエハ一枚からチップが両手で足りるくらいしか取れなくなる」
狼谷さんも苦笑いだ。高性能なのはある意味当然で、プロセスが進んでいる分多くのトランジスタを使って性能を高めるための設計ができるからだ。トランジスタ数はおおむね性能に直結することが、なんとなく身に染みてわかってきたぞ。
「しかもそんなのを四つもぶら下げているわ。それでいてウチのMelonなんかよりチップサイズが小さくなるんだから、最新プロセス様様って感じよ」
「小さいコアはLEGの『オフィシャル実装』な『MicrotexーL55』が四つでした。見た感じIPをそのまま乗せてるだけなので、ここに手を入れる必要はなさそうです」
「珪子ちゃん、ヘテロジニアス構成ってわかる?」
「は、はいっ、一応は。消費電力が小さくて遅いCPUと、しょ、消費電力は大きいけど早いCPUを一緒のチップに乗せて、プログラムによって使い分けることで電力効率を高めながら性能も確保する技術、ですよね?」
雪稜さんはいまだにちょっと緊張しているんだろう、言葉を詰まらせながらも正しい答えを話した。わりと新しい技術だって蒼からは聞いてたけど、ちゃんと勉強していたらしい。
僕も最近勉強したばかりの技術だったから、同じくらいの知識はあるみたいだ。でも表情を見ていると、多くを理解できているわけではなさそうにも見える。まさに、僕と同じくらいなんじゃ――
「おおー、大正解だ。ちゃんと勉強してるんだな」
そんな考えは、悠の楽しげな声で掻き消された。
「は、はいっ!」
「で、この大量のコアをL3キャッシュ兼『リングバス』の『アービター』で結合してるって感じだ。バスの『帯域幅』もボトルネックにはほど遠い性能だった」
「端的に言うと、めちゃめちゃに大きい構造のCPUね。恐ろしいくらいに」
蒼が小さくため息をつくのも無理はないだろう、なにしろ突然回路の規模が莫大に膨らんでいる。資料と設計図であるHDLを見ながらまるで宇宙に浮かぶ猫のような表情になるくらいに。
「物理設計側も魔境だよ魔境。総トランジスタは六十億弱ってところかな?」
砂橋さんの吐き出した数は、恐ろしい数の暴力。この間作ったMelonが二コアをまとめてようやく二.五億トランジスタ弱と考えると、総トランジスタは二十数倍、消費電力は十分の一。まさに夢物語、異世界転生でもしてきたんじゃないかというようなチップだ。
「トランジスタのサイズが、相当小さい。最新の露光装置の力」
「あー、7ナノだと露光装置もEUVか」
「出た、一台ウン百億の装置だろ? それを何十台使って作るんだからな……」
宏と僕で思わず天を仰ぐ。広がっているのは、想像もつかない額で繰り広げられている札束の殴り合いの世界だった。
「ひえー……」
雪稜さんは、数か月前の僕のように金額を聞いて呆けている。わかるぞその気持ち、金額の桁が現実的じゃなさすぎて困るんだよな。
「配線のメタルレイヤーも十二層とかめちゃくちゃな層数だし、クロックも電源の細分化もすーごい手間が掛かってる設計してる。ほんと、世界が違うわ」
砂橋さんさえもため息をついている。やっぱり相当なチップなんだな。
「さて、情報共有も済んだところで課題の三点を検討しましょうか。まずは消費電力、電力を大きく食べるグラフィックスとかを除いたCPUだけの事前のシミュレーション結果は見たかしら?」
「コアが多く動いてるときはともかく、あんまり動いてない時の消費電力が大きいんだよな」
「アタシから言わせてもらうとコアがフルで動いてるときも大きいかな」
「PDKにあるプロセスの基本のトランジスタの仕様からしても電気を食べすぎ。どこかおかしい」
「氷湖が食べすぎ、っていうとなんか変な感じね」
「んグフッ」
蒼の小さなツッコミに、思わず笑いが漏れてしまった。狼谷さんの視線は相変わらず感情の機敏を大きくは感じないけど、どこか少し温度が下がったような気がする。
「トランジスタは悪くないのに消費電力が多いの、謎だな。配線か?」
だからあわてて話をそらす。だけど物理設計組もそこまでははっきり分かっていないらしく、僕の意見にうーん、と唸って見せた。
「消費電力が大きいのは論理設計から見ても物理設計から見ても、やっぱりどこかおかしそうってことですねっ。具体的なところはどうしましょう?」
「あ、あのっ、それは明日以降にブロックごとに検討しようって話になりました」
道香のほどよくまとめに掛かったコメントに雪稜さんが乗っかる。とりあえず何かを会議中に話してくれるだけでも、緊張しいっぽい雪稜さんには大きな一歩だろう。
「ありがとう珪子、それで問題ないと思うわ。回路まで検討して、ロジックに何かありそうならばすぐに持ってきてちょうだい、検討するわ」
「論理設計組はピーク消費電力の方で大きいコアの構造、特に実行ユニットを確認してほしい。トランジスタ数も含めて、かなり怪しい」
「ん、了解だ」
大きいコアの構造はNEMCのオリジナルだ。他の会社でもたくさん使われているLEGのIP、つまり既製品じゃないから、何かがおかしくても不思議ではない。あんまり考えたくはないけど。
「次に性能なんだけどね、なーんかわかんないんだけど雪稜所長の言う通り性能が悪そうなんだよね。改めてシミュレーション掛けさせてもらってるけど、貰った資料を見るとクロックも伸びないしプロセスの割には発熱が大きくて効率も悪い。こっちの観点でも、論理設計か物理設計、なんなら両方に爆弾を抱えてそうなんだよねえ」
砂橋さんの言葉は、どこか深刻そうなものだった。
「両方に爆弾があったら終わりだな、オレに出来ることは爆死するだけ」
「そんなの許されないわよ」
「ってまあ冗談はさておき、こっちも今後要検討だな。スパっと判ると良いんだが」
「宏にしては珍しくまともなこと言うんだな」
「何だお前?」
「でもこれ、多分根っこは同じだよな。消費電力が大きくなってるのと性能が伸びないの」
「ええ、多分そうね。物理設計側か論理設計側か……」
「最後のトランジスタ数に関しては、確かにちょっと多い気もするけど、この規模なら納得なのかなあ……。正直、これもブロックごとに確認しないと何とも言えないや、こんな大規模なチップなんて触ったことないし」
「キャッシュがこれだけ乗ってればこんなもんじゃないのか?」
「『SRAM』がかなり載ってるものね。面積とトランジスタ数を食うのは仕方ないわ」
CPUの中のキャッシュメモリは、テストチップでおなじみSRAMを使っている。メインメモリとかに使う『DRAM』と比べると読み書きの速度が早く、また読み書きが簡単にできて消費電力も比較的小さいといった特徴がある。
これだけ聞くと「じゃあ全部SRAMでいいじゃん」と思えるが、一番のデメリットはチップの面積が大きくなること。
SRAMはトランジスタ六つから成り立つ回路で、コンデンサとトランジスタ一つで出来るDRAMと比べると面積がどうしても大きくなってしまう。つまりは、半導体のチップの面積とトランジスタ数を食ってしまうデメリットがあるわけだ。
同じ面積で考えると容量比は六倍以上。なんなら一ギガバイトのデータを保存できるSRAMチップを作るのに必要なトランジスタは四百八十億、今回のチップ八枚分のトランジスタが必要になる。
もちろんそんなサイズの物を作るのは現実的じゃないから、SRAMはCPUの中に多くて数十メガバイト分確保されているだけなことが多い。
今回のような大きな規模のチップでも、キャッシュメモリというデータ一時保管用のメモリに十メガバイト強載っているだけという時点で、そのサイズは察することができる。
「ってかシミュレーション走らせてるんだ」
「会社のサーバーを貸してくれてる。一コア分なら多分明日の朝には出てきてると思う」
「……これだけの規模のチップのシミュレーションを一晩って、コン部のサーバーと性能差がえらくありそうですね」
「これだけの性能のマシンがあったらCPU甲子園の前も楽できたのになあ」
CPUのコア一つだけでもMelonより規模が大きいのに、時間は数分の一だ。どれだけのコンピュータを貸してくれているんだろう。もはやスパコンに近いのかもしれない。
「無いものねだりをしても仕方ないでしょ。それなら、明日は朝一番でそのシミュレーション結果を検討しましょうか」
「ん、その方がいいかも。なにが出てくるか分かったもんじゃないし」
「言い方はともかく同意だ。俺も嫌な予感しかしてない」
宏の同意で、今日の議論はひと段落という空気が立ち込める。実際に何かできることがあるかと言われると、シミュレーション結果を待つことくらいだしな。
「さて、話はまとまったかな?」
そんな雰囲気を感じ取ってか、和重技師はにこにこしながら訊いてくる。
「はい、とりあえずは大丈夫そうです」
「改めて、今日終了時点での状況を共有してもらえますか?」
議論をしている間にだろうか、雪稜所長も部屋に戻ってきていた。
「わかりました、それでは……」
蒼が今日分かったこと、今日試したこと、そして明日に持ち越す内容を大人二人へ手短に説明する。
簡潔にまとまった説明は、ずるずるとプロジェクトマネージャーを任されそうな僕も勉強しないといけない内容だ。小さく手元のメモ帳に蒼が話した内容をメモしていく。
一通り蒼の説明を聞き終わった和重技師は、ニヤリと笑った。このいたずらをした少年のような笑みは、どうやら砂橋家に伝わるクセらしい。
「ふむ、今日の段階でそこまで行けば上々だろうな」
「どこまで辿り着けるか楽しみですね、明日には設計チームの時間も取れますし。それでは終業時間にもなりましたし、今日の活動はここまでとしましょう。続きは明日で」
雪稜所長も満足げに頷く。この時点で論ずるに値しないとか思われていたらショックだったから、ある意味一安心だ。
「わかりました。頑張ります」
「はっはっはっ、ほどほどにな」
「じゃあ今日は終わりかな。ここからホテルまではお爺ちゃんが送ってくれるんだっけ?」
「ああ、そこは俺がやるよ。車を回してくるから、ちょっと待っててくれ」
そう言って和重技師は部屋を後にした。その背中を見送ってから、砂橋さんは雪稜所長にぺこり、と頭を下げた。
「何から何まで、ありがとうございます」
それを見て、雪稜所長ははっはっはっ、と笑った。その笑い方が少し和重技師に似ていたのは気のせいじゃないだろう。それくらい長い時間、二人は一緒に働いていたに違いない。
「いやいや、若者の輝きを間近で見れて私も若返るようだよ。気にしないで」
「ちょっとお父さん、その言い方おじさんくさい」
「ぅぐ……」
そして、雪稜ちゃんから放たれた身内特有の鋭いナイフのような言葉で大ダメージを受けていた。
そんな様子を微笑ましく見ていた僕達だったけど、蒼がふと思い出したように言う。
「そういえば雪稜所長、これからしばらく私たちはホテルに宿泊となりますが……珪子ちゃんはどうされるんです?」
「確かにすっかり忘れてたな。一緒のホテルに泊まるもんだとばっかり」
「所長がここで働いてるってことは家も近くにあるんでしょうし、帰られるんですか?」
確かに、唯一コン部からの参加者じゃない雪稜さんはどうするのかな。宏ではないけれど忘れていた。
「ああ、この子の分も君たちと一緒に部屋を取らせてもらっているよ、八人分だね。せっかくの合宿なんだし。珪子も楽しんでおいで」
「は、はいっ」
雪稜さんはやはり少しだけ緊張した面持ちで頷いた。その緊張が何から来ているかはまだわからない。人見知りなところがあるのは間違いないと思うけど……
「早瀬部長、珪子をよろしくね」
「はいっ、お任せください。お世話になっている間はうちの部員として扱わせてもらいます」
「ははっ、頼もしい」
笑顔で話す蒼と雪稜所長。一方でもう一人、砂橋さんは複雑な表情を浮かべている。
結局砂橋さんは、二人の話がひと段落したところで会話を打ち切るように言葉を発した。
「……さて、そろそろ行こっか。そろそろおじいちゃんも玄関に着いたでしょ」
「おっと、砂橋チーフを待たせちゃいけないね。では、また明日もよろしく」
「はい、宜しくお願いします」
「さってと、結凪の言う通り待たせちゃいけないわね。早く行きましょう」
「ですねっ」
こうして、開発の内容的にも、部の雰囲気的にもすっきりしないまま和重技師が運転する車に乗り込んだ僕たち。
「へえー、これがホテルですかあ。いろんな装飾がありますねー」
「馬鹿宏、最悪な感想の導入やめろ」
「ってか若松だってホテルくらいあるだろうがよ」
「いや、それはそうなんだけどよ。なんというか」
「すごい、綺麗」
「……? 普通のホテル、ですよね?」
「ああっブルジョワっ」
その十数分後には、浅ましくもたどり着いたホテルの豪華さに我を失っていた。
僕たちが送ってもらったのは、駅直結の大きなホテルだった。そもそも、一般的な高校生があんまり遠出してホテルに泊まる経験なんてそう多くないしなあ。
「でも本当にいいんでしょうか? 多分それなりにいいお値段するホテルですよね、ここ」
「いいのいいの、会社からすればこれくらい。Intechの石を乗せた作ったボードが動かなくてアメリカに急遽社員を送り込むなんかよりよっぽど安い、未来への投資だよ」
それが、会社でよく使っているんだという高そうなホテルなのだからなおさらだ。
「じゃ、明日は八時半くらいに迎えに来るからな。寝坊しないように」
「わかった、ありがとうおじいちゃん」
和重技師は僕たちをホテルの玄関の前で降ろすと、そのまま車で去っていった。
高級っぽい雰囲気を醸し出しているホテルのロビーで装飾を見ては右往左往している制服の田舎者を尻目に、砂橋さんはチェックインを済ませていく。
「ほいじゃ、カードキー配るよ。夕食はここ、ロビー階のレストランで十九時半からだから」
「部屋割りはどうなってるんだ?」
一番大事なところに、早速悠が切り込んだ。ただまあ、何となく想像はつく。
「男ども三人は三人部屋の和室。はいこれ」
だろうと思っていたから、明鏡止水の心持だ。何も期待しなければ、裏切られることもない。そう、ちょっと残念とか思ってない。
いや、ちょっと残念だって? そう思ったことに、改めて自分で驚いてしまった。このメンバーの中で一緒の部屋で泊まりたいと思う人が居る、ってことだろうか。
……その時ふと頭に浮かんだのは、蒼の顔だった。そのことに何となく気恥ずかしさを覚えた僕は、頭を振ってかき消す。これは部活の合宿だ、いくら幼馴染とはいえ男女同室なんてまずい。
そういう意味では、やっぱりこの馬鹿どもと一緒にいるのが一番楽だし、なんだかんだで楽しいだろう。
「マジか、なんでこいつらと」
「それはこっちのセリフなんだよなあ.」
僕が自分に驚いている間に、さもしい馬鹿二人は駄々をこねていた。
「異論があるなら三人まとめて外になるけど? まだ夏だし公園でも凍死はしないんじゃないかな」
「「……」」
「あまりに、弱い」
そして砂橋さんに一刀両断されて即沈黙。狼谷さんのいう通り、弱い奴らだ。
……ん? 今砂橋さんは三人って言ったか?
「ちょっと待って砂橋さん、僕は何も文句を言ってないんだけど」
「そう言うなら誰と一緒がいいのよ? 聞くだけ聞いてあげるわ」
「…………」
「……はい、男三人で問題ありません。な? 悠、弘治」
「そうだそうだ、それが気楽だぜ」
蒼の追撃に、二人は無言で思考を巡らせた挙句波風を立てないことを選んだらしい。賢い選択だ。
「一緒に泊まりたいって言われても困りますけど、そこで沈黙されるとそれはそれでなんだか引っかかりますね」
ともあれ、なんだか微妙な雰囲気になってしまった。雪稜さんも少し居心地が悪そうだ。今回は本当に僕のせいじゃないから許してほしい。
「で、あとは二人部屋が二つと一人部屋が一つだってさ。誰か一人になっちゃうけど」
雰囲気を変えようとしてか、砂橋さんが今度は女性陣に声を掛ける。
「それなら――」
それを聞いて雪稜さんが何かを言いかけた瞬間、道香は遮るように声を上げた。
「はいはいっ、じゃあわたしが珪子ちゃんと一緒でっ」
「ん、りょーかい。じゃあこれ鍵ね」
鍵を受け取った道香は、楽しそうな笑顔を雪稜さんに向けた。
「よろしくねっ、珪子ちゃん」
「ははは、はいっ」
相変わらず緊張しているようでびくびくはしていたけれど、その表情は少し安心するような、穏やかなものも含んでいた気がする。
「んじゃ、アタシが一人かな」
「待った、結凪あんた朝一人で起きられないでしょ」
「ぐっ、そんなこと」
「あるでしょ……氷湖、結凪と一緒でいい?」
「ん、わかった。よろしく結凪」
「しゃーないかあ」
女性陣の部屋割りも無事決まったところで、各自の部屋に荷物を置きに行くことにした。
「また後でね。遅刻しないでよ?」
「頑張るよ」
「任せろって」
「不安」
「ですねえ……」
僕たちだけフロアが違ったから、エレベーターを途中で降りる。僕たちの部屋は、エレベーターホールからそんなに遠くないところにあった。
「おお、すげえな」
「さすがの広さだ、最高に快適だぞ」
「申し訳ないくらいだね」
広い和室に感動しながら早速布団を敷いて、荷物を適当に開けていく。整理をしている間に夕食の時間を迎えた僕たちは、美味しい食事をレストランで頂くと再び部屋へと戻ってきた。
「はあ、腹いっぱいだ。じゃあゲームでもするか」
「悠お前、ゲーム機なんか持ってきてんのか?」
「んにゃ、スマホゲーだよ。デイリーだけはやっとかないと」
「じゃあオレもゲームやるかなあ」
「宏もかよ……は?」
ツッコミでも入れようと宏の方を向くと、奴はスーツケースからプレタミ4を取り出しているところだった。いくら合宿とはいえ、据え置き機を持ってくる奴いるか?
「お、良いの持ってきてんじゃん。もちろんコントローラは二つあるよな?」
「四つ持ってきてるに決まってるよな?」
「マジかお前ら」
そう言って、ゲーム中毒患者二人はせっせとケーブルを部屋のテレビに繋いでいく。ケーブルまで持ち込んでるとかやる気満々にも程があるだろ。
あまりに頭痛がしそうな光景に唖然としていると、部屋のチャイムがぴんぽーん、と気の抜けた音を立てた。
「ん、客か?」
「ちょっと見てくるわ」
「りょ、任せた」
配線と格闘している二人を放置して玄関に向かい、ドアスコープを覗く。そこに居たのは部屋着の蒼だった。
「よう蒼、どうしたんだ? 何か用か?」
「幹部会議するわよ、来てちょうだい」
「おわっと、え? ちょっ」
有無を言わずに、蒼は僕の手を引いて歩き出した。どうしたんだろう、と思うと同時に、嫌でも蒼の手の小ささを意識してしまう。
……こうして手を繋いだのは、CPU甲子園の時以来か。あの時はお互いに緊張しててそれどころじゃなかったけど、こうして変に余裕があるときに繋ぐとやっぱり小さいな。
その瞬間、胸に鋭い痛みが走る。僕は、この小さな手にどれだけの負担を押し付けてきた?
「――っ」
それから、僕の脳は深く追いかけるのをやめてしまった。
そのまま引きずられるようにエレベーターに乗り、辿り着いたのは蒼の部屋。
蒼は僕を部屋に押し込むと、ばたん、とドアを閉めて息を吐き出す。
どんな部屋か軽く見回してみるけど、綺麗でそんなに大きくないシングルルームといった感じ。特段豪奢なわけでもなく、落ち着いてくつろげる感じなのは僕たちの部屋と同じだ。
「……」
「あのー、蒼さん?」
一方の蒼は、無言でカーテンが閉められた窓の方を見ながらフリーズしている。それに、部屋に満ちているのは微妙な緊張感。その放出源は蒼の背中だ。
「あ、ああ、ごめんなさいシュウ。とりあえず座ってちょうだい」
蒼と二人きりになることなんて、今まで何度もあった。でも、こんな不思議な雰囲気になったことはない。それが何となく嫌で声を掛けると、蒼は慌てるように声を上げて振り向いた。
とりあえず落ち着くためにも椅子に腰を下ろすと、それを見て蒼もベッドにぽすん、と座る。
「ふぅーっ……」
「どうしたんだ?」
「いや、なんでもないわ」
大きくため息をついてから、僕の方を見上げた蒼はいつもの蒼に戻っていた。でも、さっきの雰囲気はまるで――
思考が回り始めたところで、再び胸に鋭い痛みが走る。だから、お互いいつも通りに戻れるように、さっきのことには触れずに話題を振った。
「ってか幹部会議って、僕は幹部でもなんでもないんだが」
「あんなの理由付けだからいいのよ。それより、あの二人についてなんだけど」
「砂橋さんと雪稜さんか」
やっぱり、蒼もあの二人のことが気になっていたらしい。それもそうか、今日一日あれだけ微妙な空気を醸し出していれば気にしない人は居ないよな。蒼みたいな気遣い屋ならなおさらだ。
「そ。明らかに初対面じゃない上に絶対何かあるじゃない」
「うーん、仲が悪いってわけじゃないと思うんだよ」
仲が悪いなら、もっと険悪な雰囲気になってるはず。でもあの二人はそうじゃない、どちらかといえばお互いに距離を測るような雰囲気だ。
「どちらかといえばぎくしゃくしてる、って感じね」
「そうだな。とはいえ、蒼が初対面ってことはうちの学校絡みじゃないだろ」
「あの子って高校から若松に来た子だから、前の学校絡みだと思うんだけど……」
「雪稜所長とも面識があるみたいだし、まあそうなるよな」
「でも、どうしたらいいのかしら」
蒼が今度は小さくため息をつく。同じ見解の蒼と少し首をひねってみるけど、当然どうすればいいかなんて簡単には思いつかない。
「正直僕たちがここで話し合っても事情はわからないし、解決はしなさそうだからなあ。まずは二人とちゃんと話をするしか無いだろ」
結局、何かをするにしてもまだ情報があまりにも足りない。まずはそこを埋める必要があるか。
そんな提案をしてみると、蒼は顎に手をあてて思案を始めた。
「そうねえ……とりあえず、まずは結凪から話を聞くのがいいかしら」
「賛成だな。突っついて地雷だった時に雪稜さんだとフォローが難しそうだ」
まずは距離が近い方を攻めてみるのは正攻法だな。砂橋さんと蒼の信頼であれば、何か話してくれそうだという打算もある。
「よし、幹部会議終わりね。早速結凪の部屋に行ってみましょ」
「僕も?」
「もちろん、付いてきてくれるわよね?」
「……わかったよ、ちょ、だから引っ張んなくても行くって」
こうして、再び引きずられるようにして蒼の部屋を後にする。向かった先は、蒼と同じフロアにある砂橋さんと狼谷さんの部屋だ。
ぴんぽーん、とベルを鳴らすと、数秒で鍵の開く音がした。
「やっほお二人さん、どったの?」
にゅっとドアから顔を覗かせたのは、うちの学校のものではない運動着を身にまとった砂橋さん。
「んー、ちょっと話をしたくてね。合宿なのにずっと一人ってのはないでしょ」
「……それもそうだよね。いいよ、いらっしゃい」
きっと、何の話をするために僕たちがここに来たのか想像がついたんだろう。砂橋さんは一瞬固い表情を浮かべた後、諦めるように笑って招き入れてくれた。
「……僕も入っていいのか?」
念のためもう一度確認しておく。女の子が泊まっている部屋に入るなんて、修学旅行でやったら間違いなく怒られる奴だぞ。
「今さらでしょ。いいよ、入って入って」
とはいえ砂橋さんも特に気にした様子もないし、気を使いすぎるのもよくないか。蒼を追うように部屋に入れてもらう。
「蒼、鷲流くん、どうしたの?」
女子の二人部屋はちょっと広めのツインルーム。小さなテーブルと一人掛けのソファーが置かれていて――大きめのTシャツ一枚だけで狼谷さんが座っている。速攻で目をそらした。
「……さて、どこからツッコミを入れようかしら。まずは氷湖、まさかズボンはちゃんと履いてるんでしょうね」
「さすがに。ショートパンツくらいは履いてる」
それから立ち上がったんだろう、椅子の小さくきしむ音が響いて数秒。
「よしシュウ、見てもいいわよ」
蒼の許可を受けてから改めて狼谷さんの方を見ると、思った通り立ち上がっていた狼谷さんはだぼだぼのTシャツを少しめくり上げていた。
確かにショートパンツを穿いてこそいたけどそういう問題じゃない、細いおなかが見えてるし。ちょっとドキっとしてしまったのは内緒だ。
「本当に心臓に悪かったぞ。あと狼谷さんはおなか冷えちゃうからTシャツ下ろしなさい」
その間に、砂橋さんはもう一つの椅子にとすっ、と軽い音を立てて座り込んでいた。
「で、結凪のその格好は何? コスプレ?」
「コスプレなわけあるかっ、中学校の時の体操着だよっ! 寝巻にしてんのっ」
「ああ、そういうことね。若松で見たことない服だから、そういう趣味があって買ったのかと思ったわ」
「時々蒼ってアタシのことをどう思ってるか不安になること言うよね」
けらけらと笑った後、砂橋さんは窓のほうを見て小さくため息をついた。
その表情は、今ではないいつかの時間を見ているように見える。その表情をどこかで見たことがある気がして、記憶を辿ると……そうだ、この間だ。蒼と砂橋さんが言い合いになった後の、あの表情が一番近いな。あの時ほど絶望している感じはないけど。
あの微妙な距離感といい、この表情といい……もしかしてあの時砂橋さんが言っていた「前も」というのは、雪稜さんに何か関係があるのかな。
「まさか、あの子が居るなんて……これじゃないのを持ってくるべきだったなぁ」
「……あの子って、珪子のこと?」
「そ。あの子ね、中学校の後輩なんだよ」
思ったよりもあっさりと、雪稜さんの話を始めてくれた。とりあえず、面識があるという僕たちの読みは正解だったらしい。
「結凪、高校から若松に来たんだっけ」
「あたり。今日のおじいちゃんの話で、NEMCエレは関東に大きな拠点が四つあるって言ってたの、覚えてる?」
「ここと、那珂と、東京と、府中」
狼谷さんも、砂橋さんの言葉を真剣に聞いていた。分かりづらいながらも気にしていたみたいだ。
「おじいちゃんと同じようにアタシの親もNEMCエレに居るの。中学校の時親は那珂事業所に居たんだ」
「へえ、茨城県民だったのね」
「中学校までは普通の学校にいたんだよ、その時の後輩が珪子なんだよね。親の関係で珪子の親とうちの親も仲がよかったし。あの時はコンピューターなんて全然関係ない部活に一緒に入ったりして……珪子もコンピュータのことなんて全然やってる感じ無かったんだけど、今日見てた感じ、ちょっとは勉強してるみたい」
つまりは、砂橋さんの中学校の時の後輩が雪稜さんというわけだ。
中学校の時はコンピュータのことなんて全然やってる感じがなかったというけれど、ならどうして今こうやって僕たちの合宿にわざわざ参加しようと思ったんだろう。不思議だ。
「逆に、結凪はどうして若松に来たの? 電気系じゃない部活ってことは、コンピューターに関して詳しい、ってわけでも無かったんでしょう?」
「んー、やっぱり親の仕事って気になるもんじゃん? で、中学入って色々聞いて、開いてる時間に自分で勉強してみて面白いって思ったんだよね。親にもお爺ちゃんにも色々を話を聞くこともできたし……その中で、もっと深く、新しい技術を追いかけてみたくなったんだよ」
「その気持ち、私もわかる」
狼谷さんは、珍しく見てわかるくらいの笑顔を浮かべた。そうだったよな、狼谷さんもそういう感じでこの学校を目指したんだし。
「ふふっ、氷湖もそういうタイプだよね。でもあそこには科技高がなくて、私立の学校と連携して半導体を触れる部があるくらいだったんだ。つくばまで出ればトップクラスの科技高があるけど、さすがに通うには遠いし」
「ああ、筑波大附属科技高ね。あそこは確かに強いわね、この間も四位だったし」
「それなら、おばあちゃんの家がある会津若松に住んで、若松科技に通ったほうがいいかなって思ったわけ」
「へえ、おばあさまが住んでるのね」
「うん、母方の出身が会津なんだよ。だから何回も来たことがあって、馴染みのある街でもあるし」
「それでこっちに来た、ってわけか」
聞いてみれば納得のいく内容だった。
普通科の偏差値は高くも低くもないくらいだけど、計算機工学科の偏差値はかなり高い。それに受かるための努力は惜しまなかったんだろうなあ。というか、今サボっているだけで多分やれば出来るんだろう。
「じゃあ、何であんなにぎくしゃくしてるのよ。傍から見てもおかしかったわよ、今日」
「うー、やっぱりかあ……ちょっとね、あの子といろいろあったんだよ」
だけど、肝心のところに蒼が切り込むとぼかされてしまった。そこはまだ詳しく話したくはないみたいだ。いや、どちらかといえば自分で何とかしたいって思ってるほうが強いのかな? 砂橋さんの性格だと。
「というかアタシ、そんなに今日おかしかった?」
「ええ。全くらしくないくらいには」
「そっか。あーあ、どうしてこう上手くいかないのかなぁ」
普段はなんでもにこにこと笑い飛ばすのが似合う砂橋さんの、どこか遠くを見つめるような表情。具体的には話してくれなかったけど、その姿を見てしまえば昔決して小さくない何かがあったのは自明だ。
「時が解決してくれる人間関係なんて無いよね。わかってはいたつもり、だったんだけど……」
やっぱり――
「もしかして、この間の『前も』って言ってたの。あれ、珪子に関係してるのかしら」
疑念を確信に変えようとしつつあったことを、蒼はあっさりと聞いてしまった。砂橋さんは大きくため息をつくと、小さく首を縦に振る。やっぱり、そうだったんだな。
「そ。些細なすれ違い――のはず、だったんだけどなぁ……」
とはいえ無理やり聞き出すのも何か違う気がして、蒼と小さくアイコンタクトで意思疎通。今日は深追いしないことにした。
「ま、いいわ。今日のところはこれで勘弁してあげる。とりあえず、二人が険悪で一緒のチームは嫌だ、ってわけじゃないのね?」
ため息をつきながら、苦笑いで蒼は肩をすくめてみせた。今日のこの話は終わりという意思表示が通じたんだろう、砂橋さんもちょっと肩の力が抜けたように見える。
「ん、そういうわけじゃないから安心して。ちょっと、距離感が掴めてないだけ」
「わかったわ。明日からは特に変な気遣いなんてしないから、頼んだわよ」
「りょーかい。心配かけてごめんね、蒼」
「気にしないでちょうだい、今さらよ。それに、結凪の昔話なんて聞いたことなかったから面白かったわ」
部屋の空気が完全にゆるんで、またいつものコン部らしい雰囲気に戻る。
そんな流れを感じ取ってか、狼谷さんが相変わらずあまり感情の乗っていない声で話し始めた。
「せっかくだし、合宿の夜らしいことがしたい」
その提案は珍しく狼谷さんが何かをしたい、というもの。自己主張がかなり控えめな狼谷さんにしてはめずらしい。蒼と砂橋さんも目を丸くしている。
「ん、何をするんだ?」
「……何をすれば、合宿の夜らしいと思う?」
言ってはみたものの、よくわかっていないらしかった。でも、こんなことを言うってことは、狼谷さんも合宿を楽しんでくれてはいるってことだよな。
「いや、それをアタシたちに振られても」
「そうねえ……とりあえずトランプでもしてみる?」
「あ、それなら面白いボードゲーム持ってきてるよ」
「へえ、どんなの?」
「えーっと、これこれ」
そう言ってスーツケースからいくつか大きな箱を引っ張り出してくる砂橋さん。宏のプレシテ4よりはマシとはいえ、ボードゲームの箱がぽこぽこ出てくるのもどうかと思わないこともない。
「良く持ってきたわね、そのサイズのボードゲーム」
「みんなで、アナログゲーム。合宿っぽい」
「あ、お眼鏡に適ったんだ。じゃ、準備しよっか」
狼谷さんのリクエストにも十分応えられる遊びだったみたいだ。確かに、皆でこういうボードゲームを囲む機会なんてそうそうないしな。
「ぐあっ、性格悪いわね結凪」
「にっしっし、小麦三枚と羊毛をトレードしてもいいんだよ?」
「ここぞとばかりに鮫トレを……! いいや、その手には乗らないわ!」
「ダイスを振って……ん、出た」
「ってなにそれちょっと氷湖!?」
「街道を建設。これで最長」
「げっ、ロンゲスト取られたっ」
「ちょっ、こっち来ないでほしいな狼谷さん!?」
「鷲流くんは、一生発展カードガチャを引いてればいい」
「ワンチャンスに賭けろと?」
結局、この夜は砂橋さんの持ってきたボードゲームに興じている間に夜は更けていった。
砂橋さんはやっぱり強かった、とだけ言っておこう。
◇
「んじゃ、おやすみー」
「おやすみ。今日はありがとね」
「氷湖が居るから大丈夫だと思うけど、遅刻しないようにするのよ」
「大丈夫だって!」
さすがに、夜十時半にもなれば明日のことも考えて解散しておかないといけない。
私とシュウは、結凪と氷湖の部屋を後にしていた。
「シュウも、悠と杉島くんに引っ張られて寝不足にならないようにね」
「はは……今から頭痛がしてきそうだ」
「徹夜しうるものを持ってきてるのね……」
「ま、ぼちぼちでやめさせるよ」
シュウと二人で、エレベーターホールでエレベーターを待つ。部屋が別の階でよかった、同じ部屋だったら……色々理由をつけて引き留めて話をしてしまいそうだったから。
幸か不幸か、私の思惑通り数十秒もすればエレベーターはやってきてしまった。ぽーん、という到着を知らせる音ののち開いた扉にシュウは入っていった。
「んじゃ、また明日。おやすみ」
「ええ、おやすみなさい」
小さく手を振って別れた後、私は思わず手を胸に当てていた。その下では、心臓がうるさいくらいに音を立てている。
一人で部屋に戻った後も変わらない。それはきっと、どさくさに紛れて手なんて繋いじゃったから。
疲れ切っていた河原に迎えに来てくれた後や、緊張で精一杯だったCPU甲子園の時とは訳が違う。今日握った手は、大きくて、ごつごつしていて……とても暖かい、男子の手、だった。
「……変だって、思われなかったかしら」
きっと、部屋に入ったあとの私はかなりおかしく見えたよね。でも、それくらいに私はいっぱいいっぱいになっていた。自宅じゃない部屋で、彼と二人きり。どうしても意識せざるを得ない状況に、私はあの時……呑まれかけていた。
今までは必死に押さえていた気持ちが、緊張が少しだけ緩んだからかな。少しずつ漏れ出てしまうことが多くなっているような気がする。
シュウは、どうなんだろう。ちょっとは私のこと、意識してくれてたりするのかな。
「……っ」
次の瞬間、胸をずきっと嫌な痛みが襲う。
「そう、そうよ。だって――」
そう。この揺れ動く心は、感情は、伝えてはいけないもの。
私は、それだけのことをしてしまったんだから。
これは、一つのけじめ。
あの日の、彼が思い出すことさえ出来なくなっている言葉に対する。
「……寝ましょ」
明日も頭を必死に使うことになりそう。体を休めないと、出来ることも出来なくなっちゃうよね。そうなったら心配するのは、大変な思いをしてしまうのは彼だ。
そう自分に言い訳をして、ベッドにもぐりこむと電気を消す。
胸を刺した後味の悪い痛みの残滓で、眠気はなかなか訪れなかった。
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