第9話 その人は何よりも愛おしい

 あれから三ヶ月程度経った頃、ミロとの会話を忘れたとまでは言わないが、以前の俺にちゃんと戻ってきていた。やはり、メリーさんのが罪人を救うのを見ると、理想の光に目が眩んでしまう。


 ここしばらく平和な日が続いているせいか、ずっと書類と睨めっこしている気がしていた。俺はデスクに大量に積まれた書類をにらめつけながら、ため息をついた。


「この仕事は退屈かの?」

「いえ……ただ、こういう仕事は憲兵にやらせるものじゃないと思うんですよ」


 俺に話しかけてきたのは、副団長のヨーゼフ・タークさんだ。御年六十九歳の大ベテランで、その優しい瞳でいつも若い兵士達を見守ってくれている。そして、団長の思想を認めてくれている、数少ない人間の一人でもある。


「そうでもないぞ。メリーの代になってから戦争に参加しなくなったから、ワシらよりも他の連中に戦闘訓練をさせる方が国としては有意義なんじゃよ」

「国内の治安より、対外的な戦略ですか」

「外国に滅ぼされては元も子もないからの」

「やっぱり、ヨーゼフさんの本音はメリーさんをよく思ってないんですね」

「そうでもないわい。ワシは、ワシ自身の考えを正しいとも思っとらんし、メリーの考えも間違いとも思っとらん。何が正しいなんぞ、誰にもわからんのだからの。だから、ワシはただ見守るんじゃ」 


 この人はこんなふうに、歴代団長に対して、何を言うでもなくただ見守り続けている。本来の彼はリアリスト寄りな人物で、理想を追い求めるアリーゼやメリーさんとは対極の存在だ。そんな人がメリーさんを認めてくれているのは、彼のそんな思想故だ。


「そうですか。なら、正しくなくてもいいので、あなたのメリーさんに対しての本音を聞かせてください」


 俺は憧れのせいでメリーさんを客観的に見れていない気がしていた。だから、長い人生経験を持つこの人に意見を聞こうと思った。彼は俺の質問に対して怪訝な顔をしたが、特に何も言わずに答えてくれた。


「危なっかしいとは思っとる」

「それは、罪人に救いの手を差し伸べるからですか」

「それもあるが、一番の問題はあやつが本当の意味で罪人を心配しているところじゃ」

「それは……どういうことですか?」


 言葉の真意を掴みかねた俺は、再びヨーゼフさんに疑問を投げかけた。彼は白い髭を弄り、少し考えた後こう言った。


「遥か東の国に”窮鼠猫を噛む”という言葉があるように、追い詰められた人間は何をしでかすかわからない。故に、最も警戒しなくてはならないのは敵を追い詰めた瞬間じゃ。しかしの、あやつの場合はそれを全くしていない。迷子の子供に手を差し伸べるように、豪雨にさらされた捨て猫を傘の下に入れるように、敵意の全くない百パーセント純粋な善意を罪人どもに向けているのだ。ワシはあやつのそれが心配でならんのじゃ」


 彼の言い分は正しいと思った。あの人は罪人を救おうとする時に、相手から反撃が来るなんて微塵も考えていない。それが如何に危険かは分かり切っている。きっと彼女自身も気が付いているだろう。


 しかし、それでも辞めないのは、そうでなくては救うことができないからだ。一度悪意に晒された人間は、非常に悪意に敏感になる。少しでも警戒か敵意かを感じれば、奴らはすぐに反撃に出るだろう。無防備な善意、心の奥底まで広がる救うという意志、それらがなければ救えないのだ。


「そうですか。わかりました」


 参考にはなった、と思う。話を切り上げて仕事に戻ろうとした俺に、今度はヨーゼフさんが話しかけてきた。


「お主はどう思うのじゃ」

「…………俺は」


 沈黙が続く。なぜか言葉を続けることができなかった。あの時は意味がわからなかった。なぜ尊敬する人について言葉が出てこないのか。だが、今の俺なら確信を持って言える。あの時の俺は、揺れていたのだ。メリーさんを守るために理想を諦めるか、メリーさんに笑顔でいてもらうために危険に身を投じるか。俺はどちらか決めることができなかった。そんな中途半端だから、あの時何もできなかったのに。


「ただいま帰りました」

「あっ、おかえりなさいです」


 他の部署の様子を見に行っていたメリーさんが帰ってきて、この重苦しい沈黙を破った。さっきまであんな話をしていたせいで、どうにも気まずかった。しかし、ヨーゼフさんの顔はいつもの朗らかな老人のものに戻っていた。


「それじゃ、わしはちょっくら散歩に行ってくるわい」

「えっ、仕事終わったんですか?」

「ほっほっほっ、年の功ってやつじゃ」


 それだけ言ってヨーゼフさんは部屋を出て行ってしまった。終わったのなら少しでも手伝ってくれたらいいのにと思いつつ仕事に戻る。すると、後ろからメリーさんが抱きついてきた。花のような甘い香りが鼻孔をくすぐる。緊張で筋肉を強張り、自分の体温が上がっていくのが分かる。本当に、この人は心臓に悪い。


「なんですか突然」

「疲れたから休憩してるの」

「自分の椅子があるでしょう」

「だって、ここが一番落ち着くんだもん」


 キュッとさらに力を込められた。ぬいぐるみを抱きしめる時のような、無邪気で容赦ない力の入れ方だったが、不思議と苦しいとは思わなかった。ただ、今までの後ろ暗い感情を忘れてしまうほど心地よくて、自然と頬が緩んでしまう。


「タイラー君も疲れてるなら休憩しなよー」

「はは、じゃあそうさせてもらいます」


 肩の力を抜いて椅子に寄りかかる。少し視線を右に動かすと、メリーさんの顔が見えた。シルクのような白い肌、水晶のように透き通った瞳、天女のように美しい彼女は今の平和な時間に浮かれているのか、幼子のような無邪気な笑みを浮かべている。


「お茶淹れようか?アリーゼからいい茶葉もらったんだよ」

「じゃあ俺は茶菓子でも用意しときます」


 メリーさんは手を離して給湯室に向かった。俺は引き出しを開けて、三日前に部下からもらったクッキーを取り出した。そして、部屋の隅にある休憩用に使われることの方が多い、来客用の席に座った。


 ソファに体を埋め、はーっとため息をつく。デスクワークは変な疲れ方をする。普段は体を動かしてばかりいる俺はそう思った。しばらくすると、メリーさんがお茶を持って帰ってきた。しかし、そのお茶の匂いは、少し特殊だった。気になって顔を向けると、彼女がお盆に乗せて運んできたのはティーカップではなく湯呑みだった。


「メリーさん、それって陽元の緑茶ですか?」

「うん。アリーゼが「彼はこういうのが好みだろう」ってくれたの」


 メリーさんがトンと湯呑みを目の前に置いた。少し濁りのある緑色の液体から、ほわほわと湯気が立っていて熱そうだ。湯呑みを手に取って、火傷しないようゆっくりと飲むと、普段飲んでいる紅茶の渋みやコーヒーの苦味とはまるで違う独特な味がした。


「これが本場の緑茶ですか。なかなか良いものですね。あっ、でもこれじゃクッキーは合いませんね」

「ふっふっふっ、そう言うと思ってこんな物を買っておいたのよ!」


 メリーさんは待ってましたと言わんばかりに、お盆に乗せていたある物を俺の目の前に差し出した。黒い直方体が綺麗に三つ並んでいるそれを、俺は本で見たことがあった。


「羊羹ですか?」

「その通り!アリーゼから緑茶をもらった時、私がそれに合う茶菓子を取り寄せたの」

「そうなんですか。ははっ、なんだか今日は至れり尽くせりですね」

「そうね。せっかくの平和な時間なんだから、思いっきり楽しみましょう」


 メリーさんはそう言うと、俺の隣に座った。ふわりと甘い香りがした。今度は、緑茶の苦味を混ぜ合わせて。さらに、そのまま肩に寄りかかってきた。心臓が穿たれたかのような衝撃が走る。困惑しながら、肩に寄りかかる彼女に声をかける。


「あの、メリーさん?」

「タイラー君。私ね、こんな時間がずっと続けばいいなって思ってるの」

「……それは、俺もです」


 目を細めて語る彼女の顔は、そんな事は無理なんだと悟っているかのようだった。人の悪意に終わりはない。ずっと悪意と向き合い続けて来た彼女にはそれがよくわかっていたのだろう。


「仕事は少し疲れるけど、それでも武器なんて持たなくていい。退屈かもしれないけど、それでも誰も悲しまなくていい。同僚が、友達が、家族が、恋人が……大切な人がそばに居て笑い合える。そんな時間が愛おしいの。……だけど、そんなの長く続かないって分かってる。いつかまた武器を取らなきゃいけない時が来る。今の私はそれが怖いの」


 メリーさんは俺の服の袖をギュッと握りしめた。長い間悪意と向き合い続けてきた慈愛の勇者、そんなふうに思われている彼女の正体がこれだ。


 彼女は兄を二人、姉を一人持つ末っ子だ。よくできた優しい兄と姉、四人の子を養う誠実な父と、身の回りの世話をする優しい母。そんな家族と暮らしていた故に、彼女の本質は純粋無垢な甘えん坊だ。悪意に向き合う勇者にしては頼りないだろう。


 しかし、俺にとっては彼女と打ち解けてからみせるようになったこの本性が何よりも愛おしい。それと同時に、残酷だと思った。何故こんな彼女に戦いの才能を与えてしまったのか。そして、何故誰かのために戦う勇気と、自分の身を削ってでも助けようとする優しさを与えてしまったのか。俺はこの時以上に神を恨んだ事はない。こんなの、この歪な世界で傷つくために生まれてきたような物ではないかと。


「俺もそうです。でもいつか、そんなことを怖がる必要のない世界にしましょう。こんな事、叶うはずのない夢物語だと多くの人は笑うでしょう。俺も心のどこかでそう思っていました。でも、あなたの姿を見て、俺はもう一度夢物語を信じられるようになった。あなたならきっと夢物語を現実にできるって思った。だから、頑張りましょう。俺がずっと、隣にいてあげますから」


 今度は考えるより先に言葉が出て来た。物凄く恥ずかしいセリフを言ってしまったと思い、つい顔を伏せてしまった。


 すると、隣のメリーさんがクスリと笑った。変なやつだと思われたと思いつつ、恐る恐る顔を向けた。その時視界に映った顔は、少し想像と違っていた。思いっきり緩んだ顔から少量の涙がそっと零れていて、なんだか、嬉しそうだった。


「やっぱり、タイラー君は優しいね。私のことをそんなに信頼してくれてるなんて」


 メリーさんが優しく俺の手を握った。桜が咲いて散ってしまいそうなほど儚い手から、優しい温かみを感じた。


「タイラー君がいてくれてよかった。私一人じゃ、いつか折れちゃってたかも。私にとって、タイラー君は特別だよ」


 特別。その言葉で胸が高鳴る。今まで辛いこともたくさんあったが、この瞬間に全てが報われたと思った。


「私のこと守ってね」

「勿論です。それが夢物語を信じさせてくれたメリーさんへの恩返しですから」

「じゃ、指切りね」


 メリーさんは、そう言って触れたら溶けてしまいそうなか細い指を差し出した。俺も指を差し出して指切りをした。指切りをし終わった時の彼女の顔はとても満足気で、こっちもニヤけてしまいそうなくらい可愛らしかった。


「ふふっ、じゃあ優しい私の騎士ナイト様にご褒美をあげちゃおうかな」


 上機嫌なメリーさんは皿の上にある羊羹をフォークで刺して、俺の目の前まで持ってきた。


「はい、あーん」

「え!?そ、それはさすがに……」

「『ずっと隣にいる』なんてプロポーズみたいなこと言ったのに今更じゃない?」

「うっ……!じゃ、じゃあお言葉に甘えて」


 緊張しながら、ゆっくりと口を開ける。心臓の鼓動がうるさいくらい聞こえてくる。そんな事はお構いなしに、メリーさんは俺の口に羊羹を入れた。


 その甘味は極上のもので、あの時だけは、俺の中にあった苦味を全て忘れさせてくれた。その時の俺はもう揺れてはいなかった。メリーさんを守る。この約束だけは絶対に守ると心に誓った。

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