§ 2―8 凶事
「仕事の途中だったから戻るね。終わったら連絡するから」
と言って、薫は手を振りながら笑顔で歩いていく。一人になって、よし! よし! よっしゃー!! と声に出して喜び、実感する。こんな気持ちは初めてだ。とりあえず、誰かにこのことを話したくなり、きっかけを作ってくれたメルに報告しようと連絡すると、食堂にいるとのことで
「メル、ありがとう。上手くいったよ」
「おめでとうございます。アキト様」
「メルが選んでくれた指輪、気に入ってくれてさ、ホントにありがとな」
「そう言ったじゃないですか」
「うんうん、言ってた、言ってた。メルにお願いしてよかったよ」
「アキト様に喜んでいただいてよかったです」
メルは笑顔で答えている。そこに、アキトのスマホに着信が来た。
「薫先輩だ」
まだ先輩と付けてしまう。喜んで電話に出る。
「アキトく……ん……たす……け……て……」
なんだ? 様子がおかしい。メルにも聞こえたのか顔つきが少し変わる。
「どうしたんですか? 何かあったんですか?」
返事はない。何かあったのだろうか。ただごとじゃない。
「メル。先輩の様子がおかしいんだ。ちょっと行ってくる」
「アキト様。私も行きます」
「え! あぁ、わかった」
急いで食堂から抜け出し、気づけば走り出していた。
♦ ♦ ♦ ♦
薫先輩の研究室がある研究棟に着くと、職員専用のドアがある。
「アキト様、おまかせください」
と言うとメルは認証カードを読み取るリーダーに手のひらをかざす。なぜか認証されてドアが開く。
「メル、どうやったんだ?」
「そんなことよりお急ぎください。こちらです」
疑問は置いておいて、メルについていく。階段を上って、廊下をまっすぐ走り、突き当りを右に曲がるとメルが止まって、手をアキトの前に突き出す。
「アキト様、お気をつけください」
そう言われて前を見ると、白衣を着た外国人の男3人がおり、そのうちの1人が女性を運ぼうとしている。薫先輩だ。
男たちもこちらに気づく。
「チッ! ミラレルトハ」
聞き慣れない言葉を発し、男2人がこっちにナイフを取り出して向かってくる。
「任せてください」
メルも男たちに向かっていく。
【対人制圧プログラム、実行します】
メルの目が赤く輝く。ものすごい勢いで突っ込み、まず1人目を右ストレートで吹っ飛ばし、2人目は左前蹴りが直撃し、吹っ飛んで壁に叩きつけられる。
「ナンダト!」
薫先輩を抱えている男が、手を放しメルのほうを向くと同時に、メルは瞬く間に移動し、左フックで弾き飛ばす。
【ミッションクリア。プログラム、解除します】
目の輝きが消えると、メルは薫先輩に近寄る。
「大丈夫ですか? 薫様」
ここで我に返り、アキトも薫に近寄る。
「薫先輩。大丈夫ですか!」
よく見ると、腹部の一部が赤く染まっている。
「すぐに処置します。まだ大丈夫です」
メルが服を破り、ナイフが刺されたであろう場所を止血している。薫はうめき声をあげ、顔をゆがめている。
「ウイルスが……。止めて……」
すぐ傍の少し開いているバイオハザードマークのドアを、必死に指さそうとしているのがわかる。
その震える手を握り締める。
「わかりました」
伝えられたことに安心したのか、薫は気を失う。そっと手を放し、立ち上がり、足音を殺してドアに近づく。空いたドアの隙間から部屋の中を覗く。そこには男が1人いた。見覚えがある男だ。いつぞや食堂で先輩に話しかけてた男だ。
「おい、何をしてるんだ!」
ドアを勢いよく開き、問いただす。男の手には瓶が握られている。
「なんだお前は? どうしてここにいる?」
「それはウイルスだな。それをどうする気だ」
男は迷いなく胸元から銃を取り出してこちらに向ける。
「動くなよ。このウイルスがあれば我が国は救われるのだ。家族の無念を晴らすため、これは持ち帰らせてもらう」
アキトはあまりのことに身体が固まる。しかし、あのウイルスは危険だ。街中であんなもの
そこにメルがドアから入ってきた。
「チッ! 死ね!」
銃口がメルに向いたことに、とっさにメルを庇う。銃声が鳴り、左肩に痛みが走る。あまりの痛みにメルに寄りかかるように倒れこむ。
「アキト様!」
「うっ……。メル、あいつが、ウイルスを持ち出すのを、防ぐんだ……」
「イエス、マスター」
このとき、さらに銃声が2つ鳴る。アキトを護るために抱え込んだメルの背中に2発とも当たった。しかし、メルは何事もないように男のほうを向く。その目は赤く輝いていた。
「なんだ、お前は!」
男が
「な、なんだと!」
そのとき男は一瞬見た。赤い髪をたなびかせ、赤く目が光る怒りの表情を浮かべている女の顔を。必死に銃口を向けようとするが、また女の姿が消えたと思ったら、手から拳銃がなくなっている。
「なっ!」
と思った瞬間、メルの右ハイキックが顔面を直撃し、5mは離れた壁に叩きつけられ気を失わせた。
「アキト様!」
メルは倒れているアキトに近寄る。
「ウイルス、取り返しました」
とアキトの目の前に掲げる。
「よ、良かった……。ありがとう、メル……」
苦痛に歪んだ表情が微かに緩み、アキトは気を失った。
メルはウイルスの入った瓶を冷蔵庫に戻し、アキトを抱きかかえドアから出ると、遠くから近づいてくる声が聞こえてきた。
「なんだ今の音は。こっちのほうからだ」
この施設の警備員だろう。薫の傷は、しっかり処置も
「セルクイユ、起動」
と言い、窓を足で叩き割る。そこから、アキトを抱えて飛び降りる。何事もなく着地して、全力で走り出す。
研究棟から離れ、人が来ない校舎裏まで移動し、そこで上を見上げると、迷彩が解け、静かにセルクイユが下りてくる。着地すると同時に上部のドアがスライドして開く。そこにアキトを乗せると、ボタンを押し、セルクイユの後方が開く。そこから治療道具を取り出しアキトの傷を処置する。
良かった。傷から銃弾を取り出せば後は問題なさそうだ。麻酔を撃ち、手際よく左肩から弾を取り出し、消毒し、傷口を塞ぐ。
気を失っているが、命に別状は無さそうなことに、メルは心から安堵する。
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