第6話 生還者

「グゥッググッググ」


 空洞の至る所で、低い唸りに似た声が反響する。大蛇は、長い間地下深くに埋もれていた建造物が地上に屹立し、月明かりによってその全体像を誇示している様子を確かめるようにして、遺跡を見下ろしている。


 秘密のヴェールに包まれていた遺跡の浮上という驚愕の出来事に心を奪われていた旧鼠たちであったが、その大蛇を前にして、皆が全身の感覚が麻痺したかのように動けなくなっていた。


 唯一の例外がトンガーソンであり、ユスチィスを奪われたという憎しみの炎を灯らせた眼光で、大蛇を睨みつけている。


 大蛇は自らを睨むトンガーソンの視線に気づいたらしく、細く鋭い瞳を、遺跡の外付けの階段の手すりに寄りかかっているトンガーソンへ向けた。


 トンガーソンは鬼気迫るものを感じ、瞬時に仲間の旧鼠たちへ視線を走らせる。皆、遺跡の突起物や手すりに掴まったまま硬直しており、このままでは大蛇にとって格好の的であると思い至る。


「散るんだ! 早く」


 トンガーソンの号令。それでも、生涯の天敵を前にして逡巡する旧鼠たち。


「急げ!」


 一喝。真っ先に我に返ったのは老練のタンムル、続いて、若いケルエヴィンだった。


 タンムルが周りにいる仲間へ指示を飛ばす。その場に居合わせた者たちの硬直が解け、皆が思い思いの場所へ走り出す。だが、まともに指揮が取れているとは言い難く、大蛇に対する恐怖心が旧鼠たちの判断力を鈍らせていた。


 ケルエヴィンは、すぐ近くにいる、震えたまま棒立ちになっているキサリナの腕を掴んだ。そこでようやく正気に戻ったキサリナは、ケルエヴィンに引っ張られたまま、トンガーソンの指し示している遺跡の物影に駆け込む。


 右往左往する旧鼠の様子を観察していた大蛇。獲物を前にしても動き出す気配のない大蛇に対して、トンガーソンはかえって不穏なものを感じていた。


 大蛇の瞳には、緊張したまま身構えているトンガーソンの姿がはっきりと映されている。大蛇はトンガーソンの挙動を観察したまま、自らは静かに砂上を流れる風にその長い胴体をさらしていた。


 大蛇と視線を合わせたまま動かないでいるトンガーソンに向かって、ケルエヴィンが叫んだ。


「何やってるんだ、トンガーソンさん!」


 まるで耳を貸す様子も見せないトンガーソン。しびれを切らしたケルエヴィンは、キサリナに向かって先に逃げるように言うと、トンガーソンの傍へ駆け寄る。


「トンガーソンさん、あなたも逃げないと」


 トンガーソンは「うむ……」と唸るような声で答えたが、まだ迷いを捨てきれていない様子だった。


 ケルエヴィンによって強引に肩を掴まれ、トンガーソンは渋々といった名残惜しそうな様子で、ようやくケルエヴィンと共に駆け出す。大蛇は遠のいていく二人の旧鼠を目で追っていたが、天を突くように高く伸ばされた胴体は微動だにしない。


 旧鼠たちは遺跡のあちこちに身を潜め、大蛇の動向を警戒する。もし大蛇が動き出せば旧鼠の数倍の速度で巨体が迫ってくる。隠れる場所の無い砂漠へ逃げ出すのも危険であった。


「まったく……とんだ災難だ」


 タンムルが愚痴をこぼす。


「もしかしたら、あれがユスチィスを襲った奴なのか?」


 デイモルが己の内に沸いた疑念を呟く。


「どうだろうな。大蛇の外見なんてどいつもこいつも似たようなものだし、トンガーソンに聞いたところで……」


 タンムルはそう言うと、離れたところにある隙間へ駆け込んだトンガーソンのいる辺りを見やった。


「……どの道、ユスチィスの生存は絶望的だろう」


 タンムルが本音を漏らす。


 トンガーソンの機嫌を損ねてはならないと思って口にしてはいなかったが、タンムルは大蛇の標的になったユスチィスが生き延びているとは思っていなかった。ただ、捜索隊としての名目もあれば胸を張って遺跡の調査も行える。現に、こうして全貌を表した遺跡に対する興味は今もなお尽きない。


(もっとも、まずはこの状況下で生き延びなければならないが……)


 幸い、大蛇は一匹しかいないらしい。上手くかく乱できれば逃げることも十分に可能であろう。犠牲者は出るだろうが……。


 タンムルたちから離れた場所で、トンガーソン、ケルエヴィン、キサリナ、それにたまたま同じ場所に隠れていたラドクの四人が身を寄せ合っていた。


 今もなお大蛇を睨んでいるトンガーソンの感情の昂ぶりを、周囲にいる三人は感じ取っていた。


 ケルエヴィンが口を開く。


「あいつ、遺跡の地下に潜んでいたらしいな。やはり、トンガーソンさんたちを襲ったのも……」


「ああ、そうだろうな」


 トンガーソンは怒りと緊張で顔をこわばらせている。


「あの時と同じだ……奴は遺跡の地下から現れて、わたしとユスチィスを襲った。ここが奴のねぐらで間違いない。おそらく、ずっと待ち伏せしていたのかもしれないな」


「ちょ、ちょっと待ってくださいよ」


 ラドクが口を挟む。


「ユスチィスとは遺跡ではぐれたんですか? それなら、ぼくたちは……よりにもよって、大蛇の縄張りに自ら入り込んだってことになるんじゃ」


 トンガーソンとケルエヴィンが顔を見合わせる。ラドクは、トンガーソンがユスチィスとはぐれた際の話を一部偽っていたとは知らないはずだった。


「……トンガーソンさん、あなたは」


 ラドクなりに状況を察し始めたらしい。ラドクの瞳は、徐々に真相を見つめるものになりつつある。


「すまない……」


 トンガーソンの簡潔な返答。それを聞いたラドクの全身が、ぷるぷると震え出す。


「やっぱり、ユスチィスはここで襲われたんだ。そうと知っていれば、こんな危険を冒すこともなかったのに」


「よせ」


 ケルエヴィンが割って入る。


「今は争っている場合じゃない。まずは助かる道を探すのが先決だ」


 それは正論であったが、事情を十分に知らされないまま大蛇の住処に連れてこられたという憤りを、ラドクは燻ぶらせていた。


「ラドクさん。落ち着いて……」


 キサリナがそっと宥める。しかし、キサリナの落ち着きようは、キサリナもユスチィスの件を既に知っていたという事実の上に成り立っていることを、ラドクは察する。


「…………」


 ラドクは歯ぎしりをしたまま、無言でいた。すぐ近くに居合わせた者の中で、自分だけが仲間外れにされている、道化者のような疎外感を噛み締めて。


「それにしても、あの大蛇の奴、全然向かってこないな」


 ケルエヴィンはそう言って話題を逸らすと、今もなお長い胴体を伸ばしたまま遺跡を見下ろしている大蛇を見やる。


「隙を見て逃げ出せればいいが……」


 ケルエヴィンが不意に言葉を切り、「おや?」と首をかしげる。


「どうした?」


 トンガーソンが尋ねると、ケルエヴィンは、続けて何かを言おうとしているトンガーソンの口を片手で制した。


「しっ。静かにしていてくれ」


 ケルエヴィンが瞳を閉じ、耳を澄ます。そのまま暫しの間があった。


「……聞こえるかい、トンガーソンさん」


「聞こえるかって……一体、何を……」


 トンガーソンもそう言いかけたところで、はっとなる。些か老いていたトンガーソンの聴覚が、あるものの声を聴きつけた。


「この声」


 トンガーソンが身を乗り出し、隙間から顔を突き出す。驚いたキサリナがトンガーソンを止めようとしたが、ケルエヴィンは黙ったまま成り行きを見守っていた。


「ユスチィス」


 トンガーソンが叫んだ。その直後、じっとしていた大蛇が突然身体を曲げて、遺跡の頭頂部へと身を躍らせる。


「危ないですよ、トンガーソンさん」


 キサリナの制止する声も聴かずに、トンガーソンが遺跡の中央付近にある広間に飛び出した。


「ユスチィスだ、間違いない」


 断言するトンガーソン。その様子を遠巻きに眺めていた周辺の旧鼠たちは困惑していたが、次に聴こえてきた声が彼らの迷いを打ち破った。


「おーい、みんなぁ」


 大蛇の足元から聞こえてくる声。それは誰の耳にも、聞きなれた旧鼠のものとして捉えられていた。


 大蛇がゆっくりとした動作で己の身をその場からどかせると、地下へと通じる大穴が明るみに出た。その中から這い出して来る一人の旧鼠の姿――。


「おお、ユスチィス」


 トンガーソンが喜びの声を上げ、駆け寄る。すぐ傍に大蛇のいることなど、すっかり忘れ去ってしまったかのようだった。


 他の旧鼠たちが、固唾を飲んで成り行きを見守っている。


 近づいてくるトンガーソンを前にして、ユスチィスは誰かを抱きかかえるようにして、地上に連れ出した。


 それは……旧文明人の少女。今、この場にいる旧鼠たちの誰もが、文献でしか知り得なかった存在であった。

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旧鼠の星 来星馬玲 @cjmom33ybsyg

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