第5話 浮上

 旧鼠たちから流砂と呼ばれたそれは、自然に発生するものとは似て非なるものであった。


 砂上に置いて度々発生し、音の無い潮流のような挙動をとりながら、犠牲者を絡めとる。これに捕まったら最後、不気味に渦を巻く砂の中へ飲み込まれてしまう。


 先史文明人が遺した遺跡には未だ解明されていない様々な仕掛けがあり、流砂は何らかの理由で必要になった防衛用の罠ではないかと目されていた。


 過去の経験から、それらしい仕掛けのある場所の見当をつけることは、熟練の探索者であれば容易であったがまだ若いユスチィスには荷が重く、大蛇から彼を逃がすのに気を取られていたトンガーソンはそれを失念していたのであった。




 ユスチィスの消えた辺りを調べているトンガーソンたち。既に流砂は機能を失っており、新たな発生の兆しも見受けられなかった。


 乾いた空気がその場にいる旧鼠たちの毛皮をかすめる。人一倍寒さに敏感なキサリナが小さく身震いをした。


 積み上がっている瓦礫を力任せにどかしていたケルエヴィンがキサリナの様子を横目でちらりと見やると、破損した鉄版の文面に虚しく手がかりを求めていたトンガーソンの方へ向き直った。


「トンガーソンさん、気温も大分下がってきた。それに、間もなく大蛇が獲物を探す時頃だろう。一旦、仲間を集めて、夜間に備えたほうが良くないかな」


「う、うむ……」


 返事はしたものの、逡巡するトンガーソン。老いた腕は、平たい形状の重たい金属片を押しのけた状態のまま動きを止める。やがて、トンガーソンは微かな震えが全身を伝わってくる鈍い感覚を覚え、急な立ちくらみに、おぼつかない足取りでふらついた。


「トンガーソンさん」


 ケルエヴィンがはっきりとした声で、トンガーソンに訴えかける。キサリナが訝し気に両者のやり取りを見つめた。


 トンガーソンはしわがれた右手を、弱々しくケルエヴィンの方へ向けながら、小さな声で「わかった」と呟いた。


 トンガーソンの瞳が、砂が山のように積み重なっているジェント砂丘の遠方を見据える。吹き荒れる風によって姿を変え続けている砂丘であるが、こうして己の眼で見ている間は、万物が静止しているかの如ぎ静けさがそこにあった。空はまだ明るかったが、微かな夕闇との境界線上には白い月の虚ろな輪郭が浮かんでいた。


 消えたユスチィスの手がかりを見つけようと躍起になっていたトンガーソンであったが、己の身体には相当な疲労感が重くのしかかっている。心からくるものもあるだろう。


 見れば、ケルエヴィンの表情は相変わらずとらえどころのないものであったが、キサリナの方は大分疲弊しているのがわかった。


(これ以上、私のわがままで、無理はさせられないな……)


 トンガーソンのユスチィスの無事を願う心の片隅で、諦念に近い感情が沸き起こる。老いた旧鼠はそれを振り払うかのように言った。


「タンムルや、分かれているティロウたちにも伝えよう。皆を集めて、野営の準備を始めないとな……」


 トンガーソンの提案に、ケルエヴィンとキサリナがそろって賛同する。


 それから三人は作業を中断し、仲間の元へ向かった。




 深く長い眠りから目覚めた少女。彼女は、自分が何者で、何故このような場所にいるのか、初めは全く理解できていなかった。記憶は途方もなく遠い過去へ置き去りにされてきたかのようで、今となっても、思い出されるものは朧げな親しい人の温もりだけだ。


 徐々に理解できたのは、傍らで何かと世話を焼いてくれる毛深い隣人には、心を許せるということ。彼の存在が、自分に優しい人の感触を思い出させてくれたのだと、少女は無意識のうちに理解し始めていた。


 その感触は、暖かな日差し、鼻孔をくすぐる緑の香りを想起させる。生きているという感覚――人間が感情を取り戻すのには不可欠のものなのかもしれない。


 凍結されていた手足は感覚を取り戻し、最初は重くて動かせなかった四肢もある程度は自由になり、自らの意思も明瞭なものとなっていった。


 遺跡の内部の環境は、唯一生き残った少女のために用意されたと言っても差し支えなかったが、少女自身はあまり良い気がしていなかった。


 不自然なほどに冷たく、暗い。少女に頼れる隣人がいなければ、この牢獄のような静けさの中で孤独に押しつぶされていただろう。


 もっとたくさんの人の温もり――家族、親友――何者であるかは理解できなかったが、少女の周りには大勢の人間がいた記憶があり、彼女は自分がとても大事にされた気がしていた。何時しか、傍らの隣人が自分を皆の元へ連れて行ってくれるのだと信じていた。 


 隣人が新たな棺状の物体に導いてくれた時、少女の凍り付いた記憶の中で一つの部品が融解し、明るみに出た。少女は咄嗟に芽生えた衝動に従い、逡巡している隣人の意図も理解できないまま行動に出たのであった。


 それを動作させるために必要な手順は、記憶の中に輪郭として登場する長身の人物が教えてくれた。その人間の顔や声は濁った白い靄に隠されて判別できなかったが、綺麗な白い手の滑らかな動きだけははっきりと認識できる。少女はその理由を知らなかったが、それは少女が遺跡で目覚めたあとに必要とされる知識でもあった。


 少女は見えない力に突き動かされるかのように、隣人を押しのけ、自らの手で棺を開いた。


 内部の底へ張り付くように横たわっている、青みがかった黄土色の細長い物体。物体――いや、その形状は丸みを帯びた長方形に折れ曲がった四本の棒が取り付けられているかのような奇抜な姿ではあったが、少女にとって身近なものであるはずだった。


 感覚が麻痺し、身体が硬直したように静止する。少女の両眼は眼前でうずくまる人間の姿を気の抜けた様子で見つめていたが、少女の心は目まぐるしい勢いで自身の記憶の残滓を辿っていた。


 幸運にも遺跡の内部で唯一生き残っていた少女に突きつけられた現実は、残酷なものであった。パニックに陥ったが、それは彼女自身が未だ気づいていない、先史文明人の生き残りに背負わされた使命を今一度呼び起こさせるための、きっかけであったとも言える。


 事実、少女は悍ましい外観の大蛇と対面した際に恐怖で怯えることもなく、己の課された使命を意図せずになぞり始めたのだから――。




 調査隊は、綿花から採取した繊維で織り込まれたテントを張り、散らばっていた仲間たちを野営地に集め終わったところだった。


 夕刻を過ぎようとしており、一面が青みがかっている暗闇に浸食される、薄暮の揺らめきが地上を僅かに照らし、旧鼠の皮膚をじりじりと焼く紫外線も弱まっていた。


 調査隊の若年層が集まって夕食の準備を始めており、キサリナとケルエヴィンもその中にいた。


 旧鼠にとってはお馴染みのものとなっていた、トートサを溶かした吸い物の匂いが、周囲に立ち込めている。


 トートサは、幾重にも重なった真紅の花弁が目を引く球根植物。これには強い毒が含まれていたが、長時間煮込んでから紫外線に当てることで毒抜きをし、粉末状にしたものは、貴重なデンプン質として重宝されていた。


 これにハトロドと呼ばれる木の実を加えて、じっくり煮込むのであるが、ハトロドは石のように固く、獣の毛皮のような分厚い種皮で覆われており、こちらも事前に長時間蒸かしておく必要があった。


 年長者のタンムルが物色するかのような足取りで、即席の厨房に踏み入ってきた。タンムルは、まだ少し硬いハトロドの皮を丹念に取り除いているキサリナに目を留めると、彼女に声をかけた。


「キサリナや、アルマガナさんのご容態はどうでしたかな?」


 キサリナは作業の途中で手を止め、タンムルと目を合わせる。キサリナは戸惑いを隠せずにいたが、すぐに己を落ち着かせ、話し始める。


「ええ、おかげさまで……まだ、遠出はできないけれど、大分回復しております」


 調査隊を結成する数日前、タンムルはアルマガナの見舞いに訪れていた。アルマガナが人払いをしていたので、アルマガナの身の回りの世話をしていたキサリナが応対した。


 その時のやり取りは実に簡素で、まるでタンムルを追い返すような形になってしまった経緯もあり、キサリナはとても後ろめたい想いをしたものであった。


「つい昨日は、久しぶりに庭へ顔を出していました……博士の好きな、エネーシアの花も咲いていたので……」


「そうか、それは良かった」


 タンムルは見舞いの際に、エネーシアの種を持参していた。エネーシアはアルマガナが好んでいた花で、一般的には黄色や紫色をしていたが、アルマガナは独自の研究で品種改良を繰り返しており、彼女の庭は様々な色彩のエネーシアで咲き乱れている。


 タンムルが持ってきたのは、遠方で暮らしている研究者仲間の旧鼠の一人から譲りうけたという青い花のエネーシアの種で、珍しい野生種だった。アルマガナの庭や研究施設においても、青色のエネーシアはまだなかった。


「で、喜んでくれたかな……わたしが持ってきたエネーシアの種は」


「……ええ、それはもう」


 嘘だった。本当は、アルマガナはタンムルからの贈り物を喜んではおらず、捨ててしまうようにとキサリナに言付けしていたのだ。だが、キサリナは、タンムルがわざわざ持参した珍しい花の種を捨てるというのは忍びなく、アルマガナを説得した末に、キサリナ自身の手で鉢に植えたのであった。


 キサリナは本当のことを話せなかった。アルマガナが庭に顔を出した日、鉢植えのエネーシアも芽を出しており、それを見つめるアルマガナの、嫌悪感を露わにしていた表情を満面の笑みに置き換えて、タンムルに話して聞かせた。


 タンムルはまるで自分のことであるかのように、喜んでいる。キサリナは罪悪感で胸を締め付けられるような苦しさを覚えたが、心の奥底に呑み込んだ。 


 それからタンムルはキサリナにとって当たり障りのない事柄を話しながら、ゆっくりと立ち去る。キサリナの心の中は未だ動揺していて、その時タンムルが喋った話の内容はほとんど耳に入ってこなかった。タンムルは去り際に、煮込んでいる途中のハトロドの実をつまみ食いしていったが、それを気にとめる者はいなかった。


 タンムルが居なくなると、キサリナは肩の荷がすっと軽くなった気がした。苦しくなっていた呼吸も楽になる。心なしか、埃っぽく重苦しい空気も、幾分澄んだと感じるくらいだ。


 キサリナは、タンムルが嫌いというわけではない。どちらかと言うと、気さくな印象がしていた。ただ、キサリナが最も敬愛する、師であり実の母のような存在でもあったアルマガナが、最も毛嫌いしている人物でもある。その影響で、キサリナもタンムルを無意識のうちに避けており、先ほどのように話しかけられることに抵抗があった。


「なあ、キサリナ。そろそろ夕食の準備も終わりそうだから、皆を呼びに行って来てくれないか?」


 そう語り掛けてきたのは、ケルエヴィンだった。ケルエヴィンは周囲に気を配ってから、キサリナの耳元で囁く。


「……この時間は、なるべく一か所に集まっていた方が、もしもの時にも対処しやすいだろうしな」


 キサリナははっとなる。そう、この近辺にはユスチィスとトンガーソンを襲ったという大蛇がいる可能性が高いのだ。


「ええ、そうですね……」


 キサリナはそう言うと、まだ作業に従事している周りの若者たちに軽く一礼をしてから、周辺に張られているテントの方へ向かって、足早に立ち去った。


 


 ダグゥロに案内された先は、長方形の板を繋げ合わせた五角柱の形状をしている一室であった。ユスチィスたちが部屋に入ると、少し遅れて天井の照明が稼働を開始し、内部を照らし出す。白色の光が平べったい壁面で反射し、銀色の光沢が眩しかった。


 ユスチィスがパンナカァラと名付けた少女。彼女は先ほどの不気味な儀式を終えてからは、ぴったりとユスチィスに寄り添っていた。パンナカァラの肌は冷たかったが、ユスチィスは彼女の内に流れる熱い血の鼓動をはっきりと感じとり、自らを奮い立たせていた。


「キミは、好かれているようだな……」


 空洞に反響する、ダグゥロの声。敵意が無いのはわかっているとはいえ、大蛇の声帯から発せられる言葉は、何度聴いてもユスチィスにとって生きた心地がしなかった。


「時は……熟したのだ。……長い……孤独……解放……グゥッグゥッグ」


 そのあとに続いたのは、旧鼠の言葉では無かった。不審に思うユスチィスを尻目に、大蛇の胴体が空間を揺さぶりながら上昇していく。


「ダグゥロ、なにをするつもりだ?」


「……かえしてやる……深い、地の底から。キミも、望んでいるだろう」


「かえすって……」


 振動。それは、地の底から沸き起こる重い響きを伴い、ユスチィスのつま先から脳天に至るまでを、一気に駆け抜けた。


 めまいを覚えたユスチィスであったが、眼前で転びそうになっているパンナカァラの様子が目に入り、慌てて少女の華奢な身体を支えた。


「なんだ……何が起こっているんだ? ……まさか」


 遺跡全体が大地を押し上げ、地上に向かって上昇している――ユスチィスはそう直感していた。




 それは突然の出来事であった。


 夜の野営地で食事を交えた休息をとっていた調査隊の中で、誰が最初に気づいたのかは定かでない。元々、旧鼠は音や振動などに敏感であり、瞬時に異変を察した旧鼠たちは誰からともなく身構えていた。


 廃墟となっていた遺跡の柱が、天を貫く勢いで伸び上がっていく。その過程で、柱は振動に耐え切れずにひび割れ、崩れ落ちていった。


 慌てふためく調査隊の面々。年長者のトンガーソンやタンムルが率先して皆に指示を出し、瓦礫から離れるように誘導した。


 振動は収まるところを知らず、迂闊に動けなくなった調査隊の面々は、遺跡の所々に点在する砂上の広間で身を寄せ合い、固唾をのんで状況の変化を見守った。


 崩れ去る廃墟。その下から、月光を反射させる銀色の壁がせり上がってきた。


「こ、これは……」


 トンガーソンはあまりのことに茫然となった。他の旧鼠とて、同じである。


 朽ち果てた遺跡。その下の砂の中には、太古の先史文明の頃から色あせていない、途方もない技術力によって動く建造物が隠されていたのだ。


 瓦礫から遠ざかった砂上もまた、地の底から上昇してきた銀色の床面によって押し上げられていく。上にいた旧鼠たちは次々に転倒し、己の身体を支えようと手を伸ばしたが、掴まるようなところは無い。


 長い時間をかけ、遺跡はようやくその動きを止めた。地上に現れた遺跡の全貌は、さながら巨大な白銀の要塞と呼べる代物で、異様な威圧感で以てジェント砂丘全体を見下ろしていた。


「ま、待て。まだ何か来るぞ」


 叫んだのはタンムルだった。遺跡の浮上が収まってなお、何か巨大な物体が大地を震撼させていたのだ。一同は何事かと騒然になる。


「まさか」


 トンガーソンは、迫り来るものの正体を察していた。この遺跡を再度訪れる羽目にした存在。遺跡に訪れたことを後悔した要因。


「大蛇だ」


 旧鼠の悲痛の声。黒光りする、先の見えない外殻が中空に伸び上がり、発達した二本の長い触角がしなやかに曲がりくねって、月下で踊る。


 あまりの光景に、その場にいる誰もが戦慄していた。

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