怖い上司もいるんです!
「状況を整理するわよ」
アンネ先輩が黒板の前に立ち、言う。
石碑はひとまずそのままにして僕らは詰所内の会議室にいた。
「すみません、僕もう帰りたいです!」
「アンタ何徹してんの?」
「二徹です!もう無理!」
「こっちが無理。会議終わって四時間寝てもう二徹いけるわね!甘えんな!」
帰宅を願う僕の希望は打ち砕かれた。
諦めな!と笑って肩を揉むデルーマン先輩の手を払う元気も出ない。
眼精疲労で涙も出ない。
会議室と言っても簡素な作りで、書き込まれすぎて古傷のように文字がうっすら刻まれた黒板と、いつ作られたのかわからないほどあちこちが剥げている長い樫材の机、貧弱な背もたれの椅子はしょっちゅうひじ掛けが外れる。
おまけに小さめの窓が一つしかついてないため、独房感が漂う空間だ。
学生の頃の方がまだマシな設備だったように思う。
ここで団長たち上役までもが会議を行うことを考えると、なんだか切ない。
ただでさえ体力と精神の摩耗の激しい職なのだ。もう少し良い思いをさせてくれても罰は当たらないと心から思う。
虚しさと疲労を誤魔化すために、何かきっかけさえあれば絶対いつかしょっぴいてやる、と今日の巡回で悪口を投げかけてきた市民の顔を思い浮かべる。露天商のデブと、宿屋の息子、港の倉庫係に、娼館のケツモチ……あれ、めっちゃ多い。やだ、魔ッポ嫌われすぎ……。
後輩が意識を手放しかけているとは思ってもいないであろうアンネ先輩が黒板の前に立ち、被害者(なぜかハートマーク付き)、被害者宅、不審者、など先ほどの映像の位置関係を図にしていく。
「被害女性は夜明け前に酔っぱらいながら帰宅。帰宅時の様子から相当量の酒気を帯びており前後不覚の状態であった。背後には尾行されていたと思われる不審な人物が確認されていて、性別は不明。濃色のローブを着用していたことから人目を気にしていたことがうかがわれる。その後その人物は現場に留まり続けたが犯行に及ぶような挙動は見せなかった。日が昇り始めた頃に現場を後にするも」
そこで言葉を止め、家の図にぐるぐると円を描く。
「被害者宅のドアの中央部より予兆もなく発火。しかも魔力痕も残さず、自然発火としか思えない。錠部分以外は木製とはいえ燃えるようなものはなかったのにも関わらず」
うーん、と唸ったあと、振り返り僕らにズバッと指をさす。
「ねぇ、どう思う!?」
「絵がヘタクソ過ぎて何もわかりませーん」
「人差し指に鼻くそついてんぞ」
ついてねーよ!の声と間髪入れず、すごい勢いの水の塊が僕たちの額めがけて飛んできた。彼女の得意な水の魔法だろう。
額に直撃を受けた僕らは、べっ!!んぼっ!!という間抜けな声を上げ床に崩れ落ちる。
ただ、本当にヘタクソなのだ。
幼児並みの画力で描く彼女の事件詳細は誰も読み取ることが出来ず、結局誰かが描きなおす二度手間決定版として団員の中では有名だ。本人は描くのが好きなので手に負えない。
今回はシンプルなのでまだ理解はできるもののどうしてドアが丸くなってしまうのか。
なぜローブの人物がキラキラした目をしているのか。
人物のシルエットはもはやデフォルメされた排泄物にしか見えない。
いったい僕と彼女の見ている世界は同じものなのだろうか。
「アンタその画力で逆ギレする余地あると思ってんのかよぉ!」
のたうち回り叫ぶ僕たちを無視してアンネ先輩は話を進める。
「あたし個人としては引っかかる部分はやっぱりあのローブの人物ね。どう考えたって怪しい。でも、確認できた限り魔法を使ったそぶりもないし…。もちろんあたしたちが把握していない未知の魔法の可能性もあるわけだけど、でも」
後半はもはや独り言に近くなりつつあるアンネ先輩。
「まぁまぁ一息入れようぜ。今だって解析団員が外で頑張ってくれてるんだし、そっちの意見も待ってからで遅くないでしょ」
デルーマン先輩が額をさすり、だらしなく椅子に身を預けながら言う。
先ほど一通り映像のチェックを済ませた僕らはちょうど帰りがけの証拠解析班の団員が通りかかったので再チェックを依頼したのだった。
解析班は治安巡回の団員に比べ気の弱そうな人が多いので実に頼みごとがしやすい。
押し付けともいえるが。
「あの、まずは被害女性に護衛を付けては?」
映像解析はともかく、個人的にはまずそこが気がかりだった。
そう発言した時、ギェェェと断末魔の声が響き渡る。
会議室の扉が開いただけなのだが、慣れるまでは毎度、いったい誰が襲われたのか!と目を白黒させながら会議室を飛び出したものだ。
今となっては慣れたものだが新人は大体腰を抜かす。
「む、また油を差さんといかんな。胃にくる、この音は。おい、アン。頼まれてた巡回強化は第三が引き受けてくれたぞ」
ギェッギェッとテンポよく人が殴られたような音を立て扉を開け閉めしながら、しかめっ面の男が姿を見せた。
長い黒髪、狼のような鋭い顔つき、白い肌がより際立つ濃紺の制服。濃紺は幹部の証。
「あ、部長! おつかれさまです」
「「お疲れ様です!」」
軽い挨拶を交わすアンネ先輩と対照的に僕らはさっきまでの弛緩した空気を刹那で捨て去り、下士官たるものかくあるべき、といった姿勢で立ち上がり敬礼をする。
ガチガチに固まる僕とデルーマン先輩を見て苦笑をこぼしながらその細身の男はひらひらと手を振る。
「何度も言うが、ここでは同僚だ。そんなに畏まる必要はない」
「いえ!私は正義の下僕です!」
「正義の下僕です!」
「つまり正義そのものである上官の下僕です!!」
「下僕です!!」
身体の前に左手で右手首を掴んで下ろす。両脚は踵を揃えつま先を45度に開き、背筋を伸ばして直立。視線は前方やや斜め上に向け視界を広く確保する。
善良な市民に手をあげませんよ、悪い人がいないかちゃんと見てますよ、の意味らしい。
訓練課程において正しいと教え込まれた挨拶をする僕と、僕に追従するデルーマン先輩。
普段はこのような挨拶をすることは正直に言って、ない。
ただ、僕たちにとっては彼は正義の象徴ではなく恐怖の象徴なのだ。
いつだって僕を訓練兵時代に立ち返らせる。
アリソン・バレット。
救護を主とした第二治安保持部長、解析を主とした第四治安保持部長を兼務するこの傭兵団支部の幹部団員だ。
救護に特化した第二と、分析に特化した第四の二つをまとめる僕らのようなペーペーからしたらスーパーマンとしか思えないベテラン。
僕とデルーマン先輩の訓練課程の頃は任務中の負傷により一線から退き五年ほど教官を務めていた。
本人は渋ったものの、傷が癒えた有能な傭兵を本社が放っておくわけがなく、僕の着任と同じタイミングでこのモンペルグ支部に配属となった。
そのことを知ったときはその日に辞職願を書いたことを覚えている。
地獄すら生ぬるい、といった様相の訓練を僕らに強いた鬼教官で、豊富なバリエーションの罵声と凍てつく視線がトラウマだ。
罵声のデパートやら男メデューサやら陰で悪口を叩く訓練兵もいたが、そこはやはりベテランの警務傭兵。そういった根性の人間はわかってしまうらしい。
個別訓練、通称「教育」を課された者は、やばめの宗教にはいったのかな?と思えるほど生まれ変わって帰ってくる。
僕もその一人だった。僕の場合、訓練兵内で札遊びを流行らせて賭博を横行させた張本人として教育をいただいた。どんな教育を受けたかはすっぽり記憶から抜け落ちているのだが(封印しているともいう)、それからは札を見ると吐き気をもよおす身体になってしまった。
正義を語りながら僕らを痛めつけるその様子を見て引き返すべきだったと何度後悔したことかわからない。
「セイギ!セイギ!」
「やめなさい。もうわかったから」
これはイジられてるんだよな?と兼務部長がアンネ先輩に話しかけているがそんなことはない。
本当に怖いんです。
「まぁいい。アン、これがヘレナ・アルーダの当日の行動履歴だ。周辺の巡回は安心しろ。現場解析の報告書はもう少し待て。明日にはあがるそうだ。何か報告はあるか?」
被害者の名前はヘレナ・アルーダ、というらしい。
僕が心配した身辺警護もすでに先回りして対応済だったようだ。そういったケアに関しての対応一つとっても、先輩たちはやはり気が回るし、素直に自分の至らなさを痛感する。
そして、また先輩たちとは違った部分ではあるがアリソン部長の簡潔で無駄のない仕事ぶりは、とてもスマートで憧れる。
「はい。先ほどデルーマンが取ってきた事件当日の«
アリソン部長の片方の眉がぴくりと上がった。
「詳しく聞こう」
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