02.Moon River

 列車を降りると、そこはもう数年ぶりの故郷だった。駅舎やその出入り口から見える風景には特段の変化を認めることはできないが、胃の奥からこみ上げてくるものは懐かしさなどではなく、軽蔑とでもいうべき感情だった。久しぶりに踏みしめるプラットフォームの感触も、風がなく生ぬるい空気も、まるで変わっていない。

「ここは時間が止まっている」

 心の中に留めておける感情を、ベラはあえて呟いた。駅の出入り口にしばらく立って眺めていると、町並みだけでなく、そこを歩く人々の身なりやその行動様式にも変化が認められないことに気付いた。この土地に好ましい思い出を抱いているならば好印象を持ったかもしれない。だが、ベラにはそのようなものは全くないから、近くに停車していたタクシーに乗り込み、目的地へと直行するように告げた。

 列車から車に乗り換えて車窓の見え方が変わったが、面白味のないのんびりとした風景が続いていくことに変わりはなかった。いや、その退屈さはなお強まる。ベラは早々に風景を追うことをやめて、今度は歌を口ずさむこともできないので、目を瞑って考え事をすることにした。過ぎ去った時間よりも未だ来たらざる時間の方が長いベラであったが、こうして故郷の地で故人の墓に向かう車内にいることもあってか、胸に去来するものは生まれ育った境遇についてであった。


 ベラは父を持たない。母の手一つで育てられたのだ。より正確にいえば、父親は物心ついたときには蒸発してしまっていた。その人となりを母に尋ねることもなく、顔どころか名前すらも知らないままでいる。父親代わりになりそうな男は何人もいたが、しかし実際に父親としての適性を持った者は一人もいなかった。幼い頃は母の友人や親戚筋のおじさんに思えた彼らだったが、長じてからは母親の愛人たちであったのだと悟らされた。男たちにとって母のどこが魅力的だったのかは分からず、そもそも分かろうとも思わない。ともかくも母が小さな飲食店を営んでいられたのは彼らのおかげであった。母の死後、法的な効力を持たない借用書の数々を発見したベラは、それでも母を軽蔑することはなかった。母の愛人たちの支援による利益を最大限に受けたのは、結果的には他ならぬベラであったのだから。また、そうしたことを理解できるだけの教育を受けられたのも彼らのおかげであった。そのことを忘れてはならないとベラは思っている。

 もしも、と一度ならずベラが考えたことがある。もしも自分がいなければ、母は別の道を歩んでいけたかもしれない。他の土地で全く違う生活を生きられたかもしれず、この土地で暮らすにしても特定の相手と寄り添って歩いていけたかもしれない。ベラの母への想いは必ずしも直線的ではないが、少なくとも軽蔑するようなことはまずあり得なかった。

 ただし、そのことと、自分の人生をどこかで転回させられたのではないかと夢想することとは、全くの別事である。ベラもまた一介の人間であるから、反省をしたり夢想をしたりする。もしも父親がいて母親と三人で仲良く暮らせたなら、あるいは弟か妹がいたなら、せめて犬でも飼うことができていたなら、ベラの人生は大きく変わったかもしれない。

 そこまで考えが及んだところで、ベラは運転手にラジオを点けてくれるように頼んだ。考えてもどうにもならないことを考えるのは良くない、と自分自身に言い聞かせる。そうして思考を強引に止めると、耳元に聞き覚えのある歌が流れてきた。それは古い名画の劇中歌として有名な曲を、どこかの女性歌手が受け継いでいるものだった。

 その曲について、ベラにはある思い入れがある。昔、この田舎町で開かれた小さなお祭りで、ある女性歌手が歌っているのを聴いたことがあるのだ。それは茨の道とも言い得るこれまでの人生の中で、最も煌びやかな出来事であったかもしれない。十歳になったばかりの頃に開かれた祭りには町の皆が集まっていた。ベラと親しかった女の子も、密かに好意を持っていた年上の青年も、それからベラの母親の飲食店に顔を出す大人たちも、皆集まっていた。ベラがその日の出来事を強く記憶しているのは、純粋に歌が素晴らしかったためばかりではない。好きな人々と同じ時間を過ごせたことと、嫌いな人物であっても感動を共有すればある一つの集団になれるのだということ。音楽というものの持つそのような力を、ベラはそのときに初めて知ることができたのだ。

 歌い出したくなるのを抑えて、ベラは空を見上げた。駅に着いた頃には薄曇りだったのが今では青空が覗いている。この小旅行の末に何かが待っているような、そんな予感がした。

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