03.Happy Birthday to You

 ベラは数少ない快い思い出を噛みしめながら、ようやく母の墓前に辿り着いた。小さな墓地の中にある、小さなお墓。ベラは都会から持ってきた赤い化粧箱をトランクケースの中から取り出した。その化粧箱は母から譲られたものである。いつか大人になり、やがては母になるであろう娘に向けての、数少ない贈り物だ。ベラが身の回りの物を大切に扱うように育ったのは、その思い出を大切にしたいからでもあった。化粧箱の中には、化粧道具と一緒に一片の羽、それから一枚の便箋を収めている。いずれもベラにとっては宝物である。

 ベラは墓の前で膝を折り、今は亡き母親に祈りを捧げた。心の中で初舞台が決まったことを報告する。喧噪から隔てられた静謐な墓地にも時間は流れている。微かな風に揺れる梢、飛び交う小鳥たちの囀り。ベラはギターの一本でも持ってくるべきだったと後悔し始めていた。歌を捧げることが何よりも深い祈りとなるのではないか、と。その考えはやがて変化した。ベラは立ち上がると、誕生日を祝う古い歌を歌い始めた。故人の眠る墓地で歌うには似つかわしくない歌を甘く美しい声で歌う。それは母へというよりは、自分に向けて歌ったものだった。今日、この場所で新生する。その覚悟を歌に込めた。新しく生まれ変わった自分を見守っていてほしいのだという想いも一緒に。

 結局、墓前に立っていたのはほんの十分程度だった。そのためだけに都会からはるばるやって来たのだから、墓地で過ごしたいだけ過ごして、それから他には目もくれずに帰るつもりでいた。故郷に愛着はない。今のベラにとっては、ただそこに母が眠っているというだけの意味しか持たない町である。だから帰りも車に乗るつもりでいたが、あいにくタクシーを拾うことができず、仕方なく路線バスに乗ることにした。二十分くらい待つと、駅へと向かうバスがやって来た。この町に住んでいた頃によく利用していた路線バスもやはり代わり映えはしない。そこに懐かしさはない。ベラはこの土地への愛着のなさを今更のように感じたが、心が動かないものはどうにもできなかった。

 バスには前方から乗り込み、真ん中の辺りの座席に座った。座ったところで、ベラは背後へ振り向きたい衝動に駆られた。というのも、幼い頃によく見知っていた青年が後方の席に座っていたからだった。いや、人違いかもしれない。ベラが自信を持てなかったのは、その青年が他の人々にとても馴染んでいたからだ。ベラの記憶の中の青年は、今のベラと同じようにこの田舎町に反感のような何かを抱いていたからだ。反感のような何か、という以上の表現をできないのは、そのことをわざわざ言葉で確認し合ったわけではなかったからだ。少なくとも都会に憧れを抱き、今の自分に納得していないのは確かなことだったはずだ。それがさっき見た限りだと、子供を抱きかかえた女性と一緒に座っていた。くたびれた格好をして平気でいること、人前でもお構いなしに女性と親しげに身体を寄せ合っていること、そしてこの土地で結婚をすること。そのいずれもが、あの青年とはどうしても結びつかないのだった。

 ベラの懊悩をよそにバスは走り続け、やがてある停留所で停車した。二人の老人に続いて、あの青年らしき男性たちもバスを降りていく。

 それが幼きベラが最初に恋心を抱いた青年であったのかは、結局分からずじまいだった。駅に到着したベラは、何もかもを捨て去るようにして帰りの列車に乗り込んだ。

 田舎町から都会へ向けて列車は走り始める。往路と同じようにベラは窓を開け、周囲に誰もいないことを確認してから歌を口ずさむ。しかし、強い風を受けて気持ちが萎えた。代わりにあの赤い化粧箱に収めた便箋を取り出した。それは、宛名のない手紙だった。尋常な文句を拙い文字で書き連ねた手紙の末尾には、こんな一節がある。

「お誕生日おめでとう。私の大好きなあなたへ」

 そのあなたというのが誰を指すのか、ベラにしか分からない。もっと言うと、幼い頃のベラにしか分からないのだった。想像で補うことはできるが、それでも明確な答えは出ない。母だけでなく、あの青年の顔がベラの頭には浮かんでくる。ベラの歌を初めて褒めてくれた青年、そしてベラの抱いた夢を応援してくれていた母。しかし、それらの顔も時を経るごとに曖昧になっていく。写真などは残っていないから、ベラの記憶の中だけにしか存在しない。その記憶をいつまでも心に留めておきたいという気持ちはないわけではないが、その想いが強いとは言い切れない。そのことを反映したのか、ベラの便箋を掴む指の力がほんの少し、緩んだ。その直後に一瞬の烈風が車内に入り込んできた。ベラは慌てて窓を閉めたが、宝物として収めていたはずの便箋は、もうどこにもなかった。どこかへ飛び去ってしまった便箋を追いかけようという気持ちはベラの中には存在せず、その幾分かの非情を責める者もまた、今のベラの周囲にはいないのだった。

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