Cupid shoots to kill (Definitive Edition)

雨宮吾子

01.Down by the Salley Gardens

 一流の歌手を目指すその女性の名は、ベラドンナといった。ベラというニックネームを持つ彼女は、六月に二十二歳の誕生日を迎えたばかりである。一般的にいえば少女という範疇から脱して間もない若さであった。だが、音楽という道を志しながら未だ初舞台を踏むことができていないことを考えると、その輝きもいささか鈍らざるを得ない。殊に夏から秋にかけての日射が衰えていく時期に一人で物思いに耽り始めると、将来への不安が止めどなく溢れ出てくる。また、貸しアパートの窓際に飾っている花瓶の反射する光が日暮れとともに弱まってくると、自身の先行きが暗いものになるのではないかと思えてくる。

 ベラのそうした根拠のない不安は、少なからず彼女の幼少時代の経験に根ざしている。特別親しい友人や恋人を持たない彼女の心を癒やす者はない。自然と、音楽が彼女の生活を豊かにしてくれるものとなる。ここで厄介なのは、彼女の心を満たすものが音楽であるとするなら、その底面に穴を穿とうとする不安をもたらすものもまた音楽なのであった。


 その夏の終わりに、ベラは多くの人々が行き交う駅のプラットフォームに一人で立った。故郷に向かう列車に乗るためである。それまでベラの心を覆っていた灰色の感情は、ある報せによってあっという間に吹き飛ばされた。ベラの行動を促したその報せとは、初舞台の決定を告げるエージェントからの電話であった。ベラは歓喜した。同時に不安も付きまとってきはしたが、未確定の状態でいつまでも過ごすよりはずっと良い。一時的な熱狂の中でベラがまずしなければならないことは山ほどあったが、それに優先して何よりもまずやりたいことは、生まれ育った田舎町への久しぶりの帰郷なのであった。慌ただしく旅装を整え、愛用している古びた赤い化粧箱を忘れずに持ち、故郷へと走る列車に乗った。いよいよ列車が動き始めて引き返すことのできないところまでくると、それまでの興奮はまるで嘘のように冷めていった。嬉しい報せを早く伝えたいと思っていたのだが、実際には故郷で報告を待ち受ける人物がいるわけではないのだ。伝えたい相手がいるとすれば、それは故人だけだった。

 列車が橋を越えると、車窓は都会の風景から田舎の風景へとあっという間に様変わりしていく。生い茂る木々や古びた家屋、車道を走る旧式の自家用車には極めて退屈な印象しか抱けず、ベラは車窓から視線を外した。故郷へは日帰りできるくらいの距離だが、今暮らしている街に出てから帰郷するのは初めてのことだ。故郷に良い思い出や親しくしている者があるわけではなかったからだ。それにも関わらずベラが帰郷しようと思ったのは、他界した母の他にこの気持ちを伝えられる相手がいなかったためである。数年前に亡くなった母の墓前に参る、それだけのためにベラは退屈で憂鬱ともいえる旅路を行く。


 列車が進み、いくつかの駅を通過するうちに乗客は少なくなっていく。ベラはふと思い立ち、周囲に乗客がいないのを確かめてから窓を開けた。強風が入り込んできて、被っていた麦わら帽子が飛ばされそうになった。ベラはそれを慌てて掴むと、膝の上に置き、ゆっくりと呼吸を整え始めた。やがてベラが口ずさみ始めたのは、幼い頃に母が子守歌として歌ってくれたアイルランドの民謡だった。母がどうしてこの歌を好んでいたのか、ベラは知らない。母の思い出に強く焼き付いていたのかもしれないし、あるいは彼の地にルーツがあったのかもしれない。いずれにしてもベラに真実を求める気はないし、望んだとしても今となっては不可能なことだった。母と同じようにベラがその歌を好むのは、悲しくも美しいメロディのためだ。幼い頃は真意を理解しきれなかった歌詞もまた好ましい。ベラはその歌を口ずさみながら無心となり、私(わたくし)というものを超えた境地へと入り込んでいくような感覚を掴みかけた。すると、どこからともなく拍手が聞こえてきた。ベラは天上から聞こえてくるものだろうかと錯覚しかけたが、身なりの良い老婦人がすぐそばに立っていることに気付いた。老婦人はベラの斜向かいの席を指差すと、こう尋ねてきた。

「お嬢さん、お一人? ここには誰か座っているの?」

「いいえ、ここには誰も」

 空席ばかりの車内であえてその席に座ろうとする老婦人に対して、ベラは多少の警戒心を抱いた。しかし、そこへ座るのを断る理由もない。老婦人が席に座ると、ベラは膝上の麦わら帽子を被り、口をつぐんで再び窓外へと視線を向けた。その仕草に遠慮することなく、老婦人はなおもベラに語りかけた。

「綺麗な髪の色をしているのね」

 老婦人が褒めたのはベラの長いブロンドヘアだった。ベラはどう返事をするべきか迷い、曖昧な表情を作ってごまかした。

「それから綺麗な歌声。まるで天から降り注いでくるような……」

 その言葉を聞いたとき、ベラの顔色がさっと変わった。一瞬の後には再び曖昧な笑顔に戻したが、老婦人はその変化を見逃さなかった。ベラは老婦人の真っ直ぐな視線に向かって、その意味を正直に答えなければならなかった。

「ごめんなさい。褒められることには、あまり慣れていないので……」

「こんなところで燻っているなんてもったいないくらいよ。ねえあなた、もう一度歌声を聞かせてくれないかしら。できれば窓を閉めて、もっとよく聞こえるようにしてから」

 ベラは戸惑った。それでもやはり断ることはできず、窓を閉め、これも今度の舞台に立つ前の練習だと思うことにして再び歌い始めたのだった。

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