第10話
「被害者は生まれてすぐの赤ん坊です。加害者の母親というのは、いろいろなパターンがありますが、典型的な例を挙げると、まあ創作ですけど、年齢は二十歳前、少し知能が低い、この母親も親に捨てられた施設育ち、施設を出てから自立できず、住居不定のまま、出会った男を頼るが一時的で、誰の子か分からない子を妊娠し、どうしたら良いか分からないまま臨月を迎え、ホテルのトイレで出産、動顛して首を絞め、遺体をゴミ箱に捨てる。といった形ですかね。まあ、年齢は30代で父親も誰かわかっているけど出産間近になって逃げてしまったとか、ちゃんとした家庭の高校生だけれども親が厳格で言いだせないまま産んでしまったとか、さまざまなパターンがありますけれどね。」
市役所で仲の良かった職員の一人に保健師さんがいた。彼女は母子保健を担当していて、幼い子どものいる家庭を訪問することもあった。訪問しなければならない家庭はたいてい何らかの問題を抱えていて、「昨日、虐待の疑いのあるお宅に行ったのだけれども、いろいろ話を聞いたり、手元にある記録から考えると、もしかしたら、生まれてすぐにお母さんに殺されていたお子さんだったかもしれないと思ったわ。」などと話していたことがあった。山川さんの話に通じることだと思いだした。
「それから面識ありの場合ですが、これも殺人に至るまでの事情がいろいろあるのです。わたしが弁護したある事件は、加害者は二十代、被害者は四十代、どちらも男性です。被害者は包丁でめった突きにされて殺されました。」
「恐ろしい事件ですね。」
「加害者はどんな男だと思いますか?」
「凶暴な性格なんでしょうか?」
「背が低く小太りでおとなしい性格です。」
「はあ?‥‥」
「被害者は建設会社の社長。加害者は従業員です。少し知能が低くてね。動作が鈍いのです。仕事中もテキパキと動けないものだから、社長も腹を立てて結構ひどいパワハラをしていたのです。ほかの従業員の前で汚い言葉で罵倒したり、殴る蹴るもあったようです。それで加害者は会社の寮から逃げ出すわけですけれども、この人は施設育ちで家族がいなくってね、数少ない施設の時の友だちを頼るのです。社長もだいたい行先が分かるし、友だちも彼を歓迎しないし、「また来ていますよ」っていう返事で探し当てて会社に連れ戻すのです。それでまたひどい折檻をする。大けがをしたこともあったようです。傷害事件ですよね。表に出なかっただけで。社長からすると、世間で役に立たない人間をオレが面倒見てやっているのにその恩を忘れて逃げるのか。許せない、といった気持ちがあったようです。」
「‥‥そんな、‥‥」
「何度目かの逃走で友人の家にいた時、深夜に社長が迎えに来ました。「出て来い!」と怒鳴られ、従業員は台所にあった包丁を持って外に出ました。包丁を握った右手を背中側に隠して社長に近づき、1メートル位のところに来て突然社長の腹部を突き刺したのです。社長は「なにするんだ!この野郎!」と言って包丁を取り上げようとしてもみ合いになったのですが、最初の傷が深く、従業員に組み伏せられました。従業員からすると「連れ戻されたら、今度は殺される」と思ったというのですが、これまでの仕打ちに対する恨みや憤りもあったのでしょう。社長の顔面、胸部、腹部を何十か所も突き刺しました。遺体はボロボロになっていたそうです。」
「‥‥まあ、‥‥」
「この社長さんには親兄弟に子どももいてね、裁判が始まる頃、家族大勢で検察庁に行って「死刑にしろ」って申入れしたそうです。被害者遺族として死刑にしてもらわないと納得できないということでしょうか。裁判が始まって最初の公判の後、裁判所の廊下で被害者の弟という人に出くわしました。「殺人鬼の弁護なんかしやがって」と吐き捨てるように言われましたよ。弟はヤクザみたいな風体でしたね。しかし、二回目以降の公判で事件の詳細が明らかになり、この家族は静かになりました。検察庁にも来なくなりました。ヤクザの若い衆にでもやられたと思っていたのが、加害者は社会的弱者で、しかも社長にいじめられていたということが分かり、怒りの矛先を向けられなくなったのでしょうか。もちろん大切な家族の命を奪われたという悔しさ、悲しさは深いでしょう。だからと言って被害者遺族の会に行ったとしても、交通事故の被害者遺族の方々に共感してもらうのは難しいでしょうね。」
「殺人事件は一件、一件の手口、動機、事件までの経過が違いましてね。複雑で長い経過をたどってきたものも多くて、同じ人命が失われる犯罪といっても、一瞬で発生する交通死亡事件とは異質ですね。」
「殺人事件の被害者遺族の場合、中には通り魔事件のように交通事故の被害者遺族としっくりくるケースもありますが、だいたいは合わないです。タケシの場合は突然、理不尽に命を奪われたのだから、交通事件と事情が似ていますよね。それで検察庁の被害者担当の職員も奥さんに情報提供をしてくれたのでしょう。妹さんも気が回ってよく連れて行ってくれました。奥さんも他の犯罪被害者遺族の方と交流してずいぶん気持ちが楽になったのではないですか。それでも、事件の内容を話す段になると、少し場違いな感じになったのでしょう。」
よく話をする人だ、山川さんは。それでも夫の話と違って、聞いていて飽きることがなかった。自分に関係しているということもある。それと、不謹慎かもしれないが、犯罪や犯罪者の話は週刊誌ネタのようなところがあって興味をひかれた。
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