第8話

 妹のマンションに来ても気分は変わらなかった。何をする気も起きず、一日中横になっていた。夫を思い出しては涙を流した。

 妹は医療事務の仕事をしていた。精神科クリニックが長く、一時は大学に入り直して心理学を勉強し、精神保健福祉士の資格を取ろうと考えたこともあったようだ。そんなわけで精神疾患の知識が多少あり、無理矢理かつて勤めていたクリニックに連れて行かれた。役に立たないだろうと思ったが、抗うつ剤を処方されると体は動くようになった。それからやっと自宅と妹宅を行き来して身の回りに必要な荷物を運びこんだ。

しかし、薬で悲しみは癒されなかった。次は犯罪被害者遺族の会に連れて行かれた。遺族会の人はみなやさしく話を聞いてくれ、少し普通の気分に戻ってきた。遺族会の人の話も聞いた。5歳の息子がトラックにはねられ即死した事件の親御さんの話は涙なしに聞けなかった。そうした経験のある人たちだからこそ、自分のことも親身になって聞いてくれるのだ。しかし、遺族会には3回しか行かなかった。遺族会のほとんどは交通事故の被害者遺族だった。自分のような殺人事件の被害者とは違うことがじきにわかり、場違いに感じるようになったからだ。

トラックの事件では、運転手は交差点の信号が青に変わって発進し、左折したところに三輪車に乗った子どもが横断歩道を渡りはじめ、目の前にトラックが現れて止まったけれども、内輪差のあるトラックの後ろのタイヤに踏みつぶされたのだった。ご両親の悲嘆、怒りは激しかった。

「当然、加害者は刑務所に入ると思いましたよ。それが刑務所に入らなかったのです。執行猶予ですって。執行猶予になれば刑務所に入らなくても済むんですって。5歳の子があんなに酷い殺され方をしたのに、加害者はのうのうと社会で生活しているのですよ。ありえない。日本の裁判所はおかしい。いったいどうなっているのですか!」

加害者はそれまでは無事故無違反の優良ドライバーだったらしい。年齢は30代。自らも幼い子がいる父親だそうで、こちらも打ちひしがれ、懸命に謝罪や被害弁償に取り組んだという。結果が重大だったことから禁錮2年という判決になったが、安全確認が不十分という過失以外に違反はなく、執行猶予が付いたそうだ。交通死亡事故の加害者には、飲酒運転や無謀運転を繰り返した末に事故に至った犯罪者もいるが、まともな運転をしていて、うっかりした過失から重大な事故を起こした一般人もいる。だれもが一瞬のミスでほかの人の命を奪う加害者になりうる世の中だということがよく分かった。

一方、殺人事件については、夫の友人だった刑事事件を専門にしている弁護士の山川さんに教えてもらったのだが、見知らぬ人同士が加害者、被害者になる交通事故と違って、多くは人間関係のトラブルが事件に発展するのだという。

(つづく)

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