第7話

 ピピピ‥ピピピと目覚まし時計が鳴った。音を止め、ベッドの中でゆっくりと背伸びし、起き上がってパジャマの上からカーディガンを羽織り、寝室を出て台所に入った。退職してからも朝7時に起きて朝食を取ることを日課にしていた。トーストを2枚焼き、目玉焼きを2つ作って2枚のお皿にハムとレタスとミニトマトを一緒にそれぞれ盛りつけ、コーヒーをカップ2杯に分け、ダイニングテーブルに並べた。夫の寝室に行き、ドアを開け、「あなた。朝ごはんができたわよ。」と声をかけた。

 返事がない。ベッドを見ると綺麗に布団が畳んであった。

 そうだ。夫は死んだのだった。なぜか、今朝はそのことを忘れて二人分の朝食を用意してしまった。夫の分はどうしようかしら、と思案していると、お腹の下から喉元に強い感情がこみ上げてきた。膝が折れ曲がって床に両手をついた。涙があふれてきて激しく嗚咽した。

 夫が死んで1か月。このように泣くことはなかった。死体になった夫を見たときは衝撃を受け、体がこわばったように思うが、涙は出なかった。唯一、納棺した夫との最後の別れで、花に囲まれ静かに目を閉じた死顔を見たときは悲しみがこみ上げて涙が流れたが、そのときだけだった。とにかく事件が発生してからとんでもなく忙しかった。病院で遺体の確認をして、すぐに警察の事情聴取を受け、それが深夜までかかった。自宅まで送ってもらい、その夜は疲れ切ってすぐに寝た。翌朝はまた、病院、警察署と回った。夫は司法解剖され、その間に犯人が捕まり、昼からはその犯人との関係について警察で再び事情聴取された。その後も毎日、することが続いた。夫の遺体が戻ってきて葬儀社を手配し、葬儀の段取りをした。夫も自分もすでに両親はなく、夫は一人息子で、二人の間に子どもはいない。親戚のおじさん、おばさんも多くは亡くなり、いとこたちとも長い間連絡を取っていない。唯一の家族である独身の妹と二人だけで荼毘にふすことを考えた。しかしそうはいかなかった。事件が報道され、市役所に勤めていたときの関係者、双方の上司、同僚、部下からぽつぽつと連絡が入った。お悔みとともに、人によっては事件のことを根掘り葉掘り聞かれ、葬儀についても意見された。やむを得ず、こぢんまりと葬儀を執り行った。すぐに初七日を終え、二週間後には四十九日も済ませ、夫の出身地の菩提寺にある義父母の墓に納骨した。夫の財産を相続するため戸籍謄本を取り寄せ、自宅の共同所有を自分一人の所有にし、預金等の名義を変更する手続きを進めた。自分は運転免許がなく、夫が運転していた自家用車は車のディーラーに引き取ってもらい、売却した。その間に、加害者は検察庁から起訴され、今度は検察庁で事情を聴かれ、また、被害者遺族として犯罪被害者の支援を説明してもらった。

 いろいろなことはすべて自力で取り仕切った。妹が駆けつけて手足になってあちらこちらに連絡を入れ、走り回って助けてくれた。妹のサポートはありがたかった。しかし、大事なことは自分が決め、話を付けた。とにかくこの危機を乗り切らなくてはならない。その使命感が体にみなぎり、動き回った。

 そうはいっても事件から2週間も経つと、空いている時間が多くなった。一日これといった用事もなく、買い物に行き、一人で食事を作って食べた。夫がいなくなって、日々、うるさく話しかけられることもなく、気が楽になったみたいだ。あまりにも悲しみの感情が湧かないので、自分は冷酷な人間なのだろうか、とも考えた。長い結婚生活の中で、口うるさい夫を嫌悪し、離婚を考えたこともあった。沈殿していたそんな思いが、夫が亡くなって解放されたのかもしれない。そういえば、父母が亡くなったときも悲しみは続かなかった。あの時、父は脳梗塞で半身不随となり、自宅で介護する母は認知症になって互いに老々介護をしていた。自分は退職前で課長をし、妹も働いていて時間が取れなかった。両親の介護は大変だった。夕方、夫に車で両親宅に送ってもらい、二人の世話をして、ほとんど眠らないまま翌朝役所に出勤したこともあった。妹も同じように世話を担い、二人で苦労を共にした。立て続けに父母が亡くなって二人ともかえってホッとしたことを覚えている。苦労を掛けられた家族には、いなくなることで心の平穏を取り戻せるものなのかもしれない。

 そんなふうに考えていたのに、父母のときと違って、今日になって突然、夫に対する悲嘆の嵐に見舞われた。泣き崩れて1時間位経っただろうか。ようやく気持ちが落ち着いてきた。ゆっくりと立ち上がり、ダイニングに戻った。テーブルの上には冷たくなった二人分の朝食が並んでいる。せっかく作ったのに一人分はもう食べてくれる人がいないのだ、と思うとまた涙があふれてきた。その場に座り込み、さらに小一時間泣き、よろよろと足を引きずって寝室に行き、ベッドにもぐりこんだ。

 夫が家にいると鬱陶しかった。テレビや新聞で見聞したことを口にし、あれこれ自分の意見、主張を交えてわたしに話しかけた。どうでもいいことじゃないと思っても、頭の上から押しつけるように話し続けた。わたしのことを無知だと思っているの、もう話しかけないでちょうだい、と心の中で叫んだ。でも、今はもう一度夫の声を聴きたい。説教でもいい。部屋から出てきて話しかけてきて。お願い。もう一度演説して。そう願っても夫はこの世にいない。喪失感に打ちのめされた。こんなことになるのだったら、あの時、外出を押しとどめるべきだった。コロナなのだから家にいるようにと、強く言うべきだった。後悔が押し寄せてきた。自分が悪かった。自分が悪いことをしたのだ。日ごろから、夫なんていなくなればいいと思っていたのが悪かった。そんなことを考えたから神様が罰を与えたのだ。泣き続けた。いつの間にか日が暮れ、部屋の中は暗くなった。涙は涸れることなく、流れ続けた。繰り返し同じ後悔が頭の中を廻った。ウトウトした。ふとひょっとしてこれは夢ではないかと考え始めた。布団をはねのけ、立ち上がり、夫の寝室に行った。ベッドと畳んだ布団があるだけである。いや、夫は妹のところに行ったのかもしれない。なぜかそう考え、外出着に着替え、自転車にまたがって妹のマンションに向かった。玄関の呼び鈴を何度も押した。やっと「どなたですか?」と返事があった。「わたしよ。さち子。」ドアが開いて妹が顔を出した。

 

 ピロロン、ポロリ。ピロピロ、ポロリンと携帯電話の着信メロディが鳴った。

 目が覚めた。夢の中で妹のマンションに行っていたのだ。その妹からの電話だ。枕もとの携帯電話を取り上げ、通話ボタンを押した。

 「もしもし。ゆりちゃん?」

 「お姉ちゃん。おはよう。調子はどう?」

 「それがね。ちょっとおかしなことになっちゃって。」

 「どうしたの?」

 「昨日の朝、起きてから、うっかりタケシさんと二人分の朝ごはんを作ってしまったの。」

 「‥‥」

 「タケシさんの部屋に行ってね。「朝ごはん。できたわよ」って声を掛けたの。」

 「‥‥」

 「だれもいないじゃない。…そうよね。だってタケシさん、亡くなったんだもの。…それでね。…」

 また涙が溢れてきた。

 妹はすぐに車で姉の家に来て、姉を乗せて自宅マンションに連れてきた。それから二人で妹のマンションで生活することになった。

(つづく)

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