第6話

 ゴトンと音がした。はっとなって見ると、果物かごに積み上げていた梨がひとつ、ダイニングテーブルの上に落ちて転がり始めた。慌てて手で押さえた。昨日、あの人が好きな梨をまとめ買いし、果物かごに大盛りにした。その一番上に置いた梨が落ちたようだ。風もなく、地震でもないのになぜ落ちたのだろうか。しかもコロコロと転がり、そのままにしていたらテーブルから落ちて割れるところだった。慣性で転がったのだろうが、テーブルの表面は傾いておらず、何か不思議なことが起こったようで胸がざわついた。

 梨を両手で包むように持ちながら、再び、テレビを見始めた。昼のワイドショーをしていてお笑いタレントが大声でやりあっていたが、話の筋が頭に入らなくなった。

 4時を回った。夫は2時頃に家を出た。コーヒー店に行くといつもちょうど2時間で戻ってくる。そろそろ帰って来る時刻だ。4時10分になった。4時20分になった。おかしい。椅子から立ち上がった。コーヒー店に行ってみようかしら。携帯電話が目に入った。夫に電話した。

 「ただいま電波の届かないところにいるか、電源が切られています。」

何か事件があったのかもしれない。どうしよう。やはりコーヒー店に行こうか。その時、夫も自分も長い間同じガラケーを使い、電池の充電がすぐになくなることから、夫はしばしば電源を切っていることを思いだした。それと、今でこそ夫はコーヒー店からまっすぐ戻ってくるが、以前は図書館や書店を回って夕暮れに帰ってくることも多かった。最近コロナの感染者数が減少傾向に転じたことから、久しぶりにそういうところへ行ったかもしれない。もうしばらく待ってみることにした。

 5時半を回った。テレビは少し前からニュース番組になってコロナの感染状況や感染予防対策を伝えていた。6時前になって地域のニュースが始まった。

 「今日の午後2時過ぎ、新川市の商店街で男性三人が言い争いになり、ひとりが押し倒されてあたまを打ち、意識を失って病院に運ばれました。その場を立ち去った二人の行方を警察が探しています。」

 夫だ。夫に違いないと確信した。すぐに病院に行かなければ。どこの病院だろうか。テレビ局に電話をして聞いてみよう。いや。警察に電話をするのが早いだろう。そのとき、トゥルルル、トゥルルルと自宅の電話が鳴った。テーブルに置いた子機を取り、通話ボタンを押した。

 「はい。小豆沢です。」

 「あっ。アズサワタケシさんのお宅ですか。」

 「はい。そうです。どちら様ですか。」

 「あー。わたくし中央警察署の田中と言います。アズサワタケシさんはいらっしゃいますか。」

 「いえ。今出かけております。夫に何かあったのですか。」

 「あー。奥様でいらっしゃいますか。」

 「はい。そうです。夫の携帯電話からかけているのですか。」

 「いえいえ。署からかけています。ご主人は何時ころお出かけになりました?」

 「2時に家を出ました。今テレビでしていた新川本町商店街の事件のことですか?夫が被害者なのですか?携帯電話から身元が分かったのですか?」

 「いえ。あの。被害者の方の携帯電話は壊れていましてですね。持ち物にすぐ近くのコーヒー店のポイントカードがあったものですから、そちらで伺ってお客さんの名前を何人か聞きました。その中にアズサワさんという方がいらっしゃいまして、交番と自治会の名簿で探したらアズサワタケシさんというお名前があって、その電話番号に今、確認のお電話をしているところです。」

 「夫です。夫に間違いないと思います。病院はどちらでしょうか?」

 「もう少し確認させてもらえますか?お出かけになったときはどのような服装だったでしょうか?」

 「えっ。服装ですか?普通のずぼんにワイシャツだったかしら。」

 「白のポロシャツじゃなかったですかね。」

 「そうだったかもしれません。」

 「帽子かなにかかぶってられましたか。」

 「赤いベレー帽だったと思います。」

 「はあはあ。こげ茶色のベレー帽ですかね。」

 「こげ茶色だったかもしれません。」

 「被害者の方は今市民病院にいるのですが、ご主人かどうか確認していただくために、奥様に病院までお越しいただいてもよろしいですか?」

 「行きます。市民病院ですね。すぐに行きます。」

 「あのー。署から車を出してお迎えに行きます。少しお待ち願いますか。」

 「分かりました。すぐに来てください。」

 電話を切り、パジャマを脱いで黒のパンタロンスーツに着替えた。黒は縁起が悪いと思い、グレーのワンピースと併せのジャケットに着替えなおした。手が震えてストッキングに伝線が入り、2枚をだめにした。準備ができたところで玄関のチャイムが鳴った。早い。電話を切ってまだ数分しか経っていないのに。と思って時計を見ると6時20分になっていた。時間が経つのが早い。慌ててドアを開けた。小柄な中年の男性と背の高い若い女性が立っていた。二人とも私服で車も普通車だった。不審な目をしたせいか、すぐに警察手帳を示され、電話で話したことを再度確認された。早く病院にいかないと焦って口調が早く強くなった。

 「それで容体は。夫の容体はどうですか?」

 「被害者の方の容体ですか。容体は‥‥、詳しくは聞いていないのですが‥‥、厳しいらしいということですが‥‥。」

 腰から下の力が抜けた。女性刑事に体を支えられて車に乗り込んだ。

 (つづく)

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