第5話

 「気分転換にコーヒーを飲みに出かけてきますね。」

 「いつもの喫茶コロンブスですか?」

 「珈琲専門店コロンボです。」

 「コロンボかコロンダか知らないけど、なにか不吉な名前ですわ。」

 「なにをくだらないことを言っているのですか。」

 「たまのお出かけはいいですけど、今、飲食店に出入りするのは良くないのではないですか。」

 「居酒屋と違って、黙ってひとり静かに香り高いコーヒーを嗜む。それだけです。行ってきますね。」

 パジャマからベージュの綿のパンツと白のポロシャツに着替え、手にセカンドバッグをもち、ベレー帽をかぶり、革靴を履いて家を出た。商店街に入りコーヒー店の手前まで来ると、二人の年配者が言い争いをしていた。マスクのことで双方が注意しあったことがきっかけのようだ。仲裁しようか。二人は危なっかしい風体をしている。心の奥から「君子危うきに近寄らず」という声がかすかに聞こえた。しかし、「義を見てせざるは勇無きなり」という心の声に押されて足を踏み出した。自分はいつも冷静で論理的に物事を考えていると思っているが、実際は衝動的に行動することが多かった。

 二人の間に割って入った。

 「まあまあまあまあ。落ち着いて話をしましょうよ。ね。マスクのことでしょ。マスクの付け方ですよね。」

 「誰だ。てめえは。」

 「お前、関係ないやろ。」

 「こんな時ですからね。みんなマスクを付けなくてはいけないのですけれど、鬱陶しいですよね。こちらの方はマスクを付けていないけれど、何か理由があったのですよね。」

 「おう、紐がちぎれちまったんだよ。」

 「どうして紐がちぎれたのでしょうか。」

 「なんでてめえに説明しなきゃならねえんだよ。事故だよ。事故だから仕方がねえじゃねえか。あっちなんかわざと鼻だしで歩いてたんだぞ。あっちの方が悪質だろうが。」

 「なんやと。顔丸出しのくせしてようそんなこといえるな。お前に言われることとちゃうわ。」

 「まあまあまあまあ。鼻だしもよくないですよね。」

 「鼻だしがあかんやと。だれがそんなこと決めたんや。」

 「このコロナ禍でマスクをきちんと付ける。感染防止のため鼻までかけるというのは常識でしょう。」

 「おまえ裁判官か。どこの法律に鼻だしがあかんて書いてあるんや。」

 「法律ではなくて常識の話をしているのです。あなたもこちらの人がマスクをしていないのを見て注意したのでしょう。なにを根拠に注意したのですか。常識で判断したのではないですか。」

 「はあ?‥‥‥」

 「鼻だしはいけないと知っていて鼻だししていた。何か理由があってのことでしょう?こちらの方は事故で紐がちぎれたと言っていました。あなたはどういう理由だったのですか?話してくださいますか?」

 「‥‥、う‥‥」

 Tシャツの頭の中で考えは回らず、黙ってポロシャツを睨みつけた。厳しい視線を浴び、Tシャツの風貌も相まって、ポロシャツの内面には恐怖心が沸き起こった。しかし、弱気になってはいけないと強い口調で追い打ちをかけた。

 「なぜ、黙っているのですか?正当な理由なく鼻出しをしていたのですか?単に息が楽だからと出していたのですか?」

 詰問口調になってきた。Tシャツに強い怒りが沸いてきた。うまく言い返せない悔しさが、これまでの人生において積み重なった敗北感や劣等感を刺激し、トレーナーに対するときと違う暗い怒りになった。こぶしを握りしめ、全身の筋肉が硬直し、頭に血が昇ってきた。

 「なんや偉そうに言いやがって。人を馬鹿にするな。おまえそんなに偉いんか。」

 Tシャツはポロシャツの胸倉をつかんだ。

 「ちょちょちょっと。ちょっと。やめなさい。暴力ですよ。暴力はいけません。犯罪になりますよ。」

 「おれはどうせ犯罪者じゃ。懲役なんかこわないわい。」

 ポロシャツをつかんだまま前に押していった。ポロシャツはよろけながら後ろに下がった。シャッターの前に止めてあった自転車にぶつかり、サドルの上に乗り上げた。自転車は不安定に揺れたが倒れず、サドルと腰の接点がてこの支点になって自転車の向こうに頭から落ちた。ごつんと音をたてて後頭部を地面に強打した。頭の上から身体がのしかかって首が九十度に折れ曲がった。身体と自転車が倒れ、ガシャンと大きな音を立てた。周囲から「キャー。」「ああああ!」という声が上がった。

 ポロシャツのベレー帽が外れ、禿げ頭が見えた。セカンドバッグから携帯電話や財布が飛び出し、路上にちらばった。Tシャツはまだ興奮していて、相手をやっつけた勝利の感覚に浸ったが、白目を剥いて動かなくなったポロシャツを眺めていて我に返り、まずいことになったと気が付いた。顔を上げてもう一人の当事者を探した。足早に去っていくトレーナーの後ろ姿が見えた。反対方向に向かって歩き始めた。スーツ姿の若い男が立ちはだかった。

「逃げるのですか。」

「このままにしておいてよいのですか。」

なにかそのようなことを言ってきた。

 「じゃっかわしいわい。どかんかい。お前もやられたいんか。」

 怒鳴りつけるとさっと道を開けた。ぱたぱたとサンダルの音を立てながら、Tシャツは走り出した。

(つづく)

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