第4話
「コロナのまん延を止めるにはもっと人流を減らさなければなりません。」
「経済活動を持続させていくことも必要なことです。」
テレビで専門家と政治家が討論していた。
「人流を減らしつつ経済を回していく。政治家は専門家と経済人の話をよく聞いて、丁寧に調整しなければなりません。今の政治家にはその調整力が欠けていますね。だからコロナは収まらず、経済が落ち込むのです。」
「あなたのおっしゃるとおりですわ。でも、あなたが首を突っ込むのはやめてくださいね。」
「私はちゃんと相手の話を聞き、落としどころを提案をしたのですよ。ところが相手は私の話をまったく聞かず、突然、怒り出して殴ってきたのです。ひどい話だ。あのように感情に走る人間がお客相手の商売をやってはいけません。もうあの居酒屋は潰れるべきです。」
「あそこのお店は深夜までお酒を出して客が騒いでいるってネットで炎上していたのでしょう。どちらにしても潰れるのではないですか。」
「匿名でネットを使って非難することに賛成はできませんね。それはただの暴言です。脅迫になるかもしれません。言いたいことがあるのなら、どこの誰それと名乗って書き込むべきです。店にも事情があるでしょう。その話も聞くべきです。互いに身元を明かしてやりとりをしてこそ真の議論が成り立つのです。」
「はい、はい。」
「返事は一回。はい。」
「はい。」
「人はそれぞれ立場も違えば考えも違います。自分が正しいと信じていることも、見方を変えれば違った景色が見えてきます。この世に絶対に正しいイデオロギーもなければ宗教もありません。ですから自分の考えを押し付けてはいけません。相手を否定してもいけません。互いに辛抱強くコミュニケーションを続けていけば、世の中の争いは全部平和的に解決するのです。」
「世の中の人みんながあなたのようにすれば、朝鮮半島問題もパレスチナ問題もアフガニスタン問題も解決に向かうのですよね。」
「よく分かっているじゃないですか。」
「もう何十回も聞いて耳にタコですわ。」
夫婦は四十数年前に市役所で職場結婚した。夫は一流大学の出身だった。会議のプレゼンが上手で、出世を期待して結婚したものの、実は頑固なところがあって結婚生活はしんどかった。人の話をよく聴くことをモットーにし、実際相手の話も聞くには聞くが、途中から反論しだすと、理路整然のようでいて実は一方的な屁理屈で相手をやり込めるのが常で、周りから煙たがられていた。家でも自分勝手な自己主張ばかりで、妻は諦めて何でもハイハイと聞いていた。おとなしく話を聞いていれば夫は機嫌が良く、妻は穏やかに過ごすことができた。夫は20年近く課長を務め、結局、部長になれないまま退職した。その頃課長に昇進した妻も2年後に退職した。短大出の妻も課長で退職したことに夫は内心穏やかでなく、ときどき「君が課長まで昇進するとは思わなかった。」というので、妻は「何かの間違いだったと思います。」と答えていた。
夫は退職後、地域の俳句の会や歴史研究同好会に入ったが、長続きしなかった。メンバーとうまく付き合えなかったのだろう。コロナ禍になってからは自宅にいる時間が長く、妻は息が詰まっていた。知人から、客席を少人数に減らしてコロナ対策を行った「クラシック音楽の夕べ」のチケット1枚をもらうと、それを夫に渡して行くように勧めた。夫はいそいそと出掛けて行った。その帰りに事件が起こった。
市役所職員が酒類を提供している店に自粛を要請しているところに出くわした。初めは傍らから見守っていたが、途中から市役所職員OBとして話に割って入った。静かに話し合っていたが、やがて居酒屋の店主が怒り出し、夫を殴ったという。妻が現職の職員に聞いた話では、店主の言い分に詰問を繰り返し、答えに窮した店主が激高したとのことだった。
(つづく)
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