閑話 青い炎

 藤代葵は姉のことがあまり好きではなかった。


 かといって、姉妹仲が悪かったかといえば、それは語弊ごへいがある。

 近所でも評判の仲良し姉妹。引っ込み思案なあおいは、いつも姉について回っていた。


 というのは、表面的な話。

 実際には、姉と行動を共にするのが多かったのは、ある打算――可愛らしい望みがあったから。

 隣に住む、一つ上の憧れの人に会えるのではないか、と。


 姉と同い年その人は、いつも葵に優しくしてくれた。頼りがいがあって、かっこいい。一目会ったときから、安らぎを覚えていた。

 恋心をはっきりと自覚したのがいつかはわからない。でも小学校に上がる前には、好きだった。少なくとも、そう呼べる気持ちが胸の中に芽生えていた。


 けれど、早い段階で彼の目がこっちを向いていないことに気が付いてしまった。見ているのは姉のことばかり。自分はあくまでもそのついで。目に見えて何かがあったわけでなく、思い込んでしまっただけのこと。


 ズルかった。羨ましかった。悲しかった。

 どうして自分じゃないのかと、筋違いな怒りさえ抱いた。

 その黒い感情は間違いなく嫉妬。けれど、幼い葵がその名前を知る由もなく、得体の知れないもやとして積もっていくばかり。


『あのね、おねえちゃん、凱と付き合うことになったんだ』


 恥ずかしそうに笑顔で語るその姿に、心が張り裂ける想いがした。目の前が真っ暗になるというのを、初めて体験した。


『おめでとう、おねえちゃん。よかったね!』


『ありがとう』


 それでも、表情を取り繕ってその場を切り抜けた。

 姉は自分の想いを知らない。この先知る必要もない。この葛藤は決して表に出してはいけない。


 いつかこういう日が来るだろうことはわかっていた。姉だって、彼のことが好きだったのだ。妹だからよく知っている。

 結局、初めからと悟っていたのだ。だからこそ、姉に対して勝手な黒い感情を抱いた。そういう弱い人間だ、藤代葵は。


 祝福の気持ちは本物だった。

 好きな人には幸せになって欲しい。当たり前にそう願う。姉は、身内のひいき目があっても相応しい人だと思った。

 2人の絆は永遠。そう思っていたのに——


 憎悪。

 今の葵は、姉のことを心の底から憎み蔑んでいる。

 許すことはない。姉だとも思いたくない。顔を見れば、どす黒い感情は留まることを知らない。


『なにやってんだよ、バカ姉!』


 顛末を聞いて、葵は思わず姉の部屋に乗り込んだ。

 激し言い争い――ではなく、一方的に罵詈雑言を浴びせた。手当たり次第に、部屋中のものを投げた。泣きながら顔を真っ赤にして、最後には肩で息をするくらいに。


 次の日から、姉に話しかけることはなくなった。

 

 もう一生そうすることはないと思っていたのに——


「いい加減にしなよ!」


「……あ、あお。どうしたの、そんな怖い顔して」


「とぼけないで! またおにいちゃん――仙堂先輩の家に行ったんでしょ!」


 その事実を、葵は母から聞いた。困ったことのように、愚痴のように。

 我慢できなくて、怒りのままに姉の部屋を強襲した。


「ちがうよ、あれはたまたま会っただけで」


「それでも、話し込む必要はなかった。そうでしょ」


「でも、向こうが付き合ってくれて」


「それは、おにいちゃんが優しいからでしょ! アナタは、そのやさしさに付け込んで傷つけた。いまさら、よく会いに行けるよね。頭おかしいんじゃない!」


 自然と口調が荒くなる。噴き出す激しい感情を、少しも抑えられない。

 2年分だ。蓄積された鬱憤は留まるところを知らない。


「そ、そこまで言わなくても……あたしだって反省してるし、そろそろまた昔みたいに戻れたらって――」


「知らないよ、そんなこと。自分勝手を押し付けてるだけ」


 自分の姉ながら、その愚鈍さにイライラしてしまう。

 どうして、こんな表情ができるのだ。教科書に載せたいほどの被害者面。

 一周回って、葵は冷静になりつつあった。すると今度は、これ以上相手の顔を見ていられなくなってくる。


「とにかく、二度とおにいちゃんには迷惑かけないで」


 返事を聞くことなく、葵は姉の部屋を出た。

 行きと同じように、扉を乱暴に扱って。家の中に、激しい凶暴な音が響いた。


 これが昨日のこと。

 そして、憧れのあの人に話しかけた衝動の原因でもあった。


 本当はもっと早く話しかけたかった。

 結末を聞いて、すぐにでも隣りの家に押しかけたかった。

 ――自分が代わりになりたかった。


 でも、それはできないのだ。してはいけない。資格もない。

 あの人にとって、自分は憎き元恋人の妹。嫌でも、最悪の記憶を呼び起こさせてしまう。


 きっと、彼はそんなこと気にしないだろう。

 優しい言葉だってかけてくれるかもしれない。


 でも、それに甘えてはいけない。決して本心ではない。

 傷だらけの彼を癒せるのは、少なくとも自分ではないのだ。


 しかし、葵は勢いを取り戻した想いを押し込めることはできなかった。

 仙堂凱――その響きを想うだけで胸が弾む。その姿を見るだけで、胸が満たされる。

 想うだけは許して欲しい。そうして、彼女は進学先を同じところに決めた。いじらしいエゴを戒めとして持ちながら。


 結果として、容易く破ってしまったが。4年近く続いた沈黙の片思いはあっけなく、その殻を破った。


 抑えきれなかった。姉との昨日の一件を聞いて、どうしようもなくなった。

 結局は、自分もあの忌々しい女と一緒なんだ。自分の気持ちを優先して、突き進んでしまう。

 自室でスマホを握りしめて、そんな自己嫌悪に苛まれていた。やっぱり送らなかった方がいいかもしれない。


 不安と闘っていると、唐突にスマホが震えた。

 葵は恐る恐る画面を確認する。


『仙堂先輩、今日はすみませんでした……』

 

『他人行儀過ぎるだろ

 普通にしてくれ、葵ちゃん』


 思いのほか早い返信が、現金な想いを抱かせる。


『おにいちゃん、ありがと

 こんな感じかな』


『ああ、しっくりくる。

 その方が葵ちゃんらしいよ』


『わたしらしい?』


『昔と同じ風に呼んでもらえると嬉しいんだ』


 絶対に社交辞令だ。

 わかってはいながらも、葵は心が弾むのを抑えられなかった。

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