10(ΦωΦ) episode:7 本の読み語りやお喋りの相手──そうよ、これがメイドの仕事です。
「シケリア島で暮らしていた美しいスキュラには毎日のように大勢の男性が求婚を申し込んでいました。けれど彼女は今の生活を楽しんでいたので、誰からの求婚も拒み続けていました」
わたしの
読んでいる本はお屋敷にあったギリシア神話だ。
読み聞かせを仰せつかった当初はお話を選ぶのに迷ったが、お嬢様の趣味嗜好がわかってからは簡単だった。
ラブロマンス?
小動物の楽園?
いいえ、お嬢様は、その見た目の愛らしい容姿と異なり『怪物』が出てくるお話がお好きなのだ。
「ある日のことです。スキュラが隠れ場所で水に浸っていると、そこへ海の神『グラウコス』が現れました。美しいスキュラを見て恋に落ちた神様はその場で結婚を申し込みます。突然のことにびっくりしたスキュラは逃げ出しました」
「セリシアは結婚しないの?」
突然、お話に割って入るお嬢様。
「え、わたしまだ十七ですよ」
「それは結婚出来ない年齢なの?」
「いえ、そういうわけではありませんけど」
同年代で結婚して子供までいる女性は珍しくはない。でも、やっぱり早いと思う。
「お嬢様は結婚したいのですか?」
「興味ないわ」
「ですよね……諦めきれないグラウコスはアイアイエー島の魔女『キルケー』に惚れ薬を頼みます」
「惚れ薬。セリシアに飲ませたいわね」
「あら、わたしに飲ませてどうしたいんですか」
お嬢様は悪戯っ子だ。
これ最初は対応に困った。でも毎回やられるから気にしないことにした。小さな女の子がやることだし──劇団のマネージャーやクライアントとは違うから……純真な興味だろうから抵抗はせず、笑顔で返すことにした。
「セリシアの胸って大きいね」
「わたしは、そんなに大きくありませんよ。普通だとおもいます」
「初春より大きいわ」
「お嬢様もすぐに大きくなりますよ」
「わたくしはね、大きくはならないのよ」
何故だろう、寂しそうに聞こえた。
「そんなことありません。そうだ、明日から毎日、牛乳を飲みましょう」
「牛乳を飲めば大きくなるのかしら?」
「……うーん、試したことはないですけど、コメディ・フランセーズの先輩からそう聞いたことがあります。物は試しです。それに牛乳は健康にも良いそうですよ。お嬢様、あまり食事をとられないからセリシアは心配です」
「そうね。セリシアがそうしろと言うなら、明日から牛乳を飲むことにしましょう」
「はい、では……グラウコスに気のあったキルケーは嫉妬に狂い、惚れ薬の代わりに毒薬を調合してスキュラが隠れ場所にしている水浴場に流したのです。
何も知らないスキュラは、グラウコスが見ていない隙きに水へ浸かりました。すると下半身から六匹の犬の首と前足が生えて怪物となってしまったのです」
「面白いわね」
屈託のない表情で笑うお嬢様。
「お嬢様は怪物の話がお好きですねぇ」
「うん、わたくしも怪物だもの」
「……え、何をご冗談いっておられるんです。お嬢様はとてもお可愛らしいですよ」
「モノの本質は見た目じゃなくてよ、セリシア。視覚に頼っていては駄目」
お嬢様は、ときどき年齢に相応しくない説教をなさる。いったい彼女のこれまでの人生で何があったのだろうと、訝しく思えるほどに大人びている。
そういう意味では。お嬢様が仰る「視覚に頼っていては駄目」という言葉はわかる。でも、ご自分のことを怪物というのは感心しない。
「お嬢様は怪物なんかじゃありません。わたしの、大切なお嬢様です」
一瞬、お嬢様の黒い瞳が潤んだように見えた。わたしの胸を揉んでいた手を背に回して頭ごとお腹に突っ込む。そして胸の下に顔を埋めてしまわれた。
「あなたも、わたくしの大切な親友よ。もう二度とどこへも行かないで」
「セリシアは、ずっとここにいますよ。変なお嬢様」
別の日、はじめてお嬢様からお茶に誘われた。
毎食、食事の席に立ち会うのがレディズメイドだが、だからと一緒にテーブルを囲むことはこれまで無かった。お嬢様がおひとりで食べるのを、コゼットと一緒に壁際に立って見ているのが仕事だからだ。
「お嬢様と同じ料理を、同じ席で口にしてはならない」
お食事中、何らかの救急事態に備えるため……と、コゼットは言うが、お蝶さん配下のハウスメイドさんたちが毒を盛るはずもなく、正直、馬鹿馬鹿しい決まりごとだとおもう。
「京都の緑茶よ」
お嬢様が勧めてきたのは紅茶とは違う、緑色をした飲み物だった。
「はじめて見ました。綺麗な色ですね」
「あら、そう。飲んだことはなくても見たことはあるでしょう、きっと忘れてるのね」
「え?」
お嬢様の笑顔は、「おまえのことは全て知っている」笑顔だ。少し怖い。
「あのぉ、以前、ここへお世話になるときに……そのぉ、お嬢様と……キス、というか、そのぉ」
「舌を重ね合わせたこと?」
「はい。お蝶さんの『魔法』を知ったときも驚いたんですけど、お嬢様も何かしらの超能力があるんですか。あの日、わたしの何かを知ったんですか?」
「あなたは、セリシアの何が知りたいの?」
「え?」
「セリシアという女の子の生涯が知りたいの? それとも趣味や趣向? あるいは……セリシアになる前の記憶かしら?」
何だろう。今日のお嬢様は凄く怖い。恐ろしい。わたしの全て……いいえ、わたしが知らない『わたし』を知っている。それを喋りたくてうずうずしている悪戯っ子の瞳だ。
わたしは、わたしという自我が芽生える前の記憶は知らない。両親によると、とても元気な赤ん坊だったそうだ。
でも、その当時の写真は不思議なことに存在しない。兄たちの赤ちゃん時代の写真はあるのに──祖母の子供時代の写真が残っているくらいの家庭だ。それなのに、わたしの幼少期は両親から語られる以外に存在しない。
お嬢様からの強い視線に耐えかねて緑茶を覗き込む。カップは紅茶のものよりどっしり作られていて分厚い。指をかけるところはなく、両手で抱え込むように持つと説明を受けた。
これも京都のものか、初めて見たはずなのに、不思議とどこか懐かしさを覚える。
茶葉の
「飲んでいいのよ」
お嬢様の言葉に、恐る恐るカップを口に運ぶ。熱い液体が喉を通る。
「う、苦い」
思わず顔を
「お菓子があるわ」
お皿のうえに白い色をした小さなパンのようなものがあった。
「京都のお菓子よ。お米と砂糖を練り合わせて作ってあるの。甘くて美味しいよ」
口にしてみた。お嬢様の仰る通り、とても甘くて美味しい。今度は幸せな顔になる。と、それを見てまたケラケラと笑った。
「セリシアのお口はお子様ね」
わたしより遥かに幼い女の子から、お子様扱いされてしまった。
そんな平和な日常がずっと続くと、信じていた──
「お嬢様、今夜は月が無いと
コゼットが深々と頭をさげる。
お嬢様は、わたしの膝枕に頭を乗せ寝そべったままの、いつもの笑顔だ。そんな笑顔でピクニックの準備でも言いつけるように、緊張を隠せない元軍人へ命じた。
「それなら今宵、狩りに出掛けましょう」
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