第9話



 「……何か、聞こえませんか?」


 いつものように『鬼灯ほおずき』で千加良ちからと二人、上り框の奥にある板の間の部屋で、僕はタブレット片手に一人掛けの椅子に腰を落ち着けオンラインショップからの受注を眺め、千加良ちからはといえば、ソファに長い脚を投げ出すようにして腹の上にカップとソーサーを器用に乗せたまま、半ば微睡みの中にある穏やかなその午前中。

 何かの音が、断続的に店の方から聞こえて来るのだった。


「……ん? 気の所為だろ」

 僕の言葉に、薄く目蓋を開けた千加良ちからは暫く天井を見上げて耳を澄ましていたが、そう言って鰾膠にべもなく切り捨てる。


「そう……ですか? ほら、今だって、また」


 脳を直接震わせるような奇妙な低いその音は、長く続いては途絶えるを繰り返していた。


「……外に、いつもの猫でもいるんじゃねぇの?」


 猫? そのような媚びを含んだような艶のある鳴き声ではない。ましてやこれが喉を鳴らす音だとしても、こんなに大きな音で鳴らす猫などいやしない。


 そう……これは。


 タブレットを椅子の上に置き、立ち上がる僕に千加良ちからは目を閉じたまま「見に行くなら、面倒なことになる前に開け放してある方の扉も閉めちまえよ」と、その奇妙な音に歯牙にも掛けない様子である。


「ねぇ千加良ちからくん。いくら僕がこの店の従業員であるとはいえ、それが人に物を頼む態度ですか」

「……ハハハッ。史堂しどう、諦めろ」


 しかし千加良ちからの言うように実際の猫であるなら、以前、知らず店の中に閉じ込めたことで酷い目にあった事がある。音の原因が何であるにせよ扉を閉めるに越した事はない。


「店の周りを見てから開け放したままの扉を閉めてきますよ。扉が開いていても閉まっていても、少ないお客さんの出入りは変わりないでしょうからね」

「……ふッ。史堂しどう、酒が抜けたら覚えとけよ」

「飲み過ぎなんですよ」

 

 昨夜、千加良ちからが珍しく深酒した理由を僕は知らないが、ソファにしどけなく身体を投げ出す使い物にならない店主を一瞥した後、店の方へ降りる。

 冷んやりと薄暗い店内に、さっと目を走らせてみたが動くものは見当たらない。

 続いて件の猫が隠れていそうな赤絵唐子絵火鉢の中や、飾り棚、茶箪笥を見て回ったが姿は無いようだった。


 やはり、店の外なのだろうか。

 そもそも、あれは猫の鳴き声なのか。

 ほら、また聞こえる。


 片側だけ開け放してある扉から、何の気無しに外へ出ようとして左眼が異様なモノを捉えた。

 頭の無い、血塗れのあの男が道を挟んだ向こう側に、ぬっと立っているのである。

 途端、僕の耳に聞こえる音の正体が分かった。


「……呻き声」


 寸胴鍋の中にある男の頭が、ごろごろと粘液の混じる低い声で、何やら言葉にならない音を発しているのだ。


 おそらく。

 だが、本当に?

 蓋を開け、確かめてみたい。


 恐ろしさに相反するこの好奇心は、どうしたものだろう。否、恐ろしいからこそ確かめずには居られないのかもしれない。

 気の所為であるとの確信が欲しいのか、其れとも恐怖に呑まれるあの、ぞくりとする感覚にさえ人は、快感を見出だしているからなのかは分からないが、怖いモノほど近寄ってみたくなるのだから後者に違いない。

 だが今はそれよりも、あの男が道を渡り、この開け放した朱色の扉を潜り店の中に入って来るのは、間もなくのように思える。

 それが何を引き起こすか分からない不安に慌てて扉を閉めると、千加良ちからの元に一目散に戻り、震える指先を扉の方に向けて捲し立てた。

 

千加良ちからくん、頭の無い男が店の向こうの道に立ってこっちを見てます。あ、いや違う顔がないから見てるかどうかは分からないんですが、こっちに身体を向けて立っているのは確かで、その上、さっきから僕の耳に聞こえていた音は、おそらく鍋の中にあるあの男の頭が出す呻き声だったみたいなんですよ……猫なんかじゃなくて。まだ猫だったら良かったのに……あ、でも蓋を開けたら猫がいる……わけないか」


 最初、煩わしげに眉を顰めていた千加良ちからだったが、最後まで言い終えない前に上体を起こすと、その怜悧な美しい顔には愉快そうな微笑を湛えていた。


「……あの頭の無い男が、店の中に入ろうとしているみたいなんですが、それって自分の頭を探しているんですよね? まさか扉を開けて」

「入っては来ないだろうな」


 やけにきっぱりと、そう言い切った千加良ちからは、ソファから立ち上がると僕に向き合って続ける。


「気づいていたか? この店の扉が朱色に塗られているのが何故か。魔除けの意味があるからだよ。昔から曰くありげな品物を扱っているにも拘らず、この店の中で、お前の左眼がこれまで大したモノを視ていないのもそこに理由があると俺は思ってる……まあ、それだけじゃないだろうが……この店は、どうも少し変わってるみたいだからな」

「つまり……?」

史堂しどう。お前のことだから、よっぽどのモノが視えてたら長くは働いてはいないだろう。例え俺がどんなに引き留めようと、さっさと辞めたに違いない。どうも俺の魅力とやらは有り難い事に、お前には何の意味も持たないらしいからな。奇妙なモノが視えていたとしてもから、ここに長く居るんだろ? つまり中から招き入れない限り、入っては来れないんじゃねぇか?」


 そうだ。『鬼灯ほおずき』は、僕にとって居心地の良い場所だった。この店の中にあるモノは、僕に害をなさない。


「まさか……招き入れるつもりじゃないですよね?」


 店の方へ向かって歩き出した千加良ちからの背中に情け無い声を掛けるも、虚しく消える。


 また、呻き声が聞こえた。

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