第2話



 実のところなつめとは、戸籍上兄妹であっても正確には血縁関係にない。


 嘘のような本当の話とはよく言ったもので、僕が五歳になった冬のある日、我が家の玄関先にまるで猫の仔のように、産まれて間もない赤児が捨てられていたのである。

 当時、不義の子かと周囲が騒然となったことは幼いながらも良く覚えていた。

 父にはそのような甲斐性も無さそうであるが、消極的事実の証明、つまり証拠が無いことは、無いことの証明にならないのである。なつめとの血の繋がりが無いことを証明をするのは簡単であるが、果たして当該子供のなつめとの疑惑は晴れたとしても、妻以外の女性と関係を持ったかどうかの証明にはなり得ないからだ。


 世間から見たら逆ではあるが、母にとってはその子供を引き取ることが、まるで父の無実の証憑しょうひょうであると言わんばかりに、その捨てられていた子供は両親によって、周囲の雑音を一蹴する形で煩雑な手続きを経たのち、僕たちの家へ迎え入れることとなったのである。


 家族とは、すべては血の繋がりのない二人から始まるのだから、と言って退けるのは簡単だ。しかし消し去った筈の疑念は、時としてあり得ない場面で不意に首をもたげる。不安は疑惑を生み、やがて触手を伸ばし暗然と世界を黒く蝕ばんでゆく。それはあの事故へと繋がるくらい線となった。


 それでもなつめを決して手放さなかったのは、何故だろうと考えることがある。日に日に可愛らしく、美しく成長してゆくなつめに、父や母は何を見ていたのだろう。当たり前であるが僕たち三人は、なつめに対し皆同じ想いを抱いていた訳では、ないのだ。


「……どうしたの?」


 物思いに耽っていたことを誤魔化すように、慌てて口をつけたコーヒーの熱さで上唇を軽く火傷する。

 目の前で可愛らしく首を傾げているなつめが、僕と血の繋がりがないことはこの家の中で、今や僕だけしか知らない……。


「ん? 何でもないよ」

「お兄ちゃん、昨日遅くまで起きてたのって……」

「あー……うん。まあ、そう」

「じゃあ今度こそ、書けそうだとか?」


 僕の向かいに座るなつめが、ダイニングテーブルに身を乗り出すようにして顔を輝かせているところを無下にする訳ではないが……。


「いや……どうかな? 駄目、かもな」

「そうかぁ」

「仕方ないさ。天才も二十歳過ぎれば只の人とは、良く言うし、それに……」


 って、そもそも天才などではない、と自分では分かっているのだから只の人も何も、最初から僕は何者でもないのだ。

 そのうえ誰の言葉かは覚えていないが、人は皆誰しもその人生に於いて一冊だけ本を書けるのだと言う。ならば僕は、既にその一冊を書いてしまった所為で、あれ以上の小説を生み出すことが出来ないのかも知れない。

 現状の僕は、十六歳の時に天才と持て囃され、小説家としてデビューしたは良いが、それ以降は鳴かず飛ばずの状態がもう六年も続いているのである。


『くだらねぇ。人生に於いてのその一冊って、フツーに自伝ってことだろ?』


 そんなつまらない呪いに引っ掛かりやがって、と言ったのは千加良ちからだったなと思い出したところで、その本人に呼び出されていたこともまた思い出す。

 

「……しまった。のんびりしすぎて、これじゃまた千加良ちからくんに悪態をかれる」


 まだ熱いコーヒーを何とか飲み干し、椅子から立ち上がった僕に向かって放たれた「さて。わたしも、お昼は外で食べることにしよっかなっと」となつめの不機嫌そうな呟きを背で受け流しながら、玄関へと急いだ。

 


 路面の逃げ水が、ぬらぬらと何処までも途切れることなく誘うように蠢く。

 目眩がしそうな程に照りつける太陽の熱と降るような蝉の声が頭の中を侵蝕する夏の昼間は、脳が沸騰するようで気が狂いそうになる。

 目的の場所まで後少しまで来た時、痙攣するような動きを見せる臓腑をはみ出した猫の死骸が横たわっているのが遠く視界に入った。死してなお動いていると思ったのは、猫ではなく忙しなく動き回る大量にたかる真っ黒な蠅のせいであると気づいたのは、その傍を通り過ぎようと踏み出した足先が群がる蠅を飛び立たせるまでだった。

 恍惚の瞬間を邪魔された大量の蠅は、確かな攻撃の意思を持ち僕に向かって来るものもあればそれでも執念深く死骸の傍を旋回するもの、酩酊したまま張り付いているものと様々な動きを見せ、カッと口を開けて事切れている猫だけが虚な眼で静かに僕を見送っていた。

 何を勘違いしたか一匹の蠅が僕にうるさく纏わりつくのを手で払いながら、その場を後にする。


 千加良ちからに呼び出された場所は、家から歩いて二十分程にある古道具屋『鬼灯ほおずき』だ。

 この店は、二階建ての擬洋風建築であるが、ひと言で表すならその佇まい全てが『奇妙』と言う言葉でピタリと当て嵌まる。

 言ってしまえば奇抜なデザインのそれを、格好つけて擬洋風建築とかたっているに過ぎない建物であるが、鬼無きなし 千加良ちからという桁外れの美貌の持ち主にはそれがまた、良く似合うのであった。

 何でもその店は江戸時代から続く――千加良ちから曰く古道具屋であり、昨今のリサイクルショップとは訳も格も違うらしいのだが……。


 滴る汗を拭いながら、ようやく辿り着いた『鬼灯ほおずき』の冷んやりと薄暗い店の中へと入る。

 初めてこの店の中に入ったのは、両親が死んで何日かした頃だった。ふらふらと近所を歩いている時に、この奇抜な建物の古道具屋とやらに入ってみようという出来心が湧き上がり、店の中へと足を踏み入れたのである。

 店主の千加良ちからとは、それ以来の付き合いだ。月日が経つのは早いもので、あれからもう四年……。

 目が室内の暗さに慣れるまで、独特の匂いが漂う古い道具の片隅に立っていると、姿は見えないものの気配を感じたのだろう。僕を呼ぶ千加良ちからの声が店の奥にある私室から聞こえてきた。


史堂しどう、随分と遅かったな。俺とお前では当たり前だが、どうも流れている時間とやらに格段の違いがあるらしい。良いからさっさと店からそのまま、こっちに上がって来い」


 その口の悪さでさえ、千加良ちからにあっては魅力のひとつとなるのだから、世の中とは分かっていても実に不公平である。

 僕は、やれやれと首を横に振りながら、声のする方へと足を向けた。

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