大輔の娘


昔、中務の大輔だったという人が、都のはずれに妻と娘夫婦とで暮らしていた。娘の夫の直之は元兵衛府の役人で、生家の没落の巻き添えで職を失っていたのを、大輔に請われて一人娘の葵の婿となった。

葵には奇妙な風評があり、縁遠いのを心配していた両親には直之の承諾は僥倖であった。

一家は小さな果樹園を所有し、そこが幼い葵の遊び場で、奇妙な事があったのは彼女が四歳頃のことだ。金蛇(蜥蜴の一種)の群れが葵の頭や肩へ這い上がり、金色の炎のように日に輝きながら遊んでいる。驚いて駆けつけると、葵は姿を消した蛇を探すように辺りを見回していたと使用人が証言した。

そんなことが幾度か目撃され、葵が指を立てると必ず蜻蛉が来て留まるといった話から、何か不思議な力を持つ娘だと噂されることになったのだ。

葵は色白の小柄なたちで器量も悪くないが、青味がかった白目と黒い瞳が、見る者に深い印象を残した。

直之は葵の噂を聞くと、生き物好きは似ているなと思った。彼は少年の頃、鷺になって都の空を飛ぶ夢を見た。風に乗り眼下に地上を見下ろしながら、自分が鳥であるのを実感し、覚めた後でもあの時己は間違いなく鷺だったのだと思った。

会ってすぐ直之は相性の良さを感じたが、葵も肌の合う相手だと分かった。そしてお互いを旧知のように思ったのだ。

子には恵まれなかったが、二人は仲睦まじく、大輔とその妻は彼らを見守るという、季節以外には変化のない日々が続いていった。ところが五年ほどして、大輔が病であっけなく死ぬと、その妻も追うように他界してしまった。呑気な大輔は大した貯えも残さず、婿の職探しも果せなかった。それですぐにというのではないが、いずれ困窮することは若い二人にも予測できた。

とりあえず使用人を三人にしたが、小さな畑と果樹園の収穫では、飢えを凌ぐことはできても、着るものを改めるにも躊躇することになった。

「貧しくて済まないと思いながら、どうにもならないのが悲しいわ」

 葵は夫が外へ着て行く装束の古いのが悔しかった。

「己はこのままで構わないが、お前の気苦労が分かるだけに、何とかしたいと思うのだが・・・・」

直之はまだ三十だが気長な質で、行く末を案じはするが日々淡々と過ごしていた。和漢の素養に多少の自負はあるが、相応しい職には就けないでいた。

一家は四季を通して果樹とともにあり、冬には柿や梅の枝を切り、春から夏には梅干しや干し杏子を作る。山椒は未熟な実を煮詰め調味料とし、熟した実は粉山椒にする。秋から冬は干柿や搗栗作りだ。

初夏のある午後、兵衛府時代の友人が直之を訪ねてきた。その時彼は栗林にいた。葵とも面識のある男は、顔を見に寄ったと言う。

戻ってきた直之と友人は、家には上がらず神社の方へ出かけていった。半時ほどして直之は一人で帰ったが、何事もなかったように穏やかな表情をしていた。

ところが翌日になって、女の童が妙な話を葵の耳に入れた。それは男の使用人の会話を立ち聞きしたもので、

「ある良家が婿を探しているが、お前暇をもらって行ってはどうか」と友人が直之に言ったという。

直之は笑いながら断ったが、言った方は大分残念がっていた。口止めされているが、と教えた男が笑った。少女はそう注進したのである。

夫が何も言わないなら、黙っているべきなのかと葵は思った。先行きに不安があっても、直之との日々が続く間は、それも遠くにある気がして、風が強い夜なども同じ床にいるだけで安心していられるのだ。

だが父が宮仕えを叶えてやれず、世間から甲斐性なしと見られる直之に申し訳ないとも思う。

十日ほどするうち、葵は話を持ち出す決心をした。直之を家に縛り付けて良いのか、世に出る貴重な機会ではないのか、去られるのは不安だが、このままでは行き詰まるのだ。

夕刻、直之は男臭い匂いを纏って栗林から戻ってきた。葵は夫が汗を流し着替えを終えると声を掛けた。

「この間ご友人がいらして、貴方に持ってこられたお話のことを聞きました。どうか私に気兼ねなさらずお考えになって」

 直之は不意を突かれたが、重大な秘密と思っていたわけでもなかった。

「思いもよらぬ話で、相談するまでもないと思っていたよ。そうか耳に入ったか」

会話はそれきりで終わったが、この十日を妻は何を思って過ごしてきたのかと直之は考えた。そして友人の話を思い出してみた。

「お前もこのままずっと無職というわけにはいくまい。悪い話ではないと思うがなあ」

 相手は婚期の遅れた一人娘で、両親が可愛がりすぎたのだという。

「有体に言うが、相手は美人でないしそう若くもない。しかし相当な家であるのは間違いない。お前に子がないことは言ってある。だが子宝は運だから構わないそうだ。駄目なら養子を取るのだろう」

友人は冗談めかしてそう説明したが、直之たちの家計についても承知しているらしく、

「お前が援助してやれば葵どのも助かるし、洛中だから逢うのは容易い。そういう仲が良くあるのはお前も知っておろう」と言った。

直之は自分でも職を探していたが、位階は地下とはいえ下賤な仕事には就けない。だが縁故も人脈もない身では、手がかりさえ掴めなかった。

 その夜、直之は枕を並べる妻に、

「お前は舅殿が己の職を探せなかったのを済まぬと思い、それであの話を持ち出したのであろう?」と訊いた。

「それもありますが、このまま貴方が世間に出ないでいては、この先どうなるでしょう?私はここで何とか暮らせます。どうか貴方の良いと思うように・・・・」

 葵はそう答えたが、本心は不安で仕方なかった。だが他に何と言えばいいのか。いっそ二人で山鼠にでもなって、樹の洞の中で暮らせたらどんなに幸せだろう。

 直之は黙って妻を抱き寄せた。かすかに饐えたような体臭と、衣にたきこめた沈香がほのかに匂った。ああ、これがこの女の匂いなのだと彼は思った。それから二人は黙って交合した。

 柿の葉も大方散った冬の初め、直之は有力者の婿となり家を出て行った。覚悟の上だったが風が葵の身に染みた。離縁はしたが仲は続くと言う直之の言葉を信じる外はなかった。

夜が来ると葵は夫を失ったのを実感し、後悔と嫉妬で胸が痛んだ。夜が明けても話し相手はなく、空しく日暮れを待つばかりだ。

直之が忍んできたのはひと月後だった。大蔵省に職を得たが、それより家のことを承知するのに多忙だ、と明ける前に帰って行った。

年が改まると、直之の立場も固まってきたのか、夜明けまで同衾することも出来るようになった。それが葵の救いであり、何があろうと遠くない所にこの人がいる、そう考えると安心できた。

だが如月のある夜、直之が困った顔でこう言いだしたのである。

「上司がこの春の除目で伊予の守となった。遥任と思っていたのに受領だという。それで己も同行せねばならぬ仕儀となった」

 葵は約束が違うと思ったが、文句を付けられる立場でないのは明らかで、

「どのくらいでお戻りに?」と尋ねるしかなく、三年か四年というのがその答えだった。

 弥生の末に直之が四国へ発ったあと、葵はひっそり暮らしていたが、離れを借りたいという尼があり、使用人しか話し相手もなかったので承知した。尼は五十過ぎの穏やかな人で、家財も簡素なものだったが、物腰に出自の良さを思わせる優雅さがあった。

尼は葵の境遇に同情して話し相手になろうと言ってくれたが、孤独感を抱えた身には有難いことで、そのうち葵は尼を心頼みに月日を送るようになった。

 秋も深まった頃やっと直之から便りがあった。やはり三年は帰れないので気を落とさずにいろという。覚悟はしていたが落胆し、葵は文に直之の匂いを嗅いで泣いた。

 冬に入って下がりはじめた気温は、霜月から師走と最も低くなり、霙が降ったり粉雪が舞ったり、晴れると山からの風が肌を刺すような日が続いた。

年が明けると人々は春が来たのを信じて、冷たい空気の中に徴を求めた。野に若菜の芽を見つけようというのだ。だが歳末に小雪があったきりで、半月しても雲の影さえ見られず、風が小止みなく吹くので、野も山もすっかり乾ききってしまった。

 如月に入ろうとする頃、埃まみれの都の一角に疱瘡の子供が出現し、その子は死に母親も罹患して重篤である、という話が葵の元にも聞こえてきた。

疱瘡は天平の世を震撼させ、それからも人々を苦しめ続け、大きな流行の機会は減ったが、死の病に違いはなかった。

世間は短期に収まる散発的なものと期待した。長い間大きな流行がなく、大概は小規模で終息していたからだ。

だが発生源が繁華な所だったからか、或いは埃まみれの風のせいか、菌糸のように感染が広がり、如月初めには二十人余の患者が出た。その頃にやっと霙混じりの雨が降った。風も弱まり野山も何となく春らしくなったが、人々はそれを味わうどころでなかった。それから日ごとに患者が増加してきたのだ。どこの寺社も祈祷に大童で、離れの尼も観音経の読経に余念がなかった。

 死者は子供と母親が多く、快癒する者も少なくなかったが、感染は止まらず、大流行時と同じだと流言する者もあり、世間の動揺は収まりそうになかった。

この時、尼の元に義久という遠縁の若者が逗留していた。この男は近江の郡司の子で、父親の用事で上京していたが、それが済んで訪ねてきたのが十日ほど前であった。義久は騒がしい世情を余所に、御曹司らしく悠然と日を送っていたが、ある日尼と葵を前にして、気楽な様子でこう切り出したのだ。

「どうです、いっそ近江へ避難しちゃあ?己もじき帰らねばなりませんし。あちらで騒ぎの収まるまで居たらどうです。十分お世話しますよ」

義久は尼から葵のことは聞いていたが、慮外な一目惚れをした。年上の女の淑やかさと謎めいた黒い瞳が彼の心を掴んだのだ。疱瘡を口実に連れ帰り、じっくりその謎を解こうと義久は考えたのである。

「罹患を恐れて都落ちする者もあるそうな。それは良い考えかも知れませぬ」

 尼は義久と葵を交互に見ながらそう言った。内裏でも患者が出たという風聞もあり、田舎を目指す者は少なからずあった。

 だが葵は自分が生家の周辺しか知らず、都を離れるのは直之を遠くするような気もした。

「私は此処を終の居場所と思ってきました。余所へとは、まして都を離れるなど考えたことも・・・・」

 それを聞くと義久は首を振りながら微笑した。

「逢坂を下ればそこが近江、騒ぎが収まればすぐに帰れますよ。お二人は己が責任を持ってお世話します。半年もすれば疱瘡も消えちまうでしょう」

 尼は近江が父祖の地なので、里帰りも出来るし、葵と鳰の海を眺めて暮らすのも楽しそうだと考えていた。

「近江はとても良い所、あなたもきっと好きになります。待ち人が当分戻られぬなら、淡海の景色を愛でつつ、騒ぎが収まるのを待つことにしては?」

尼の言葉に葵の気持ちは揺れた。今では尼が心の拠り所であり、孤独な一人暮らしには戻りたくなかった。

「庵主さまは私と共に此処へ戻って下さいますか?ならば私も同行致しますが」

 葵の不安気な様子に、尼は柔和に目を細めて答えた。

「私も此処が気に入っています。静かになれば戻って又一緒に暮らしましょう」

 葵は尼の言葉を信じて近江行きを決断し、一行は慌ただしく出立した。都の日当たりの良い土地では桜がほころび初めていたが、逢坂ではまだ固い蕾に目をやる者もなく、大方の旅人は無表情であった。

 三人は馬子に引かせた馬に揺られ、その日のまだ明るいうちに湖岸の宿に入って一泊、翌日の午後には瀬田川の橋を渡った。そこが国衙の丘裾に町家が密集する近江の中心都市であった。

 郡司の屋敷は市街の北方、湖水が狭まり始める辺りにあった。桜が蕾を開こうとしており、枯れた葦の根元からは赤い芽が僅かに顔を覗かせていた。岸に立つと見渡す限りの水面で、彼方には山並みが霞んでいる。都の狭苦しい景色と違って広々とした天地である。

「一望千里とはこのような眺めを言うのでしょうか?」

葵は初旅の緊張も忘れて感嘆した。

 

 二人の近江暮らしは、水辺に近い郡司邸の離れで始められた。風光明媚で季節は春だが、葵は知らぬ土地が心細かった。だが辛抱していれば、直之さまに逢える日は必ず来る。今は庵主さまを頼りに、楽しいことだけ考えようと心に決めた。

葵は天気が悪くなければ外へ出ることにした。尼と一緒の時も一人のこともあるが、そぞろ歩いたり、行き交う小舟を眺めたりして過ごすのである。

「水が怖くなければ舟にお乗せしますが、どうです?」

その朝は義久と尼の三人で湖岸にいたが、葵が飽かず舟を眺めるので、義久が冗談半分にそう言ったのだ。葵は透き通った湖水の底知れぬ深みにも、恐れや驚異でなく美しさを感じていた。

「舟がすうっと滑って行くのを見ると、清々した心持になりますわ。それに私、何だか水に落ちても平気な気がしますの」

その日は午後も風がなく波も穏やかで、三人は小舟で湖上へ出た。岸の桜は満開だが、丈高い葦の叢はまだ白茶けたままで、葦雀がその中でぎょっぎょっと鳴いた。遠くの空には鴎が四、五羽漂っている。

艫に座ったのは十三、四歳の少年で、水音もたてない見事な櫂捌きをする。

「いつもながら良い腕だな、小笹丸」と義久が声を掛けると、

「お褒め頂きまして誠に恐縮です、若様」と少年が大人びて言うので、三人は顔を見合わせて笑った。

 くり舟に舷側板というこの舟は、主に内水用で風や波に弱いが、幸い静穏な日で少年は舟を自在に操り皆を楽しませた。

 一行は広い湖上を半時ほど遊覧した後葦の叢の脇へ舟を寄せ、春の日差しを楽しみながら持参した甘栗子や干棗を食べた。舟の陰では魚の群れとその遥か下方までが、まるで水の無いようにくっきりと見える。

「あの群れは氷魚で、それから赤い粒のあるのが、今年生まれた雨魚の子ですな」

 義久の説明を聞きながら葵は水中を覗いていたが、

「あんな魚になったら、さぞ気持ちが良いことでしょうね」と感想を漏らした。

 すると少年が、

「その時はおらが捕えて食べて上げます」と言ったので三人は大笑いであった。


 やがて桜が散り若葉の眩しい季節となった。離れは湖岸に近く、鳥の声や水の匂いが蔀を抜けてくることもある。葵と尼はそんな部屋に暮らしていた。昼間は湖岸に出ることが多く、夜は二人で枕を並べて眠った。

ある夜のことである。葵が異変を感じて目を覚ますと、いきなり手で口を塞がれ、

「声を立てないでくださいよ、お願いですから」と言う義久の声がした。

 灯台は消えていたが、隣に寝ている筈の尼のいないのが分かった。どう逃れるか考える隙もなく、単衣の裾から滑り込んだ義久の指が、葵の湿った割れ目にずぶりと突き込まれた。うっ、と息を詰まらせ、全身に稲妻が走るのを感じ、葵は命より大切なものが失われたことを知った。もはや自失した葵が、その後の義久の行為を意識することはなく、義久は不気味さを覚えつつそこを去ったのである。

翌朝尼が離れに戻ると葵の姿はなかった。湖岸にその姿を求め、使用人にもあちこち捜させたが無駄だった。

「葵どのがいなくなったのは、貴方が何か酷いことをしたからでは?」

尼は義久を問い詰めながら、力を貸したのを悔やんだ。義久は、力尽くでも関係してしまえば葵も受け入れるだろう、と考えていたのだが、

「特に変わったことは・・・・」と答えただけであった。

午後には舟で湖上を捜したが、葵が見つかることはなかった。ただ細帯らしきものが葦原の水際で発見され、葵のものかは判然しなかったが、入水したらしいと考えられた。

水死は遺体が浮上するというので、日に二回舟を出して見回ったが、七日を過ぎても手がかり一つなく打ち切りとなった。

尼は葵を裏切ったと気に病み、引きこもって読経ばかりしていた。義久はどうした訳か無性に氷魚が食べたいと、塩焼きや一夜干しを肴に酒を飲むようになったが、ある夜酔って湖に落ち頓死した。夏の終わりには尼が急に高熱を発し、熱い熱いと言いつつ息を引き取った。疱瘡の終息が見えた中での入寂であった。


 直之は四年の後に帰京し、葵が疱瘡を避けて近江へ下ったことを、屋敷に一人残った女の童から聞いた。だが少女はその後については知らないという。美しかった庭には雑草が繁茂し、築地は所々崩れかけている。葵はなぜ帰らないのか。彼は訝しい気持ちでそこを去った。

 翌年の除目で直之は飛騨介になり、国守が遥任なので実質は守として赴任することになった。その最初の宿は近江で、国衙が饗応役に郡司を当てたので、その屋敷が宴席及び宿所となった。

頃は初夏で、瑞々しい葦の葉を夕風が揺らし、赤み始めた空には鷺が芙蓉の花のように舞っている。小波が煌めく彼方には漁り舟が浮かび、西方遥かには叡山の山並みも望まれた。

「このような所にお住まいとは羨ましい。さぞかし良い気分で毎日をお過ごしでは?」

 直之は郡司と湖岸に立ち、単身の気軽さからこう声を掛けた。だが髪の白さが目立つ郡司は、しなびた顔に薄く笑いを浮かべただけだった。直之は己の世辞めいた言葉に苦笑し、葵もこの景色を眺めた筈だが、一体どこにいるのかと考えた。

宴が果てると、直之は夜伽を断ってひとり寝所へ移った。そこは湖に臨む離れの一角だが、曇って風もなく蔀を漏れてくるものは何もなかった。彼は単衣ひとつになり、灯台が淡く照らす寝具の上に寝転んだが、酔いのためすぐに眠りに落ちていった。

彼は夢うつつに、蔀の外から呼ぶ女の声を聞いた。これは夢だなと思いつつ、彼はその声が聞き覚えのあるものだと気付いた。

「さあ直之さま、お起きなさいませ、外は極楽のような美しさですよ」

直之は目をつむったまま、葵の懐かしい顔を思い浮かべた。目を開ければ消える幻の筈だが、声は小さいながら明瞭に続いた。

「早くおいでなさいませ。お懐かしい貴方」

彼は胸騒ぎを覚え、起き上がると外へ出た。

そこに直之が見たのは、明滅する夥しい蛍が霧のように漂い、その光の粒を纏った葵の裸身であった。薄闇の中、青白く艶めいた肌が、胸や下腹部を妖しく浮かび上がらせている。これが葵の真の姿だと直之は直感した。

「貴方も早く裸におなりになって、二人で楽しく過ごしましょう」

直之は単衣を脱ぎ捨てて裸になった。寒くはなかったが、葵を抱いても体温が感じられないのが不思議だった。直之が導かれるまま石段を下りると、葵は纏った蛍を脱ぎ捨てるように水に入ると手招きした。

水中は冷たくもなく闇でもなかった。夜光虫でもいるのか薄明ほどの明るさで、白く輝く小魚の群れが葵を包むように舞っている。これは夢に違いないと彼は確信した。だがこの夢だけは永遠に覚めて欲しくなかった。

氷魚の群れの中で、葵の裸身が青白く発光し、髪が水の流れにそよぐのを直之はうっとりと眺めた。そして自分が水中を自由に泳いでいるのに気づいた。彼は近寄った葵と全身を擦り合わせ、その感触に恍惚として震えた。

「葵」

直之は自分の芯が放散して意識の遠のくのを感じていた。


翌朝は良く晴れ、湖では日光が小波を輝かせ、青々と伸びた葦の中では葦雀が大仰な声で鳴いていた。石段の上には純白の単衣が脱ぎ捨てられていたが、やがて風に舞い上げられると、一羽の鷺のように湖上の彼方へ消えていったのである。

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