天竺異聞

昔、天竺にソウカタという若い商人があった。彼は独身の気軽さから仲間の誘いに乗り、交易のために船でシナへ出かけることになった。一行は血気盛りの男ばかり三十人、西風の吹く季節を待って意気揚々と出港したのである。

ところが沖へ出て間もなく、どうしたことか風が北向きに変わると、船が操縦不能になるほど強烈に吹き始めたのだ。水夫がやっと帆を下ろしただけで、皆なすすべなく船底にへばりついたまま、恐ろしい速さで南方へ運ばれていった。不気味に唸る風の中で、船は不思議にも転覆をまぬかれていた。

どのくらい後のことか、男たちは船が揺れていないのに気がつき、見上げると青空が広がっていた。船は底を残しているだけで、奇跡の如く砂浜にあった。

午後の太陽が低い山の上に輝き、風は変わらず吹いていたが、林をそれほど揺らしてはいなかった。幸い全員の無事が確認され、男たちは喜びに抱き合った。

さてここはどこかと男たちが辺りを見回していると、林の方から歌声が聞こえてきた。彼らがそれに耳を傾けていると、丘の上に薄衣を纏った女たちが現れ、それからゆっくりと浜へ下りてくるのが眺められた。

女たちは二十代に見える美しい人々で、華美な衣を着け身のこなしは優雅であった。それを見ると、男たちは先刻まで生きた心地もなくいたのを忘れ、すっかり有頂天になってしまった。

「地獄を覚悟したが、ここは極楽のようだ。それとも俺たちはもう死んでいるのか?」

そう冗談を飛ばした男と傍の幾人かが、近づいてくる女たちの前に進んだ。

「俺たちは商売のために船を出したが、ひどい風でここへ吹き寄せられたのだ。船が壊れて帰ることもできぬ。何とか助けて貰えないだろうか?」

 一人がそう嘆願したが、それは男たちの総意でもあった。聞き終わると先頭にいた女がすぐにこう答えた。

「それは大変でしたね。でももう心配はいりませんわ。妾たちがお世話いたしますから」

女がそう言って涼しい声で笑うと、他の女たちも同じように笑顔を見せた。

女たちについて丘へ上がると、林を背にして日干し煉瓦の建物が現れた。それは高い土塀を廻らせた巨大なもので、門には厳重に錠が下ろしてあった。内部は多くの区画に分けられ、塀に沿って中庭が設けられていた。奇妙なのは、男の姿が全くないことだった。

 男たちは組になる女とそれぞれの区画へ移ったが、若い彼らには桃源郷へ迷い込む気分だったに違いない。

 ソウカタと暮らすことになったのは、先頭にいた女であった。二人はまったく相性が良く、女の優しさや思いやりが疑念を消したらしく、彼は我を忘れて愛欲に溺れた。まるで麻薬で脳みそが麻痺したかのように。

「ああ、妾は貴方なしではだめだわ。どうかいつまでもここにいてね。お願いよ」と女に言われると、

「俺だってそうだ、もう離れたくない」と答えるソウカタであった。

 そんな雲を踏むような暮らしがひと月ほど続いた後、ソウカタはふと憑き物が落ちた気がした。女を思う気持ちはまだ熱かったが、初めに感じた「一体これはうつつなのか」という思いが戻ってきたのだ。

 女は午後になると昼寝をする習慣だったが、顔を隠して眠るその姿を眺めながら、ソウカタは我知らず肌が粟立つのを感じたのだ。

見回せば全てが余りにも奇妙だった。彼は中庭へ出ると出口を捜したが、どこも厳重に錠が下りていた。土塀の高さは九尺ほどあり、壁は滑り易く作ってあったが、ソウカタの粘りがやがて登攀を成功させた。

彼が塀の上から見たのは、同じように並んだ区画と中庭だったが、そこには吐き気をもよおす地獄図が展開していた。

横になったまま動かぬ死体らしき者、瀕死の魚の如く口を開けて呻く者、その間を生気なく這い廻る者、それらはまだ壮年の男たちと思われた。

ソウカタは息を呑んで眺めていたが、すぐ下を這っている男に気づいた。ボロを引きずったその姿はほとんど裸であった。

「おいっ、お前たちは一体どうしたんだ?訳を教えてくれ!」

 男はソウカタを見上げてぎょっとしたが、這うのを止めしゃがみこんだ。土色した顔の中の目が涙で光った。

「俺たちは南天竺の者だが、悪い風に吹き寄せられてこの島へ来ちまった。何も知らないうちは極楽だった。けど同じように船が吹き寄せられ、新しい男らが現れると、女たちは突然鬼に変わって、それから俺たちを食料として飼っているのだ。お前さんも次の船が着く前に逃げないと同じ目に遭うよ」

 男の声は震えて小さく、塵と涙で汚れた顔には諦めの表情しか見えなかった。

「おかしいと思っていたが、良く話してくれた。機会を捉えて一緒に逃げよう」

 ソウカタがそう言って誘ったが、男はゆっくりと首を振り答えたのである。

「俺たちは脚の腱を切られていて逃げられないのさ。奴らは必ず毎日昼寝をする。その隙に逃げることだ。きっと上手く行くよ」


 ソウカタは信頼できる二人に事情を話し、逃亡の計画と準備を提案した。彼らも違和感を覚えていたというので、話はすぐに纏まった。

 全員の逃亡は不可能とみて、三人は自分たちだけで内密に準備を進めた。女たちの昼寝の間に塀を越え、船の残骸と林内の竹や蔓などを集めて筏を作り、十日後には島を脱出するのに成功した。

筏は風に吹かれて、天竺とは反対の方向へ運ばれていった。そしてベンガル海の遙か南方の島へ流れ着いたのは、彼らが飢え死にを意識しはじめた頃だった。三人が天竺へ帰還できたのは、それから二年後のことである。


ソウカタが国に帰ると、友人や知人が喜んで訪ねてきたが、彼は身に起こったことを誰にも話さなかった。信じる者もないだろうし、彼自身にも夢うつつに思えたのだ。

ところが彼の生活が元通りになったある夕刻、島で同棲していた女が突然現れたのである。ソウカタは女が一段と美しくなったと思ったが、鬼ならどのようにも化けられるのだと自分を励ました。

「あんなに愛し合っていたのに、貴方はなぜ妾を捨てて逃げたの?」

 女は水色の薄衣から出た肩を震わせて泣いた。その姿は闇の中に咲く木槿のようだった。

「俺は塀の向こうを見たのだ。お前はあの男たちを喰っていた鬼ではないか」

 ソウカタはあの哀れな男を思い出していたが、女の反論は意外なものだった。

「鬼が時々出てくるので、塀を高くして錠を下ろしているのよ。妾は鬼ではないわ、本当よ。貴方が恋しくて追ってきたの」

 彼は女が鬼だと知っていても、その姿を実際には知らないから、対面すると気持ちが揺れてしまう。それに女を憎んでいたわけではなかった。だから自分にも言い聞かせるつもりであった。

「そんな話はとても信じられぬ。鬼でないならどうやってここへ来たというのか。本当のことを言ったらどうだ?」

 ソウカタが言い終わった時、女の姿は闇に消えていた。


 それから二日後のことである。ソウカタに王宮への出頭命令が下り、彼は理由の分らぬまま城門をくぐった。宮殿は朝の光に白く輝いて不安な彼を圧倒した。黒いターバンを巻いた侍従は、王様が直接お会いになると、ソウカタを内部へ導いた。

 長い回廊を抜けると、様々な花に埋め尽くされた庭園が広がり、噴水の水が陽の光に輝いているのが見えた。

 黄金色に咲き誇った薔薇のトンネルを抜けると、檳榔樹の下に大理石のテーブルがあり、そこには王と女が椅子に掛けていた。ソウカタはそれを見ると思わず立ち竦んでしまった。

「そなたがソウカタか。なぜこのように美しいものを妻に出来ぬというのだ?」

 王はもっと寄れというように手招きをしながらそう訊いた。

 ソウカタは緊張のため、よろけながら二三歩前に出ると、

「申し上げます。その女の本性は鬼なので、妻にはできないのであります」とやっと答えた。

 王は女に笑顔を見せるとこう宣言した。

「よろしい。そなたがどうでも妻に出来ぬなら、余が後宮に入れるが良いな?」

 女はそれを聞くと、翡翠色に透ける胸を抱くようにして悲しそうに彼を見たが、ソウカタはそれには気づかなかった。

「それはどうかお止め下さい。その者は間違いなく鬼なのです。どうか、どうか・・・」

ソウカタは必死にそう訴えたが、王が彼を退去させるよう侍従に命じ、謁見は終わった。


その夜、再びソウカタの元に女が現れた。「今夜は正直に話すわ。貴方の言う通り妾は鬼です。でも貴方が妻にするといえば人間になれるの。人間として生きてそして死ねる。本当の人間として、貴方の妻になりたいの」

女は切々とそう訴えたが、とても信じられる話ではない。だが夢かうつつか分らんのが浮き世だ。この二年でソウカタはそんな気がしていた。

俺を殺すのは容易のはずだが、今は当てにしているらしい。ソウカタの心に安心と頼られる快感とが生じていたが、女が鬼であることは忘れるわけにいかない。

「もし俺が願いを叶えたなら、お前は真に鬼ではなくなるのか?」

「一度人間になれば、二度と鬼には戻れないわ。お願い、どうか妾を信じて頂戴」

女はソウカタの心が動き始めたと思ったのか、艶やかな姿を彼の前へはっきりと現した。

「では聞くが、鬼なら寿命の心配がないのに、なぜお前は人間になりたがるのだ?」

「鬼は人間の頭の中に生きているだけよ。もし誰も信じなければ、妾たちはどこにも現れることが出来ないわ。妾は貴方を知って、心底人間になりたいと思ったの。妻として本当に生きてみたいと」

ソウカタは女の言うことに合点が行ったわけではないが、何も危害を及ぼさぬというなら、身軽な独り者に困ることはないと思った。それに女の話が本当なら、あり得ないほど美しい妻を持てるのである。

「分かった。お前を信じてみよう。だが王様にあのように申し上げた以上、明日王宮へ参上してお許しを得てからということにしてくれ」

 女はソウカタに抱きつくと、温かい涙に濡れた頬を擦りよせた。

「嬉しいわ。貴方の妻になれる、本当の人間になれるなんて信じられない。本当に・・・・」

 彼は腕を女の背中に回したが、それは裸の肌に直接触れるように手の平を湿らせた。二人は熱く長い接吻をした.

その夜ソウカタは変わらぬ女の肉体に感嘆しながら、何の疑念もなく快楽を味わった。これからは毎日が楽しく幸せなものとなるのだ。

 ソウカタが目覚めた時、横に女の姿はなかった。彼は少し不満だったが、これからは嫌でも同じ朝を迎えるのだ。王様に逢うべく先に出かけたのだろうと納得した。

彼は家の前の食堂で、豆のスープとナンの朝飯を摂り、ミルクティーを飲んでから王宮へ向かった。

 ソウカタが緩い坂を上って行くと、昨日は木陰で談笑していた衛兵が閉じられた扉の前に立ち、彼の姿を認めると一人が槍を持ったまま走ってきた。

「それ以上近づいてはならぬ。帰れ、帰れ」と衛兵は言って顎をしゃくった。

彼はどうしても王様にお会いする必要があると嘆願したが、今日は誰一人入れてはならぬとの命令だと衛兵は取り合わなかった。

 仕方なくソウカタは家に帰ったが、待っていても女は現れなかった。午後になると奇妙な噂が流れてきた。王様が殺されたらしいというのである。彼は胸騒ぎを覚えながら午後を過ごした。

 日が暮れても女は姿を見せなかった。ソウカタは不安に苦しくなりながら、このまま女を失いたくないと痛切に願った。どんなことがあろうが、もう女が鬼でも構わないとまで思い詰めていた。

 月も星もない夜が更けていった。ソウカタは部屋の明かりも点けずに待っていた。真夜中ごろ、やっと女の声が聞こえてきたが、それはどこからか分からぬまま、悲しく彼の胸に響いた。

「王様を殺したのは妾です。王様なら貴方を変えてくれると思ったけど間違いだった。妾が欲しくなった王様は、心変わりした貴方を殺させると言ったわ。それで仕方なく・・・・」

「もう人間にはなれないけど、貴方に愛されて嬉しかったわ・・・・」

「何時までも元気でいてね。・・・・さようなら」

 ソウカタは伝えたいことで溢れそうなのに、一言も発することが出来なかったが、彼はお互いが理解し合っているのを疑わなかった。女が願いを諦めたのは彼の命を守るためで、そうするしかなかったのだ。女は自らの愚かさを痛切に悔やみながら、ソウカタの前から永遠に去ろうとしていた。

ソウカタは闇の中で頭を抱えて呻いた。

「ああっ・・・」

それから彼は何かを掴もうとするように、両手で頭上を探っていたが、躓いて床に倒れた。部屋にはもう女の気配はどこにもなかった。

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