書記の単衣


昔、日向の国衙に能筆の若い官吏があった。国守に重用され、あらゆる文書の作成に関わったが、下司だったため報われることはなかった。

だが彼はそれを不満には思わず、自分の能力が役に立つのを密かに喜びとしていた。

そのうちに国守の任期が終了し、全ての文書が新司へ引き継がれることになったが、中には多少改竄して辻褄を合わせておかないと具合の悪い物がある、ということは彼にも想像がついた。だから文書の修正を命じられた時、自分の使命は引継ぎを円滑にする繕いみたいなものだろうと考えていた。

ところが彼が作業机の前に座ると、いつもと違って、直に次官からこう指示されたのである。

「書き直しはお前ひとりに任せることになった。仕事はここに寝泊まりしてやってもらうが、終わるまでは外出を禁止とする。済まぬがそういうことじゃ」

次官の口調は穏やかだったが、有無を言わせぬものがあった。彼は胸に不安が広がるのを感じたが、仕事に掛からないわけにはいかなかった。

最初の日の作業が終った時、彼は自分が途方もない苦境に陥ったことに思い至った。

書き直した文書には、税収と行事の出費に関する大規模な不正が含まれ、それが公になれば国守の命取りとなる筈だった。

彼はそこに軟禁の理由を見出し、深い穴に落ちこんだ気がしたが、それでも何とか助かる道はないか必死に考えた。だが何も思いつくことができず、国守は自分を見逃してくれないだろうという疑念だけが残った。

彼は厠へ行った時、試しに出入り口へ向かってみたが、すぐに警固の侍に制止されてしまった。

連日多くの文書が運び込まれ、彼は前途を悲観しながらも作業を続けていた。そして考えるのは家族のことだった。彼には老いた母と妻と十歳になる男子があった。既に彼は殆んど死を覚悟していたが、もう一度だけ皆に逢いたいと思っていた。

彼が運命を受け入れたのも無理はなかった。生殺与奪の権は国守にあり、助かるためには逃亡しかないが、代わりに家族を犠牲にすることになるのだ。それに厳重な警固の網を抜けられる筈もなかった。

彼は眠れぬ夜の中で思った。

「こんな災難に遭うのは、きっと前世の報いに違いない。それなら諦めるしかあるまい。国守も来世では罰を受けるのだ」

だがそれで全てを納得できたわけではなく、何か彼の頭をよぎるものがあった。そして頼りなく短い一生を彼に考えさせた。

「己が死後に残すのは、ひどい改竄を加えた文書ばかりで、本当なものは全て焼き捨てられるのだ。まるで己の存在など認めないというように」

彼は文書の原本を残す方法がないか考えてみた。それは国守への反感と同時に、自分のしてきた仕事への誇りからだった。そして下着に書き残す方法を思いついたのである。

下着は麻の粗末な単衣だった。本当は紙の文書が良いのだが、どう考えてもそれは望めないことであった。

彼は寝る間も惜しんで筆を走らせた。幸い警固の侍に親しい者があり、家族のために逃亡はしないと納得させたので、夜間の見張りは無いも同然だった。

二十日ほどで全ての作業が終了し、彼は国守から労いの言葉を頂戴した。

「誠にご苦労であった。己は京に上るが、困った時はいつでも訪ねるがよい」

国守はそう言って、絹四疋を褒美にくれた。

彼は半信半疑で国衙の門を出たが、すぐに帯刀した四人の侍に囲まれてしまった。

「どうやって殺すつもりか教えてくれ」

彼は親しくする侍にそう訊いた。

「首さえ持っていけば良いのだ。なるべく苦しくないようにしよう。気の毒に思うが、命令に背けば己が死なねばならぬ。分かってくれ」

 上司の命令は絶対で、今さらどうにもならないのは彼にも分かっていた。

「死ぬ前に家族の顔を見たいのだが、家の前を通って貰えないだろうか?」

彼は観念して静かにそう頼んだ。言われた侍は、何だそんなことかという顔で答えた。

「良いとも、お安い御用だ」

 侍たちは彼を馬に乗せ、一人が手綱を取って先導した。一行が家の前まで来ると、彼の親しい侍が家族を呼びに行った。

 彼は最初に、白髪を美しく垂らして危なげな足取りで来る母の姿を見た。それから子供を抱いた妻をその後ろに認めた。

 馬上の彼を見ては、家族も異常の事態を察したであろう。

「何の過ちもなく死なねばなりませぬ。これも前世からの宿命だと諦めます。どうかお嘆き下さるな。子は自ずと育つでしょうが、お二人のことを思うと、それが一番心配です。・・・さあもう家に入ってください。一目逢えて気が済みました」

彼の言葉は穏やかな調子であった。母も妻も涙にくれたが、侍たちまでが声を上げて泣いた。そのうち老母に異変が起こった。倒れたのを侍が抱き起したが、彼女の息は既に絶えていた。

侍たちは命令を思い出し、母の死を嘆く彼を栗林の中へ引いて行った。


首のない遺体を清めようとして、妻は下着の単衣にびっしりと文字のあるのを見出した。それは血の染みに汚れてはいたが、読むに差支えのない見事な筆跡であった。妻はその単衣を取っておくことにしたが、夫の意図までは思いが及ばなかった。

二人の死者は近隣の助力を得て葬られ、後には妻と十歳の男子と絹四疋とが残された。

これから私たちはどうなるのだろう。別に名案がある筈もなく、妻は途方にくれたが、夫が何か書き残しているかも知れないと気づいたのである。

妻は誰にも知られぬようにして、夫が死を覚悟して綴った文字を読んでいった。そしてそれが国衙の収支報告書であることを知った。その冒頭には、「これが真の文書であり、役所の物は全てが改竄であります、どうかお調べ下され」と書かれてあった。

妻は知りたいことでなくてがっかりしたが、夫の死の理由は理解できた。そしてその有能さが彼を殺したことを悲しんだ。


 ほどなく新司が赴任してきた。前司は既に京へ去り、次官らが事務の引継ぎを行った。それも終わって、前司に連なる幹部の役人たちも皆上京していった。

妻は夫の復仇を願っていたが、相談できる相手もなく、一歩が踏み出せないでいた。

三月も経つと、世間の口にも新国守の噂が上るようになり、その評判はすこぶる良かった。まだ三十を出たばかりで、温厚な慈悲深い人物だというのである。

妻はそれを聞くと、思い切って国衙へ出かけて行った。門を守っていたのは、夫が親しくしていた侍であった。

「一体何しに来られたのです。あれは前司のなされたこと、今さらどうにもならないのはご存じでは?」

侍は自分が殺めた男の妻が、突然に現れたので慌てていた。

「分かっています。婢(下女)にでもとお願いに来たのです。とても優しいお方と聞きました。何とか取り次ぎをお願いします。どうか妾たち親子を助けると思って」

亡き友の妻からそう頼まれては、侍も無下に断ることはできなかった。

侍の使った手は不明だが、国守が会ってくれることになった。

「そなたの夫は書記だったというが、話したいこととはいったい何か?」

国守は色白な瓜実顔に微笑を湛えて訊いた。妻は人払いを願おうと思ったが、他には目代らしき老人だけなので止めた。

「夫は前司殿の不正を知って殺されました。その恨みを晴らしたく参りました。これがその証拠でございます」

妻はそう言うと持っていた包みを解き、血染めの単衣を差し出した。

国守も老人も意外だったのだろう、息を呑んで言葉が出ないようだったが、すぐに脇にいた老人がその単衣を国守の前に広げた。それから二人は内容を見分するように、しばらく単衣の上に俯いていたが、老人が話しかけると国守は何度か頷いてから顔を上げた。

「真に遺憾に思うが、これは前司殿の不正の証拠にはならぬかもしれぬ。紙の文書なら訴えることができるのだが。しかし望みが全くないとも言えぬ。まあ一応はやってみよう。大事な品を良く持参してくれた。ご苦労であった」

そう言うと国守は単衣を持って出て行ってしまった。

老人は座ってそれを見送ってから、

「そなたの夫は気の毒であったな。残念だが余り期待せずに待つが良かろう。それからこのことは他言無用じゃ。危害が及ぶこともないとは言えぬからの」と慰めるような調子で妻を説得した。

国衙から亡書記の労に報いて、絹四疋が下賜され御目通りは終わった。妻は納得ができないまま、黙って引き下がるほかはなかった。


それから一年ほどして、目代の老人は上京のついでに前日向守を訪問した。その目的は懐中の単衣を売るためであった。前司は驚いたが、公になることを思えば安い買い物だった。

「ご配慮を感謝申します、と国守殿にお伝え下され」と言って前司は表情を緩めた。

老人には対価として為替手形が渡された。前司がすぐにその単衣を燃やさせたのは言うまでもない。

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