鼻
昔、池の尾の寺に、禅智内供という世に知られた僧がおった。寺には僧坊が埋まるほどの修行僧がおり、日々の勤行の隙には講説に多くの人を集め、布施や供物も絶えることがなく、その繁栄ぶりは賑やかな門前町を出現させるほどであった。
寺がいつ頃栄えはじめたか定かでないが、その評判の内には禅智内供の噂も多く聞こえてきた。
彼が世間から注目されたのは、学識や徳のためというよりは、その類いまれな鼻のせいであった。
禅智は捨て子で両親を知らなかった。門前のめし屋の内儀に拾われて育ったのだ。内儀は寡婦で子がなかったから、生後間もない赤子の面倒は苦労だが喜びでもあった。禅智は養母の愛に応えて素直に成長した。
鼻の長さが気になりだしたのは、彼が十歳になった頃からで、舌の先で舐められるほど先端が垂れてきたのである。それからは日を追うごとに伸び、一年後には自分の鼻が齧れるまでになっていた。内儀は禅智が鼻のせいで仲間の少年たちから苛められ、大人の中には珍しいと触りたがる者もあると知って、めし屋を継がせるのを諦め、寺に預ける決心をした。僧侶になれば馬鹿にされることもあるまいと考えたのだ。
「ちょっと変わったくらいが得をするものさ。度を越すと怖がられ、憎まれるが、お前はきっと好かれるよ」と養母は言った。
寺でも禅智への苛めは続いたが、修行に励めば気にならなくなる、という養母の教えを胸に耐えた。やがて彼の素直な性格が周囲を変え、鼻はおかしみを楽しむ軽いからかいとなり、ついには彼の異名となった。
禅智が修行一筋に二十年余を過ごした時、既に鼻の成長は止まっていたが、長さ五六寸、垂れた様子は魚卵に似て、先端は顎の先を越していた。色は薄い赤紫であるが、先端は夏蜜柑の皮のように、ぶつぶつと毛穴が広がっていた。
老師はなぜか禅智を可愛がり、外出にしばしば供をさせたので、晴れがましい儀式や仏事に随行するうち、彼は人々が自分の噂をすることに気づいた。
禅智は自分が平凡な人間で、人と違うのは鼻が長いだけだと承知していた。そして修行のお陰でもあろう、他人の視線も噂も気にならぬ心境を得ていた。だから鼻によって彼を世間に知らしめた老師の企みに気づいた時も微笑しただけであった。
とはいえ彼が鼻に悩まなかったわけではなく、髭剃りや飲食時の困難はずっと続いていた。
かなり長い間やっていたのは、鼻の先端を縛った紐を片方の耳に掛ける方法だが、世話係の小僧がついてからは、気味が悪いと言われて止めた。それで幅一寸ほどの細長い板で支えさせて食べることにしたが、小僧がくしゃみでもすると板が外れ、椀の中に鼻先が落ちて熱い粥が顔に掛かることになる。
「この馬鹿者、気をつけよ。もし高貴なお方の鼻ならただでは済まぬぞ」
生来温厚な禅智だが、そういう時は冗談めかしてでも叱らないと、先々の示しが付かぬと思う。
だが言われた小僧は、
「あのような鼻が、まさか他にもあると思っているとは、いやはや・・・」と小賢しくも陰で嗤うのである。
やがてそれも逸話として世間に知られ、参詣のついでに禅智と遭遇するのを楽しみにする輩や、
「失礼する前に、禅智どのにご挨拶申したいがお取次ぎ願えませんか?」などと用事のついでに彼に会いたがる役人などもあった。
禅智は生活上の困難は大いに感じていたが、人々が自分の鼻を珍しい見物として、時には嘲笑しつつ眺めるのを、それほど迷惑には思わなかった。気にしても仕方がないし、世間の注目は寺にとって悪いことではないと思っていたのだ。
やがて禅智は寺での序列が中の上に昇進した。幹部への望みを持って、日々の勤行や講説を指導する立場となったのだ。
禅智は忙しく日々を送るうち、妙に鼻がむず痒いことに気づいた。どうやら先端に広がる毛穴の奥に、その元があるらしい。彼は初め爪で掻いて我慢していたが、それも追いつかなくなった。日に日に痒みが増し、軟膏を塗り、水薬に鼻を浸すなどしたが駄目だった。
痒みとの苦闘が七日目になった夜、禅智は奇妙な夢を見た。その夢に現れたのは天狗であった。
「己はお前の父親だが、お前が生まれたとき、この子はとても天狗にはなれんと思った。それでこの寺の門前に捨てたのだ。だがお前は立派な坊主になった。その鼻が痒いのは、毛穴の中にいる虫が働いているからだ。だらしないその鼻を、ぴんと伸びた真っ赤な天狗の鼻にするためだ。お前が天狗だと知ったら皆驚くだろうな。だが天狗になど成りたくないというのなら、鼻を茹でて虫を殺せばそれで良い。分かったか?言いたいのはそれだけだ。さらばじゃ」
禅智は目覚めてしばし寝床に座っていた。あまりに奇天烈な夢に、頭がぼーっとしていたのだ。だが鼻の痒さがすぐに彼を目覚めさせた。
禅智は書物に当たり、知り合いの医師からも得た痒みの解消法を片っ端から試してみたが、まるで効き目はなかった。二三日すると、やりすぎからか痒みに加えて微熱まで出てきた。
彼は鼻をなるべく傷つけぬよう、慎重に爪で搔きながら思案にくれた。そしてあの変てこな夢を思い出した。
仏教では、天狗は高慢や堕落の象徴であり、そうでなければ妖怪だったが、山岳信仰では山の神として敬まわれてもいた。
禅智は夢をはっきりと思い出した。そして自分の鼻の悩みが、無意識の内に天狗を夢に登場させたのだと解釈した。
だが鼻を茹でるというのは、荒療治だが痒みが止まりそうな気もした。夢を信じるわけではないが、放っておけば天狗の鼻になるというのだから、やって困ることはないのだ。それに鼻が微妙に硬くなってきたような気もしていた。
禅智は熱湯の入った提子に、穴をあけた薄板で蓋をして、魚卵のような鼻を湯に浸した。掻き傷のついた肌に湯が沁み、彼は思わず叫びそうになったが堪えた。熱が針を刺すように毛穴の奥へ侵入し、その痛みには禅智も低く呻くのを我慢できなかった。彼は経の一節を暗唱しながらじっと耐えた。そして湯が冷め始めると、風呂から出るようにそっと鼻を引き上げた。
鼻は火傷で赤く腫れ激しく痛んだ。すぐに用意の冷水に浸して粗熱を取り、小僧が膏薬を塗って布を巻いてくれた。
「からすみに出来そうですね、上人」と小僧に言われたが、とても怒る余裕はなかった。
禅智は痒みからは解放されたが、火傷には苦しめられた。小僧が熱心に治療にあたり、鼻を大事に扱ったので、禅智は痛みに耐えながら感謝を忘れなかった。
二日後、小僧が鼻から布を外すと、先端の毛穴から覗いているものがあった。
「上人、何やら白いのがぶつぶつ見えますが」
言われて禅智が鏡で確かめると、胡麻を砕いた位な小さな粒が、びっしりと毛穴ごとに白く輝いている。
それを毛抜きで丁寧に抜かせたところ、上手く出せたものだけでも百八ほどあった。禅智はそれを眺めながら、天狗が言ったことを思い出して苦笑した。だがよく見ると虫に思えなくもなかった。
「お前はこれを何だと思うかな?」
禅智は小僧に夢のことは言わずにそう訊いてみたが、首をひねるばかりだった。
禅智の鼻は少し火傷の痕は残ったが、痒くなることもなく、赤紫色だったのが随分と薄くなった。硬くなりかけたのも気のせいだったらしく、小僧のくしゃみで粥に鼻を落とすのも以前と同じだった。
それからは特に変わったこともなく、鼻は顎の辺りで揺れ続けていた。
禅智が内供奉に推挙されたとき、すでに三十年を超す修行を経ていたが、まだ五十歳になったばかりだった。彼は「鼻の上人」という異名が物を言ったのだと思った。そして亡き養母の決断に感謝した。
彼が「内供」にまで出世できたのは、天狗にならなかったからかも知れない。
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