これも今は昔、京に一人の若い女があった。早くに両親を亡くし家もなく、頼るべき身内もない境遇だったが、幸い貴人に仕えることができ、その邸宅に住むことを許されたのである。とはいえ出かける先もない孤独な生活で、その寂しさから言い寄る男の優しさが身に沁みた。恋に身をやつすのが、この時代の常識の一つだったとしても、女の立場が弱すぎたのは否めない。

「こぬ人をまつほの浦の・・」と歌にあるように、男が訪ねてくるのを待つのが女の定めなのだ。だが彼女が不運だったのは、付き合った中に誠実な男が一人もなかったことである。

 女は子供が出来たと知った時、残念ながら相手が誰かを特定できなかった。言い交した男もおらず、顔を思い浮かべてみても父親になってくれそうな者はなかった。

全てが自己責任の世である。出産は穢れであったから、主家でという訳にはいかず、事情を話すことも憚られた。どこか他所で産み捨てにするしかあるまいと覚悟を決めたのは、女の立場からすればやむを得なかったかもしれない。

 女には十四になる使用人(女の童)があった。この少女はとても賢く、事情を知るといざという時にすべきことをすぐに納得した。そうして二人は月満ちるのを待ったのである。

 女は半年を沈みがちに暮らし、いよいよ陣痛を感じた明け方、多少の食べ物と衣類などを少女に持たせて家を出た。行くあてはなく、どこか山中の樹の下ででも産もうかと、二人は東南山科の方向へ向かった。

 深い森の中に着いた時、初夏の朝はすっかり明けて鳥の声がさかんに響いた。その爽やかな空気を吸いながら、女は重い体と痛みで絶望的な気分だった。

しばらく草の上で休んでいると、辺りを調べに行った少女が戻って朗報をもたらした。

「この先に、古い山荘がございます。おそらく人は住んでいないかと・・・」

 山道を辿ると、小川を越えて建物があった。一部が破れて庭の草も丈高く、明らかに無人の態である。

『ああ助かった。ここで産んで、私一人帰ろう』と女は考えた。

 少女の手を借りながら、女は小川を渡って離れの上に這い上がった。床の上には埃が積もっていたが、持ってきた茣蓙を敷けば良かった。

二人が一息ついていると、母屋の方から人の来る音がする。住人はいないものと思っていたので、女は困ったことになりそうな不安を感じた。

遣戸を開けて入って来たのは、見事な白髪の痩せた媼であった。

「どなたがこんな山奥の破れ屋にお越しなされた?」

 そう言って媼はいかにも優しそうに微笑んだ。

 女はそれを聞くと一度に緊張が解け、涙交じりに自分の苦しい事情を話したのである。

「それは真に不便なことです。どうぞ遠慮なくここでお産みなされ。私は老いの身で、ここは山の中ですから、穢れも物忌もとうに忘れてしまいました」

 媼はどこまでも親切で、どこかから畳まで持ち出して敷いてくれた。

 女はこれも御仏の助けかと安堵して、そのせいか安らかに男子を産んだ。媼は少女に湯を沸かさせなどして、自ら嬉々として赤子に産湯を使わせたのである。女は媼から渡された我が子を抱くと、可愛さに捨てる気持ちも消えてしまった。

 媼は女の髪を撫でながら、

「ほんに良かったのう。ここで七日ほどゆっくり休んで、それからお帰りなされ」と言った。

 女は若いせいか、二日ほどで元気を回復したが、乳を与えるなどして赤子と臥せっていた。少女は両親の肩を揉む習いから、媼にしてやって喜ばれ、昼寝前には揉んでやることになった。

 穏やかに過ぎて行く夏の午後、女は赤子の脇で昼寝をしていた。するとこんな言葉が聞こえてきた。

「美味しそうだ、一口に食べてしまいたいほどに・・・・」

 それは昼寝から覚めた媼が赤子を見ながら呟いた言葉であった。

 女は思わずどきりとしたが、眠ったふりを続けた。後で顔を合わせてみると、いつもの穏やかな媼だったが、どことなく気味悪くも見えてくる。そして『もしもあの人が鬼なら、自分たちは皆喰われてしまうだろう』という考えが浮かんだ。

 女がそれを伝えると、少女はさすがに驚いたが、不思議なことだらけなのは感じていたから、有り得ることだと同意した。二人は隙を見て逃げ出すことに決め、上辺は落ち着いた様子を続けていた。

 翌日の午後である。媼が昼寝するというので、少女は特に念入りに按摩をしてやった。

「ああ良い気持ち。そなたはほんに上手に揉んでくれるのう」

 媼はそう言って間もなく眠ってしまった。二人は目を見かわすと、少女に赤子を背負わせ、こっそりと屋敷を出た。それから小川を越え山道を必死に下山して、何とか麓の村にたどり着くことが出来た。そこで二人は泣き笑いしながら抱き合い、お互いの無事を喜んだのである。

 主家では女がいなくなって、それから赤子と戻ったのでひどく驚いたが、目出度いことだと許してくれた。

落ち着いてみると、女は我が子の可愛さをしみじみと感じた。そして自分が一度は捨てようとしたのを思い出した。あの山荘がもし無人なら、産んだ子をそこへ置き去りにしたのではないか?そうしなかったのは、あの媼がいたからだった。一体あの人は本当に鬼だったのか、或いは仏さまの化身だったのか?

もし鬼だったにしても、私もあの時同じようなものに成りかけていたのではないのか?女はそう考えて思わず身震いしたのである。

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