運命の女
あれは己が三十歳、尾張守を退いて隠居した父と、宮仕えの兄との三人で暮らしていた頃の事だ。母はとうに亡くしていた。兄は忍んで行く女は有ったが未婚で、己は無職の居候といった体で無論独り者だった。
ある日の昼下がり、己はそぞろ歩きをしていて、ふと見知らぬ一角にいるのに気づいた。大きな屋敷はなく、落ち着いた邸宅が並んだ静かな通りで、家のない土地には雑木の中につぼみの膨らんだ山桜が見えた。
「もしもし、誠にぶしつけですが、お尋ねしたきことが有ります。お入りくだされ」
まだ新しい桧垣の廻った一軒の板戸の中からこんな声がした。その忍びやかな女の声に己はどきりとしたが、元来物好きの性格であったから歩を止めた。
「えっ、」と言って戸の中を覗いたが姿は見えない。すると、
「押せば開きますゆえ、どうぞ」とまた声がした。
言われるままに入ってみると、さっぱりした気持ちの良い平屋で、己は手招きのままに上がり込んだ。女は簾の中の薄暗がりに微笑んで、三十には届かぬ年頃に思われたが、謎めいていて真は分からない。どういう素性の家なのか、女の他には人の気配がなかった。
「ところで、訊きたいこととは何です?」と己は言いながら女の品定めをした。白い顔の中の瞳は漆黒の深い淵のようだと思った。
「それはゆっくりと申し上げましょう」
女はそう言って微笑み、つと立ち上がって己の脇へ来ると、あろうことか首に抱きついたのである。そうして激しく口吸いをした。
こうなれば男として拒むことはできまい。己と女は衣を脱ぐと黙って睦み合った。己は女を刺し貫いたが、むしろ自分の方がそうされたような気がした。恥ずかしながら己は女子の何を知っていたのか、と訝しむほどに快感を得た。これは己の運命の女だと直感した。欲望が果てることもなく湧いてくるのだ。
己は誰かが表の戸を叩く音で夜になっているのを知った。入ってきたのは、宮仕えとも見えぬ得体のしれない男二人と、下女を連れた女房風の女だった。
彼らは持参した食材を調理し、己と女のために膳を整え、食事が終わると下女に片づけをさせたが、その間ほとんど誰も喋らなかった。この家の主らしき女はといえば、奉仕されるのを当然としているように無言であった。それでも四人が引き上げる時には小声でのやり取りがあったが、己には女と彼らの関係がどのようなものか分かる筈もなかった。
二人だけに戻ると、己は色々と尋ねたいことが脳裏に浮かんだが、そうすると全てが水の泡になるような気がして止めた。夢なら覚めるなと思った。
女は自分を「霞」と名乗り、何も訊かないでしばらく一緒に暮らして欲しいと言った。己は役なしの居候であり、そうすることに全く支障がなかった。
己と霞とは家に籠ったまま情の赴くまま暮らした。その間も食事の奉仕にやって来る者どもがあったが、その顔ぶれはなぜか同じでなかった。
五日ほどした頃、もし暇乞いしたい者があるなら行ってきてくれ、但し事情は明かさないでと霞が言った。
己はそれほど多くの親しい者を持たなかったが、父親と二三の友人に会うことにした。
霞の用意した衣を着て、馬と従者まで引き連れた己を見て、父は目を回しそうだった。友人たちも驚きを隠さなかったが、その訳をこそ知りたいと顔に書いてあった。
だが己には分からないことばかりだった。全てが霞の指示で動いているのか、或いは何者かが背後にいるのか。その時の己には、それは考えてもしかたがないことに思われた。
それからも己たちは終日家の中で暮らしていた。山桜が咲いたらしく、蔀の下から白い花びらが舞い込んできた。睦言以外は大した会話もなく、己は霞が打ち明ける時まで待つつもりになっていた。
さらに十日ほど経った昼下がりの事だ。寄り添って簾越しに庭を眺めていると、霞が黒曜石のような瞳をじっと己に据え、
「ふとしたことで知り合いましたが、これは私たちの定めだとは思われませぬか?」と訊いた。
するとその時己はなぜか身震いした。
「そう思うとも。己はもうお前から離れられない。一緒になら死んでも良いとさえ・・・・」
それを聞くと霞はゆっくりと頷くと微笑んだ。
「では私の鞭を受けて、その証を見せてくれますか?」
己はすぐに承諾した。それを体験すればふたりが不離の間柄になれると思ったのだ。
その夜が更けてから、己たちは最奥の間へ入った。霞は烏帽子に水干袴という男装で、諸肌脱いだ己を俯せに丸太に縛り付けた。それからきっちり八十度、己の裸の背中を鞭打った。
それは何という痛みであったろう。初めはうめき声を堪えることができなかったが、次第にそれを考えることさえ不可能になった。終わったとき、己は背中の焼けるような痛みに、失神しかけた意識を何とか保っていた。
霞は己を丸太から解放して柔らかい布団に横たえ、血の滲み出た蚯蚓腫れへ濡れた薬布を貼り付けた。どのくらい眠っていただろうか、気がつくと霞が枕元にいて、
「良く堪えてくれました」と優しく声を掛けた。
己は苦しい息の下から、
「何のこれしき」と言ったが、本当は死ぬかというほどの苦痛を感じていたのだ。
霞は己に薄めた酢らしきものを飲ませた。薬種を酢に溶かしたものらしかった。
それから己は熱を出し、意識と無意識の間をさまよった。夢かと思うと、霞の冷たい肌が己の背中に密着しているのに気づいたりした。おかしなことだが、霞の介抱は罪滅ぼしからというのではなく、本当にそうしたいと望んでやっていると思われた。その所作の全てから、己の心に沁みてくるものがあった。
己は負傷したことで、霞の愛を全身に受ける喜びを知った。食事の世話は変わらず外から来る者がやってくれたが、己への手当を他の者に任せることはなかった。大切に思う者への労りが切々と感じられ、己は満ち足りた気分で臥せっていた。
六日ほどすると、ほとんど痛みは去り、瘡蓋が乾いてきた。だがまだ肉体の回復は、欲望が湧くまでには至っていなかった。夜、己たちは裸で抱き合って、お互いを愛しい存在として感じていた。すると霞が己の背に触りながら、
「また同じことをせねばなりませぬが、もし堪えられぬとお思いなら、私たちの間を終わらせることに・・・・」と言い出した。
さすがに己も返事に詰まった。なぜそこまでする必要があるのか。己にとってこのような境遇は、三十年の人生で夢想だにできぬものだった。未来においてもそうに違いない。とすればいっそここで死んでもかまわないのではないか?
「やってみて貰おうか。・・・・自信はないが」
夜更けて、己は同じように腕を縛られ鞭を受けた。激しい痛みと、治りかけた傷から血が流れるのが、朦朧たる意識の中にも感じられた。失神すれば楽になるかと考えながら、痛みの底に全身を貫く快感を覚えて己は愕然とした。それは何という強烈な感覚だろう。打たれるたび神経は深く興奮し、己は肉体ごと異界へ吹っ飛ぶように感じたが、半分は意識を失っていたのだろう。やはり八十度鞭は打たれたが、己は恍惚の内に失禁し、最後は異臭の中に失神した。
もはや己には恥もなく、死も恐れず、ただ霞の思うままに生きていく幸せだけが残った気がしていた。霞は前にも増し心を込めて治療に当たってくれた。時には涙を浮かべて労り、柔らかい胸を背に押し当ててじっとしていることもあった。
それからまた六日ほどして三回目の鞭を受けたが、己は苦痛に呻きながらも、快感に恍惚としている自分を意識せずにはいられなかった。
その傷も手厚い看護ですっかり癒え、青葉の鬱陶しい季節になった。己は霞との交接に費やす夜が戻ったことの喜びを感じていた。鞭打ちの試練も終わりを告げられてみると、己は何だか物足りなかった。あの苦痛の中の快感は何だったのか、もう一度体験したいような気がしていたのだ。
己は変わらず家の中に籠っていたが、そんなある日ついに霞の指示が与えられた。
用意の黒い水干袴に脚絆を穿き、弓と矢筒を携えてこういう門の所へ行き、そこで弓弦を鳴らすと同じようにする者がある。次に口笛を吹いて相手もそうしたら、その者に近づいて行き、「お前は誰だ?」と尋ねるから、「侍り」とだけ答えて後はその者の言うとおりにせよ、というのであった。
己は言われたようにその門の下で男と合図を交わし、その指揮下に入ったが、同じように武装した男たちが二十名、他に下衆らしき手下が三十名近くもいたのには驚かされた。予想はしていたが、この者たちは盗賊の一味であった。
頭目らしき男を中心に打ち合わせがなされ、己たち一同は夕暮れ前に洛中へと歩み入った。目指す家は大きな門構えの邸宅で、辺りにも同様な住宅が並ぶ。事件を知った近くの家から従者の侍どもが出てこぬよう、三人が一組となってそうした門口を固めるのだが、己はその一人となった。
武装した者と手下らが目的の家に押し入ると、すぐに夕闇の中に争う音が聞こえ、己は矢をつがえた弓を強く握った。己たちの配された家からも声が上がり、侍どもが四五人庭へ出てきた。矢は門の中へ狙いをつけていたが、それが分かると安易には攻撃してこないものだが、一人の若い侍が刀を閃かせて突進してきた。己が躊躇する間に、矢が侍の胸にずぶりと突き刺さり、一瞬動きを静止したあと俯せに倒れていった。それを見ると侍どもは怯んだらしく、こちらを睨んだまま動きを止めてしまった。所詮は隣家の災難に過ぎないのだ。
略奪は四半時も掛からずに終了し、己たちは夕闇の中を素早く逃走した。人数の多さが相手の抵抗を断念させ、仕事を短時間で済ますことを可能にしていた。
一味が帰り着いたのは、山裾にある板葺きの大きな家で、その造りは実用一方な簡素なものだったが、仮の集合場所として急造されたものだと後に知った。
薄暗い明かりの中、頭と目される男が各組頭を呼んで、分け前を与えたが、その名は符丁のようで仲間内でも本当の名は使わない決まりらしかった。手下たちにも何らかの品が行き渡り、頭は最後に黙って小さな袋を己に差し出した。砂金などが入っているらしかったが、
「己は今日初めて参加した見習いなのだ。もし役に立ったというなら、次からは分け前を頂こう」と言って断った。
頭はにやりと笑って、
「面白い奴だ。気に入ったぞ、ではまた会おう」と言って立ち上がった。
己が分け前を断ったのは霞の指示だが、そうでなくとも満ち足りた暮らしに、もう欲しいものはなかった。
己は弓と矢筒を携えて夜の中を帰途についた。その時やっと霞が己の背を鞭打った理由が分かった。もし検非違使が己を盗賊として捕らえれば、鞭打ちで仲間の存在を吐かせようとする。その苦痛に己が最後まで耐えられるかを試したのだ。検非違使の下働きの放免などという連中は、苦痛から仲間を売って戻れなくなったのが多いということだ。己は霞に認められた男だと思うと嬉しかった。
霞は帰った己をねぎらい、湯に入るよう促した。久しぶりの外出と活動で疲れた体が生き返るようだった。食事は既に用意されており、女房らしき女が己と霞の給仕をした。
その夜も二人は同衾した。事情が分かりかけてきたことが己をより興奮させていたが、欲望のままにくなぐことに没頭して、何も言わないほうが良いと思った。
それからは二三か月に一度の勤めがあり、己は時には刀を使って押し入り、或いは門前を弓で固める役をした。また春が着て桜の花が咲いた。己はともかく一人前の盗賊になり、霞は相変わらず秘密めいてはいたが、妻らしい振る舞いを見せるようになった。
己は一回の勤めが済むごとに、頼んで霞の鞭を受けた。その数は二十ほどで、万一の捕縛に備え身に覚えさせておくというのが口実であった。そのたび己は呻きながら、痺れるような快感に身もだえした。苦痛と喜びとが全身を駆け巡り、熱いものが股間を濡らすのだ。
そのようにしてまた半年ほどが過ぎた。家の周りの紅葉を簾越しに眺めていた午後、己は霞が目に涙を溜めているのに気付いた。
「なぜそのように悲しげにしているのだ?」と己は訊いた。
「このような楽しい時もいつか終わると思うと泣きたくなるのです」
霞はそう言い、己の首に腕を回すと頬を擦り寄せて泣いた。
「己はいつまでもお前の側にいるつもりだ。悲しむことなど無いではないか」
それは己の疑いない本心だったが、
「はかなき世の中なれば、何があるか分からぬものなのに・・」
と言われては何と返せばいいのか。
「それはそうだが・・、とにかく要心第一にすることとしよう。お前に心配を掛けぬように」
紅葉が大方散ってしまった頃、三日ほど出張ってする勤めの指令があった。京を離れた遠方での仕事は滅多になく、有望な情報を得た場合に限られていたので、己は期待と緊張を身に負って出かけていった。
勤めは無事に済み、予定通りの大成果を上げた。引き上げは分散して行うことになったが、京までは大分道のりがあった。それで己は従者の下衆と二人して、ある町の旅籠に泊まることにした。
己は宮仕えの侍といった顔で宿に入ったが、馬を預けに行った従者の六がなかなか帰って来ない。しばらく待って変だと思った己が捜しに行ったときには、馬二頭と六はどこかへ消え去っていた。裏切るような男には見えなかっただけに、何か訳があるに違いないと思った己は、必死に近くを駆け回って馬を手に入れると京へ向かった。
駆け通しに駆け、帰りついたのは昼近くであった。そこで己は信じられぬ光景を見た。今まで暮らしていたあの家が無くなっていたのだ。慌てて運び去ったのであろう、今まで日に当たらなかった白い土の上に、木切れがわずかに残されているばかりで、女がその中から私を呼び止めた板戸も桧垣も跡形がなかった。
己はその場にへたり込んで、陶然たる無上の暮らしが一場の夢と化した現実を呆然と眺めた。そして立ち上がる気力も失せて辺りへ目をさ迷わせていると、散り残った紅葉を揺らした風が敷地の隅に何か白い物を動かすのに気付いた。
それは霞が鞭打つとき、己を丸太に縛りつけたあの純白の麻紐だった。それが一尺ばかり土の中から出ていたのだ。掘り起こしてみると、紐の先には砂金を入れた鹿革の袋が結わえられてあった。
己はいよいよ霞に捨てられたことを信じないわけにはいかなかった。だが一生を懸けた積りでいた己は、未練を抱いて霞の行方を探し回った。勤めのときに落ち合った所、獲物を分配した家などは無論のこと、噂に聞いた山里や検非違使の下働きである放免などにも手を伸ばしてみたが無駄だった。
久しぶりに家に帰ってみると、父はすでに他界し、兄は主の供として西国へ下ったとて、留守番の使用人が三人ばかりあった。置き土産の砂金で十分暮らせたが、いつか馴染んだ盗みの癖が出て、己は二度検非違使の鞭を受けた。だがそれは霞のもののように、己を恍惚とさせることはなかった。
その後も己はまともな職には就かず、五十を越える頃には寺の雑用の傍ら写経などする生活となった。
思えば霞との身も心も溶かすような時間の何と短かったことか。その後の味気なく永い年月の中で、幾度思い出しては激しい後悔の念に襲われたことだろう。あの一瞬の光芒のような経験が己の人生を変えてしまったのは確かだった。
ある年の暮れのことである。己は境内に散った欅の落葉を掃き集めていた。午後の弱い日差しを浴び、ぼんやりと竹ぼうきを動かしていた己の背中に、「ご苦労さまでござります」と声が掛けられた。
振り返ると揉み烏帽子の下衆らしい男が笑っている。正月の仏事の準備に出入りする者らしい。だが顔を合わせてみると、どこか見覚えのするところがあり、相手もそう思ったのか顔色が変わった。
「お前はあの時の・・・・六か?」
己は思わず声を上ずらせた。男は己が霞を失ったあの最後の勤めの従者だった。瓜のような立派な鼻に似合わぬ目の小さいのが印象的である。
相手も思い出したらしく、
「お前さまは、信さまで・・・・」と目を精一杯開けて己を見た。
己は気色ばんで相手を睨んだが、ほうきを握っただけの寺男に過ぎない。それに三十年近く経っての再会である。白髪交じりの髪と艶のなくなった顔を、お互いが確認し合ってみれば今さら遺恨もなかった。
己は男を庫裏に上げて話を聞いた。
六というのは仮の名で、本当は冨次という。盗賊の一員となったのは放免の誘いからである。十年ほど前に黙って仲間を離れ、故郷の近江へ帰って漁師になった。追っ手を恐れて暮らしていたが、幸い何の追及もない。自分のような下っ端はどうでも良いらしい。今は年も取ったので漁師を止め、鮎や鮒の商売をしているという。
己は男の身の上よりも、あの女「霞」のことを知りたかった。
「己の前から消えた後、霞がどうしていたか教えてくれ」と己は真顔で尋ねた。
「本当の名は知りませんが、主だった連中は「姫」と呼んでいたようで、手前もあの後は一度も会っておりません」
「そうか・・・・。どういう女だったのか己にはまるで分らん。お前ならもう少し詳しいことを聞いているのではないか?それを話してくれ」
仲間の下衆などから聞いた噂だと断って、男は次のように語った。
霞は己の前にも後にも、幾人かの男と同棲していたらしく、その者たちは陰で「姫の婿殿」と呼ばれていたという。一族の跡取りが欲しかったのだと言う者もいたが、それも単なる憶測に過ぎない。そんな中で皆が信じていたのは、「婿殿の代替わり」の際には必ず前任者が死ぬのだと、これは目撃者からの話であるらしい。そのたった一度の例外が己だというのであった。
男が帰った後、己は呆然と冷えてきた床の上に座っていた。境内は日が陰って、掃き集められた落葉が風に散らされるのが別世界のように眺められた。
霞はなぜ己を殺さなかったのか。あの恍惚の日々を失うくらいなら死ぬ方がましだった。己はあの時自害すべきだったというのか?
*これはある古寺の庫裏に残された、厖大な写経の中に埋もれていた「手記」らしきもののあらましである。
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