君にさよなら⑺
無我夢中で足を走らせた。教室へ向かう途中の階段で転倒しても、痛みなど感じないくらい必死だった。
早く、もっと早く。なにげなく歩いていた時よりも、長く遠く感じる。
『……梵くん、怖い。……梵くん』
胸の奥に響く声が、弱く掠れていく。
クラスの入り口付近で話している生徒、教室内の人へ視線を向ける。いない。
そうだ、校庭の木陰だ。見慣れた顔の山から目を離したとき、背後から肩を叩かれた。
よっと晴れ晴れした表情をする苗木が立っていた。
「直江、そんな慌ててどうした」
「綺原さんは⁈」
勢いよく迫るように、僕より少し背の高い苗木を見上げる。
「なんだよ、急にデッカい声出して。びっくりするだろ」
「さっきまで一緒だったろ⁈ 綺原さん、今どこにいるの⁈」
すぐに会って、伝えなければならないことがある。
大きく揺らした苗木の体が、ぴたりと止まった。
「…………綺原? 誰だ、それ」
ピアノを屋上から落とされたような衝撃がのしかかる。
「悪い冗談よせよ。告白するって言ってたじゃないか。苗木が言ったから、僕は……」
「そうそう、誰か探してた気するんだけど、途中で分かんなくなって。玄関で一組の
「もう、いいよ」
それ以上聞いていられなくて、生徒がたむろする廊下を足早に駆け抜けて、校舎の外へ出た。
忘れたフリをするなんて最低なヤツだ。そう腹を立てる一方で、苗木は突拍子もないことを言うけど、あんな冗談を言う奴じゃないと分かっている。だから、余計に不安が募った。
あの声の主は、間違いなく綺原さんだ。ずっと前にも、こうして話しかけられたことがあった気がする。
どうして、今まで思い出すことができなかったのだろう。
校庭で雑談する生徒の前を通り過ぎて、再び彼らの前へ足を向ける。たむろしている中に、サッカー部の元部長がいたからだ。
以前、綺原さんに告白しているのを見たと、苗木が言っていたことを思い出した。話したことは一度もないけど、目立つ人だから顔は知っている。
すみませんと声を掛けると、不思議そうにしながらも彼は耳を傾けてくれた。
「綺原さん、知ってるよね? 告白してたって、噂で聞いたんだけど」
「えっと……、あっ、元生徒会長? いきなり何?」
「この際、したかしてないかはどうでもいい。綺原さんのこと、知ってるか聞きたいだけなんだ」
「キハラって、野球部の鬼原のこと? アイツ女だったのか?」
隣りにいた男子生徒が、冷やかすように口を挟む。
「違う、そうじゃなくて。綺原って苗字の女子が……」
「あのさ、いきなり何聞かれてるのか全然理解出来ないんだけど。そんなに言うなら、その子の下の名前教えて」
下の……名前。何かを言おうとする唇は、何度開いても声は出ない。
もう僕は、彼女の名前を知っている。でも、どうしてか思い出せない。
サッカー部の彼には申し訳ないことをした。勘違いだったと頭を下げて、その場を去った。
不思議な目では見られたけど、何もなかったように笑って許してくれた。爽やかで人気がある人は、中身もよく出来ている。
力ない足は、あの木までやって来ていた。見上げた空は闇のように暗くて、まるでブラックホールが広がっているみたいだ。
空の色は、剥がれてもうほぼない。
教室の中から、生徒たちが顔を覗かせている。興奮気味に指を差している男子、泣いている女子も見えた。
これは夢なのか? それとも、最後は校舎ごと、あの渦に巻き込まれて死んでしまうのだろうか。
「……梵くん」
からっぽになった胸の中に、一枚の花びらが落ちてきた。
木の幹に隠れていたのか、目の前に彼女が立っている。
「もしかして、探してくれてたの?」
答えるより早く、彼女を抱きしめていた。あふれ出る涙をこらえながら、よかったとだけ繰り返して。
「もう会えないかと思った」
さらに強く力を込めると、可憐な花の香りがした。部屋を訪れたときと同じ、彼女の匂いだ。
「思い出したんだ。君と初めて会ったときのこと」
触れている彼女の体が、ノイズ音を出して乱れ始める。日南先生の時と同じだ。
表面張力で保っていた涙が、彼女の瞳からあふれ落ちる。その姿が、霞んで見えなくなって来た。
「梵くん、ありがとう。後悔しない今を、生きて」
とっさに掴んだ手は、三次元映像みたいにすり抜けて、消えた。
何かを思う間もなく、空から放たれた光に包まれて、僕は気を失った。
目が覚めたら、部屋のベッドで眠っていた。体に異変はなく、慌てて開けたカーテンの向こうには、黒とは無縁の青空が広がっていた。
あの衝撃的な日から、六日が経つ。地球が滅亡するかのような光景は、誰も覚えていないらしい。それどころか、そんなことはなかったように、みんな普通に生活している。
夢でも見ていたんじゃないかと、苗木に笑われた。
教室から見る窓の景色は、以前と変わらないのに、ぽっかりと空いた前の席が不自然さを際立てている。
元々、この場所には誰もいなかった。クラスメイトを始め、日南先生までがそう言うのだから、そうなのだろう。
それなのに、大切な何かが足りないと心が訴えているようで、苺のないショートケーキみたいに毎日が味気なく感じる。
窓枠に腰を下ろして、いつものように苗木がクリームパンを食べ始めた。校庭を眺める視線の先には、いつもーー。
「苗木って、よく外見てるよね。何見てるの?」
彼はよく、こんな目をする。心がぽっかりくり抜かれる前と同じ、優しくて
窓ガラスに身を乗り出してみるけど、大きな樹木の下には誰もいない。
「何もねぇよ。でも、なんか見ちまうんだよな。自然と惹きつけられるっていうか」
僕たちの中で、たしかに誰かが存在していた。大切にしなければならなかった人が、忘れたくない人がいたはずなんだ。
頭のどこかにある記憶を呼び起こそうとしても、遮断されて思い出せない。まるで、最初からそんなものはなかったかのように。
「それより、明日は何の日か覚えてるか?」
「何か、あったかな」
「九月十六日は、ガーラの発売日だろ! ほら、前話してた新しいゲーム機の……」
「そっか。明日って、九月……十六日か」
空になったパンの袋にある賞味期限の日付けを見つめて、クシャッと丸めた。
明日は僕の命日だ。十八日に葬儀があって、二日前に亡くなったのだと、ずっと前に誰かから聞かされたことがある。
夢の中での記憶なのか、現実にあったことなのか。それすら曖昧でぼんやりとしている。
自宅の前で足を止め、また深いため息がこぼれた。郵便ポストから手紙と茶封筒を取り出すと、誰もいない家の鍵を開ける。
リビングのテーブルに郵便物を置いて、違和感に気付く。茶封筒だけ宛名がない。裏を返しても、差出人は不明だ。
「なんだ、これ?」
思わず独り言を呟きながら、封のされていない封筒に手を入れる。
得体の知れない何かを前にして、胸が妙に
中身は茶色のレトロなノート。鍵のようなチャームが付いたベルトで閉じられていて、映画に出てくる魔法使いが持っている本に似ている。
どうして、こんな物がうちのポストに入っていたのか。宛名がないということは、誰かが直接ポストへ投函したことになる。考えてみても不気味な話だ。
家の外へ放り出してしまおうと頭では思うのに、手は止まらない。
鍵は飾りで、ベルトは簡単に開けることが出来た。
クリームがかった白い紙。最初のページは『夢日記』と題されていて、呼吸をすることさえ忘れるような緊張感で、次のページをめくる。
4月20日
日記を付けるなんて初めてだけど、彼が言うから仕方なく書いてみる。
本当は文字として残したくないのだけど、長い物語を見ていると割り切るしかないのかもしれない。
せっかくなので、この夢を見るきっかけとなった背景から書いていこうと思う。
始まりは、薄暗い空が妙に胸を締め付けた秋の昼下がりだった。
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