6. 名前のない物語
名前のない物語⑴
その日は朝から薄曇りの天気で、私は折り畳み傘を持って駅へ出向いた。
待ち合わせは、いつも最寄り駅だった。車で迎えに来てくれると言った彼に断りを入れたから。
テラコッタのワンピースと黒いレースアップブーツを身に
数分もしないうちに、彼が駅から出て来た。サラサラした黒髪に端正な薄顔の持ち主は、私を見つけて優しく微笑む。
でも、それは偽りの笑顔だと知っている。デートをしても手を繋いでも、二人の間には決して壊せない壁がある。
なぜなら、私たちは親の決めた婚約者だから。お互いに愛情の
綺原
実家は県内で名のある
三姉妹の末っ子に当たる私は、望まれて生まれてきた子どもじゃない。
直接そう言われたわけではないけれど、祖父母も両親も喉から手が出るほど、跡継ぎになる男の子を期待していたようだから。
三人目が女だと知った時、相当気を落としたらしいと周りの大人から聞かされた。
まだ小学生の子どもに、絶望的な話をするような
幼い頃から、姉の後ろを金魚の
着せてもらえる着物は、姉たちよりも品質の下がるもの。
礼儀作法も一通り習うのだけど、それなりに習得出来れば良いと
将来、この子はどこかへ嫁いでゆく子という意識があったからだろう。この家にとって、三女は〝要らない子〟なの。
だから必死にしがみ付こうと茶道、華道、それに加えて琴も習った。名のある老舗旅館の娘だと恥じぬように、手元に置いておきたいと思ってもらえるように。
けれど、どれだけ日本の和伝統を身に付けようが、彼らの心には響かなかった。
二十五歳になった今、祖父の知り合いを通して、旅館とは縁のない人と婚約させられたのだから。
今日は四度目のデートで、夕方から開演するクラッシックのコンサートを鑑賞することになっている。
はっきり言って気が乗らない。
毎回のことだけれど、それは彼も同じ気持ちだと思っている。
そうでなければ、一度も下の名前を呼ばないなんて事にはならないだろうし、何度もデートを重ねないで、今頃は結婚をしているはずだから。
私たちは、恋愛して婚約したわけではない。知人の紹介といっても、お見合いみたいなもの。
直感で無理だと思えば断れた話だけれど、他に三度も断っているからそうも出来ない。
これまでの紹介相手とは違って、〝年齢が離れすぎている〟とか〝話し方が生理的に受け付けない〟〝DNAが拒絶している〟という理由が思い浮かばなかったのが本音でもある。
コンサートまでに少し時間があるため、私たちは駅近くにある古民家カフェへ入った。大正時代から営む店舗を改装した内装は落ち着いた雰囲気で、畳みの部屋に
和と洋を取り入れたテイストを売りにしているデザート店で、抹茶のレアチーズケーキや
「……おいしい」
心の声が漏れると、向かい合って座っていた彼が皿を見たまま「そうですね」と、愛想笑いを浮かべた。
私のことなど、まるで興味がない。女として魅力がないと言われているようで時折寂しくなる。
人のことを言える立場ではないのだけど、この人からは嬉しさとか悲しみの感情を感じられない。
何かに執着することもなく、当たり障りのない会話をして今日も別れるのだろう。
私にとっても、それが一番楽ではあるけれど、この上なく退屈で無駄な時間なのでしょうね。
クラッシックのコンサート会場へ入って、互いに目を合わせることなく座席へ着いた。ペチャクチャと雑談をするような場ではないから、ごく自然な態度なのだろう。
それでも、冷め切った熟年夫婦のような空気が流れていることに、この先も耐えられる気がしない。
いつ話を切り出そうか、開演するまでそればかりを考えていた。
美しいピアノ演奏が終わり、肩を並べてクラッシックホールを出る。会場を出てしまったら、また次の約束をして別れるだけ。
だから今回こそ、何度も心の中で唱えていた文句を言葉にした。
「梵さん、私たち別れましょう」
意を決して口を開いたのに、隣に立つ彼には聞こえていない様子。ただ一点を見つめて動かないでいる。
「あの、梵さん? 聞いてるかしら? 私たち、気持ちもなく……」
まだ話している途中で、彼は私の横を通り過ぎていく。
本当に無神経で自由気ままな人。頭の中で思った時、目に飛び込んで来たのは、展示してあるピアノを前にして立ち尽くす彼の姿だった。
大人の薄汚い世界を知って色をなくしたような瞳は、子どもが欲しかったおもちゃを見つめているように輝いて見える。
「ピアノ、お好きなんですか?」
「ああ、高校生の頃まで弾いていたんだ。途中で辞めたけど、懐かしくて」
「今日プロが演奏していたものと同じモデルですって。展示品だけど、ご自由に触れて下さいと書いてあるわ。この場所は人通りも少ないし、弾いてみたらどうかしら?」
意外だった。私に合わせてクラッシックを聴きに来ただけだと思っていたのに、彼がこんな風に目の色を変えるなんて。
一組のカップルが掃けてから、私たちは一段上がったピアノの前へ立った。
琴の稽古を辞めてから、少しだけピアノを習ったことがある。認めてくれない親族への反発として弾いていたのだけど、子どもの悪あがき程度にしかならなかった。
結局、何をしようと無意味だったのだから。
一向に、彼はピアノに触れようとしない。
だから、私が先に
昔の記憶を
「それ……」
「
これは決して、安らぎの中にある夢を語ったものではない。真実が見えなくなってしまった作曲家が、至福を求めて
何も言わずに隣へ来て、彼はそっと左手をピアノに添わせる。アイスクリームの滑らかな舌触りのような音を出して、私の右手からの音と重なっていく。一人で弾いているかのように、リズムとテンポの呼吸が合っていた。
いつの間にか、周りには十数名の人集りが出来ていて。曲を弾き終えると同時に、拍手が巻き起こる。
逃げるようにその場を離れようとする彼に手を引かれて、私は軽く
胸が弾むような不思議な感覚。これを
外へ出ても繋がれたままの手のひらを、少しばかり意識してしまう。
手を繋いだとことくらいあるはずなのに、どうしてだろう。妙に胸が締め付けられて苦しくなる。
ああ、そうよね。
この人は私のことなんて、これっぽっちも好きじゃないから。肌だけが触れ合っている
オレンジ色に包まれた夕暮れの駅で、さよならをする。いつものように、次会う約束をするのだと思っていた。
さっきは別れを切り出そうとしたけれど、もう少し様子を見ても良いのかもしれない。そんな思想が頭を過ぎる。
でも、彼は私の後方を見つめて何も話さない。
「あの、これからどうする……」
「……日南先生?」
横を駆けて行った後ろ姿を、今でも鮮明に覚えている。
反対側から走って来る目深帽子の男。その手には鋭利な刃が見えた。
「ーー梵さん!」
追いかけようと思ったときには、女性を抱き庇ったまま、長い階段上から消えていた。
生きてきた中で、出したことのない悲鳴を上げた。階段の下側から同じような声が上がるのを聞いて、手足の震えが止まらなくなる。
空が泣いているのか、絹のような雨が降り出して、気付いたら私の頬をも濡らしていた。
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