君にさよなら⑹

 何事もなく数日が過ぎた。掲示板に貼られた体育祭までの日めくりカレンダーが、死へのカウントダウンに見える。

 弁当を食べながら、窓の外へ目をやった。視線の先には、今日も一人で木陰に腰を下ろす綺原さんがいる。

 一緒に食べようと僕らが誘っても、決して頷かない。彼女のこだわりなのかは知らないが、女心は未知数だ。


「そういえば、綺原って学校休んだことあったか?」


 綺原さんの席に座る苗木が、校庭を眺めながらつぶやく。

 飲むヨーグルトを片手に、何かを思い出す表情を浮かべている。


「はっきり覚えてないけど、一回か二回はあるんじゃないかな」


 風邪とか、と言いながら記憶を探る。欠席する印象はあまりないけど、急になんの話だろうと首を捻った。

 ハムスターのようにもぐもぐと口を動かしながら、苗木がまたぽつりと言う。


「学級写真にいなくてさ、アレって思ったことがあったんだよ。まあ、休んでたんだろうけど。どうだったっけなぁと思って」

「さすがに、その時はいた気がするけど」

「でも写ってなかったんだよ。あれから、写真失くしちまったからどうしようもねーんだけどさ」


 苗木の話は事実だった。

 家へ帰ってすぐ、写真の入ったファイルを確認した。遠い記憶には、どの場面にも落ち着いた表情をする綺原さんがいたのに、二年の学級写真、弓道の集合写真、体育祭、ゆめみ祭、全てに彼女の姿はなかった。


 一年の頃から、綺原さんの存在を知っていたはずだ。二年で同じクラスになった時、屋上で空を見ていた僕の前に現れて、声を掛けてくれたことがあった。


『みんなに愛想を振りまいて、疲れない?』

『それって、遠回しに僕が八方美人だって言ってる?』

『否定はしないわ』

『そこしないのか。なんでだろう。みんなから良く思われたいから……かな。なんでそんなこと聞くの? えっと、君の名前』

『綺原〰︎〰︎〰︎〰︎。なんでかって……』


 やっぱり、名前の部分だけ思い出せない。映像が曖昧あいまいになって、アルバムから写真が抜かれたように記憶が色褪いろあせていく。



 九月十六日まで、あと一週間。今日の夜から未明にかけて、この辺りを台風が直撃すると言われている。

 今にも雨が降り出しそうな天候。呼び出されて、僕は屋上へ向かった。

 うろこ雲の下で、髪をなびかせる日南先生がゆっくりとこちらを見る。


「すごい雲だね。これって、台風雲ってやつかな」

「……たぶん」


 落ち着かない胸を抑えながら、彼女の隣に立つ。

 無数の小さな白い塊が、絨毯のように敷き詰められている。

 あの日、夢で見た虹の雨の空と似ている気がした。


「この間はごめんね。私、どうかしてたと言うか」

「えっ、ああ……僕の方こそ、すみませんでした」


 なんのことだろうと考えながら、ワンテンポ遅れて反応する。車で送ってもらった日のことを言っているのだろう。


 塗装の剥がれかけた手すりに触れて、遠くを眺める。ざわざわと揺れる木の下に、誰かが入っていくのが見えた。

 朝より、風が強くなってきている。風の音で、日南先生の声が遠退いて感じた。

 彼女は、なんと返事をするのだろう。


「……直江くん、聞いてる?」

「あっ、すみません。なんでしたっけ」

「今違うこと考えてたでしょ」

「……えっ」

「先生には全部お見通しよ? 心ここに在らずって感じ。さっきから校庭を気にしてるけど、何かあったの?」


 再び視線を下げると、木の陰からさっきの男子生徒が出てきた。あの茶色の頭髪は、苗木だ。

 僕が屋上へ来る前、綺原さんに告白すると言い残して彼は教室を出た。

 上手く伝えられたのか、結果はどうだったのか。そればかりが頭を埋め尽くす。


「……心配で気が気じゃないって顔してる」

「そんなことっ……!」


 図星を突かれたように、僕の頬は一瞬にして熱を帯びる。

 ほらねと言いたげに、髪を押さえながら日南先生がクスッと笑った。


「隠さなくてもいいのに。誰かを好きになることは、別に恥ずかしいことでも悪いことでもないよ」


 言いながら、おもむろに僕の手を掴む。初めてここで、言葉を交わした時のように。

 そんなんじゃない。綺原さんのことは好きだけど、恋とか愛という言葉では表せない……もっと別のなにか。

 いつもそばにいてくれて、空気のような存在だけど、なくてはならない人。


「あの……先生、」

「あなたまで、先生を見捨てるの? 約束したじゃない。僕がいるって、言ってくれたじゃない」

「……なに、言ってるんですか?」


 抱きしめられて、身動きが取れなくなる。ほのかに大人の香りがした。

 でも、これは夢に違いない。心のどこかで、冷静な自分がいる。


「あれからずっと、あなただけが光だった。梵くんだけが、心の拠り所だったの。なのに、」


 餅のようにくっ付いている体を、ぐっと引き離す。


「ーー違う! そんなこと、日南先生は言わない。もうやめて下さい。僕の大事な思い出を汚すのは、やめてくれ」


 ひと通り叫んだあと、気付く。ツーッと頬を流れてゆく彼女の涙に。

 何も言わず瞼を伏せる姿に、胸がじんじんと痛む。

 こぼれ落ちる水滴があまりに鮮明で、ひとつの疑問が生まれた。

 ーーほんとに、夢なのか?


 カタカタとフェンスが音を立て出す。鳥たちが一斉に飛び立ち、木や空気も騒ついている。

 そのうちに強い風が吹き始めて、花びらや枝が空へ舞う。まるで吸い込まれていくようだ。台風が近付いて来ているのか。


「危ないので、とりあえず中へ」


 言いかけたとたん、ザザッ、ザザッと日南先生が二重にズレた。なんだ?


 昔の映像みたいに、背景はそのままで彼女だけが波打っている。何か唇を動かしているけど、風や変な雑音で聞こえない。

 地面を踏みしめる足が、少しずつ動いていく。葉っぱが舞う先は、渦を巻いている。その竜巻に吸い込まれそうだ。


「日南先生、大丈夫ですか?」


 つま先にぐっと力を入れて、体重をかけた。


『もしかしたら、あなたを助けるための物だったのかしら』


 頭の中で、誰かの声がした。どこかで、聞いたことのあるような。

 体を押していた突風が緩まり、音がなくなった。バグでも起きたかのように、日南先生は瞬きすらせず微動だにしない。どうなってるんだ?


『ーー梵くん、梵くん』


 今度は、頭の中に直接話しかけられている感覚がした。この声は……。


 ポツンと手の甲に、桜色の水滴が落ちた。藤色、空色と増えて虹のような雨が降り注ぐ。

 初めて夢を見たときの景色と同じだ。

 きらきらと輝く光を浴びながら、ふと思い出す。翼の生えた天使のことを。


 紫がかった空に稲妻が走る。気付くと日南先生がうずくまって、震えていた。


「早く逃げないと」


 彼女の腕を掴んだとき、どこかで雷が落ちた音がした。空がひび割れて、パラパラと剥がれていく。

 ーー似ている。夢の世界が崩壊したときと、同じ光景だ。

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