君にさよなら⑸

 八月二十一日、午後三時を回った時分。自分の部屋で、明るさの残る空の色を思い出す。元の世界線で、日南先生の火葬が終わった時間だ。

 自宅の電話、スマホにも連絡はない。悲劇の起こらない世界になったのだろう。あれ以降、おかしな夢も見ていない。


 右手でシャーペンを動かしながら、張り詰めていた神経を緩める。隣りの視線を気にしながら、僕はリスニングの回答を書き終えた。

 いけ好かないと言うように、金宮かなみや先生が鼻で笑う。


「上の空って感じだったけど、ちゃんと聞いてたんだ」

「一応」

「はい、また正解。なあねぇ、真面目に必要ある? この授業」


 金宮先生は、採点したノートを机にパサッと投げ置いた。


「両親の安心薬あんしんやくなんです。塾も家庭教師も、やっている事実に意味があるから。成績は現状維持出来れば、それで」

「ふーん、で、親の後を継いで歯科医師か。高校生のうちから、約束された将来ってわけね」

「それは……」


 違うと答えられなかった。ピアノの道へ進みたい思いと、無理だろうと思う消極的な自分がいる。

 何も考えていないように見えて、彼は僕の心境を察することが上手い。


「君には親がくれた歯科医師の道がお似合いだと思う」だなんて、皮肉を込めて言うくらいだから。

 本当に心が読めるのかと思ってしまうけど、彼から確信をつくことは何も言って来ない。


「今日も良いこと教えてあげるよ。夢ってさ、起きたとき夢かよーくそっ! ってなる夢あるよね」

「……はい」

「好みの芸能人とデートしたり、億万長者になってたり」


 何が言いたいのかと、冷ややかな視線を向ける。そんな僕にお構いなしで、どんな夢が良かったかを延々と話している。

 時間を持て余してしまったから、適当にやり過ごすつもりなのだろう。あまり真剣に聞かず、僕がパタンと教科書を閉じたとき。


「あの夜、なんでキスしなかったの?」

「……えっ?」

「車の中で、いい雰囲気だったでしょ。大人の女の人と」


 何かを見据えている眼に、体全体がぞくりとした。この世の物ではないもの、例えば幽霊にでも出くわしたような。


「何……言ってるんですか」


 弱々しい声を絞り出すのがやっとで、言い訳すら浮かばない。


「たまたま目撃しちゃって。悪いなーと思いつつ、好奇心が勝っちゃったんだよね」


 動揺する僕を楽しげに見ながら、金宮先生は勉強机に立てかけてある本を手にした。綺原さんから借りたままになっている『シンクロニシティ』だ。

 中身を開きもせず、黙って表紙を見つめている。


「へぇ、面白い本持ってんね。梵くんって、お堅い勉強ばっかしてるんだと思ってたけど、夢のメカニズムとか興味あるんだー? 意外」

「……友達のです」


 この人は、かんに障る言い方ばかりする。

 取り上げた本を棚へ戻すけど、手の震えが止まらない。これが何に対しての表れなのか、理解するより先に。


「梵くん。夢の中で、一番しちゃいけないことってなーんだ?」


 僕の背後に立ち、ぐっと顔を近づけて来る。あまりの圧に動けない。

 くくっと笑う吐息が耳に触れるほどの距離で、そっと。


「恋だよ。心を喰われたら、いろいろと迷いが生じるからね。良くも悪くも。自分の奥底の気持ちを見失うなってこと」


 ほどよい低音が体に響く。

 得体の知れない威圧感を出して、金宮先生は部屋を出て行った。

 彼と会ったのは、この日が最後だった。



 夜の灯りが灯る時刻。勉強机に向かっていると、ゆっくり部屋のドアが開いた。夜食と一緒に、母がアイスコーヒーを机の横に置く。

 ありがとうと伝えた後も、なぜか母は僕を見て立っている。いつもと何か違う。そう思っていると、穏やかな口調が上から降って来た。


「少し来てもらえる? 話したいことがあります」


 シャーペンを握っている手を離して、何か良くないことだろうと、重い足取りで一階へ降りた。

 リビングへ連れられるのだと思っていたが、母が開けたのは手前に位置するピアノルーム。疑問に思いながら足を踏み入れて、心臓がドクンと跳ね上がる。

 どうして……?

 何もないはずのだだっ広い部屋に、どっしりとした白いピアノが置かれていた。


「たまたまお孫さんと学祭へ行ってらした歯科医師会の会長が、演奏を聴いて返して下さったの。素晴らしかった。もう一度、息子さんにピアノを弾く機会を与えてあげて欲しいって」


 久しぶりに触れる鍵盤は滑らかで、優しい音がした。

 目頭に熱いものが込み上げて、滴が頬を流れる。嬉しさと信じられない思いが溢れて言葉が出ない。

 最後まで、あきらめなくて良かった。


「運命と言うものは、どう足掻あがいても逆えんものだ」


 背後から、独り言を嘆く父の声が聞こえた。


「お前を見ていると、昔の自分を思い出す。反抗した時期もあったが、私は今の自分を誇りに思う。お前にもそうなってほしいと思っていた。だが、梵の人生だ。どうすることが一番良いのか、今一度よく考えて答えを出しなさい」


 低く深みのある声は、胸に真っ直ぐ響いた。

 ピアノ関係の仕事を選ぶにしても、歯科の道へ進む決意をしても、全ての責任は自分にある。決めた道を全うしろ。

 その言葉の重みからは、父が貫いてきた思いが伝わった。



 夏休みが終わり、二学期が始まった。日焼けした腕を見せびらかす男子や、彼氏が出来たと恋話に花を咲かせる女子。

 遠巻きに、青春とはあんな感じなんだろうと眺めていた。


「全くもって不思議ね。恋なんて、何が楽しいのかしら」


 前の席で頰杖を付きながら、綺原さんがため息をこぼす。


「綺原に乙女心ってやつはねぇのか?」

「あら、乙女じゃなくて悪かったわね。そうゆう苗木にはあるのかしら、男心ってもの」


 また言い合いが始まった。とばっちりを受けないように、知らないフリをして机に突っ伏す。


「そ、それって、もしかして、俺に告……」

「梵くん、ちょっといいかしら? 二人で話がしたいの」

「えっ、ああ……うん」


 苗木の話を最後まで聞かないで、綺原さんは僕の腕を引っ張り教室を出た。

 気の毒に思えて振り返るけど、遠退いて行く彼は浮かれた様子でなぜか楽しそうだ。

 胸の奥をチクリと刺された感覚になった。

 今の僕は、苗木を裏切っていることにならないか。

 後夜祭でのことを苗木に告白するべきか、悩んだ。


 女子更衣室に連れられ、綺原さんがドアの内鍵を掛ける。こんな密室に二人でいたら、変な噂を立てられそうだ。苗木にも誤解を与えかねない。

 落ち着かないでいると、彼女は制服のポケットから何かを取り出した。透明の袋に入れられている多量の白い錠剤。


「何、これ?」

「この前、菫先生の部屋で見つけた睡眠薬と精神安定剤よ。あの後、話すタイミングがなくて私が持っていたけど、これはあなたに渡しておいた方がいいと思って」

「まさか、それ……」

「おそらく。憶測おくそくでしかないけど、これが原因だったんじゃないかと思って。お母様から聞いたことだけど、情緒が不安定な時期もあったみたい」


 日南菫は、薬の多量摂取で亡くなったのか? 

 だとしたら、何がそこまで彼女を追い詰めていたのか。そもそも、誤飲で死に至るのは昔の話じゃないのか?

 いくら思考を凝らしてみても、答えは出ない。この世界線では、すでに解決された問題なのだろうか。


「そんなに真剣な顔して、やっぱり菫先生のこと好きなのね」

「そういうわけじゃない。日南先生を助けたい気持ちは、綺原さんも一緒だったはずでしょ?」

「……そうね。でも、私は……」


 溜め込むような唇をして、彼女は小さく微笑む。


「どうしたの?」

「菫先生のことキライよ。前から、ずっと大キライ」

「何、言って……」

「あなたが命を落とした原因は、日南菫なのよ」


 袋を握る手に、じわりと汗が滲み出す。

 日南先生の死、ピアノ、未来を変えるために必死で、すっかり忘れていた。

 九月十六日、僕は死ぬ。気付けば、もう二週間ほどしかない。

 日南先生が原因って、何があったと言うんだ?

 それもまた、起こらない世界へ動いているのか。


 タイムリープをしたのは、八月二十一日。これから起こる未来を、僕は知らない。

 少し前まで、どうでもいいと思っていた。生きること死ぬことに執着がなくて、ただ呼吸をしているうつわのようだった。


 だけど、誰かを思う淡い感情を知った。

 何かを共有し合って、協力する仲間を得た。笑い合うこと、闘うこと、必死にもがきながら歩く道は、生きていなければ知り得なかったもの。


 今の僕は、まだ生きていたいと心が震えている。

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