君にさよなら⑷
「そうだ! 綺原さんに見せたい物があったのよ。男子陣はここで待っててくれる?」
パンッと手を鳴らす日南先生は、綺原さんを連れてリビングを出て行った。
残された僕らは、黙々とケーキを食べるしかない。見渡してみると広さの割にはすっきりとした部屋で、二人で暮すには確かに寂しく感じる。
気を取られていると、あのさと、苗木の低い声が物音のない空間に響いた。
「変なこと……聞いていいか?」
持っているフォークを置いた彼の表情は固く、とても聞き辛そうに見える。
「どうした?」
反射的に僕もフォークを皿に置く。
「綺原の下の名前……教えてくれないか?」
ドクンと脈が波打つ音がして、それは心臓から流れ出ているのか入っている音なのか。答えられない。
「どんだけ頭ひねっても、思い出せねぇんだ。知ってるはずなのに、分かんなくて。アイツのこと……好きなのに。最低だよな、俺」
「……同じだよ。僕も綺原さんの名前、思い出せないんだ」
「直江もなのか⁈ それって、なんか変だよな? 俺ら二人とも分かんねぇとかさ」
彼女のことは、誰もが綺原さんと苗字で呼ぶ。それは僕らにとって日常の光景で、今までなんら不思議でもなかった。
でも、今感じている違和感はなんだろう。
最初から、彼女の名を知らないような、おかしな気になるのは。
リビングのドアが開いて、二人が帰って来た。絵の話をしていたのか、手にはスケッチブックと数枚の紙が持たれている。その綺原さんの表情は、どことなく浮かない。向こうで、なにかあったのだろうか。
疑問を口にするタイミングはなく、そのまま夕方を迎えた。
パート先から帰って来た先生の母親に、夕食を誘われてご馳走になった。生徒が訪ねてきたことが嬉しかったようで、頬を緩めながら日南先生の幼少期を語り始める。
そういえば、葬儀の時、生徒に近い教師だと涙ながらに話していた。この人のためにも、彼女を死なせたくない。
魚のフライを皿に取り、ひと口だけ頬張る。熱が染み込んできて、ふと向けられている視線に気付いた。
チクチク刺さるものではなく、見守るような眼差しと言える。斜め向い側に座る母親だ。
「直江くん、だったかな?」
「……はい」
「あなたを見てると、思い出すな。遠い昔、辛くて苦しかった日が終わった夢。あの頃、精神的に不安定だったから。私も菫も、夢と現実の区別が付かなくなってて」
「お母さん、その話はしない約束だよ」
気まずそうに唇を尖らせた日南先生が話を
おそらく、皆川との関係を断ち切った時のことだ。夢の中で起こったことは、僕と蓬以外の人にも記憶されているらしい。
ただ、現実と別の曖昧なものとして残されているようだ。時が過ぎたら、僕自身もそうなるのだろうか。
午後七時が過ぎ、外は夕闇に包まれていく。警戒していたようなことは何も起こらず、日南先生の行動にも不自然な動きはない。
あれは、ただの夢だったのか。深読みし過ぎていたのかもしれない。
遅くなってしまったからと、日南先生が家まで送ってくれる運びになった。
リビングを出ようとした時、背後で何かガシャンと割れる音がした。振り返ると、ガラスの破片と写真立てのフレーム、外れた裏板が床に散乱していた。
「ごめんなさい」
しゃがみ込んだ綺原さんの手を止めて、「危ないから、僕が拾うよ」と写真を手に取る。
幼い少女と父親らしき人が、木枠の中で微笑みかけている。とても幸せそうだ。
なにげなく写真を裏返した瞬間、息を吸うことを忘れた。
ーーよもぎ・二才。
鉛筆で書かれた文字が頭の中を駆け巡って、僕の思考を奪う。
よもぎ、蓬……?
大きなガラスの破片を拾いながら、何度も心の中で名前を呟いた。
写真の中で無邪気な笑みを浮かべる〝蓬〟というこの少女は、一体……誰だ。
黒いベールに覆われた景色を走り抜ける。
二人を送り届けた車中は、僕と日南先生だけになった。明らかに、彼らがいた時とは違う空気が流れている。互いの口数は減り、会話も
彼女も僕も、本当は別の話をしたいと思っている。
信号待ちで停車した。ここを右折して、後はひたすらに直進して行けば十分もかからないで僕の家に着く。
「さっきの写真、裏見た……よね?」
探り探りな声色で、チラリと僕に視線を向ける。
「……蓬って、ほんとは誰なんですか?」
夢で会った蓬と名乗る少女は、日南先生の偽名だったことが分かった。でも、蓬という人物は実在した。
僕が会っていたのは、写真の中の少女だったのか?
「さっき写真に写っていた子は、蓬は、私の妹なの」
「……妹?」
違和感しかなかった。
なぜなら、日南菫の葬儀では喪主を務めた母親以外に、親族は叔父や叔母しかいなかったからだ。妹と呼ばれる女性の姿はなかった。
青信号に変わり、車が発進するのと同じタイミングで彼女は口を開く。
「私が幼い頃、突然父が蒸発したの。その時、二歳だった妹を連れて出たみたい。妹はお父さんっ子だったらしいから、父は相当可愛がっていたって」
「今どこにいるか、お互い知らないんですか?」
「一切ね。私でさえ、あの子の記憶はほとんど無いの。なんとなく一緒に遊んでた子がいたかなぁくらいよ。だから、姉がいると教えられていなければ、私の存在すら知らないと思う」
言葉が出て来なかった。
聞きたかったことが、ゴクリと唾を飲み込む度に胸の奥へ流れてしまう。
タイヤが坂を上がり、見慣れた街の風景を追い抜いていく。そのまま、僕の家の前で停車した。
隣りに佇む歯科医院は、まだ灯りが付いていて人の気配も多い。暗闇に包まれている寂しげな我が家とは
「今日は夕食までご馳走してもらって、ありがとうございました」
ドアを開けようとした時、右手をグッと掴まれた。声のない呼びかけに、心臓が跳ね上がる。
「八月十八日……今日は、私の命日なんだよね? だから来てくれたの?」
『八月十八日、私は死ぬ。夢だと思う?』
一瞬、脳裏を掠めた映像をかき消す。
少し間を開けて、小さく頷いた。
「……ありがとう。それから、梵くんが会っていた蓬は私だから」
どうして今、彼女と同じ呼び方をするんだ。
小さな鼓動が大きくなって、潤んだ瞳から目が離せなくなる。蓬の姿と重なって、吸い込まれるように影が近付く。
これも夢なのか。体が石のように動かない。
自転車のライトが差し込んで、とっさに顔を背けた。魔法が解けたみたいに、体が自由になる。
なんだ、今のは。すごく変な空気だった。
「じゃあ、また休み明けに学校でね」
何もなかったように、日南先生が鍵を開ける。
「……おやすみなさい」
軽く頭を下げて、車が見えなくなるのを見送った。
さっきの光景を思い出して、少しホッとしている。おかしなことにならなくて良かった。それと同時に、疑問が浮かび上がる。
顔が近づく瞬間、どうしてーー、後夜祭の花火に照らされた彼女の横顔を思い出したのだろう。
夜の闇に溶けるように、月が僕をぼんやりと映す。何かを知らしめるように。
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