君にさよなら⑶

 授業を終えた夕方、近くのコンビニへ足を運んだ。まだ微睡むような時間ではないのに、頭の中がぼやりしている。

 霧のかかった場所に立っているみたいだ。意識はあるのに、思考が鈍っている。

 日頃の疲れなのか、もしくはあの男が原因か。


 コーヒー牛乳とマンゴーアイスを買って、店の外へ出た。辺りは闇に包まれて、絵本のような藍色の空には星が散らばっている。

 数分で決めたつもりだったが、そんなに長居していたのか?

 疑問が過ぎったけど、構わずそのまま家へ向かった。


 しばらく歩いて違和感を覚える。さっきから、同じ角をぐるぐる回っている気がするのだ。

 家からコンビニまで、徒歩で五分も掛からない。もう十分は歩いているけど、家へたどり着けない。

 もしかして、これは夢を見ているのか?


 もう一度同じ角を曲がり、目を見開いて進む。すると、今度は少し広い通りへ出た。目の前には知らない公園がある。

 心の中では行かないと決めているのに、足は中へと動く。揺れるブランコに人影が見えた。

 月明かりに照らされているのは、日南先生だ。


「こんなところで、何してるんですか?」

「待ってたのよ、梵くんのこと」


 いきなり話しかけても、まるで来ることを知っていたかのような反応。おまけに、普段言いもしない名前呼びだ。


「ここはどこですか?」

「どこだと思う?」

「こんな公園、家の近くにありません。夢……なんですよね?」


 すべり台に砂場。僕らの他に人影はない。この地球上で、たった二人きりしか存在していないかのように空気の音すら聞こえない。


 ふふっと艶っぽい声が落ちる。日南先生がしない笑い方だ。髪を耳にかける手つきとか、ねっとりとした唇の開け方も。


「夢だと思うなら、夢なんじゃないかな。現実だと思うなら、梵くんにとってこれが現実になるのよ」


 わけの分からないことを言いながら、漕いでいたブランコからピョンと飛び降りた。

 それから、トン、トンと靴を鳴らして、僕の真正面に立つ。


「前に言ってた話したいこと。まだ、話してなかったよね」


 ちょうど街灯が当たるところで、向き合う影が重なった。

 綺原さんを呼ばないと。頼む、出てきてくれ。心の中で唱えてみても、彼女は現れない。

 気持ちはコントロール可能でも、人物の操作は出来ないらしい。


「先生ね、もうすぐ死んじゃうの。だから、梵くんと一緒にいたいのよ」

「……やめて下さい」


 タイムリープが起こる前と、同じことを言っている。

 遠くで犬の遠吠えが聞こえた。細かい演出だと思いながら、ふと疑問が過ぎる。

 これは本当に夢の中なのか?

 華奢な手が、僕の手をそっと包み込む。柔らかな感触のなかに、しっかりした大人の厚みがある。それが妙にリアルで、ごくりと唾を呑む。


「八月十八日、私は死ぬ。夢だと思う?」


 頬を伝う一筋の光が、きらきらと輝きを放つ。

 宝石箱をひっくり返したような空から、幾つもの星屑が落ちてくる。一瞬にして僕らの姿を消し去ると、目の前は完全にショートした。



 八月十八日、薄雲が広がる昼下がり。ゆかりのない駅を降りて、見慣れない住宅地が続く歩道を歩く。

 細身のジーンズに黒スニーカー。綺麗にネイルを施された爪が見えるレースアップサンダル。グレーのチェック柄短パンに茶色の靴。まばらだった歩幅が三つ、横一列になって足を止めた。


「ほんとに来てくれたんだ。何か起こる確証は、何もないけど」

「あら、約束は約束でしょ。何もしないで後悔するより、無駄足になるくらいが丁度いいの」

「そんなことより、綺原の私服って初めて見るな。その、なんだ、かわ……いいぞ」


 視線を宙に泳がせながら、苗木が頬を染める。


「…………ありがと」


 少し戸惑った様子でお礼を言う綺原さん。

 褒められたのが満更でもないのか、彼女も少し柔らかな表情をした。


『俺、やっぱり綺原のこと好きだわ。なあ、直江。腐れ縁から脱出するために、協力してくれないか?』


 夏休みに入る前の教室で、苗木から言われた言葉を思い出す。

 苗木の不透明な気持ちが確信へ変わった以上、何としても後夜祭でのことは秘密にしておかなければならない。

 分かったと口にしながら、胸の奥がどよんと重くなったのは、彼に後ろめたさを感じたからだと、その時は勝手に思っていた。


「それにしても、よくオッケーもらえたよな。でも、なんでまた急に家庭訪問?」


 目の前に佇むレンガ調の一軒家を見上げながら、苗木が首をかしげる仕草をした。

 僕はここを知っている。前に一度、夢の中で見た事がある。母親に引き止められながら、蓬が飛び出して来た家だ。


 表札を確認して、インターフォンを鳴らす。

 すぐに返事がして、黒のノースリーブに茶色のスカート姿で日南先生が顔を出した。学校での雰囲気と少し違って、より大人の女性が漂っている。

 リビングに通されて、グラスに注がれた氷入りのオレンジジュースが出された。


「菫先生って、実家から通勤してたんですね」

「ずっとここに住んでるの。結芽高に近いから、一人暮らしするのはもったいなくて。母と二人で住むには、広すぎるんだけどね」


 視線を向けた写真立てには、幼い女の子と父親らしき若い男性が頬を寄せ合い笑っている。


 八月十八日は、実際に日南菫が亡くなった日だ。こうして彼女と会っていると、冷たい人形のように横たわっていた姿は夢だったのではないかと思えて来る。

 持病で亡くなったと聞いていたけど、その気配を感じたことはなく、本人は風邪を引いたことすらないと笑っていた。

 どういった経緯けいいで亡くなって、持病という説明に行き着いたのか不透明だけど、夢にまで出てきて予言したのだ。

 あの時の涙……助けを求めているようにも感じられた。続けて見るのには、何かメッセージがあると思えてならない。


 だから、日南先生の授業を選択している綺原さんに理由を説明して、今日の約束を取り付けてもらったのだ。男子高校生が一人で押しかけるより女子のいる方が、日南先生も快く承諾してくれると思ったから。


「先生って休みの日何してんの? 彼氏は?」

「女性に向かって、そういう発言をセクハラって言うのよ」

「綺原、何か怒ってんのか? 最近、俺に厳しすぎねぇ?」

「あら、初めからだと思うけど」

「……ああ、確かにな」


 彼らのやり取りに目を丸くしたあと、日南先生がぷっと笑みをこぼす。目がなくなって、口角がキュッと上を向く。

 大人の魅せつけは皆無で、逆に少女のように無邪気だ。

 やはり、この間僕の前に現れた人物は彼女じゃない。


「残念ながら、先生に彼氏はいません」

「作らないんですか? 菫先生、美人なのに」

「なんでかな。初めて付き合った人と別れてからずっといないの。作らないのか、作れないのか」


 皆川の顔が脳裏を過った。あれ以来、蓬は誰とも付き合うことはなかったのか。

 果たして、僕のしたことは間違っていなかったのだろうかと、少し不安になった。


「そういう綺原さんこそ、校内一美少女と噂を聞くけど恋人はいるの? それか好きな人とか」


 思いがけない質問返しだったのか、綺原さんは飲んでいたオレンジジュースに少しむせる。

 そのままこちらへ視線を送るから、僕まで動揺して咳が出た。

 後夜祭でのキスを思い出して赤面してしまう。反応に困りながら、ティッシュで口周りを拭った。


「……恋愛って難しいですよね。気持ちだけでは、どうにもならない。報われないこともある」


 時が止まったように、リビングが静まった。ここにいるみんなが痛いほど分かる言葉だから。

 何かを紛らわせるように、日南先生が冷蔵庫の前に立つ。用意していたであろうケーキを机に並べる。その面持ちはどこか切なげで、もしかしたら、学生時代の自分を思い出していたのかもしれない。

 口の中に広がるチョコレートは、少しだけほろ苦かった。

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