君にさよなら⑵

「それで、せっかくの夏休みを満喫中に急遽呼び出されたってわけね」


 クーラーのよく効いた図書館で、綺原さんが積み上げられた本を開く。

 日南先生と別れたあと、会えないか連絡を入れた。彼女のアパートから自転車で十分たらずの場所にある市立図書館を指定して。

 二十分もしないうちに駆けつけてくれたことから、すぐ支度をして出て来てくれたのだと分かった。


 チラリと視線が絡み合う。ぎこちなく逸らしてしまった。

 なんでもないような態度でいるけど、綺原さんとキスをしたのだ。少しも意識していないと言ったら嘘になる。

 わざとらしく咳払いが響いて、綺原さんの目が訴えかけてくる。早く話せと。


「夢の世界が崩壊してから、ほとんど夢は見てなかったんだ。日南先生の怪我といい……何か意味がある気がして」


 何も言わないで、綺原さんは上から三番目の本を引き出す。

 僕の前に差し出したのは、『シンクロニシティ』というタイトルの本。他のものと比べて、まだ真新しい色をしている。


「共有夢って、知ってるかしら」

「聞いたことはある。二人の人間が同じ夢を見るってやつだよね? 前に見ていた夢は、それに近いのかなって勝手に思ってた」


 現在、夢には二種類の仮定があると言われている。

 脳が夢を作り出し、脳内で繰り広げられている神経作用に過ぎないこと。

 もう一つは、夢という別の空間があり、それらを知覚している可能性がある説だ。

 科学的根拠は証明されていないが、二人が同じ夢を見ていた事例は何件も出ているらしい。


「たしかに、前の梵くんの夢はそうだったのかもしれない。でも今回、菫先生は否定しているんでしょう?」


 変な夢を見なかったかと聞いた時、日南先生は首を振った。

 微かに唇の端を上げて、儚んでいるような、何かを隠しているような表情に読みとれた。

 綺原さんが見ている未来を映し出す夢になってしまわないかと、不安もある。


「同じ夢を見るって表現が正しいのか。それとも、夢が侵食されていると捉えるのか」

「どういう意味?」

「他人の夢に入り込むことが、不可能じゃないって言ってるの」

「……それって、現実で? SF小説じゃなくて?」


 本を開いたページに、明晰夢めいせきむと書かれている。

 夢だと認識しながら、自分の行動がコントロールできる状態にある夢のことだ。


「たしかに、今は架空の物語に過ぎない。でも、実際に私たちの身に起こり得ないことが起こっているのも事実でしょ」


 タイムリープに夢の世界。どちらも言葉で説明したところで、理解してくれる人はほぼいないだろう。

 本をパタンと閉じて、さらに僕の前へ置くと、


「今度またおかしな夢が現れたら、私を出してくれないかしら」

「……出すって、夢に? どうやって?」

「梵くんの夢は特殊。もし行動をコントロール出来るなら、念じた人物を出せるかもしれない。そしたら、夢を共有することが出来る可能性があるわ。日南先生の時と同じように」


 蓬の夢を見ていた時、意識がはっきりしていた。現実ではないと知りながら、向かう方向や発言をコントロール出来た。

 反対に、動けと命じても動けないこともあった。全てが思い通りになるわけではないけど、可能性はゼロじゃない。


「……やってみるよ」


 根拠のない約束。それをしてどうなるかも分からない。想像を積み上げて、不安を紛らわせているだけ。

 だけど、何もないよりマシだ。

 手の中にある『シンクロニシティ』という文字を見るだけで、綺原さんの落ち着いた眼差しを思い出すだけで、大丈夫だと思える。


 再び夢を見たのは、それから三日後のことだった。


 アスファルトの照り返しが強くなる八月。空を飛ぶ鳥さえ木陰に避難する暑さだと言うのに、まるで僕には関係ないことのように快適な部屋で過ごしている。

 ピアノと書道の空いた時間に入り込んで来た家庭教師の授業。残りのスケジュールに塾の文字しかない毎日は、せわしないけど退屈だ。


 疲れからなのか、一週間ぶりに夢を見た。日南先生と話しているもので、場所は知らないところ。

 夢だと認識していたけど、綺原さんを呼ぶことは出来なかった。どちらかが暴走するわけでもなく、比較的普通の内容。いわゆるただの夢だ。


 過敏になり過ぎていたのだろうか。一応、あとで報告の連絡を入れておこう。

 カリカリとシャーペンを動かす手を止めて、ふと考える。

 そういえば、綺原さんの下の名前って……なんだっけ。


「梵くん。そこ、分からない?」


 金宮かなみや先生の声に呼び覚まされた。物思いにふけながら、無意識に数学の問題を解いていたのか。

 再びスラスラと手を動かすと、金宮先生はフッと息をこぼした。


「さすが梵くん、正解! なあねぇ、なんで君みたいに妄想しながら解けちゃうような子がカテキョーなんて付けてんの?」


 顔をぐっと覗き込んで来る彼をさり気なく避けた。


「親が勝手に頼んだから知りません」

「ふーん、金の無駄って感じするけどなぁ。ほとんど教えることないし」


 赤ペンを回しながら、退屈そうな表情を見せる。これじゃあどっちが生徒か分からない。


「それ、教師が言う言葉ですか?」

「ああ、別に俺は学校の先生じゃないからいいのいいの! もちろん、学校じゃ教えてくれないような勉強も教えてあげれるよ?」

「親の前でその態度出したら、即刻クビなのに」

「大丈夫、そんな失態しないから」


 満面の笑みを浮かべて、彼は持参して来た漫画を読み始めた。

 この人が家庭教師をしていることに違和感しかない。一人で勉強した方が、絶対に集中出来ると断言出来る。


 水曜と金曜の週に二日、金宮かなみや先生には数学と英語を教わっている。第一印象は、高学歴で礼儀正しい好青年。両親が信頼するのは当然だろう。

 いざ始まって三回目には正体を現し、四回目になる今日の授業でこの有り様だ。


「出来ました」


 最後の問いを記入し終えてプリントを渡す。読んでいた漫画をベッドに伏せ、さらさらと赤丸をつけ始めたかと思うと、三十秒もしないうちに返された。

 不真面目な態度からは想像出来ないほど頭が良く仕事が早い。


「全問正解! 今日の授業終わっちゃったなぁ。あと十五分何したい?」

「特に何もないですから、帰ってもらって構いませんよ」

「それは契約上出来ないんだよなぁ。一応、授業ってのしないと」


 軽い口調で話す金宮先生を見ながら、ため息を吐く。

 勝手な所だけ律儀りちぎだ。まあ、時間が過ぎて行くのを適当に待てばいいだろう。

 教科書とノートを片付けていると。


「じゃあ君は優等生だから、特別授業してあげよっか?」

「……特別授業?」

「学校の先生じゃあ教えてくれないようなこと」


 いかにも胡散臭うさんくさいというか、妙に背中がかゆくなるような台詞。

 不信感をあらわにすると、彼はにやりと口角を上げて手招きをしてくる。

 仕方なしに耳を近付けたら、鼓膜あたりにフーッと息の風が吹いた。思わず耳を押さえて体を後退させる。


「ちょっと、な、何するんですか?! 無理、そういうの無理ですから!」


 体中の毛穴という毛孔もうこうが収縮して、あちこち鳥肌が立っている。危機を感じてか、体は無意識に身構えていた。


「ごめんごめん、ちょっとした悪ふざけ。俺もそっち系の趣味はないから安心しな?」


 ヘラヘラと笑いながら、金宮先生が肩を組む。

 適当なことを言って、何も考えていないように見えるけど目の奥はするどい。全く読めない人だ。


「梵くんってさぁ、彼女いる?」

「……いません」

「じゃあ、好きな子はいるんじゃない?」


 心臓が揺らいだ。これを動揺と呼ぶかと言えば違う気もするけど、なぜか落ち着かない。

 きっと、僕はこの人が苦手なんだ。表と裏の顔を使い分ける所とか、見た目の雰囲気がなんとなく皆川と似ているから。


「急に何ですか? 金宮先生には、関係ないです」

「なんだよ、せっかく恋愛相談でもしてあげようと思ったのにさ」

「そういうの、興味ないので」


 適当にあしらおうと思った。素っ気ない態度をしていたら、すぐに諦めてくれるだろう。


「見えちゃってるんだけどなぁ。梵くんの心に、浮かんだ人」


 心臓のあたりをこつんと突かれて、首のあたりからたらりと汗が流れた。


「良いアドバイス出来ると思うけど。俺、人のココロ読めちゃうから」

「僕、高校生ですよ? からかってるなら」

「時間をやり直してる君なら、信じてくれると思ったんだけど?」

「…………は?」


 階段の一番上から押されたような衝撃が体に走る。涼しいはずの部屋が暑く感じて、一気に冷や汗が噴き出て来た。体の水分が吸収されて、喉が乾燥していく。

 どうして、この人がタイムリープのことを知っているのか。


「ぜーんぶ知ってるよ? 梵くんのココロの内は、全てお見通しだから。八月十八日……もうすぐだね」


 ーーガタンッ。机を押し除けて、金宮先生の体を床に押し倒していた。

 荒くなる呼吸。肩を掴む指が震えている。違うと分かっているのに、皆川と重なってしまう。


「怖いよ、梵くん。俺、そんな趣味ないんだけどなぁ」


 顔色ひとつ変えないで、僕の目を見据みすえている。反応を見て楽しんでいるのか?

 でも、この人はタイムリープも、八月十八日に何か起きたことも分かっている。


「あなた、誰ですか?」

「誰って……ただの家庭教師、金宮たけるだよ? 他に何か聞きたいことはある?」


 冗談染みた話し方が妙に落ち着いていて不気味だった。胸の内を全て覗かれている気がして、おぞましくて、僕は彼から手を離した。


 ーーこの男は、一体何者なんだ。

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