5. 君にさよなら

君にさよなら⑴

 ゆめみ祭から一ヶ月半の月日が経ち、期末テストもことなきを終えて終業式を迎えた。右手小指の固定も取れて、ほぼ元通りに。

 後夜祭でした綺原さんとのキスは無かったかのように、変わらない日常が過ぎている。彼女が何もなかったものとして振る舞っているのだから、僕も変に意識しないようにしているつもりだ。

 あの意味を知りたくても、聞ける隙を作らないのは彼女らしい。


 何もない真っ白な部屋の床へ横になり、そのままになっている楽譜をペラペラとめくる。病理学や歯科解剖学の教科書より、音符を眺めていた方がよっぽど面白い。


 一週間前の夜。意を決して、父にピアノ関係の仕事をしたい旨を伝えた。歯科医院を継ぐ意思がないと知っても、あの人は顔色ひとつ変えなかった。


「学園祭でのお前のピアノが素晴らしかったと、患者さんから聞いた。また是非聴きたいそうだ。別の人からも、教える機会があったら娘に教えて欲しいと言われた。それほどまでとは、正直驚いた」


 初めて聞く話に胸が熱くなった。ピアノの講師をする夢が開けた気がした。


「じゃあ……」

「しかし、仕事は別物だ。お前のピアノは趣味に過ぎん。仕事が欲しいと思う人間がいる中で、すでに完成された場所が準備されているお前は幸せだと思わなければならん。将来について、もう一度よく考えろ」


 それから、父とは言葉を交わしていない。

 乾いたため息が、だだっ広い空間にひとつ落ちる。でも、この憂いを含んだ吐息の原因はそれだけではない。


 半袖のカッターシャツに手を通して、制服のズボンを履く。登校日でないにも関わらず、僕は夏休み中の校門をくぐった。

 運動部がグランドを走るなか、校舎へ足を踏み入れる。そのまま屋上へ向かうと、僕を待つ背中があった。


「来てくれないかと思った」


 長い髪を耳にかけながら、にこりと笑う日南先生。

 後夜祭で約束をすっぽかしてから、顔を合わせづらくてまともに話せていなかった。避けているのを知ってなのか、夏休みに入る前日、屋上ここで会えないかと言われていたのだ。


「あの、すみませんでした。後夜祭の日、行けなくて」


 今更謝るのは違う気がするけど、いつまでもうじうじ黙っているのもいけない気がして。


「いいのよ。何かあったんだろうなって思ってたから」


 どんな反応が来るのか身構えていたけど、笑ってしまうくらいあっさりしていて、普通だった。

 気まずい空気をまとっていたのは、自分だけだったのだ。それが逆に虚しかったり。


「でも、理由くらい教えてくれても良かったのに」

「……えっ?」


 完全に油断して、風船の空気が抜けるような声が出た。


「来なかった理由、苗木くんから聞いたよ。綺原さんのこと探してたんだってね」


 振り返った日南先生に、どくんと脈が波打つ。

 人形みたいに大きな目をして、それでいて瞬きすらしない。じっと僕を見据えながら、微かに笑みを浮かべて歩み寄る。


「あの、せんせ……?」


 一歩下がると、一歩詰めてくる。いつもの日南先生ではないようで、瞳に影が落ちて見えた。

 浮気した恋人を責め立てるみたいなイメージ。


「どうして彼女を優先したの? 先に約束してたのは、私の方なのに」

「……すみませ」


「ねえ、直江くん。一緒に飛ぼっか」


 掴まれた腕をとっさに払った。前にもこんなことがあったけど、今回は脅しじゃないと分かる。

 ふらつきながら後ろへ進み、日南先生が校舎の端へ足を乗せた。


「……せんっ、あぶな……!」


 何か唇を動かしているけど、何も聞こえない。一筋の雫がこぼれ落ちたと思ったら、彼女の体は青空の下へと消えた。


「日南先生ーーっ‼︎」


 ありったけ振り絞った声は、徐々に大きくなって、やがてその絶叫で目を覚ました。

 掛け布団を握りしめながら、息を切らしている。しばらく天井を見つめて、頭の中を整理する。

 今のは……夢、なのか?

 スマホ画面を確認して、今日が約束の日であると知り、心底ホッとした。


 半袖のカッターシャツに手を通して、制服のズボンを履く。

 夏休み中の校門をくぐり、運動部がグランドを走るなか、校舎へ足を踏み入れる。屋上へ向かうと、夢と同じ、僕を待つ背中があった。


「来てくれないかと思った」


 長い髪を耳にかけながら、にこりと笑う日南先生。


「あの、すみませんでした。後夜祭の日、行けなくて」

「いいのよ。何かあったんだろうなって思ってたから」


 これは一度目の記憶じゃない。昨日見た夢の展開と全く同じだ。

 先に起こることを想像して、背筋がゾッとする。

 まさかと思いながらも、とりあえず腕を掴んだ。この行動に意味があるのかと問われると、頷ける自信はないけど、保険みたいなものだ。

 不思議そうに、日南先生が首を傾げる。そして、気付いた。細い手首に巻きつけられた包帯。


「……その手」

「ああ、これ? 朝起きたらベッドから落ちてて、手首を捻挫しちゃったの」


 日南先生が、ははっと軽く笑う。

 顔から血の気が引いて、心臓が不穏な音を立てる。

 ベッドから……落ちた?

 脳裏で何度も繰り返される夢の光景。

 僕には、それを偶然という言葉では消化しきれなかった。

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