夢境のつづき⑽

 まだ明るさが残る空は清々しいくらい綺麗なのに、淡く頬を染めた僕はそっと目を伏せた。

 片付け作業は、夢が終わり現実を迎える朝のような気分だ。華やかなステージや店は骨組みだけになり、美しく装飾されていた物たちは根こそぎ取られていく。輝かしい時間とは、とても儚いものだ。


 ーー話したいことがあるの。またここで、待ち合わせない?


 どんな話だろう。これが綺原さんの言う、逢引きとやらに該当されるんだろうか。

 鼓動が速くなって、小さな期待が膨らんでいく。


 校舎や校庭が見慣れた日常風景に戻りつつある頃、機材や部品の最終チェックをしている僕のところへ苗木がやって来た。


「なあ、直江。綺原見なかったか?」


 探し回っていたのか、息が少し荒く焦った様子に見える。だから、てっきり告白でもしようとしているのかと思った。


「ここへは来てないけど、綺原さんの担当場所は?」

「それが、どこにもいないんだ。一緒に直江のピアノを見てたはずなんだけど、気付いたら姿が消えてて。そっからクラスの持ち場聞いて回ってるけど、片付けも出てねぇみたいなんだ」


 幼稚園児じゃあるまいし、彼女が驚かそうと隠れんぼするようには思えない。何かあったんだろうか。


「どっかで倒れてねぇかとか心配でさ」

「もう終わるから、僕も探すよ」


 あと残っている片付けの確認を副会長にお願いして、僕らは手分けして綺原さんを探した。

 校舎内も手当たり次第走り回ってはみるけど、姿は見つからない。どこへ消えてしまったんだ。


 後夜祭が始まる時刻になった。校内から見える外の色は、昼間と比べて薄暗くなっている。

 当てもなく歩いていると、校庭から生徒たちの騒ぎ声が聞こえて来た。用意してあったお菓子やジュースで乾杯しているのだ。こんなところをふらついている人間は僕と苗木くらいだろう。

 静まり返っている音を聞くと、彼も四階にはいないようだ。誰もいない校舎の廊下に入り込む夕焼けは、胸を切なく締め付けるようなオレンジをしていた。


 屋上の壊れかけたノブを右、右、左、上に回してゆっくりと押し開ける。まさかと思いながら足を進めると、塔屋の死角で腰を下ろした状態の綺原さんを見つけた。

 いつものクールな雰囲気とは違う、うれいを帯びた表情を浮かべている。


「こんなところで何してるの? 苗木が心配して、ずっと探してた。早くみんなのところに戻ろう」


 呼びかけに応えるつもりはないらしく、ただ向こうに広がる空を見つめている。


「何かあったの? そういえば、演奏の時に居なくなってたって……」


 膝に顔を伏せて、小さく背を丸める彼女が何か呟いている。


「……どうして来たの」


 耳を傾けてみると、震える声で確かにそう聞こえた。


「どうして探しに来たの? 私のことなんて、放っておけばいいじゃない。あなたじゃなくて……苗木だったら良かったのに」

「たまたま僕が見つけられたけど、苗木はずっと……」


 眼差しを見て思わず息をんだ。夜の闇が訪れようとする時に現れる青の光が、立ち上がる彼女の姿を美しく照らしている。


「出来ることなら、私が弾きたかった。さっきの曲、夢境むきょうの続きは、私にだって弾けるのよ」


 知らなかった。いつも付き合ってくれていたけど、そんな話を聞いたことは一度もなかったから。


「不快にさせるようなことをしたのなら……」


 ごめんと続くはずの声は、出せなかった。

 柔らかな感触が、僕の唇をふさいだから。何が起こっているのか、理解するのに数秒かかった。

 真横の空で、ドンッと大きな音がした。そっと離れた彼女の顔は、暗闇に隠れてよく見えない。

 再び空が明るくなって、花が咲くように鮮やかな色が浮かび上がる。後夜祭のメインである打ち上げ花火が始まったのだ。


「えっと、あのさ、今のって……」

「ごめんなさい。忘れてくれていいから」


 逃げるように去って行く彼女の頬には、光の筋が流れていた。

 花火が上っては儚く消えていく。小さくなる足音を、追いかけなかった。

 綺原さんとキスをしたのだと、今になって実感が湧いてくる唇の余韻よいん。花火の音にこだまするように、心臓が跳ね上がっている。


「……ごめん」


 苗木と蓬の顔が脳裏に浮かんで、後ろめたい気持ちが押し寄せてきた。

 どうして、綺原さんを突っぱねることが出来なかったのか。体をめぐる幾つもの息がこぼれる。


 ーー話したいことがあるの。またここで、待ち合わせない?


 すっかり頭から抜けていた約束。守れそうにない。今から向かえば、まだ間に合うかもしれないという期待と、彼女に会いたくない背徳感に押しつぶされそうだ。

 鳴り止まない心臓は、空に響く火の玉音だけのせいなのだろうか。

 ずるりと座り込だ僕の頭上には、哀しいほどに美しい大輪の雫が輝いていた。


 翌朝、殺風景な総合病院の待ち合いに僕はいた。日曜日は時間外診療となるため、裏口側にひっそりとある診療室の前で、名前を呼ばれる時を待つ。

 患者は僕の他に杖を付いたお婆さんと、父親と来ている小学生くらいの男の子しかいない。

 隣のソファーには仕事が休みの母が付き添い、開かない窓の外を眺めている。こうして二人で肩を並べていると、昔を思い出す。


 怪我や病気になると仕方なしにも僕を病院へ連れて行かなくてはならないから、必然的に仕事を抜け出していた。

 幼いながらに嬉しくて、小学一、二年の頃は風邪にかからないか、大きな怪我は出来ないものかと真剣に考えた事もあった。

 それも三年になる頃には、病院に付き添ってくれることはめっきり無くなってしまったのだけど。

 だから、今の状況にとても違和感を感じている。


「これ、靭帯じんたいが損傷してるね。二、三週間は固定を続けて。突き指だと思って軽く見てると、指が変形したり動かせなくなることもあるから気を付けて」


 医師から診断を受けて診療室を出る。テーピングを直してもらい、鎮痛剤を処方してもらった。

 ピアノを弾いたことは黙っていた。


「どうして先生に言わなかったの? 怪我してから、ピアノの演奏で指を動かしたでしょう?」


 心臓部がドクンッと大きな音を立てる。ゆめみ祭へ訪れなかった母には知り得ない話だから。


「なんて顔しているの? あなたたちがあまりに必死だったから、少しだけ抜けたのです。梵のピアノ、久しぶりに聴いたわ。ああして二人で演奏する姿、昔を思い出したわ」


 穏やかな母の表情に、小さく笑みが浮かび上がる。


「最後までよくやり遂げました。でも今度は無理をしないで、早めに病院へ行きなさい」


 指先から足の先まで震え上がって、はいと答えるだけで精一杯だった。

 時間を作って、母がゆめみ祭へ来てくれた。僕の演奏は届いていた。胸の中を巡る感情の言霊が一気に押し寄せて、狭いのどを通れない。


「ただ褒められたくてやっているだけだと思っていたけど、本当にピアノが好きなのね」

「……ピアノ関係の仕事に就きたい。趣味を特技として生かしたいんだ」


 今まで胸の奥底に隠して心を騙し続けて来た将来について、母に自分の意思を伝えたのは初めてだった。

 驚き、そして呆れのような目をして、母はそうと呟いて。


「同じことをお父さんに話せる? 歯科を継いでくれると信じているお父さんに、そんなこくなことを言えるのですか?」


 穏やかな声が待合室に響く。


「……話そうと思ってる」

「もう一度よく考えてから、お父さんとお話しなさい」


 素っ気なく聞こえる母の言葉は、正しいのだと思う。

 このまま歯科医師になった方が、世間体にも将来的にも良いことは分かっているから。


『何かを諦めたようだった。あなたにとって幸せな未来なのか……表情を見てたら分かるわ』


 それでも僕は初めて、夢を見てみたいと思った。やれるだけのことは、やってみたい。

 小指のうずく痛みは、忠告あるいは激励げきれいするかのように、決意に満ちた僕の表情をゆがめさせた。

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