夢境のつづき⑼
六月十三日の土曜日。雲ひとつない晴天の下で、ゆめみ祭の本祭が開催された。在校生の家族を始めとし、他校生、卒業生に町内の人々が毎年顔を出している。
各クラスが模擬店やイベントコーナーを設けており、それと並行して部活動も出し物をする。弓道部は道着を着用して、実際に弓を触ってもらったり、メッセージを書くための
仮装大会が影響してなのか、クラスや弓道部が出す店は、「着物美人の子だ」とか「明治時代のお兄さん」なんて呼び名を付けられたりして、
当番を終えて木陰で一息着こうと腰を下ろすと、人影が僕の前に現れる。
「お疲れさま」
ジュースを差し出す日南先生を、下から見上げた。
青空を背にしている笑顔が綺麗だ。いつか見た蓬の姿と重なって、胸の奥が騒つく。そんな妄想を繰り広げていると、彼女は何の迷いもないように隣へ座った。
すぐ近くで生徒たちの楽しげな笑い声が聞こえている。
「あの、さすがに二人きりでいると……変な噂を立てられるんじゃ」
「変な噂って、例えば?」
首を
「みんな好きだから。有りもしないこと……噂したり。そしたら、先生が迷惑するんじゃない?」
「しないわ。だって、やましいことなんて何もないでしょ?」
僕と彼女の間には見えない境界線がある。それは、日南先生が蓬であると知ってから出来たものだ。
言葉を交わすことは以前より増えたはずなのに、肝心な心の部分は一歩下がってしまった気がする。教師と生徒の距離を誠実に保とうとしているように感じている。
「蓬と思ったら、ダメ……ですよね」
「あの人と終わった時に、その名前は封印したの。今思うと、現実逃避するための〝自分〟だったのかな」
膝を抱えて苦笑する彼女の髪を、ふわりと吹く風が揺らしている。
ああ、そうか。もう蓬はいないんだ。
「直江くん。今日、ゆめみ祭が終わったら……後夜祭が始まる前に、ちょっと時間ある?」
言いながら、なびく髪を耳にかける。少し傾いた顔の角度が、覗き込まれているように見えて、心臓が震えた。
「話したいことがあるの。またここで、待ち合わせない?」
「……はい」
これは夢だろうか。いなくなったはずの蓬が、目の前にいる。
地面についた手が近い。動けば互いに触れそうな距離だ。この見つめ合う時間に、どんな意味が含まれているのか。
「あれー? 菫ちゃんと生徒会長じゃん! こんな日の当たらんところで何してるのー?」
「ほんとだー! 何なに、もしかして……?」
二年と思われる女子グループがひょっこりと現れた。校内でも派手目な格好をした目立つ系統の生徒たちだ。
冷やかすような口調で近付きながら、あっという間に囲まれた。
とっさに手を引っ込めたけど、日南先生は冷静だった。まるでクーラーの下に涼みに来たような顔をして、「ピアノ演奏の再確認してただけよ」と笑う。
たしかに僕たちの間には、人に
女子グループが嵐のように
「もう行くの?」と顔を上げる彼女に対して、「はい」とだけ答えて。
「ピアノ、頑張ってね」
教師の笑顔を向ける日南菫に頭を下げて、足早にその場を去った。
日の当たらない場所から足を踏み出すと、そこは太陽に照らされた明るい空の下だった。
午後三時三十分になると、ゆめみ祭のクライマックスとなる演目が始まった。吹奏楽部で結成されたバンドの楽曲二曲を披露して、最後のフィナーレとして僕のピアノ演奏で幕を閉じることになっている。
辺りを見渡しながら、人の波を掻き分けてステージへ向かう。
やっぱり来ていない。分かりきっていたことなのに少し気を落としているのは、多少なりとも期待している部分があったからだろう。
大きな効果音と共に、吹奏楽部のメンバー三人がステージに現れた。客席から「わあああ!」という歓声が湧き上がる。まるで人気アーティストのライブ会場のような盛り上がりだ。
ステージから視線を離したとたん、ドンッと鈍い音がして体が後ろへ倒れた。
相撲部らしき体格の良い男子生徒がぶつかって来たようだ。人混みで気付いていないのか、彼は両手に食べ物を抱えて去って行った。揉みくちゃの人口密度では仕方ないか。
「ーー痛っ!」
立ち上がろうとして、右手の小指にズキッとした激痛が走る。誰かに手を踏まれた。
右手を
首筋や背中に冷や汗が流れてくる。ジンジンと熱を持ち始める小指の関節は、赤く腫れ上がっていた。
「直江先輩、その手どうしたんですか?! ちょっと、誰か……」
裏方を担当している二年の女生徒が、異変に気付いて血相を変える。
「大丈夫だから。養護の先生呼んで来てくれる? もう出番だから、応急処置をお願いしたいんだ」
「わ、わかりました! でも、さすがにその手では……」
当然の反応だ。
今、右手小指の感覚はないに近い。突き指か、あるいは骨にヒビが入っているかもしれない。動かさないのが懸命だろう。
「弾きたいんだ。これが、伝える最後のチャンスかもしれないから」
五分もしないうちに養護の先生が駆けつけた。患部を氷水で冷やし、副子を当ててテーピング固定をする。
気分的なことが大きいだろうが、心なしか痛みが和らいだ気がした。
「今は安静にした方がいい。ピアノ演奏は諦めなさい」
先生は険しい顔をしていた。それでも、僕は引き下がろうとしなかった。小指を使わなくても、なんとか弾くことは出来る。最後まで可能性を捨てたくない。
午後三時四十五分。吹奏楽部によるライブが終了し、司会者がフィナーレのアナウンスを始める。冷めやらない熱気のなか僕がステージへ上がると、客席は一斉に静まり返った。
まるでバラード曲を待ちわびるような視線に、緊張と心臓音が高まる。
「……っ」
鍵盤に指を置いた瞬間、激痛が走った。指を開こうとする動作が、より痛みを広げている。そんなことは承知の上だ。
シャラシャラと水の流れるような音が指先から鳴り始める。演奏曲は比較的緩やかな曲だ。上手くいけば、このまま弾き切ることが……。
右手薬指がピクッと固まって動かなくなる。小指を
くそっ……もう少し踏ん張れ……。
痛みを堪えながら、練習した日々が脳裏に過ぎる。必ず成功させると誓ったんだ。諦めるわけにはいかない。
突然、ピアノから音色が飛び出してくる。隣を見ると、いつの間にか日南先生が立っていた。
「私が君の右手になるわ。続けて?」
「でも先生、曲弾いたことないって……」
「大丈夫よ。だって、あの時も一緒に弾いたでしょ? だから信じて」
不思議だった。僕の左手で奏でる音色を柔らかなベールで包むように、彼女が重ねる音には一体感があった。僕たちの音以外は何も聞こえなくて、呼吸する息継ぎさえもひとつに感じる。
最後の指を鍵盤から離すと、拍手が沸き起こった。無事にゆめみ祭のフィナーレを締め
氷水を持った養護の先生が駆けつけて来て、「素晴らしかったよ」と、背中をポンと叩いた。
裏方を担当する後輩や同級生の表情にも、安堵と興奮の色が見える。
「直江先輩と菫先生の息がピッタリ過ぎて、感動しちゃいました!」
「指怪我してんのに、最後までやり遂げた生徒会長カッコ良かった」
続々と寄せられる言葉に思わず感極まる。両親に聴いてもらう目的は達成出来なかったけど、人から伝わる喜びがこれほどまでに心に染みるものなのだと初めて知れた。
「日南先生のおかげだよ。僕一人では、無理だった」
「信じる力って、時には物凄い威力を発揮するのよ。将来どうしたいのか、直江くんなりに見えてきた?」
「もう一度、ちゃんと話してみようと思います」
向日葵のような笑顔で
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