夢境のつづき⑸

 ゆめみ祭まであと二週間。毎日、僕らは夜の校舎へ忍び込んでピアノを弾いた。よく学校の警備があるなど聞くけれど、うちはまだそこまで厳しくないらしい。

 家庭科室の窓から出入りする分には、見つかることはなかった。一週間を過ぎた頃には、まるで忍者にでもなったようでスムーズに侵入出来た。


 ベートーベンやバッハの視線を感じながら、鍵盤の上を滑るように指を動かす。なめらかなアイスクリームに乗っているイメージで、優しく時には力強く。


「菫先生とは、まだ逢い引きしてるのかしら?」


 隣に座る綺原さんが、躊躇なく口を開いた。


「誤解を招く言い方しないでくれる? 日南先生とはそんなんじゃないから」


 構わず指を動かしながら、僕は楽譜をめくる。


「あら、だって初恋の相手だったんでしょう? 夢の中で恋した人がすぐ近くにいたなんて、ロマンチックによく出来た物語ですこと」


 しとやかに笑みを浮かべながら、彼女は甘ったるそうなミルクティーをごくりと飲む。


 夢の世界が崩壊して、それ以降は見なくなったこと。夢で会っていた少女が、高校時代の日南先生であったことを綺原さんに話した。

 初めは少し驚いた様子だったけど、彼女がその話を食い入るように聞くことはなく、いつも通りの落ち着いた印象に映っていた。


「それに、蓬……日南先生には、他に好きな人がいたから。僕のことなんて、これっぽっちも」


 言いかけて違和感を覚える。

 なんだこれ? まるで僕が恋の相談をしているみたいじゃないか。夢の世界が終わった話をしていただけのはずなのに。

 日南先生と、どうこうなりたいとは思ってない。たしかに、蓬と再会出来たことは感無量というか嬉しかったのだけど、いまいち実感が覚束ない。


 僕は、日南先生のことが好きなんだろうか?

 一瞬音が止んだのを不自然に思われたか、綺原さんが何かを考えるように首を捻る。もう一度、反対へ傾けて小さな息を吐いた。


「嘘が下手ね。動揺が音に出てる」

「嘘って、なに! それに集中出来ないのは、綺原さんが気の散ること言うから」

「あら、悪かったわね。当日に影響しないようしっかり気持ちは切り替えて」


 ゆめみ祭でピアノの演奏をすることに、快く思っていない教員もいる。

 そもそも、日南先生が校長へ掛け合ってくれたと聞いたけど、僕がピアノ経験者だということは誰も知らない。

 時間配分の関係で、吹奏楽によるバンドライブのあとにねじ込まれたこと。さらには、生徒会長だけ特別扱いとみなされるのが一番の要因のようだ。


 ステージを成功させなければ、評価だけでなく進路へも影響しかねないだろう。ピアノの道は完全に絶たれてしまう。


 ーー直江、国立を受けないのか。ああ、そうか。実家が歯科なら、歯科医師一択か。


 二年の時、担任から言われた言葉が脳裏を掠めた。


「もちろん、邪神は持ち込まないようにするよ。このチャンスを逃したら、もうあとがないから」

「そうね。せっかく時が戻ったのだから、今だから出来る選択をしていくべきね。お互いに」


 綺原さんが隣にいてくれて良かった。そうでなければ、こうまでして練習するに至らなかったかもしれない。

 自分が生きている今は間違いじゃないのだと、初めて信じられた気がした。


 ゆめみ祭を一週間後に控えた土曜の夜。久しぶりに家族三人が揃って食事をした。

 父は主に診療のある平日は、午後十時近くまで歯科に残ってカルテのチェックや模型と睨み合っている。

 休診の木曜日は様々な講習会へ行き、日曜日は往診をしてまた勉強。


「医療は日々進化する。そのための努力は惜しまない」が父の昔からの口癖だった。最新の技術をなるべく早く取り入れたいと言って、新しい材料や機材を導入することも多いらしい。


 そんな仕事人間の父が、今日は家にいる。神様が与えてくれたチャンスだと思った。

 箸を置いたタイミングを見計みはからい、咳払いをする。


「あのさ、来週の土曜日にゆめみ祭があるんだけど、今年は来れそうかな」

「無理だ。土曜は診療があるだろう」

「じゃあ、母さんだけでも……」

「その日は、午後から埋伏智歯まいふくちしのオペが入っています。最近スタッフの子が辞めてしまったから、人手が足りなくて困ってるのよ」


 その後に続く言葉は、だから行けない。そんなことはハナから分かっている。

 ゆめみ祭へ遊びに来て欲しいわけじゃない。もう一度、昔みたいに演奏を聴いて欲しい。そうしたら、僕の覚悟を分かってもらえると思った。

 テーブルの下で拳を握りながら、席を立つ父に口を向ける。


「実はピアノを……」

「あのピアノルーム、もういらんだろう。明日、ピアノは知り合いへ引き渡すことになった」


 僕の話など初めから聞くつもりがないと言うように、上から被せられた言葉。


「あなた、そんなことは一言も……」

「いちいちお前の許可がいるのか? 梵、もういい加減勉強に集中しなさい。なんでも中途半端に身に付けても意味がない。ピアノからは充分に集中力を得られた。もう必要ない」


 小さく開いた口は固まったまま、何も言い返せない。母もそれ以上は口をつぐんで、父がリビングを出て行く姿を見送った。


 昔から、僕たちは父の言うことには逆らえなかった。自分の考えが全て正しくて、真逆のことをしようとすると訂正される。僕にとって大切なものでも、父にとってはガラクタに過ぎない。


「ピアノのこと、止めてあげられなくてごめんなさい。ずっと頑張って来たこと、お父さんも分かっているはずよ。でも、今は四乃歯科大に合格することが最優先なの。小学生の時から、ずっと目標にして来たことでしょ? だから分かって」

「……知ってる」


 肩に優しく置かれた手は、肉をえぐり骨をくだくほどに強く縛り付けた。


 翌朝、知らない中年男性と若い男が二人で家を訪れた。

 父の言っていた通り、知り合いはグランドピアノを運び去り、何もなくなったピアノルームの床には、むなしく楽譜だけが残されていた。

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