夢境のつづき⑷

 真正面からじりりとした視線を受けながら、ごくりと喉を鳴らす。

 行き場のない手は、正座した足の上でこぶしを握っている。


「ほんとにあなたって人は、人の忠告を聞かない人ね」


 パタンと閉じた本をガラステーブルの上に伏せて、綺原さんが長い前髪を耳にかけた。

 ふと触れ合った瞳から視線を外すと、僕は気まずさを隠せずに頭をかく。


「不倫相手に説教するなんて、いくら夢だと言っても無茶すぎるわ」

「ちゃんと元に戻れたからいいでしょ。それに、夢を壊せって言ったのは綺原さんじゃないか」

「……まあ、丸く収まったならいいんだけど」


 視線の位置に困りながら、妙に落ち着かない手を意味もなく動かす。

 グラスに注がれたお茶をごくりと飲むと、氷がからんと音を立てて、回った。まるで慌てふためく誰かみたいに。

 緊張するなとは、緊張している人間に一番言ってはならない言葉だ。たった今、理解した。


 誰にも聞かれないで話をしたい。綺原さんに連れられて来たのは、彼女のアパート。初めて入る女子の部屋は、花畑にでもいるようないい香りがする。

 こういった経験がないのだから、不自然になるのは致し方ない。


「それで、ここからが本題。ゆめみ祭でピアノを弾くことになったって聞いたけど、どうするつもり?」


 彼女が言っているのは、おそらく練習場所。自宅のピアノルームが閉鎖されていることを話していたから、その心配をしているのだ。

 施錠した鍵は父が持っていて、今は立ち入ることすら出来なくなっている。


「それは……まだ」

「音楽室を借りたらいいんじゃないかしら」

「でも吹奏楽部が使うし」

「ええ、だから」


 すっと上半身が近付いたと思ったら、僕の耳元で手を添える綺原さんがささやく。


「えっ、それは、さすがに……」


 人目を避けて家を尋ねた意味が全くない距離感。それに上乗せするような言葉。


「あら、梵くん。まさか怖くて出来ないの?」


 いくじなしとでも言いたげに、綺原さんはくすくすと笑った。


 君は優等生だね。幼い頃から、その言葉を浴び続けて来た。

 少しでもテストの点数が下がると、「こんな問題も解けないのか。情けない」と父にノートを投げ捨てられる。


『直江くんはクラスのお手本なんだから。出来ないなんて、言わないよね?』


 弱音を吐くことすら、許されなかった。みんな僕に期待しすぎだ。それほど有能な人間じゃない。


「いや……、できないことないけど」


 それなのに、気付くと反論している自分がいる。否定されると、やらなければという潜在意識が発動してしまうらしい。


「じゃあ、明日から練習しましょう」


 涼しい顔でアイスティーを飲む彼女を見て、ハッとする。まんまと挑発に乗せられてしまった。


 翌日、誰もいなくなった校門の前で、僕は制服のまま立ち尽くしていた。辺りは闇に包まれて、街灯の明かりがぼんやり浮かんでいる。

 ほんとにやるのか。

 門扉に手を伸ばしたとき、背後から肩を叩かれた。少し体が跳ね上がるのを、となりに並んだ綺原さんがくすくすと見ている。


「……おどかさないでよ」


 心底ほっとした顔でもしていたのか、さらに声を潜めて笑いを堪えている。

 いつも冷静沈着なイメージだから、こんなに楽しそうにする彼女が新鮮だった。

 夜風が通り過ぎて、涼しげな空気が体をまとう。


「で、どうして綺原さんまで?」

「あら、提案したのは私よ? 来ない理由なんてないでしょ」


 ーー夜の音楽室へ忍び込む。

 最初は大胆で浅はかなアイデアだと思ったけど、練習する場がないのならチャンスを作るしかない。


 豪快に門扉へ足を掛けて、綺原さんがよっとよじ登る。揺れる短めのスカートから視線を外して、僕も慌てて上半身を投げ出した。

 すたっと門の向こう側へ着地して、真っ暗な校舎の前へ立つ。より不安が濃くなった。

 これは、不法侵入とやらにならないのだろうか。


「こういうの、一度やってみたかったのよね」

「なんか面白がってない?」

「あら、心配して来てあげたのに。余計なお世話だったかしら?」

「……いや、心強いです」


 正面玄関の鍵が掛けられていることを確認して、裏へ回る。家庭科室の窓をカタカタと動かしながらスライドさせると、開いた。

 どうやら壊れた鍵が、そのまま放置されているらしい。

 窓から入るなんて、家でもしたことがない。ましてや学校に忍び込むなど、今のご時世警察沙汰にならないか不安しかない。


 夜の校舎は、深夜の病院より静かだ。自分たちの足音だけが空間に響いて、まるでホラー映画の中に入ってしまったような感覚になる。

 上履きの中に隠しておいたスペアキーを使って、音楽室を開けた。

 泥棒にでもなったようで罪悪感が込み上げてくるけど、綺原さんは相変わらず平然としている。


「私たち、今とっても不良生徒ね」

「やっぱり面白がってる」


 ピアノの前に立つ綺原さんが、人差し指で音を鳴らした。胸の奥から、うずうずとした気分が沸き立つ。

 鍵盤に指を置けば、静かな空間がたちまち優しい音に包まれる。さっきまでの不安は消えていた。ピアノを弾ける喜びと、あの言葉のせいかもしれない。


 ーーとっても不良生徒ね。

 今日この時間だけは、優等生の直江梵でなくていいんだ。

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