4. 夢境のつづき

夢境のつづき⑴

 遠くなっていた感覚が自分の体に戻ってくる。分裂していた何かがひとつになった時、僕は涙を流していることに気付いた。

 手に残った人肌の温もりが、徐々に薄れていくのが分かる。

 夢の終わりを告げるように、強く繋ぎ合っていた手と心は消えてなくなってしまった。何もない手のひらをグッと握りしめては、小さく息を吐く。

 ほんとうに、終わってしまったんだ。


 静かな教室にカチ、カチと時計の音が鳴り響いている。机の上には解き終えたテストのプリントがあって、すぐに試験監督の「終わり!」という合図が出された。

 それを聞いたとたん、僕は何かのネジが取れたように教室を駆け出た。後ろから聞こえた教師の声にもお構いなしで、足は夢中でどこかへ向かっている。

 どうして今まで、気付こうとしなかったのだろう。


 初めて言葉を交わした時も、何気なくしていた日常会話も、意味もなく屋上を訪れていたことだって全て。時間が戻るずっと前から、彼女は見ていてくれていたのに。

 息を切らしながら、屋上のドアを思い切り開ける。まるで待っていたかのように、日南先生がフェンス越しに立っていた。


「直江くん? もうテスト終わっ……」


 話を聞き終える前に、僕は彼女を抱きしめていた。指先や体に伝わる彼女の感触を確かめるみたいに、腕をきつく締め付ける。

 頬を伝う雫が、艶やかな茶髪にぽつんと落ちて弾けた。


「また会えて……良かった」


 彼女が小さくうなずいたのに気付いて、見えない顔に笑みがこぼれたように感じた。

 背中に回された手が、カッターシャツをキュッと掴む。その仕草で飛んでいた理性が引きずり戻されたのか、抱きしめている体を慌てて離した。


「あの、すみません、つい」

「直江くんに戻っちゃったね」


 動揺ぶりが可笑おかしかったのか、日南先生はクスクスと声を上げて笑う。睫毛まつげと頬に、全てを物語る雫を輝かせて。



***


 複雑な感情をいだきながら、私は彼の澄み渡る瞳を見ていた。

 記憶を失っていた旧友に会ったような、あるいはずっと想いを寄せていた人に会えたような。なんとも言えない感情だった。


 高校三年の初夏、私は不思議な体験をした。日々の生き辛さと寝苦しさに悶えていた頃、ある夢をみるようになった。

 夢に現れた少年は、落としたらもろく壊れてしまいそうなガラスのように繊細な印象で。直江梵と名乗った彼は、同じ高校の制服を着ているけど顔も名前も初めて知る人だった。


 夢で会う度に夢ではないような感覚になって、次第しだいに現実と混同こんどうしていったの。彼と会うことが楽しみになって、夢で会うことが当たり前になっていた。


 半年間続けていた担任教師との不倫に終止符が打てたこと。ゆめみ祭で足踏み状態だった壁画製作が、多くの署名を集めることで乗り越えられたこと。夢を諦めなかったことも、全て彼がいて勇気をくれたおかげ。

 一度壊れたものは、簡単には戻せないことも教えてくれた。


 不思議な夢を見なくなって三ヶ月が過ぎようとしていた。高校生活最後の夏休みだと言うのに、味気ないもので。

 友達とカラオケに行って、家で映画を見ていても、どこか胸の中がぽっかりとくり抜かれた気がしている。

 好きな絵を描いていても、勉強をしていても、ふと思い出すのは彼のこと。ちゃんとしたお礼も言えないままで、線香花火のように消えてしまった夏の夢は、私の幻想になりかけていた。


 八月二十一日。朝、目を覚まして小さく息を吸って吐く。胸に手を当てて鼓動を刻む音を確認してみる。


 ……まだ、生きている。


 忘れもしないこの数字を、何日も前からカウントダウンしていた。

 八月二十一日は、私の葬儀があったと、梵くんがノートに記していた日付。それが何年後の未来なのかは分からないけど、気にせずにはいられなかった。


 肩下まで伸びた髪をハーフアップして、ノースリーブのワンピースに身をまとう。

 バスに乗って、この辺りで一番人が賑わうNプラザというファッションビルへ向かった。洋服や小物はもちろん、映画館や図書館が完備され、周辺には洒落たカフェが並んでいることから女性の利用客が多い。


 欲しかった限定リップを取り扱っている店舗が、地元ではNプラザしかない。そのために三十分かけてやって来たの。何度か訪れたことはあるけど、一人で来たのは初めてだった。

 エスカレーターに乗って、思わず顔を隠すように背けた。対向側を下がっていく人が、皆川先生と夢で見た奥さんに似ていたから。心臓の震えが止まらない。


 あの人は教師を辞めた。他の生徒とも関係を持っていたらしく、それが明るみになったからだと風の噂で聞いた。

 私のことは公にならなかったから、普通の高校生活を送っていられるのだと、母は口を酸っぱくして言う。


 すれ違ってからこっそり振り返ってみるけど、小さくなっていく横顔は彼ではなくて、少し胸を撫で下ろす自分がいた。この罪悪感から逃れられることは、この先もないのだろう。


 目的のリップを購入して、他の店を見ることなく外へ出た。真夏の昼下がりは日差しが強くて、すぐにひたいやうなじに汗がにじむ。


 バス停まで向かう途中の木陰で、ひと息つくように買ってあったアイスティーを飲んだ。木で作った椅子が設置されていて、ご親切に『お座り下さい』とプレートまで貼られている。


 この町は良い人が多いんだろうな。なんて単純に考えていると、前方から小学生くらいの男の子が一人で歩いて来た。肩から下げた黄色と黄緑のトートバッグに似合わないうつろな目をしている。

 だから少し気になって、向かって来る姿を観察していた。綺麗な黒髪と長い睫毛に隠れる瞳は、幼いながらミステリアスな雰囲気を漂わせている。


 伏し目がちに読んでいるのは、試験管の写真が付いた理科の教科書。実験をする皆川先生が頭を過ぎるだけで、今は恐怖だ。忘れてはならないけど、忘れたい過ち。

 幸せそうな奥さんの顔、赤ちゃんの笑い声。それから、優しく微笑みながら甘い言葉をささやく先生。


 ーーお前のことなんて、本気で好きなはずがないだろ。かわいそうで、憐れな子だから。一緒にいてやっただけ。


「やめて……もう、やめてよ!」


 思わず声に出ていたと気付いて、ハッと顔を上げる。目の前で足を止めて、不思議そうな目でこちらを見る少年がいた。


「やめてって、僕?」

「ああ、違うの! ごめんね。君は全然関係ない……」


 ふと教科書に書かれている名前に目がいく。全身の神経が集中するみたいに、頭の中で会議をしている。また夢を見ているのか、と。


「直江……梵?」

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