近くて遠い⑸

 穏やかな波の音が消えて、僕たちは家の中にいた。突然変わった場面はリビングだろうか。見慣れないオムツやお尻拭きが置かれている。

 どこなのか分からない場所で、お互いに目を合わせた。それは蓬も同じ様子だった。


 赤ん坊の鳴き声が聞こえて、後ろから二十代前半くらいの女性がやってきた。ミルクを冷ましながらベビーベッドの赤ん坊を抱き抱えると、母親らしき女性は笑顔で話しかける。


「いっぱい飲んで大きくなってね」


 一連の動作を、ただ茫然ぼうぜんと突っ立って眺めるしかなかった。あの時と同じ、屋上で蓬と皆川が会っていた時と同様に、僕らの姿は見えていないようだ。


「なに、これ。手も足も動かない」


 彼女の声に反応して、体を動かそうと試みるけど出来ない。

 そうしているうちに、リビングのドアが開いた。入って来たのは、私服姿の皆川だった。赤ん坊を抱く女性の腰に手を回して、二人で小さな顔を覗き込んでいる。


「ほら、パパ帰って来たわよ〜。良かったねぇ」

「よく飲むなぁ。よし、俺が抱こうか」

「ほんと? じゃあ、ソファーに座って。首座ってないから気を付けて」


 微笑ましいホームドラマを見せられているようだ。良い父親を思わせる幸せそうな笑顔が浮かぶたび、腹の底からひしひしと怒りが込み上がってくる。


 彼女は見ていられないだろう。微動だにしない隣へ目を向けると、蓬の目は見開いたように彼らを凝視ぎょうししていた。その表情が怒気どきから生まれたものなのか、それとも失望なのか僕には分からなかった。


「……子ども、いないんじゃなかったの? 奥さんのこと……愛想尽あいそうつきたんじゃなかったの?」


 ぶつぶつと呪文のようにつぶやかれた言葉は、楽しそうな笑い声に掻き消されていく。


「どうしよう……私、バカだ。この人たちの笑顔を奪うようなことした。取り返しのつかないこと……しちゃった」


 魔法が解けたようにフッと体が自由になると、蓬は手で口元を覆って足から崩れた。震える彼女の手を包むように、肩を抱きしめる。

 誰も幸せになれないこんな世界は、終わらせた方がいい。


 周りは黒い絵の具がこぼれたように闇の色へと姿を変えた。

 キラキラと小さく輝く星屑に紛れて宙を漂う。

 すぐ近くにいるのに、手を伸ばしても蓬に触れることが出来ない。どうしてそんなに遠いんだ。

 必死に掴もうとする指がすり抜けて、ようやく気付く。自分の足元、そして彼女の肩と腰に黒い影があることに。


「どうして僕たちの邪魔をする? この子には俺が必要だってこと、よく分かっただろ?」


 暗闇から姿を現したのは、彼女をがんじがらめにして腕を回す皆川だった。


「 この子は可哀想な子なんだ。進路のことで母親とも上手くいっていない。家に逃げ場もない。今、この子の救いは俺に依存することだけだ。それをお前が奪うのか?」

「梵くん、助けて……」


 皆川の腕が、徐々に蓬を締め付けていく。このままだと、彼女は力尽きてしまうだろう。

 涙を溜めながら息をする蓬は、抵抗しようとしていない。

 まだ、彼女は彷徨さまよっている。頭では分かっていながら、心の奥底で皆川を信じる自分を捨て切れていない。


「蓬、惑わされてはダメだ! そいつの優しさは、全て自分の至福のためのものだ! ここで断ち切らないと君は一生後悔する! 自分で……、終わらせるんだ!」

「でも……、怖い。私、これから、どうしたらいいの?」

「僕がいる! 自分を信じて、蓬……」


 胸のあたりから小さな光が現れた。

 それは鼓動を刻むようにゆっくりと大きくなって、やがて僕らを包み込むようにして暗闇が消えた。


 鉛筆で描いた世界のように、モノクロの町で人が歩いている。絵はどれも綺麗だけれど、どこか寂しそうだ。

 記憶にない場所なのに、懐かしさを感じるのはなぜだろう。

 遠くからピアノの音色が聴こえてくる。

 そうか、胸を締め付けるこの音楽が僕をそうさせるのか。

 スポイトでぽちょんと色水を落としたみたいに、たちまち白黒の世界が色付いて。ピンクとグレーのグラデーションがかった空が目の前に広がった。手を伸ばせば雲を掴めそうなほど近い。


 フェンスのない学校の屋上は、少しだけ違った場所に見える。

 遠くで流れていたメロディが大きくなって、それは僕の動く指先から聴こえていると気付いた。蓬とピアノを弾いている。二人でひとつの音を奏でている。

 暗黒だった空を、彼女自身で解き放すことが出来たんだ。


「信じてくれてありがとう」

「私、これからどうしたらいいの? あの人たちに、謝っても許されないよね」

「奥さんと赤ちゃんは、今すごく幸せな時だよ。知らない方がいいこともある。だから、それは蓬が抱えていかなきゃいけないつぐないだよ」


 顔を覆った蓬の肩を、そっと抱き寄せる。震える体は、僕の胸にそっと寄り添った。


「その後悔を胸に生きるんだ。だから、蓬は強くなれるよ。きっと人の苦しみが分かる人間になれる」


 深く頷く蓬の目には光が宿り、星屑のように輝いて見えた。柔らかな手のひらが、僕の手の甲に温もりを与える。


「夢見てもいいのかな。こんな私でも、なりたい夢があっていいのかな」

「今の蓬なら、きっと叶えられるよ。諦めなければ、体育館の壁画も成功するから」


 美しく完成した壁画を、僕は知っている。彼女たちは、困難に立ち向かって目標を成し遂げたんだ。

 目に雫を溜めた蓬が笑みを浮かべながら、僕の袖を掴み小さな声を落とす。


「私たち、死なないよね?」

「え……?」

「ノート、見えちゃって。梵くんって、ほんとは未来の人なんでしょ?」


 トクン、ドクンと心臓が不揃ふぞいな音を鳴らし始める。彼女が言うノートとは、おそらく僕が頭の整理をするために書いていた時系列だろう。


 でもそこにあるのは、蓬の名前ではなくて……。


「日南……先生?」


 ピシッとガラスにヒビが入る音がした。

 それは僕の心なのか、この世界に鳴り響いたものなのか。


「君のほんとうの名前は、ヒナミ……スミレ」


 パラパラと奇妙な音を立てて、美しい空が崩れていく。いつもの滲みゆく景色とは違う。

 まるで、地球ががれ落ちていくような感覚。


「夢の世界が……消えていく……」


 少しずつ壊れゆく世界を、僕たちは黙って眺めていた。

 心の奥底では、ずっと前から知っていたように思う。彼女が何者なのか、わざと見えないふりをしていたのかもしれない。いつかこの日が来てしまうことを、恐れていたから。

 それでも心のどこかに余裕があって、また会える予感がしていた。

 僕の知らない時から、彼女は見つけてくれていたのか。


 屋上の端部たんぶにある低い壁に、僕は足を乗せた。断崖だんがいに立っているかのように、底の見えない闇が全てを吸い込んでいく。

 続いて隣に並んだ彼女の手に優しく触れる。互いの指先が探るように絡んでいって、そして、しっかりと手を結び合った。


「一緒に、空を飛ぼうか」


 僕の言葉が引き金を引いて、二人の体がふわり浮くと世界は逆さまになった。

 こんな光景を見たことがある気がする。


「私たち、また会えるよね?」

「必ず、会えるよ。いつか、また」

「梵くんのこと、忘れないから」


 落ちて行く景色の中、聞こえていた時計の秒針が大きくなって、僕の意識は一瞬にしてショートした。

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