近くて遠い⑷

 他の生徒が六限目の授業を受ける最中さなか、屋上へ足を運んだ。保健室の酸素は薄い気がして、息苦しくて仕方なくて。

 空が一番近い場所には先客がいた。一歩ずつ足を進めても、フェンス越しに空を眺める日南先生は、遠い彼方へ意識を飛ばしているのか気付かず。


 ふわふわした茶色の髪と鼻筋の通った横顔が、思い出せない誰かに似ている気がしてならない。

 テレビで見たことのある女優、たまに行くコンビニの店員、または中学時代の先輩だったか頭の中にいる別の誰かなのか。


 隣に立って、ようやく僕を見た。大きな目を丸くして、風にさらわれていく髪を耳に掛けながらふふっと小さく笑って。


「直江くん、授業はどうしたの? 生徒会長がおサボり?」


 太陽に照らされて、きらきらした目をしている。


「先生こそ、受け持ちない時間だからって屋上で暇つぶしですか?」

「息苦しくなるとね、たまに来るの。あっ、校長先生には内緒ね」


 人差し指を唇に当てて口角をキュッと上げるから、えくぼが出来た。


「あの人お説教長いから」

「確かに。この前、校長に捕まって一時間近く帰って来なかったですよ、苗木」

「苗木くん、何したの?」

「服装の乱れが要因だったみたいですけど」


 子どものような無邪気な笑みに、少しだけ親近感が湧いた。彼女との空気は、それほど窮屈きゅうくつじゃない。むしろ心地良い。

 だから、風に乗せてつい余計なことを話したくなった。


「正しいことって、なんだろう。ずっと笑顔でいて欲しい人がいて、その人のためと思ってした事が彼女にとっては、幸せから遠ざかる行為で。結果的に、彼女の笑顔を奪ってしまったのは自分かもしれないとしたら、先生ならどうしますか?」


 ふわりと浮いていた髪が大人しくなって、なくなっていた瞳はくっきりと開く。


「正しいとされていることが、全ての人にとって正義とは限らない。時には、悪だと後ろ指を指されたって構わないって思うことがあるかもしれない。だってその時は、自分の幸せはその先にあると信じているからね」


 遠くを見るような目が、語りかけるような口調が、まるで蓬と話しているように感じて僕の胸を締め付けた。


「でも、ずっと心の中には残るの。どんなに信じていることでも、最終的に、悪は真の正義には勝てないんだよ」

「そう……なのかな」


 僕のしていることは、間違いじゃない。そう背中を押された気がした。


「だから、助けてあげて。もし誰かが道に迷っているなら、直江くんが連れ出してあげて欲しい」


 不思議な感覚だった。日南先生の言葉は音符のように空に浮かび、一文字ずつ音を奏でて心に入って来る。それは優しい音楽になって、僕に勇気を作り出していく。


 どのタイミングで夢の世界へ繋がるのか、最近そんなことを漠然と考えている。授業、部活、登下校の最中、家にひとりでいる時間。

 夢を記録するために書き始めた日記は、気付けばノートの半分に達していた。タイムリープについて、何かヒントになるかもしれないと僕が言い出したことだけど、今のところ進展はない。

 ひとつ言えるのは、全ての日付に蓬が出てくることだけだ。


「やっぱり、蓬が関係してる……?」


 ピアノの前に座りながら「いや、でも」と、独り言をつぶやく。

 綺原さんもタイムリープしているんだ。彼女が見ているのは未来の夢で、蓬の存在を知らない。

 僕は日南先生の死、綺原さんは僕の死がトリガーになって時間が巻き戻されたと考えるのが妥当だろう。


 ピアノの鍵盤に指を置く。そっと目を閉じると、指が勝手に音色を奏でる。暗闇を思いのまま操るように、優しく儚げなメロディがあふれてくる。

 知らない曲を弾いているということは、夢なのだろうか。

 徐々にまぶたを持ち上げる隙間から、鮮やかな色の世界が飛び込んで来た。ピンクとブルーのグラデーションがかった空の下で、僕はピアノの演奏をしている。


 そこへ現れた蓬の細長い指が加わって、四本の手が鍵盤の上を流れていく。僕らの奏でる音色は、空に響いて広がって。

 映画の場面が切り変わるように、目の前には見慣れない町の景色が映っていた。


 レンガ調の洒落た家から、女の子が飛び出して来て。顔を覆いながら、ひどく慌てた様子の後ろから、「待ちなさい!」と怒鳴るような声が追いかけていく。

 よく見ると、泣いている少女は蓬だ。鳴き散らしたのか艶やかな髪は頬にくっ付き、目元は涙でぐちゃぐちゃ。母親らしき年配の女性が、蓬の腕を掴んで家の中へ引き戻そうとする。


「いい加減にしなさい! お母さんは絶対に許さないからね」

「やだ、離してよ。こんな家出てく!」

「お願いだから目を覚まして。縁を切れないなら、今から学校に乗り込んで……」


 掴まれている蓬の腕をパシッと離して、彼女と母親の間に割り入った。いきなり誰だと言いたげな目で見てくる母親に向かって、ここぞとばかりの優等生面を活用する。


「少しだけ、娘さんお借りします」

「梵くん⁈」


 力ない手を引くと、夢中で足を走らせた。母親の声が後ろで小さくなっていく。

 知らない建物や緑の背景を抜けて、僕たちは進み続ける。


「ちょっと、待って、どこ行くの?」

「分からない」

「わ、分からないって……」


 付いてくる蓬の息が荒くなるのに気付き、少しだけ足を緩めた。

 いくつも並ぶ白い建物を抜ける。その先には見たことのない紫と水色の海が広がっていて、砂浜に白いピアノがひとつ佇んでいた。

 躊躇ためらいもせず、普通の行動のように僕らはピアノを連弾れんだんする。何かに導かれるように。


「おかしな夢……。ほんと、梵くんが出てくると不思議なことばっかり」

「夢ってそんなもんだろう?」


 滑らかな音色を奏でながら、隣でクスクスと笑う。その笑顔につられて、僕の頬も緩む。

 えくぼが消えて、彼女の口角が下がった。


「でも、夢の中で現実が起こってるんだよ? 今までのこと、全て夢だけど全部ほんとうなの」


 唇を噛みしめるような切なげな表情。不安、絶望、それとも後悔なのか。


「……さっきのって、親にバレたの?」

「私と先生の、その……キスしてる画像が、知らないアドレスからお母さんのスマホに送られて来たの。別れないと学校にバラすって。秘密で付き合ってたから、お母さんはもうカンカンで」

「……皆川先生には相談した?」


 小さく首を横に振って。


「言えるわけないよ。面倒とか、わずらわしいって思われたくない」


 皆川から嫌われることに対して、彼女は恐怖に近いものを抱いていた。どうにかして繋ぎ止めていたいという気持ちが強く感じられて。

 だから、皆川の顔色を伺って好かれるためだけ必死に行動している。本心を見失いながら、正常な心とゆがんだ欲望との狭間で苦しんでいる。


「いつも先生は、君が一番だよって言ってくれるから。ほんとはダメだと分かってても、二人の未来を想像しちゃうの。こんな子ども相手に、本気になるわけないのにね」

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